募る想い(2)
12月頭となれば、受験生にとって最も忙しい時期に当たる。志望校を決めたり、学期末試験や実力テスト、さらに模擬試験まである。もはや受験に向けてのラストスパートともいえるこの時期は塾にとっても大忙しである。学校の授業も進めつつ、入試問題に関しても攻略していかなくてはならないのだ。康男は毎日過去の傾向と対策から模擬試験問題を作り、恵や新城がそれを徹底的に解説していくのだ。それは周人も同じであったのだが、今月末でバイトも終わる周人はその引継ぎもしながら授業もこなすといったハードな日々を送っていた。そんな実状を知りながらも2つの塾の各受験生たちの伸び方も気になる康男は毎週ごとの成績チェックも怠らなかった。今日はめずらしく米澤もやって来ており、2人でその作業に追われている。結局深夜0時過ぎでその作業を終えた2人は遅い夕食を取るべくいつもの居酒屋に向かった。何品か適当にオーダーをし、運ばれてきた生ビールで乾杯した後に一気に飲み干す。すぐさまそれをおかわりし、出てきた焼き鳥などをつつきながら話をしていた。
「青山さんは最近どう?」
恵がフラれた事はすでに聞いている米澤がそう康男に切り出した。かすみと新城はどうやら交際を始めたらしく仲良くやっている分、やはり恵は1人で寂しそうな雰囲気は見て取れた。だが実際端から見ればそんなことを感じさせない恵はしっかりとバイトに励み、生徒たちの成績をしっかりと上げていた。質問にも丁寧に答え、授業以外での評判も良かった。だが、やはりふとしたときに元気がない事が康男は気になっていると答えた。
「けど・・・今気になるのは吾妻さんの方なんですよね、実際」
康男はビールのジョッキを手にそう言うと、一旦間を置いてからそれを飲み干した。
「気になるって・・・どういう風に?」
「授業に身が入ってないっていうか・・・・全体的にどこか上の空って感じで。確かに今のままの成績でも十分なんだけど・・・・気が抜けてしまっているような気がするんですよね」
さっきの成績チェックでも、先月よりもやや成績は落ちている。模擬テストの中身も以前にはなかった簡単なミスを連発しているのだ。少し前の由衣ならばそれすらなかったのに、だ。
「小川さんも?」
米澤は新たにビールを追加注文するとそう返す。だが康男は首を横に振ると小さなため息をついた。
「小川さんは頑張っているんです・・・ミスも無いに等しい」
「フム・・・・・じゃぁこれは薬が必要なわけだ?」
その言葉に康男は顔を上げた。唐揚げをつつきながら怪訝な顔をする康男を見やる米澤は意味ありげな笑いを見せている。
「例の方程式だろ、原因は?」
「え?」
そう言う米澤の言葉に対して言っている意味がわからないといった顔をする康男に対し、米澤は鞄から少しボロボロになった紙を1枚取り出して所狭しと料理が置かれたテーブルの空いている場所にそれを広げたのだ。そこには矢印と、周人や恵といった数名の名前が書かれている。それを見た康男は全てを理解したといった顔をし、苦笑して見せた。
「『恋の方程式』か」
康男はそうつぶやくと、そこに書かれている物をまじまじと見つめた。真ん中に『木戸』と書かれ、そこへ向かって『青山』と書かれた所と『吾妻』と書かれた名前から矢印が走っている。さらに『新城』と書かれた所から『青山』へと矢印が走り、『小川』と書かれた所から『木戸』へと矢印が走っていた。そしてそれらの文字と比べて明らかに小さい文字で『八塚』から『吾妻』へ、『新垣』から『青山』へと矢印が走っているのだ。
「今現在は『青山』からと、『新城』からも矢印が消える、と」
ペンを取りだし、それぞれの矢印を消すと新たに『奥田』と書き込み、『新城』との間を矢印で結ぶとハートマークを付け足した。
「とにかく、あの子には薬が必要だな・・・それもあっという間に良くなる特効薬が、ね」
言いながら『木戸』と書かれた部分をペン先で突っついた。そのペンの動きを見ながら腕組みする康男だったが、今は忙しい時期でもあり、周人を呼び出して授業を依頼する事も出来ない。まして両方の塾の三年生とは曜日を重ねてある。
「まぁ、オレに案がある。小川さんにも、吾妻さんにも、そして青山さんにもそれは必要だからな」
そう言うとビールを口にした米澤は頭に描いているある計画を話して聞かせるのだった。
12月11日、この日授業がある周人はいつも通りの時間に塾へと到着した。そこにはめずらしく米澤が来ており、何やら八塚と話し込んでいた。周人は簡単に挨拶を交わすとダウンジャケットを脱いでハンガーに掛けると、机の上に置かれている今日の模擬試験の用紙を眺めた。だが、不意に米澤に呼ばれて八塚の座っている場所へと向かう。さくら校は西校と違い、交通量も多い大通りに面したビルの3階を借りているのだった。大通りを脇に入った路地に面した狭い階段を上り、鉄の扉を抜けると目の前にはコピー機、さらにその奥に横に4人が並んで座れる横長のテーブルが5列置かれていた。正面には小さめのホワイトボードがあり、その奥に仕切り板があってその板の向こう側と大通りに面した窓との間には小さな事務室が存在している。また、玄関を入ってすぐ右側にも同じぐらいのスペースがあって、同等の数のテーブルとホワイトボードが置かれていた。さくら塾は現在の本拠地である西校の2階スペースよりも狭く、かつてはここを本拠地してあったのだった。米澤に呼ばれた周人は事務室がある場所から玄関右側のスペースへと移動した。
「実は西に教材を運んで欲しいんだ・・・・向こうが終わる頃に着いてくれれば新城君たちがそれを受け取ってくれる手はずだ。今日はそれの詰め込みと運搬だけでいいから」
米澤はそう言うと、今日は模擬試験だけだからと周人と代わる事にし、一旦事務室へと入っていった。それなりに気合いの入っていた周人は拍子抜けしたようにドカッとパイプ椅子に座ると、すぐ壁際に置いてあるいくつかの教材が入った段ボールが積まれた場所を見やった。
「別に今日じゃなくてもいいんじゃないッスかね?」
そう言う八塚にそうだなとだけ答えた周人は、何故か自分が喜んでいることに気が付いて戸惑った。ここ最近は由衣からの電話も誘いもなく、あの日で勉強に専念するといった言葉に嘘がないことを証明していた。だが、周人はそれがどこか寂しいと思っていたのだ。そして今日、久しぶりにあの由衣と会えると思うと妙に嬉しかったのだ。そんな自分を否定するかのように、周人は1人首を横に振ると不思議そうに自分を見やる八塚を横目にせっせと教材を詰め込んでいくのだった。
迎えのバスの中、隣同士に座る由衣と美佐だったが2人の間に会話はなかった。窓の外の景色を見る美佐と廊下側の肘置きに手をついてアゴを乗せた由衣が目線すら合わせないその原因は昨日の放課後にあった。昨日の放課後、図書室で勉強する事にしていた2人だったが、あいにく図書室は使用禁止とされてしまっていたのだ。仕方なくそのまま帰る準備を進めていた由衣に支度を終えて鞄を持った美佐が話を切りだしたのだった。
「由衣ちゃん?」
「ん~?」
鞄に教科書を詰め込んでいる由衣は美佐の方を向かないでそう返事を返した。そんな由衣に対して美佐は一瞬どうしようかと思ったのだが、そのまま話を続ける事にした。
「私・・・木戸先生のこと、諦めようと思う」
さすがにその言葉を聞いた由衣は手を止めて美佐を見やった。薄暗い窓を背に立つ美佐は顔を伏せがちにしながらも由衣の方へと目線を向けた。
「何でさ?」
鞄も開けっ放しのまま手を止めて自分の机の上に腰掛けた由衣は顔を上げた美佐と目線を合わせた。
「私、無理だよ・・・・あの話聞いてからいっぱい考えたけど・・・・やっぱ無理だよ」
その暗い表情は薄暗い教室にまぎれて由衣にははっきり見えていない。だが、周人が応援で西校へと来た時からずっと想い続けてきた美佐がこうも弱気な発言をする気持ちはそれなりに理解出来たため、由衣も表情を曇らせた。
「私、勝てそうにないし、追い出せそうもない・・・・」
「死んだ元カノにって事?」
美佐はその言葉に一瞬間を置いてから弱々しくうなずいた。そんな気弱な美佐に対し、由衣はフンと鼻を鳴らすとブランコから飛び降りるような感じで机の上から飛んでみせると美佐の隣の窓枠に手を付いて窓の外を見やる。そこから見える薄暗いグラウンドを走っているのは陸上部である。
「そんなの気にしなきゃいいじゃん?」
「・・・そんなの無理だよ」
「なぁんでさ」
「だって・・・いっつも比べられるんだよ?あの子とはこうだったとかって・・・・死んだ彼女には絶対勝てっこないしさ」
「そうかな?」
悲観的な美佐とはうって変わって全く深刻さがない由衣は美佐の苛立ちを買っていることに気付かない。いくら自分が周人を好きでもこればっかりはどうしようもないと真剣に考えている美佐にしてみれば今の由衣の言動はバカにされているような気がしてならないのだ。
「そうだよ!代わりになれて付き合っても、それは所詮は代わりだし・・・」
美佐は怒った口調でそう言うと窓の下にうずくまるようにしてしまった。由衣は顔を伏せてしまった美佐に再度ため息を漏らすと、もう暗くて景色すらわからない遙か前方を見やった。
「そんなのさ、死んでなくても比べられるんじゃない?だからそんなの問題じゃないんじゃないかなぁ?それに、いちいちんな事気にしてたら、恋愛なんてできっこないじゃん」
あっけらかんとそう言い放つ由衣を睨むようにする美佐の視線をまっすぐに見つめ返すと、由衣はため息をついてから体を半回転させ、窓を背中にしてもたれかかった。
「私はただそばにいて、一緒に笑ったり楽しんだりしたいだけ。向こうが比べるなら勝手に比べればいいし。それに、今生きてる私としかできないこともあるしだろうしね」
由衣は優しい口調でそう言うと、最後に会ったあの遊園地での出来事を思い出していた。怖がる周人の悲鳴や引きつった笑顔、そして大きなぬいぐるみを手渡してくれたときの得意げな顔。それはかつて『恵里』にも見せた表情かもしれないが、その時は自分だけに向けられたものなのだ。『恵里』のことは関係ない、自分は自分なのだ。だが、元々内気な美佐にしてみればどう頑張っていいかもわからない。デートに誘うことも出来なければ積極的に会話することも出来ないのだ。そんな自分に苛立つ気持ちに加えて『恵里』に対する重たいものを感じてしまった美佐はもうどうしていいかすらわからなくなっていたのだった。
「でも、私はもう無理!」
美佐は泣きそうな顔でそう叫ぶと鞄を手に走り去ってしまった。名を叫んで後を追おうとした由衣だったが、ため息を付いてそれを諦めた。たしかに『恵里』の話はショックだった。実際由衣ですら何度か諦めようと思った程である。だが、由衣は自分できちんと答えを導き出していたのだ。『恵里』は『恵里』、自分は自分。今生きている自分が死んだ『恵里』の事を考えても仕方がないのだ。周人は『恵里』と自分とを重ねて見ているかもしれない。だがそれは一緒にいる間ずっとというわけではないのだ。そうまで答えを出しておきながら、やはりまだ告白はできない。自分がどんなに周人を好きでも、周人が自分を好きにならない限り恋人同士にはなれないのだ。特に恋人を亡くし、その亡骸を自分で発見した周人が心を開くまではまだ時間がかかる。だからこそ、しょっちゅう遊びに出かけて自分の事だけで周人の心を埋め、なおかつ自分はずっとそばにいる、死ぬその瞬間までずっと愛し続けるということを教えねばならないのだ。恋人を亡くすという恐怖は誰にでもあるということを思い出させてやらねばならないのだ。だが由衣は受験生であり、今はそれが不可能だった。電話越しでも話をしたい、遠くからでも姿を見たい、触れたいという欲求を押し殺さねばならないのだ。それを我慢せずに欲求を満たしてしまえば、周人は逆に自分を突き放すだろう。由衣は今の自分が受験生であること、年の差が5つも離れたただの中学生であることを恨んだ。ここ最近勉強にイマイチ身が入らないのも周人を想ってのことだった。一目でいいから会いたい、少しでいいから声を聞きたいのだ。だが、それは受験が終わるまでは叶わない夢である。そんなこんなで結局今日も朝から美佐とは一言も口を聞いていない。塾に着いてからも席が空いていなかった為にたまたま隣同士に座ったのだが、やはり2人の間の空気は重かった。そのせいもあって由衣の集中力はますます減退し、新城の授業においてもミスを連発して怒られてばかりだった。
今日も試験だらけの1日が終わり、送迎のバスを取りに康男が出てきた。だが何故か康男はバスを取りに行く途中、通りの真ん中に突っ立ってぼんやりと駅へと続いている細い道路の方を見ていた。その方向に何かあるのだろうかと新城がそんな康男に声をかけようとしたその時、康男は前を見たまま小さな笑みを浮かべたのだ。その方向に何があるのかと思った新城が康男と同じ方向へと視線を向ける。そこからは車のライトが近づいて来るのが見えるのみで、あとはこれといって何もなかった。だがその車が見覚えのあるワゴン車であると気付いた新城の真横でその車が止まると、予想通り中から周人と八塚が姿を現した。
「米澤先生に頼まれて教材を運搬に来たんですが・・・・」
何故かニヤニヤと笑う康男にそう言いながら怪訝な顔をしてみせる周人だったが、持ってきた教材に関して新城にてきぱきと指示を出す姿に普段のものを感じた為、気のせいかとかぶりを振った。八塚は康男の指示通りそのまま職員室の横に車を止め、後ろのドアを開く。康男はバスを出しに向かい、教材を下ろしに新城が車の方へと走り去る。残された周人も運搬を手伝いに車の方に向かおうとした矢先、駆け寄ってくる人影に目を留めて振り返った。
「先生!」
「よぉ、元気そうだな」
周人のその言葉に少し顔を赤らめながら、やや興奮気味な由衣がそこに立っていた。赤いタートルネックの上から白いダッフルコートを着た由衣は嬉しそうな顔をしながら白い手袋をはめた手を顔の横に挙げた。その顔を見て小さく微笑む周人は何故か心の中の何が満たされていくような、そんな気持ちになるのだった。そんな周人を見る由衣は照れたような顔をするのがやっとだ。ここ1ヶ月ほど会いたくて止まなかった顔がすぐそこにある。もうそれだけで由衣は溢れ出そうな涙を堪え、嬉しさを堪えきれずに笑顔で周人を迎えた。
「まぁね!」
「勉強、頑張ってっか?」
「・・・まぁね」
1度目とは同じフレーズながら声色の違いに周人は眉をひそめたが、由衣は笑顔でそれをごまかした。
「そうか・・・」
頭に浮かんだ疑問を口にせず笑う周人を見た由衣も自然と笑顔になった。由衣は会えた喜びと話せた嬉しさからか、手袋を外して何気なしに周人の頬にそっと触れてみた。さっきまで車に乗っていたせいか頬は暖かく、逆に由衣の手は冷え切って冷たかった。
「温かい!」
「お前の手が冷たすぎるんだよ」
苦笑しながらそう言う周人だったが、触れられた手をどけようとはしなかった。だが周囲の目を気にした由衣はすぐに手を離すと照れたような顔を見せた。そんな由衣をどこか変だと思う周人だったが、何も言わずに笑顔を返すと後ろの方に1人たたずむ美佐に目をやって小さく微笑んだ。だが美佐は周人から視線を外すとそそくさと出てきたバスの方向へと向かって行ってしまった。その様子に釈然としないものを感じながら、その疑問を由衣に耳打ちをした。
「小川さん、何かあったのか?」
「うん、まぁ、まぁちょっとね・・・・受験前でいろいろあるから」
実際は周人の事が原因だったのだが、由衣はあえてそれには触れなかった。まるで自分は受験は無関係というような口振りの由衣に苦笑しつつ、周人は納得したような顔をしてバスに乗り込む美佐を見た。
「さぁ、お前ももう行け。オレはあれ運ぶの手伝ったらもう帰るし」
「うん、わかった。じゃぁ、行くね」
名残惜しそうに1歩1歩下がる由衣だが、体は周人の方を向いたままである。何とも言えない笑顔でそれを見送る周人はバスから出てきた康男に気付いて頭を下げた。
「25日、こっちで送別会するからさ。あっちの連中は来ないけどこっちのメンバーでやるから」
「わかりました、お願いします」
康男は微笑みながら2度ほど周人の肩を軽く叩くとまだすぐ傍にいる由衣に早く乗るよううながした。由衣は嫌そうな返事を返し、康男を苦笑させた。
「じゃぁ・・・・25日に、またね!」
由衣はそう言うとバスの方に向かおうとしたのだが、不意に周人に呼び止められて振り返った。
「合格したら、またどっかに遊びに行こう」
その言葉に由衣は満面の笑顔を見せ、大きくうなずいた。そして大きく手を振ると元気良くバスまで走っていくのだった。乗り込んだ生徒が全員いるかを確認した康男はいつも通りクラクションを2度鳴らしてバスを発車させた。新城や八塚も手を休めてそれを見送り、周人もバスが角を曲がるまで見送ると教材を中に運ぶ手伝いをした。5分ほどで全てを職員室に運び込んだ3人は一旦中に入ると、冷え切った体を温めるようにと恵が用意してくれたコーヒーを手にしたのだった。冷たい手には温かいコップも熱く感じてしまう。だが、体の芯から温まりそうなそのコーヒーは周人たちにとっては凄くありがたい。美味しそうにコーヒーを飲むのを見ながら、恵は普段と変わらぬ様子で周人に接し、あの日以来の顔合わせだったがごく自然な会話をすることができた。新城と八塚が教材が入っている段ボール箱の中身の確認を行っている間、横に座った恵を横目で見た周人はバツの悪さからか胸が痛んだが、恵は笑顔を見せてくれた。
「元気そうね?」
「おかげさんでね・・・・そっちも元気そうだ」
「まぁね・・・・」
肩をすくめてそう言う恵だったが、あの日のことはもう気にしていないといったそぶりを見せた。周人ももはやそのことについては何も言うつもりもなく、2人の時間はゆっくりと流れていく。
「吾妻さんたちとは、どうなの?」
「1ヶ月前に吾妻さんには連れ回されたけど・・・・小川さんには避けられているみたいだ」
やや苦笑混じりにそう言う周人を複雑な気持ちで見る恵は周人を敬遠している美佐の気持ちが痛いほどよく理解できた。おそらく自分と同じで複雑な周人の事情から自分がどうしていいかわからなくなっているのだろうと推測できた。そしてそれでもなお周人に対して今日も真っ向からその好意をぶつける由衣を羨ましいとも思えた。結局以前から周人の優しさに惹かれていた2人が周人の中にある『恵里』という名の見えない存在に負けてしまったのだ。そして周人を大嫌いで仕方がなかった由衣だけがまっすぐにそれを受け止めて、さらにそれに負けない心で周人に接しているのだ。周人自身が心を開く確率は極めて低いだろうが、それでも可能性はゼロではない。恵はコーヒーを飲む周人を見ながら自分の心の弱さを恨み、そして隣に座る恋した存在を吹っ切れている自分に笑った。
コーヒーを飲み終えて体も温まった周人と八塚はさくら校へと戻るべく外へと出る。見送りに出てきた新城と恵は寒さに体を抱きかかえるようにしながらも手を振ってくれた。雪こそ降っていないのだがこの寒さはかなり厳しい。吐く息の白さも際だつ中、周人は空気が澄んでいるせいかいつもより輝いて見える星のまたたきを見上げた。新月なのか月は見えない。だが、それも束の間ですぐに車に乗り込んだ周人は外で寒そうにしながら見送ってくれている2人の事を考慮したのか八塚に早く出発するよううながし、そそくさと西校を後にするのだった。白い息を吐きながら車を見送り、すぐに職員室の中へと入った2人は言葉もなく自分の席へと戻っていく。時折心配そうに自分を見やる新城の視線に気付いた恵は顔を向けずに何か、と問うた。
「あ、いや・・・別に」
居心地悪そうに帰る準備をする新城は恵のその言葉に腫れ物に触れるかのようなしどろもどろな返事を返すのが精一杯だった。だが新城の視線の意味も理解できる恵はクスッと笑うと、横目で新城を見る。
「心配しなくても、大丈夫よ。もう、吹っ切ってるから」
柔らかい口調と穏やかな顔でそう言う恵の言葉をまっすぐに受け止めた新城はそうかとだけ答え、自分を見て微笑む恵にどこかぎこちない笑顔を返した。
「正直、今日会って、そう思ったから・・・もう大丈夫ってね・・・・・でも・・・」
「でも?」
「ううん、何でもない」
恵はそう言うと帰る準備を再開し、新城から目を逸らす。そんな恵を何も言わずに見つめる新城は少し複雑な気持ちながらも恵から視線を外した。恵は周人と何ら変わらず接する由衣の姿を思い出して小さな笑みを浮かべると、新城にも聞こえないほどの声で小さくつぶやくのだった。
「ホント、羨ましい」
バスの中では由衣が周りから周人との事を責められていた。あれほど嫌っていた周人に対して楽しくしゃべったり、頬に触れたりしているのだ。勘ぐられても仕方がない。だが、反周人派のあやや聡子にいろいろ言われながらも平然とそれを受け流す事ができる由衣にすればそれはどうということはない。それに新城を気に入っているあやにしてみればライバルが1人脱落したことは喜ぶべき事であり、由衣が周人のどこを好いているかなどは興味ないのだ。全てをさらりとかわした由衣は周人に会えた事、話ができた事、触れられた事、そして合格後の約束の事で胸がいっぱいであり、何を言われても全く平気な状態にあった。俄然やる気も湧いてきて、もう合格まで突き進むしかないという程の気合いの入りようだった。嬉しそうにしながら上機嫌で自分に別れの挨拶をしてバスを降りる由衣の姿を見た康男は『特効薬』の効果をあらためて思い知らされて笑顔を浮かべた。だが対照的に暗い表情の美佐を気にしながらも、声をかけることは出来ずにこの日は終わったのだった。
風呂から上がり、部屋に戻った由衣は机の上に立てかけてある写真立てを見てにんまりとした笑みを浮かべる。帰ってきてからもう何度見たかわからないその写真を見るたびにこの顔をしていた。つい昨日までは写真の中の周人を見るたびにため息ばかりついていたのに、だ。だが今日は周人の顔を見て元気が湧いた。何が何でも合格し、もう1度デートする事を自分に誓う。そしてそこでダメでもいいから告白しようと決心したのだった。たとえフラれるとわかっていても、初めて心の底から好きだと言える恋をしたのだ。絶対に後悔はしたくない。由衣は暖まった部屋の温度を調節するとベッドに入った。今日はもう勉強する気持ちにはなれない。他の事など考えずに久しぶりに見た周人の顔を思い浮かべながらそっと眠りにつくのだった。




