優しさの値段(3)
行きつけの居酒屋は午前2時まで営業しているが、22時を回るとやはり客数は少なかった。4人掛けのテーブルに案内された4人は康男と恵、周人と新城がそれぞれ並んで座った。恵の前には新城が座っている。新城と恵はウーロン茶を、康男と周人は生ビールを注文し、あとは適当に料理を注文した。始めこそ塾の事や教え方等の話になっていたが、1時間もすればそういう話題は持ち上がらない。今は塾内の人間関係についての話になっていた。
「正直、さくらの方にももう1人2人入れたいんだけど、金銭的に厳しくてねぇ」
ややオーバーに頭を抱える仕草をしながら康男がそう言った。すでにビールは5杯目である。酒に強い康男は2時間で10杯のジョッキを平然と平らげるほどであり、それでもほとんど酔わないのだ。
「あっちは美女がいないから・・・・そういう人材が欲しいですねぇ」
そう言って3杯目のジョッキを口にする周人の頬は若干赤かった。全く酒を飲んでいない2人はウーロン茶に飽きたのかジュースを飲んでいる。
「こっちにはいるもんなぁ~、ねぇ、青山さん?」
意味ありげにそう言う康男は焼き鳥を頬張る恵を見やった。恵は愛想笑いを浮かべてその話題をやり過ごそうと何も答えずに無視する。
「そうですね、青山さんクラスならもう大歓迎だな」
何気なしに言った周人のその言葉に、一瞬固まった恵の顔は少々緩んでいた。好きな相手に美人だと認められたのだ、嬉しくないはずがない。その微妙な表情を訝しんだ新城に気づいた康男はすかさずフォローに入る。恵が周人を好いているということは絶対に悟られてはならないのだ。そう、それは恵のためではなく、自分のため、密かな楽しみのためだ。
「ところで新城君の好みのタイプは?吾妻さんかい?」
「またいきなりすんごいところへ飛びましたねぇ・・・タイプは、好きになった人、かな」
苦笑しながらもそう真面目に答えた新城は残り少ないオレンジジュースを飲み干した。空になったコップを見入るように見つめたその表情はどこか堅い。
「吾妻さんじゃあ、ない?」
確認するかのような、意味ありげにそう言う康男の顔はどことなく締まりがなく、明らかに楽しんでいるといった感じがありありだった。
「全く興味ないですよ、どっちかというと苦手だなぁ」
肘を付きながらそう言うと、新城はため息をついた。確かに慕ってくれるのは嬉しいのだが、塾に来るたびに付きまとうようにされ、他の男性講師たちを蔑むような言葉を本人を前に平気で言える子は正直苦手というより嫌悪感を抱いているが、だがそれで真面目に授業を受けてくれるのだから我慢しているといった愚痴をポロリとこぼしてしまった新城はそう言ってしまったものはしょうがないといった風に康男の顔を見やった。康男は今の新城の言葉を真っすぐに受け止め、考え込むようにして視線を宙に走らせた。そのままさっきのバスの中での一幕を思い出す。
*
それはバスが大通りに入ってすぐのことで、運転席のすぐ近くでのやり取りであった。
「吾妻ぁ、これ・・・」
そう言って白で無地のCDを差出したのはサッカー部に所属し、そこそこ女子に人気のある能見翔太である。周囲から見ても分かる通り、翔太は由衣に惚れている。とても可愛く、胸も大きな由衣を好いている男子は多いが、アプローチという点では翔太は他の男子に後れを取っている。
「ん?」
ごく自然に小首を傾げる由衣であったが、それがいつもの狙った仕草だと分かる他の新城親衛隊3人にすれば笑いを堪えるべき状況であった。
「ほら、一昨日言ってたアーティストのベスト・・・CDコピーした」
その言葉を聞いて微笑む由衣だが、内心では舌打ちだ。CDのコピーかよ、そういう意味の舌打ちだった。
「ありがとうぅ・・・わざわざ?嬉しいよ」
猫なで声とその弾ける笑顔で翔太はもう昇天だ。
「でもぉ、スマホに音楽の入れ方わかんないしなぁ・・・」
「え?あー、それは・・・」
そう言いかけた翔太を遮った由衣は畳みかけるようにそっと翔太の手に触れる。
「能見のiPodに入れてきて、それ貸してくれないかなぁ?」
「ああ、いいけど・・・でも俺も使ってるしなぁ・・・」
「一週間ほど、ね?いい?ねぇ、いいでしょぉ?」
甘えた声をしつつ、翔太の右手をそっと自分の胸に触れるか触れないかの位置に持って行った。これで落ちない男など存在しない。多感な中学3年生男子にとっては刺激的なものだからだ。
「うん、貸す」
「ホント?一週間以上、借りちゃうかも」
「いいって、気が済むまで」
「ありがとう!能見、最高だよ!」
その言葉と笑顔に堕ちた翔太は終始笑みを絶やさなかったが、他の女子たちは心の中で皆こう言った。
「もう返ってこないよ、お前のiPodはさ」
由衣の常套手段。買ってとも、欲しいとも決して言わない。ただこれがあれば、あれがあればと男子の前で言うだけだ。そうすれば勝手に持ってきてくれ、買ってきてくれ、気に入ったものは貸してと言えばOKされる。後々返してくれと言ったところで上手く引き伸ばされて、結局返却されないままうやむやにされてしまうのだ。返却を強硬に訴え出た男子には少々肌の露出を上げたり、軽く胸に手を当てさせればそれで終わりである。まさに小悪魔だ。
*
そんな由衣を知る講師たちにしても由衣は頭の痛い存在でしかない。
「アレはアレで大変だものね・・・木戸クンに関しては見ていてかわいそうになる時があるもの」
恵はそうつぶやくとチラリと康男の方を見やった。2人の視線を受けた康男は顔を上げ、おもむろに周人の肩を叩いた。
「というわけだ、頼んだよ、木戸君!」
「いや、何でオレなんスか?」
明らかに困ったという口調でそう悲鳴のような声を上げた周人を見て、一同は大笑いをするのだった。
*
恵を乗せた新城の車を見送った時は午前0時を少し回っていた。恵の家はここから車で15分ほど、新城の家はさらにそこから20分ほどである。電車で言えば恵の家は2駅、新城は6駅先の場所に位置していた。2人が住む桜町の町外れにある住宅街は結構広く、交通の便も良いのだが、この辺は田舎であり電車の本数も少ないため恵は送迎バスに便乗し、新城は自分の車で通っているのだ。今日は晩ご飯を一緒にということで送りのバスには乗らなかった恵だが、新城の車で送ってもらうのはこれが初めての事であった。大抵康男の車で送ってもらうことが多いからだ。大通りを右へ曲がったのを確認した康男と周人はとりあえず職員室の中へと戻って行くのだった。程良い酔い加減を覚ます為に窓を開け、コーヒーを入れる。周人は学期末テストに向けての対応策となる問題の整理と康男の用意した問題をパソコンに打ち込む作業、康男は経理関係の仕事に着手すべく、3台あるパソコンの内の2台を立ち上げた。残る1台はデスクトップタイプであり、今使用している2台はノート型である。しばらくは無言でパソコンに向き合っていた康男だが、背伸びをしながら時計を見やる。時間は0時30分を指していた。恵はとうに帰宅している時間である。
「青山さんはもう帰っただろう・・・・新城君ももうすぐといった所か」
康男はすっかり冷めてしまったコーヒーを口にした。冷めたインスタントコーヒーは複雑な味わいをかもし出して舌を刺激し、眠気を吹き飛ばした。
「お楽しみじゃぁ無ければ・・・ですけどね」
少し含み笑いを混ぜながらそう言う周人を、康男は苦笑混じりに見やった。
「青山さんはその辺しっかりしているさ。好きでもない相手とはそうならないよ」
「しかし、2人ともすごくモテるだろうに、なんで彼氏彼女がいないかねぇ・・・」
ギシッという椅子の軋む音を響かせながら背もたれに寄りかかる周人は両腕を首の後にやりながら白い天井を見上げた。部屋の端に位置している周人の席の上には何もない。部屋の真ん中辺りにエアコンが設置され、除湿を行う作業をしている。それを四方に囲むようにして四角いライトが4つ取り付けられた洒落たインテリアとなっているのだった。
「さぁねぇ・・・・」
あえてそう言うとパソコン画面へと視線を戻した。康男にしてみれば新城も恵も非常に分かりやすく、誰を好いているのかすぐに分かる。だがあえて何も言わずに知らない振りをしているのだ。話をややこしくしたくないし、今のまとまった塾内での雰囲気を壊したくない。だが、それを左右するべき周人が何も気づいていないのだ、2人の内のどちらかが行動に移さなければ問題は起きない。よしんばそうなったとしても、周人の対応次第でどうなるかもわからないのだが。だが康男にとってみれば小学生や中学生の恋愛を見ているよりはこっちの方がよっぽど楽しい。不謹慎だと思っているが、これは密かな楽しみでもあるのだ。康男はパソコンに向かいつつ、次に恵がバイトの日である火曜日に今日の車の中での会話がどんなものであったかを聞くことを楽しみに今からほくそ笑むのであった。
*
火曜日は本来バイトは休みの日であるが、今日は新城が都合により休みとなったため、急遽周人が呼び出された。周人のシフトは週4回月曜、水曜、金曜、土曜であり、現在水曜日と金曜日は西校という状態になっていた。受け持っているのは西校では水曜日が中学一年生の数学、金曜日が中学三年生の数学、そして本校では月曜日と土曜日に小学二年生の4教科のいずれかとなっていた。小学生は基本的に算数と国語なのだが、月に一度は社会と理科も教えている。
いつもの通りバイクを走らせる周人はやはり疲れた表情で塾へ向かう最後の交差点を曲がった。本来ならば今日は新城が教える中学三年生の英語なのだ。ただでさえ数学を新城と入れ替えられて不平不満を漏らしている吾妻グループだが、今日は新城の代わり、つまりは新城本人がいないのだ。最悪、授業などまともに聞かない状態になりかねない。いつもなら新城がいるからとそれなりに授業を受けているのだが、今日は全くの未知数だ。変な不安にさいなまれながらもバイクを駐輪場となっている空き地に止め、職員室へと向かう周人の足取りはかなり重かった。たかだか中学生の子供の態度だが、塾の生徒である以上授業はきちんとこなさなければならない。最近の子供は親が甘いせいかすぐに大きな態度を取るのだ。しかも相手がアルバイト講師なら尚のこと。クビにすればいいとの考えが見え見えなのだ。周人は席に着くと大きなため息を漏らして康男が用意しておいてくれた教材に目を通すのだった。今日は授業開始までまだあと1時間はある。新城がどこまで進めているかを確認し、今日行う範囲の予習をしなくてはならないために早めに来たのだ。曇りがちの天気だったが雨は降らず、バイクも快適に飛ばして来られたおかげで予定していた時間よりも10分早く着いたのだ。そうして10分ほどした頃、恵が職員室に入ってきた。今日は19時から授業があるためにいつも通りに来たのだった。
「あら、どうしたの?」
紺色のノースリーブに黒のスカートを履き、白いバッグを手にした恵は入るなりそう驚いた言葉を発した。今日は本来周人の担当日ではなく、新城の担当日であるために疑問に思ったのだ。バッグを机の上に置き、椅子に腰掛けてため息を付く。合わせるように周人もまた再度ため息をついた。
「アイツが用事で来られないんだってさ・・・・で、代理」
「うわ、悲惨・・・・・・」
よりにもよって中学三年の授業だと分かっているだけに、同情の声を上げた恵は給湯室に向かうとコーヒーを入れ、それをそっと周人の机に置いた。周人は軽く頭を下げたのみでテキストから目を離さない。別にその様子を気にするでもない恵は席に戻ると同じように机の上に置いてあるテキストを手に取った。
「で、新城とのドライブは楽しかったかい?」
全く予期していなかった言葉にピクッとテキストに触れた指が動いて止まる。そのままあわてた風に周人を振り向くと大声を張り上げた。
「ち、違うのよ!ただ送ってもらっただけ!ホントそれだけなんだからね!誤解しないで!」
物凄くムキになってそう言う恵の迫力に押されてか、詰め寄ってきた恵から逃れるようにのけぞる態勢を取る周人は顔を赤らめながらまくし立てた恵の顔をマジマジと眺めた。マスカラのせいかいつもより大きい印象を受ける目が少し潤んでいるような気がした。
「いや、分かってるよ・・・ただどんなだったのかなって、そう思っただけだよ、ゴメン」
驚きから真面目な表情に変えてそう素直に謝った周人を見て我に返ったのか、恵は席に座り直すと小さな声で、ごめんなさい、と謝った。周人は明るい声で、こっちこそ、とだけ言い、再びテキストに向き合ったが、恵はやや俯いたまま両手の指を絡ませ、せわしなく動かしている。
「休日、休日どんな事してる?とか・・・・最近どんな映画見た?とか、そういう会話、しただけだよ」
小さくつぶやくようにそう言った恵は俯いたままだった。椅子が軋む音をさせながらその椅子ごと恵の方へ体を向けた周人は、見えている恵の頭にポンと手の平を置いた。一瞬ビクッとした恵だったが、ゆっくり顔を上げると上目遣いに周人を見やった。周人は何とも言えない淡い微笑を浮かべたまま自分を見つめている。その表情は優しく、恵はだたその顔を見ただけで激しく胸が鼓動し、体が熱くなるのを感じた。
「最近、どんな映画見たの?」
物静かで優しい口調でそう言うと、周人は頭の上に乗せていた手を下ろした。恵は顔を上げたはいいが周人から視線を逸らしてしまった。正確には凝視する事ができなかったのだ。
「アクションが好きだから・・・アクション系。大学の友達と・・・・たまに・・・行くから」
さっきよりもやや大きめの声でそう言う恵に、周人も自分の好みの映画がアクションだと告げた。もっとも、映画館ではなくもっぱらレンタルDVDで借りたDVDでの鑑賞だけどと付け加えた周人に対してはにかんだ笑みを浮かべた恵だが、既に動悸は収まっていた。結局時間が来るまで映画の話に没頭してしまった2人はあわててテキストをひっつかむと職員室を後にするのだった。
*
ややご機嫌の恵は、いつもとうって変わって明るい感じで授業を行い、生徒たちを多少ならずとも驚かせた。いつもの恵はキリッとし、なかなか厳しい先生として生徒たちから見られていたからだ。明らかに授業を聞いていない生徒には厳しく接し、いつもピリッと張りつめた空気で授業を行っているのだが、今日は少しばかり空気は和んでいた。それでも生徒たちはやはりやや緊張した面もちで授業を受けている。確かに厳しい態度で授業を行う恵だったが、ひとたび授業が終われば女子生徒たちからの私的な質問や相談にも親切に応じていた。その日も授業が終わると男子生徒はすぐさま外へ飛び出し、バスの準備が出来るまで談笑したりカードゲームのカード交換やスマホゲームなどをしている。女子生徒も何人かは教室で雑談したりしているが、恵と仲が良い生徒は教壇の周囲を取り囲むようにして恵と世間話をしたりするのだ。特に今日は恵の機嫌が良かったためか、そこに話が集中した。
「先生、今日良いことあったでしょ?いつもと雰囲気違ったもん」
1人の女子生徒の質問に内心ドキッとしたが、一切それを表に出さない。
「え~、そうかなぁ?いつも通りだったと思うけどなぁ」
冷静にそう返す恵だったが、皆一様に違うといった返事をしてきたため、苦笑を漏らした。恵は授業前に周人と話し込んだ事が頭をよぎったが、あれしきのことで浮かれてしまい、結果授業にその雰囲気を持ち込んだ自分を歯がゆんだ。公私混同をしないという信念をもって授業をしている恵にとって今日はやはりそれが出来ていなかったようで、周りの生徒からも恋愛関係に話題を集中させて冷やかすような声が上がった。だがこの程度では何ら動揺しない恵は違うという言葉でサラッと流した。生徒たちはつまらなさそうだったが、それでもこの話題から逸らさないようになおも突っ込んだ。
「新城先生が本命?」
誰かのその言葉に恵はフゥとため息をついた。この手の話題になれば必ず出てくるのが新城の名前なのだ。恵ははっきり違うと言うとテキストやら教材を片付けに入る。そろそろバスが出てくる時間なのだ。
「新垣先生?それとも・・・・もしかして木戸くんかぁ?」
雑用で教材の運搬や整理、送り迎えの運転手をしている一応社員扱いの新垣貴史は塾長である康男の甥であり、便宜上先生ではないのだがそういう風に呼ばせていた。それはさくら校の雑用を受け持っている同じ社員扱いの八塚浩志も同じであった。ちなみに八塚と貴史は中学からの同級生であり、この塾のOBでもある。当時、さくら塾に通っていた周人の1つ後輩だった2人とは今でも仲が良いほどだ。それはそれとして新垣という名に何も反応を示さない恵だったが、木戸という名前には少なからず反応してしまった。しまったと思ったが、それは顔には出さない。さすがに女子生徒は今の反応を逃さずに、さらなる突っ込みを入れてきた。
「アレアレ~?もしかして木戸くん?まぁ、木戸くんもちゃんとすればかなりイケてると思うんだけどさ、やっぱ先生には新城先生クラスじゃないと似合わないよ」
周人は由衣たち新城ファンクラブグループを除く生徒たちとは結構仲が良く、一部の生徒たちからは『木戸くん』と友達感覚で呼ばれていた。康男も授業中以外はその呼び方を認めていた。なぜなら周人は生徒に近い位置に属した先生であり、さくら校ではかなり支持されていたからだ。彼の授業が独特の和らいだ雰囲気で行われているのもあるが、何より生徒たちと同じ視線から物を言うところを評価しているのだ。張りつめた雰囲気で授業を行う恵や新城のやり方もそれはそれでいい。今の学校の体制から考えれば塾で厳しくしていなければいけないのは重々承知しているからだ。だが、学校がつまらないと言う今の子供たちからすれば、いつ恵や新城のこともつまらないと言い出すかはわからないのだ。新城はあのルックスで、尚かつ面白い面も見せているために人気が高い。恵にしても授業以外のところで優しく親身に接するためにこれも人気が高い。だが周人は違う。彼は常に楽しく授業を行っているのだ。正解すれば大げさに褒める。そして流行のクイズ番組の司会者を真似た感じの問題の出し方や正解を導く方法を取ったりしているのだ。それも緩急を付けているために生徒たちにはまさに飴と鞭となり、実際成績も伸びている。何より周人の授業が楽しいと言い、人気も高いのだ。だがそれも西校の一部の女子生徒には不人気で、この授業だけは真面目に行なっている。新城に好意を持っている吾妻由衣率いるファンクラブが康男に直訴したためだ。彼女たちが受験生という事も、周人が臨時である事もあって渋々これを了承した康男だったが、周人に対してはすまないといった気持ちが強く、現に彼に謝ってもいたのだ。周人はそれを正面から受け止め、素直にそれに応じている。この話を影で聞いていた恵はやるせない気持ちになったが、それは周人を好きになってしまっている自分がいるためだと言い聞かせ、この問題には首を突っ込まないようにしていた。
「木戸くんとはまた意外な・・・・」
「違うわよ、木戸クンの名前が出たのが初めてだったから、少し驚いただけよ。いっつもあなた達は新城クンの名前しか出さないからね・・・でも、木戸クンも悪くないカモね」
そう言ってからテキストを小脇に抱えると、恵はみんなに外出るようにうながした。極めて冷静且つ自然なその態度に誰もそれに対して異議を唱えることなく外に出た。全員が出たのを確認した恵は電気とエアコンを切ると、施錠をして階段を下りていった。外にはすでにバスがアイドリングを行い、何人かの生徒は乗り込んでいた。よく見ればそれは由衣たちのグループであった。外に周人の姿は無く、3階の電気がまだ点いていることからまだそこにいるのが分かる。康男は窓から顔を出して全員に早く乗り込むように告げると人数を確認していった。本来ならこれに便乗して近くの駅であるさくら谷駅まで送ってもらうのだが、今日は周人の様子が気になってしまい、恵はそれを辞退した。康男は生徒たちを送って戻ってきたらまた車を出すからと告げてバスを走らせた。チラッとだけバスの中を見た恵は憮然とした態度を取っている由衣の姿に眉をひそめたが、バスを見送るとすぐさま3階に上がっていった。静かに開いたドアの向こうには一番前の席に座り込む周人の背中が見て取れた。疲れたようなその背中に近づくと、わざと1つ後ろの席に腰掛けるのだった。