見えない気持ち(1)
玄関先に立つ周人は別にやましいこともないのに背中から噴き出す嫌な汗を感じていた。開かれたドアの向こうに立つ恵はやや緊張した表情をしながらも『こんにちは』と挨拶をし、周人もまたぎこちなく『どうも』と答えた。一方、部屋の中にいる由衣はドアの向こうに立っている恵の姿を目に留め、周人と同じく何故か少し焦って身を隠すようにしてみせたものの、何かひらめいたようないたずらな表情を浮かべるとそそくさと荷物をまとめて立ち上がった。そしてそのまま何食わぬ顔をしながら廊下を歩いて玄関へと向かった。
「青山先生、こんにちは」
突然、周人の後ろから姿を現した由衣はわざとらしい大きなアクションで丁寧なおじぎをしながらそう言った。1人暮らしをしている周人の部屋の奥から出てきた由衣の姿を見やる恵は明らかに驚いた顔をした後、横目で周人を睨むように見つめた。
「あ、いや、その~・・・つい1時間ほど前に来てさ、そのなんだ・・・いろいろ話をね、したわけ」
何故か焦りまくる自分を必死に抑えながらもそう言う周人だったが、別に恵と付き合っているわけでもない、その上、由衣と二股をかけているわけでもない事を頭で理解しながらも妙にうろたえてしまった。
「先生にはちょっと『お・世・話』になったもんで、そのお礼をしに・・・ね?センセー!」
由衣は極めて明るくそう言うと周人の左腕に絡みつくようして体をくっつけた。とんでもない事を言われた周人はますますドギマギしながら引きつった顔をし、しがみつく由衣に目で何か訴えるように見やったが由衣はニタリと笑うのみで全く効果はなかった。それを見た恵の片眉がつり上るのを確認した由衣は恵が周人を好いている事、そして恵の訪問が本当に突然であったことを見抜いた。
「お前なぁ、変な誤解を受けるような発言は・・・」
「じゃぁ、先生・・・ま・た・ね!」
周人の言葉をそうさえぎると、投げキッスをしながら既に横に持ってきていたバッグを片手にいそいそと靴を履き始めた。もはや呆気に取られるしかない周人を振り返ると、恵には見えないようにウィンクしながらピロッと舌を出す。その仕草から嫌な予感を感じた周人はますます突き刺さるような視線を浴びせる恵に愛想笑いを返すしかなかった。
「じゃぁ先生、ありがと・・・・また『お掃除』しに来るわねぇ」
由衣はそう言うと2人に向かってヒラヒラと手を振ってさっさと走り去ってしまった。残された周人はエレベーターの方向に消えた由衣を見ながらしてやられたといった苦々しい表情をしてみせるしかない。
「木戸クン・・・・どうやらお邪魔、だったみたいね?」
にこにこした笑顔を見せている恵の口調は恐ろしいほどに冷たかった。顔こそ笑っているものの、その視線はまさに軽蔑のものになっている。暑い午後の玄関先にいるのに冷たい汗が背中を幾筋も走った。ここであわてて弁解したほうがやましい事があったように思わせてしまうと自分を落ち着かせた周人はとにかく恵に上がるようにうながした。
「あのさ、信じてもらえないかもしれないけど、彼女、真剣に謝りに来たんだ・・・」
「・・・わかってるわよ・・・・」
恵はため息をつきながらも笑顔を見せていた。さっきまでとは違い、その笑顔から恐怖は感じない。
「木戸クンが彼女を連れ込めるほど甲斐性があるとも思えないし、それに・・・別に私が怒る事じゃないしね」
スリッパを用意する周人を見ながらそう言う恵は穏やかな表情だった。しかし、怒っていないとは言いながらも怒っているようにしか思えない周人はさらに心拍数が上がるのを感じながら疲労感でいっぱいになっていた。
「私は木戸クンの彼女じゃないし・・・・でも・・・」
スリッパを履いた恵はドアを閉めて鍵をかける周人を振り返った。今日はいつもと違う感じの髪型と服装のせいか、妙な違和感を覚えてしまう周人に対して気を引き締めるように咳払いしてから言葉を続けた。
「吾妻さん、生徒とはいえ、女の子を1人で家に上げるのはいかがなもんかなぁ?」
あえて意地悪くそう言った恵を見やる周人は何の言い訳も弁解もせずにゴメンと謝った。その辺は周人も承知しているのだろう。だがどういった経緯でこうなったか聞かない恵に対して何も言わない周人を周人らしいと感じながらも、今のは意地悪すぎたと逆に謝った。それに今の状況もまた自分が口にした嫌味に合致している。それを知りながらも意地悪を言いたくなるのが乙女の恋心だ。
「ゴメン、意地悪が過ぎたね・・・私、別に木戸クンの彼女でもないのにさ」
やけにその事を強調している自分に気づいてしまい、本心を悟られたかとドキドキした恵だったが、当の本人たる周人は何も感じていないようでバツが悪そうにしているだけだった。さっきまで由衣が座っていた場所に座るようにうながした周人は由衣が使っていたコップと皿を手際よく片づけ、新しく用意したコップに入れたジュースを差し出した。恵もまた由衣同様、お土産としてシュークリームを用意しており、2人は小さなテーブルを挟んで向かい合った。
「腕、大丈夫?」
ようやく落ち着いて座った周人にそうたずねた恵は箱から出したシュークリームを周人の前に置きながらも怪我をしている右腕を見やった。長袖のTシャツを着ている事から包帯が巻かれていることは容易に想像がつく。
「あー、平気。悪いね、この間から迷惑かけちまって」
そう言いながら右腕をテーブルの上に置いてジュースを飲む。さっきまでいた由衣とは違う大人の雰囲気を漂わせる恵に何故か戸惑う周人はとりあえずジュースを飲んで落ち着く事にしたのだ。
「その怪我、吾妻さんを守るために負ったわけだ・・・・そのお礼というか、そういう感じで今日、彼女がここに来た・・・・違う?」
怪我に関しては何も言わない周人に対し、そう独り言のように言うと恵ははにかんだような笑みを見せた。
「で、たまたま私がここへ来たもんだからおもしろ半分に彼女はああいった言動に出た、そういうことね?」
勝手に決めつけるかのようにそう言うと自分で納得した表情を浮かべて差し出されたジュースを飲み、淡々とシュークリームの袋を開けた。ただただ黙って目を丸くするしかない周人は頭を掻きながらも同じように袋を開いた。
「そう、だな・・・・でも何でこの怪我の事を?」
「この間、2人の会話を聞いちゃったのよ・・・職員室のトイレの横で話してるんだもん、聞きたくなくても聞こえちゃう」
その言葉に由衣に連れられて行った場所が頭に浮かぶ。よく考えれば確かにトイレのすぐ横であり、窓が開いた状態で中に人が入っていればまず間違いなく会話は聞こえただろう。
「そうか・・・・まぁ、いろいろあってね・・・」
「みたいね」
意味ありげにそう言うとジュースを口に含んだ。周人はその言葉の意味を計りながらも同じようにジュースを飲んだ。夕方になったとはいえ、相変わらず外は暑い。その証拠に部屋の設定温度はクーラーの設定温度共々変化が無い。
「で、今日はどうしたの?急だったから驚いたよ」
そう言う周人をチラッとだけ見やると、恵はぐるっと部屋の中を見渡した。男性の1人暮らしにしては綺麗に片づいている部屋に感心しつつ、ちょっと意地悪い気持ちが湧いて出るのを抑えきれなくなってしまった。
「綺麗にしてるのね?吾妻さんって掃除上手だわ」
「いや、違うんだって・・・あの子はただ・・・」
「ゴメン、意地悪言いたくなっただけ」
恵はそう言うと大げさながら頭を下げた。本当は、理由は何にせよ由衣に対して少なからず嫉妬心を持っていたためであった。彼女が新城を好いているのは知っているのだが、それでも自分が好きな人の家に上がり、なおかつ2人きりで時間を過ごしたという事実があるのだ、嫉妬しない方がおかしい。
「でもさぁ、木戸クンっていいよね・・・私も1人暮らししたいよぉ~」
両腕を後ろの方について天井を見やるようなちょっとくつろいだ態勢でしみじみそう言う恵を見やった周人は苦笑を浮かべた。そんな周人を見やりつつ、恵はふぅとため息をつく。
「でも、実際無理だしね、ウチって親がうるさいから・・・・」
「家族とは、一緒に住んだ方がいい」
意味ありげにそうつぶやいた周人は怪訝な顔をして自分を見ている恵に気付いたのかあわてて目を逸らした。何か事情があるようなその発言だったが何も言葉を返せない恵は沈黙をまぎらわすためにシュークリームを頬張った。少し疲れたような表情を見せた周人もまた無言のまま恵を見つめた。小首を傾げてその視線を受け止める恵の仕草は可愛らしく、いつもの綺麗さとはまた違った少女のような印象を与える。やっぱり恵は美人だと再確認した周人は微笑を浮かべながらジュースを飲んだ。
「で、いったい今日はどういう用で?」
氷が溶け、コップを水滴が覆う。そのコップを置きながらそうたずねる周人を見た恵は驚いた表情を浮かべ、ハッとしたように左手を口に当てた。そんな恵を見てやれやれといった感じで苦笑する周人を見る恵は恥ずかしい思いが胸の中で爆発するのを感じていた。来たのはいいが、その理由も告げずにあれこれ意地悪を言いたい放題だったのだ。
「あ、いやぁ~、あのね、その、予定外に休んだでしょ?だからどうしたのかなぁ・・・って、気になったから・・・」
ごまかすように笑いながらそうしどろもどろに答える恵は普段からは想像できないようなあわてふためいた表情をしていた。身振り手振りを交えながらそう弁明する恵を、微笑を浮かべた周人が見つめている。それを意識してしまった恵の顔は羞恥と照れで真っ赤になってしまった。
「そうか・・・ありがとう。昨日はマジで私的な用だったから。腕の怪我とかは関係ないんだわ。けど、君も吾妻さんと同じ理由か」
淡々とそう説明した周人は思いがけずやって来た2人の訪問者が同じ理由だったことに嬉しさを感じていた。由衣は怪我を負わせる原因を作った為に来たのだが、恵は本当に心配でやって来たのだ。それがどういった理由からかは聞かない周人は、まだ恵の自分に対する気持ちには全く気付いていない。それからしばらく他愛のない話に花を咲かせ、もうすっかり由衣の訪問の事など2人の頭の中からは消え失せていた。
「さて、そしたら帰るとしますか」
そう言いながら恵は立ち上がった。時間はすでに午後4時を少し回っている。今日はバイトがある為に今から出て電車に乗れば17時には余裕で間に合うのだ。後片づけをしようとする恵を制し、コップを流し台に置く周人は由衣の分の洗い物と一緒に軽く水で流すと、荷物をまとめる恵の横で車のキーを取った。
「俺もバイトだし、一緒に行くでしょ?」
今日はバイトがある日だと知っている周人は戸締まりを確認し、クーラーを切った。恵は17時から授業があり、周人は19時からなのだ。普通に考えれば18時半に塾へと着けばいい周人だが、今から出れば16時半過ぎには着いてしまうだろう。最初からバイトに行く前に立ち寄った恵はこのまま電車で塾に向かうことにしていたのだ。
「いいよ。今からじゃ、時間早すぎるでしょう?」
「どのみち長いこと休んだから、予習しないとね。だから待ってて、勝手に行ったら怒るから!」
周人はそう笑いながら言うと隠れるようにして部屋の隅で着替え始めた。素早い動作でジーパンを履いて靴下を履く。洗面所で軽く髪を整える周人を見た恵はその横に並んで立った。
「ねぇ木戸クン、今日は私が髪型セットしてあげようか?」
その言葉に少し考えるような仕草をして自分を見つめる周人の視線に知らず知らずのうちに顔が赤くなっていく。
「う~ん、そうだな。じゃぁ、頼むかな」
そう言ってすぐ脇に置いてあった小さめの椅子に腰掛けた周人はドライヤーを恵に渡し、小さな棚の整髪料などが入った部分を指さした。
「これ、使うなら使って。滅多に使わないんだけどね」
そう言って鏡の中の自分を見た。確かにいつもただ真ん中で分けた髪を後に流しているのみでなんの整髪料も塗られていない。恵は蛇口をひねって水を出すとそれを手にさらし、その水を周人の髪に撫でるようにしてすりつけるのだった。




