素直さの価値(7)
由衣を除く最後の生徒を下ろしたのは21時40分過ぎであった。由衣の家からは随分離れているため、ここから由衣の家に着くのはおそらく22時頃になってしまうだろう。とりあえず由衣の家に向けて出発した康男は相変わらず何も話さずにただ運転のみをしていた。そして5分ほど走行した所で自分1人が残ったことを確認した由衣はそこでようやく身を乗り出すようにしながら口を開いた。
「木戸先生、本当は怪我のせいで休んだんじゃないの?」
「ん?いや、ちょっと用があったのさ・・・・本当だよ」
そう答える康男の口調はいつものままだったが、由衣にはどこか違うような感じがしていた。そのせいかまたも黙り込んでしまった由衣を見た康男は小さな笑みを浮かべると後続車も対向車もない今走っている道の脇にバスを止め、彼女の座る席の廊下を挟んで隣側のシートに座った。
「もし、あの時、彼が現れなかったら、君は彼を責めただろう・・・なんでもっと早く来てくれなかったのかってね・・・そして、もしそうなっていたら・・・君はどうなっていたと思う?」
いつになく穏やかな口調でそう言う康男は、うつむいたままの由衣を見やった。
「そういうこと、きっと君は考えなかったんだろうなぁ・・・」
苦笑気味にそう言うと、康男は由衣から視線を外した。
「だが、彼は違った。常にそれを考えていたんだ。だから、あの時『君が遅れているんだな』って考えずに、『もし君の身に何か起こっていたら?』と考えて公園の中を探したんだ・・・」
由衣は顔を上げてそう話す康男を見た。やはり不機嫌そうな顔をしてはいるものの、落ち着いた目で冷静に話を聞いている由衣を横目に見やった康男は話を続けた。
「実際、君が襲われていた場所は人が気付きにくい暗い所だった。あの公園はそういった場所が多いからね・・・にもかかわらず、彼は君を見つけだした」
由衣の頭の中であの時の光景が鮮明に蘇る。だが今思い出されるのは腕から流れる赤い血、怒りに満ちた周人の顔。そして襲ってきた男が胸を触る感触や迫り来る顔。だが、それでも記憶の大半は周人の事であった。笑顔を向けられた時の安心感、恐怖を和らげてくれたその笑顔だけははっきりと覚えている。
「そして君はその時は感謝したが、助かったからそれでよし、と安易に自分の中で決着を付けた。彼も君にはそれでいいと感じさせたからね」
2台ほど続けて車が走り抜けた。そのライトが照らす由衣の顔がどこか悲しげに見えた康男はシートから立ち上がると座席の肘掛けに腰を下ろし、体ごと由衣の方へと向けた。
「彼は君の中からその恐怖をぬぐい去ることだけを考えた。だって、襲われて怯えていた君を見たのは、彼だけ。オレが見た君の怯えとは違うモノを見ているんだ・・・実際彼は言ってたよ、『守りたかった』そして『怯えを拭い去ってやりたかった』とね」
その言葉にハッとなった由衣は顔を上げた。恐怖に怯え、しがみつく自分を優しく包んでくれた周人の事を思い出す。腕から血を流そうとも自分の事だけを気にかけてくれた周人の事を。
「だからこそ、許せなかったんだ。君がその恐怖を取り違え、襲われたことが自慢になるかのように振る舞った事が」
自分の言葉に対して怒声を上げる周人の姿が目に浮かんだ。確かにそうだ。言いふらされて自分が悲劇のヒロインになった気分に浸るのもいいという風に考えていた。それが恥ずかしい事であると、つらい事であると考えもしなかった事を理解した。ようやくそれに気付いた由衣の沈んだ表情を見た康男は、彼女がまだ変わることが出来る可能性を残していると確信した。まだまだその余地は残されていると実感していた。
「自分でそれを自慢げに話せば、もしかしたらそれを真似て君を襲う人間がまた現れるかもしれない、そう考えた彼はその怒りを君にぶつけた」
その言葉にハッとなって康男を振り仰いだ。あの時の会話は誰にも聞かれないようにわざわざ離れてしたはずである。それなのに何故周人が怒ったことを、その時の会話や状況、さらには内容まで知っているのかという疑問が浮かんだせいである。その疑問を由衣の表情から読みとった康男は思わず苦笑してしまった。
「いや、ゴメン。実はあの時の会話を最後の方だけ聞いてしまったんだ。君らがいないから探しに行ったら偶然ね・・・決して彼がしゃべったという事はないから」
康男は最後にそう付け加えると、そそくさと運転席の方に向かった。シートに座り、エンジンをかける。エアコンだけはつけておいたのでそう暑くはない。それからは終始無言のまま康男は由衣の家に向かってバスを走らせた。あまり遅くなってしまってはまずいからだ。すでに時間は21時50分になっている。空いている道だが暗いため、慎重に走らせる康男の背後で由衣は相変わらず黙ったままだった。何の反論もしてこなかった由衣を少し見直した康男だが、この間の事もあってこれがいつまで続くのかという不信感も募らせていた。ほとぼりが冷めた時にどう考えどう動くかは全く分からない。それは今の由衣自身にも分からないことなのだ。そして由衣の自宅近くに着いたときは22時1分であった。持ち物を確認し、忘れ物がないかを見た由衣が扉の方に向かったその時、今まで黙り込んでいた由衣がおもむろに康男を見た。そしてその後で切り出した頼みを、康男は笑顔で聞いてあげるのだった。
その日は午前中は雨だったのだが、一転して昼からは快晴となって一気に暑さが増していた。アスファルトに残る雨の跡ももうすっかり無くなってしまったほどである。気温は今日も30度を軽く超えているだろう。すでに時間は午後2時、日中で一番暑い時間帯である。家でじっとしていても仕方がない周人は近くのレンタルビデオで話題の洋画を2本借りた後、マンションのすぐ近くのコンビニでペットボトルのジュースを2本買い、帰路についていた。そんな周人は自宅マンション前で小さなメモとおぼしき紙切れを手にしながらうろつく由衣の姿を見つけた。赤いポロシャツにジーンズを履いた由衣は胸元まである髪を首の後で束ねていた。ただでさえ美少女な由衣は周囲の若い男たちから視線を受けていたが、本人は全く気付いていないのか、紙と周囲の建物とを何度も見比べている。そんな由衣にすぐに気付いた周人だったが、声をかけないのも変だと思い、一旦間を置いてからツカツカと由衣に近づいていった。前からやってきた周人を見つけた由衣は一瞬安堵の表情を浮かべたが、すぐにちょっとすねたような、照れたような表情になって横を向いてしまった。
「こんな所でどうした?誰の家探してんだ?」
コンビニ袋の中に入れたペットボトルのジュースとレンタルビデオの包みを左手にさげた周人はこの暑さにあってもやはり薄緑色の長袖Tシャツを着ていた。おそらくは腕の怪我を隠すためだろう。膝までの短パンにサンダルといったラフなスタイルはいつも見ている周人とは違う印象を与えたのだが、何より一番違うのはその髪型であった。目にかかるほどの前髪を全て前に垂らし、やや左に流しているのだ。いつもはセンターで分けた髪を左右に自然な感じで流しているのだが、今日はそれがない。そのせいかどこかワイルドな感じになった周人はその服装と相まってかなり大人びて見えた。
「先生の家を探してた・・・・」
素っ気なくそう言い、チラッと周人を見た後すぐに目を逸らす。何故かちょっとドキドキしてしまった自分を沈めるためでもあるその仕草にいつもの由衣を見た周人は苦笑した。
「そっか。オレん家か・・・・・ん~、その地図からして・・・書いたのは塾長だな?」
由衣が手にしている紙を覗き込むようにして見やれば、その簡略的すぎる地図に見覚えがあるために周人はアゴに手を置いてため息混じりにそう言った。どういう理由で来たかはおおよそながら推測できるが、これ自体が康男の差し金であると思った周人は前髪を掻き上げて額の汗を拭った。
「とりあえず暑いから、おいで」
そう促し、マンションの入り口へと向かう周人の後ろからとぼとぼ由衣もついてきた。7階建てのこのマンションはまだ出来てから5年ほどしか経っていないので外見も綺麗だった。やや広めのエレベーターに乗り込むと、最上階である『7』を押した周人は由衣が入ったのを確認してから扉を閉めるようにボタンを押した。ゆっくりと閉じていくドアを見ることしかできない由衣はここまで来ておきながら来たことを若干後悔している自分に気付いて気を引き締めた。
「ここ、すぐにわかったのか?」
相変わらず右腕は下げた状態のまま周人はそう由衣に問いかけた。由衣はその右腕を見ながら何も言わずにただ頷くだけだ。その動きを見てそうか、とだけ答えた周人は7階に到着したエレベーターから先に由衣を下ろすと続いて自分も下り、由衣を追い越して左側の突き当たりにある部屋へと向かった。表札には『711』とだけ記されており、『木戸』という名前は掲げられていなかった。ポケットからキーケースを取り出し、左手で器用に扉の鍵を弾くようにしてより分ける。おそらくバイクや車のキーも同じキーケース内にあるのだろう。いくつも鍵が入っているのが見えた。鍵を差してドアを開き、先に中へと由衣を招く。少し戸惑いながらも由衣は玄関に入っていった。
「おじゃま、します」
小さな声でそういうと靴を脱ぎ、脇に置いてあったスリッパ立てから1つ選んでそれを履いた。周人は裸足のままで細いフローリングの廊下を先に進んでいった。短い廊下の突き当たりは1つの広いスペースがあり、その手前左側にはキッチンがあった。押入れの数は少ないようで1つしか見あたらない。部屋の中央には小さなテーブルと座椅子が置かれていて、窓からは日差しが差し込んで電気が無くとも明るかった。周人はテーブルの上にあるリモコンを操作してその窓の真上に取り付けられているエアコンを作動させた。徐々に冷たい風が流れ出し、部屋の暑さを押し流そうとしている。部屋は水色のカーテンを除いてベージュで統一されていた。例外的に本やらDVDやらを置いた棚は白である。テレビボードはシルバーでその上に鎮座されているそこそこ大きめのテレビの色と合わせてあるようだった。部屋の隅に置かれたそのテレビと棚の反対側には簡単な机と椅子があり、そこはパソコンが設置されていた。机の横には通学用の物らしき鞄が無造作に置いてあるのみで質素だが男の1人暮らしにしては意外と綺麗に整理されていた。
「その辺に適当に座っといて、今ジュース入れるから」
キッチンからそう言いながらもすでにコップに氷を入れる音がしている。部屋を見回しながらもテーブルを挟んで座椅子とは反対側に座った由衣は買ってきたケーキの入った箱をテーブルの上に置いた。
「これ、ケーキ、買ってきたから・・・」
緊張からか、途切れ途切れに言うその言葉にジュースを運んできた周人は目を丸くした。
「そんな、わざわざよかったのに・・・小遣い使わせちまったな」
言いながらテーブルにコップを置いていく。そのオレンジジュースの入ったコップを置く手は怪我をした右手だった。それを見ながら、だがあえて何も言わずにケーキの入った箱を開けた。白い箱の中にはフルーツが盛りだくさんのケーキが2つちょこんと並んでいる。由衣はそこからケーキを取り出すと周人が持ってきた皿の上に置いた。偶然にしろぴったり収まったケーキとお皿はマッチしており、味気ないテーブルの上を見事に着飾った。周人は由衣と対面になる座椅子の上に乗っていた座布団を使わせ、座椅子をどけて絨毯の上に直接座った。
「じゃぁいただきます。うまそうだなぁ・・・・・・・でもオレに用事とは・・・こりゃ意外だわ」
笑いを含めてそう言いながらジュースを飲む周人。由衣はケーキにもジュースにも手を付けずにずっとうつむき加減で座っている。
「どうした?オレに何か用事、あるんだろう?」
優しい口調でそう言うと左手で持っていたコップを置いた。クーラーが動く音だけがいやに部屋に響くほど静かになっているせいか、空気がどことなく重い。
「昨日・・・先生、休んだから・・・私のせいで怪我、悪化したみたいだから、気になった」
消え入りそうな声でそう言った由衣を、周人は優しい目をしてただ黙って聞いていた。
「それに昨日、大山先生に言われて・・・で、ちゃんと謝っておこうって・・・思ったから」
「そうか・・・でも、昨日休んだのは実家の近くに用があったからなんだ・・・どうしても外せない用がね。だから気にすることないし、オレもあの時言い過ぎたし。実際大人げなかったと思うよ」
バツが悪そうにそう言う周人は由衣から目線を逸らしてそう言った。由衣は黙ってうつむいたままだった。だが、どう考えてもあの時悪いのは由衣の方であり、周人が謝るのは間違っている。
「だってそうだろ?君は謝りにわざわざここまで来た。普通なら来ないよ・・・だから、気にするなって」
「今までの私なら、多分そうした、来なかった、開き直った。でも昨日大山先生と話して、気付いたから・・・木戸先生、私の為にいろいろしてくれたこと・・・・気遣ってくれたこと・・・」
そうして由衣は話を始めた。合宿から帰った日に、由衣を襲ったあのバンダナの男である同級生の松浦から電話があったのだ。内容は謝罪であり、もう2度とああいった事はしないというものだった。戸惑いながらも松浦を責めた由衣だったが、最後に松浦が言った一言で周人が松浦と事件以後何かあった事を悟ったというのだ。
「『あの先生にもう絶対しないから許してくれって、絶対ちゃんと伝えて欲しい』って。で、問いつめたら合宿行ってる日に、先生といろいろあったって・・・・」
それを聞いた周人はため息をついてテーブルに肘を付いた。余計なことを言ってくれたと言わんばかりのその仕草から、やはり本当の事だったのだと由衣は悟った。
「だから調子に乗ったの・・・もう大丈夫だぁって・・・もう心配ないって・・・」
「そうか・・・でも、実際はお礼参りにやってきたあいつらが連れて来た人物がオレの知り合いでさ、結局何もしないまま丸く収まったんだ・・・だから実際、オレは何もしちゃいないんだぜ」
周人はそう言って頭を掻いた。
「先生、私の為にいろいろ考えてくれてたのに、なのに私・・・襲われた事が自慢になるような気がして・・・自分の価値が上がった様な気がして・・・何も考えなかった・・・・」
そう言って由衣は突然泣き出した。何度も何度もしゃくりあげ、肩を震わせて泣く由衣はとうとう両手で顔を覆って声を出して泣きだした。それを見た周人は困り果て、戸惑いつつも洗濯したてのハンカチをそっと手渡した。顔を覆っている指の隙間からそのハンカチを見た由衣は素直にそれを受け取り、顔に当ててむせび泣く。そんな由衣を見やる周人は明らかに困った顔をしていた。だが、その反面、嬉しくもあった。昨日の康男とのやりとりで彼女が何を思ったかはわからない。自分の意志でここに来たかも定かではない。しかし、今、自分の言動を反省して泣いている由衣の涙は間違いなく本物なのだ。康男が言っていた本当の由衣を、素直な部分を見た気がした周人は泣き止やまずに泣き続ける由衣の横に座るとポンと左手をその頭に乗せた。ビクッと体を硬直させながらも涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた由衣は、優しい表情をして自分を見つめている周人の胸に顔を埋めてさらに激しく泣きじゃくるのだった。
「1年ほど前に当時好きな人を含めた何人かで遊びに行った時に、冗談でいろいろおねだりしてみたら買ってくれたりしたんです。で、味しめて他の人にもそれをやったら、同じようにしてくれて・・・それから、なんかそういうのが自分のステータスみたいに感じて・・・欲しい物は勝手に手に入るし・・・」
20分ほど泣いてようやく落ち着いた由衣は時折しゃくり上げるようにしながらそう自分の過去を語り始めた。泣いたことによって全てを吐き出し、すっきりしたのか、由衣の口調は落ち着いていた。
「で、今回のこの事件ってゆうか、アレで、ちょっと反省したんだけどぉ・・・・」
鼻をすすりながらそう言う由衣を見やる周人の表情もまた穏やかだった。お皿の上にあったケーキはすでになくなっていた。つぎ足したジュースもすでに半分になっている。泣き止んだ由衣をうながしてケーキを食べさせ、落ち着かせたのだった。
「反省、出来てるよ。心配ないさ。本当の君はすごく優しくて素直な子なんだ。そうだろう?これからそういう君を復活させていけばいいんじゃないか?」
周人は実に優しい口調でそう言うと優しい笑顔を見せた。その顔を見て由衣は照れたような、はにかんだ笑みを浮かべて見せた。さっき見せた涙のせいか目と顔が若干赤くなっているが、由衣本来の可愛らしさがそこに見て取れる笑みだった。
「塾長が言ってたよ、君は本当は素直なんだって。今日、オレもそう思った」
「・・・・大山先生、なんて言ってた?」
上目遣いにそっとそう言う由衣は年相応のかわいらしさを覗かせて思わず周人をドキッとさせた。
「今のあの子は自分の可愛さに気付いてそれを武器にしている今時の勘違い娘だ・・・ってな感じ。でも少し前までは優しくて素直な子だったって」
「何の話でそういう事に?」
「ん?んー、まぁ、この際だから正直に白状すると・・・・助っ人で西に行ってるのが、その~、ツライって言うか・・・君らの攻撃に耐えられなくて相談したら・・・・・そう言われて・・・」
今度は周人が困った顔をして上目遣いに由衣を見ながらそう語った。バツが悪そうな周人の表情を見る由衣は最初こそきょとんとしていたが、徐々にいたずらな笑みを浮かべてみせた。
「そっかぁ・・・結構効果的だったのかぁ~」
「そ、もう一歩でオレはさよーなら、で、新城さんおかえりーってな具合だったのさ」
「あぁ~ん!惜しいことしたなぁ」
そう言い合って2人は笑いあった。それは2人が出会ってからこれが初めてのことであり、心のわだかまりが全て打ち解けた瞬間でもあった。心地良い空気が部屋を満たしていく。午後の日差しが緩やかに流れる中、冷たい空気と合わさったのか不思議な感覚となって部屋を漂っている気がした。
「先生、助けてくれて、そしていろいろケアしてくれてありがとう」
由衣はちゃんと正座をしてそう言うと深々と頭を下げた。ようやく言えた素直な言葉に、由衣自身が満足した。どこか芝居がかったその仕草だったが、嫌な気持ちにはならない、むしろ嬉しく感じられた周人は自然な笑顔を浮かべる。
「これからはもう少し素直になります。・・・・・でもぉ、新城先生が好きなのは変わらないからね!」
「へいへい、重々承知しております」
周人もまた大げさに頭を下げる。そう言って笑いあう2人は実にいい雰囲気でいることに気がついていなかった。今まで忌み嫌い、嫌われていた関係はもうそこにはなかった。これこそ本来の由衣の姿であると実感できたが、果たしてこれがこのまま持続されるかどうかはわからない。だが周人はそれはそれでいいと思っていた。一時的かもしれないが、今の自分が本当の自分だと認識している由衣ならば徐々に変わっていけると信じていた。
「先生、意外といいヤツだったんだ?」
「そう、意外とな」
由衣は今初めて真剣にそう思っていた。確かに新城と比べて見劣りしていた周人だが、今は違う。由衣の心はなぜか揺れ動いた。それが何故なのか、何に対してかはわからない。だが、周人を知れば知るほど、その心は惹きつけられるように揺れるのだ。
「先生ってさ、彼女いないの?」
深い意味はなく、ただ単純にそう質問を投げた由衣は、聞いてからしまったと思ってしまった。もしかしたら今の一言で自分に気があると思われてしまったかもしれないとわけもわからず勘ぐってしまったのだ。だが周人はあっさり、いない、と否定するとリモコンを操作して低く設定してあったクーラーの温度を調節した。由衣は左頬の傷が何故か気になった。理由はない、ただ、なんとなしに。
「いたら君を家には上げていないよ、いくらバイト先の生徒でもね・・・変な誤解をされたくないしさ。しっかし、君は大胆だなぁ・・・オレに襲われるかもしれないって危機感はないわけ?」
笑いながらそう言う周人をマジマジと見た由衣はそう言われるまでそのことに気付いていなかった。たしかに言われるままに1人暮らしの男の部屋に無防備に上がり込んでいる。これでは襲われても仕方がない、確かにそう思った。だが、周人に対しては全くそういった気持ちは持っていないのだ。そういうところを助けてもらったせいもあるが、周人がそういうことを絶対にしないという意識があり、無意識のうちに安全だと思いこんでいるのだ。逆に新城の家ならば自分からそういう期待をしたかもしれないし、意識したかもしれないだろう。
「先生って・・・なんか安全な気がするなぁ」
「それって男としてはすごく悲しく、先生としては嬉しいっつー、なんか複雑な気分だな」
そう言って周人は笑った。由衣はそんな周人の持つ雰囲気が自分に危機感を起こさせないのだと気付いたが、それ以上何も言わなかった。あらためて見た周人はいつもと違う服装と髪型のせいか、かっこよく見えた。助けてくれた時の動きとも重なって、今は余計にそう思える。知らず知らずのうちに見つめてしまっていることに気付かない由衣を、周人もまた見つめた。2人の間に沈黙が流れ、妙な雰囲気が漂い始めた頃、機械的で独特なインターホンが来客を告げる音を流した。
「ん~誰だ?ちょっと待ってて」
周人はそういうと立ち上がり、やや早足で玄関に向かった。何故か顔を火照らせ、赤くなった由衣はジュースを飲んで心を落ち着かせた。周人もまた助かったような気持ちになっているのだった。妙な雰囲気を感じていたのはお互い様だったのだ。
「何か、自分で勘違いしてる?」
由衣はそう自分に言い聞かせるようにつぶやき、小さくなった氷を頬張ってゴリゴリと噛み砕いた。一方、ドアの覗き穴からドアの向こう側に立っている人物を確認した周人は戸惑いの表情を浮かべていた。頭のてっぺんをドアにくっつけるようにしてうつむく周人は明らかに困った顔をしてつぶやいた。
「こりゃぁ・・・まるで二股かけてる男の気分だ・・・・」
大きなため息をついてから気を取り直してドアを開く。一瞬居留守を使おうかとも思ったが、それこそ変な誤解を招いてしまうとの考えからドアを開いたのだ。真昼の太陽の光が溢れるそのドアの向こう側に立っているのはベージュのワンピースを着た恵だった。どことなく緊張した面もちでたたずむ恵を見つめる周人もまた、緊張した表情でぎこちない笑みを浮かべてみせるのが精一杯だった。




