あなただけを・・・(18)
盆休みの前日に席替えをしておいたおかげもあって、元通りの席についた周人は同僚たちからの温かい出迎えを受けながら簡単に異動の挨拶をした。理紗もそれに続くと、周人の時にはない独身男性たちの熱い視線と声援を受けて困った笑顔を浮かべてみせるのだった。元々顔立ちも整っているといえる理紗はそれなりに男性からの人気は高い。特に今日は髪も短くし、やや濃いめだった化粧もナチュラルメイクに変更されているせいか男性たちは常ににこやかであり、周人をそっちのけで歓迎ムードがありありだった。そんな元同僚たちに閉口しながらも仕事を開始した周人はまずメールを立ち上げて片方の眉を上げた。未読のメッセージが十数件ある中に島原からのメールを発見したのだ。今日から関西支社に戻った島原だったが、送別会の2次会途中で帰ったせいか、気を利かせてメールでの挨拶を送ってきていたのだ。まずそのメールを開いた周人は食い入るようにそれを見つめ、目の前の席に座る理紗はそんな周人を見て怪訝な顔をしてみせた。そこには別れの挨拶が短く書かれているのみだったのだが、何やらファイルが添付されている。それに対してのさっきの表情であったのだが、とりあえずそのファイル開いてみた。それは文章となっており、その文を書いた人物の名前を見て周人は大きく目を見開いて驚きの表情を浮かべて見せた。その宛名は島原の婚約者で元キング四天王の1人だった男の彼女、横浜で出会った綾瀬桜であった。
『お久しぶりね、魔獣さん。彼に代わってお礼を言わせていただくと同時にちょっとした情報を仕入れたからお知らせしておくわ。この間話した黒金一はゼロに倒されたそうよ・・・これで都心部はゼロによって統一されるわ。ゼロはあなたに似た技を使うとの噂も聞いている。彼には凄腕の外人が付いているそうだし、いよいよ動き出すでしょうね。そうなればあなたにも何かしらのコンタクトを取るかもしれないわ。お気をつけて。そして、彼がお世話になりました、ありがとう』
必要最低限の情報しか記載されていなかったが、その中には貴重な情報が盛り込まれており、周人は小さく笑うとそのファイルを閉じた。そして肘をついてその手にアゴを乗せると右側にある窓の方へと顔を向けてからやや厳しい顔つきになるのだった。
「百零・・・だから、『ゼロ』ってか?」
鳳命からその名を聞いた時から百零が『ゼロ』ではないかとの予感がしていた。そしてそれが正しかったと思えるのは桜がよこした今の文章の中にあった言葉、『あなたに似た技を使う』というものからだった。桜がどこでこの情報を仕入れたかはわからないが、こうして連絡をくれるということはかなり信憑性があると考えていいだろう。
「どうやら、じいちゃんの思惑通りになるかもしれないなぁ・・・」
そうつぶやくように言ってからパソコン画面へと顔を向けた周人は気を取り直しつつ残った未読のメッセージを順番に開いていくのだった。
お盆休みが明けてからずっと妙な違和感を抱いていた由衣はその違和感の原因が恵と光二にあることにようやく気付いたのは8月も終わろうとしている時期になってからだった。まだまだ暑い日が続く8月だが、職員室内はクーラーが良く利いていて過ごしやすい。相変わらず家にいても暇な由衣はしょっちゅう塾に来ては恵を気遣ってあれこれ雑用をこなしていたのだが、何もすることがなくただぼーっとクーラーに当たっているのみの状態の際にその原因をつきとめたのだった。その違和感とは、常に和んだ空気が流れているということだ。何を話しすることもなくただ並んで座っている2人なのだが、その空気が常に和み、雰囲気もやわらかい。そしてそれだけではなく、何か一体感ともいうべきものまで感じられるのだ。今まではどこかよそよそしい空気を恵か光二がかもしだしていたのだが、ここ最近ではそれもなかった。それどころか自分が周人と一緒にいる際に感じる空気にそれが似ているのだ。だからといって何かラブラブな雰囲気を持っているかといえばそうではない。一体感を出しているものの、ただそれだけにしか思えない状態にあったのだ。実際いちゃつくような事もそれらしい会話も一切ない。にも関わらずこの空気が何を意味するのか知りたい由衣だったが、恵はただお互い暇だから一緒に遊びに行ったりしているだけだと話すのみだった。2人がデートしている事に少なからず驚いた由衣だったが、それ以上の進展があるとは思えない。恵の理想は周人であり、確かにここ最近の光二は周人に似てきているのだが、それでも周人にはまだまだ遠いと思っていた。今も離れて座りながら見ている目の前の2人は何の会話もしていない。だが、やはりどこか同じ空気を持って仕事をしているのだ。そんな由衣の思惑とは裏腹に、2人の距離は確実に縮まっていた。最初のデート以降、ほぼ毎週といった感じで頻繁にデートを重ね、さらには共通の話題で盛り上がる。かつて周人に恋していた頃、周人のそのさりげない優しさを感じてきた恵は今、同じようにその優しさを光二の中に見つけていた。確かに自分の理想は周人である。だが、恵が惹かれたのはその底なしの優しさであり、一緒の時間を共有すればするほどその優しさが同じに思えてならないのだ。何より、純一郎の起こした事件の際に傷ついた自分を見て怒り、何度倒されようとも立ち上がった光二に胸をときめかせていたのだ。周人が強いと聞かされていながらも目の前で実際その強さを見たことがない恵にしてみれば懸命に戦った光二も十分強く感じられた。最初のうちこそ光二に周人を重ねていたのだが、ここ最近はそれもない。純粋に彼に惹かれ始めている事を自覚する恵はその自分の気持ちを素直に受け止め、そして大事に温めているのだ。そして光二もまた、いつもは厳しい恵が見せる素直な優しさを感じ取っていた。いまだに恵の思考が読めない状態にあったのだが、最近は心を読まずとも恵が何を考え、何を欲しているかが理解できていた。何より心が読めない事が光二に新鮮さを与え、より恵を知ろうと自分から努力しているせいもあった。それに美人の恵を連れて歩く時の周囲の目も、どこか自分の株を上げてくれているようにも感じる。だからこそ、そんな恵に似合う男になろうと努力している甲斐もあってか、ここ最近の光二はよりたくましく、そして男らしく成長していた。そして、そんな光二とは対照的に、ここ最近はすっかり株を下げつつある人物が元気なく職員室のドアを開いてやって来た。
「こんちは・・・・・」
自慢の前髪同様テンションも下がりきった声でそう言いながらスリッパに履き替えると、大きなため息をつきながら自分の席へと向かう忍はゆっくりと椅子に腰掛けるとガックリと首を落として暗い表情をしてみせた。
「挨拶ぐらい元気良くしなさいよ・・・」
あきれた口調でそう言う恵をチラッと見るその目には何の光も宿っていない。そんな忍をチラッと見ながら心の中で小さく笑う光二はすぐにその笑みをかき消しながらパソコン画面へと視線を戻した。
『効果覿面!さっすが木戸さんのアドバイスは凄いや!』
全く表情を変える事無く心の中でそうつぶやく光二はここまで忍を追いつめる事に成功した周人のアドバイスを素晴らしいと思いながらますます周人を尊敬してしまった。男としてその全てを尊敬している光二は忍が塾生に手を出していることを周人に相談しに会社まで行き、そこで受けたアドバイスを実行したところ、忍から女子生徒たちが去っていき始めたのだ。忍を超えるプレイボーイである哲生がかつてこの手で女性の信用をなくしたという実績は伊達ではない。もはや仕事も手に付かない様子の忍が今にも死にそうな顔をしながらどうにか手を動かし始めた矢先、職員室のドアが勢いよく開き、そのすぐそばにいた由衣は身を固まらせるようにしながら明らかに驚いた目を見開いてそちらを見やった。驚いたのは由衣だけではなくそこにいた全員であり、皆の視線を一身に受けながら仁王立ちするその人物は靴を乱雑に脱ぎ散らかすとスリッパも履かずにズカズカと大股で身を隠すようにしている忍の方へと歩み寄っていった。怯えるように身を小さくする忍を見下ろすその人物は鬼の形相をして腕組みしていた手をほどくと勢いよく豪快な音を立てて机の上に手を叩きつけた。
「ちょっと!どういうこと!」
「あ、いや・・・・待ってくれよ、のり・・・江川さん・・・」
普段は名前で呼び合っている仲を悟られたくなかったのか、とっさにそう言った忍だったがそれすらも今の紀子の怒りに火を注ぐようなものだ。当然現れた紀子に面食らう恵と由衣だったが、光二だけは平然としながら事の成り行きを見守るようにしていた。今日は紀子たち中学三年生の授業はない。それだけに何故ここに現れて忍に怒りをぶちまけるのかを知らない2人をよそに、紀子は周囲の事など構わずに再度腕組みするとその怒りを全身から発しながら怯えた目を向ける忍を睨み付けている。
「和美や啓子とも付き合ってるんだってね?」
「いや、違うよ・・・あれはただデートしただけで・・・」
「へぇ、そうなんだ?じゃぁ『ただデートしただけ』で、彼女たちはバージンじゃなくなっちゃうんだ?」
怒りにまかせてそう言いきった紀子の言葉に驚いたのは恵と由衣である。驚く恵の隣で実に冷静な目を向けている光二の横顔を見た恵はどうやら光二がこの事を知っていたと悟り、渋い顔をしながらもそのまま事の成り行きを見届けることにして二人のやりとりに耳をそばだてた。
「ちょっと・・・・待ってくれよ・・・」
「私だけを愛してくれていたはずよね?」
「いや、まぁ、そうだけど・・・」
恵や由衣の視線が気になる忍は紀子と恵とを交互に見ながらしどろもどろにそう返事を返すのがやっとだった。
「よくもまぁ・・・・じゃぁ高校生や大学生の方々とはどういった関係?」
「あれは・・・・友達だよ・・・」
「ふぅ~ん・・・友達とラブホテルに行ったりするんだぁ?」
「行ってないって!」
「・・・もういいよ、証拠もあるしね」
ため息混じりにそう言うと、紀子は持っていた手提げ鞄から数枚の写真を取り出して机の上にばらまいた。それを見た忍は顔を凍り付かせ、立ち上がってそれが何かを確認するようにする恵もまた小さく声を上げてしまった。そこに写っていたのは携帯電話やスマホで撮ったと思われる忍と女性とのツーショット写真だった。しかも普通の写真ではない。同じベッドに入り、裸体にシーツを巻き付けた女性の横にいる忍は上半身裸であった。もはや揺るぎようのない事実を告げるこの写真をどうやって手に入れたかすら予想できない忍はただパクパクと口を動かす事しかできなかった。
「いろんな噂聞いたよ。このうちの誰かからかも電話かかってきたしね・・・2股3股どころか・・・サイテー!」
そう罵る紀子にもはや限界を感じたのか、おもむろに立ち上がった忍は写真をかき集めるとそれを握りつぶした。
「フン、勝手にしろよ・・・オレぐらいの男になるとな、いくらでも女は寄ってくるんだよ!」
「開き直るわけ?私をさんざんもてあそんでおいて・・・態度ワルすぎ!」
「オレは知らないからな・・・お前が勝手に告白してきたんだ!」
「そんな・・・だからって私だけを愛してるって言ったじゃない!」
「知るか・・・」
完全に開き直った忍に対し、怒りの感情が変化してしまった紀子はポロポロと流れ落ちる涙を拭うことなく忍を睨み付けたまま泣き始めた。どんな写真を見せられようとも、誰に何を言われようとも自分だけを愛していると、ちゃんと弁明した上でそう言ってくれればそこで許したのだ。紀子はついさっきまで怒りの中にも愛情を込めていたのだが、それすら裏切られてしまったせいかその感情が爆発をして涙となって現れたのだ。その涙を見ても平然と椅子に座り、足を組んでそっぽを向く感じで紀子に背を向けている忍に対して怒りを覚えたのは恵だった。大人数と同時に交際していた事も男として許されない行為だと思いつつ、それどころか教え子たちと、それも中学生と肉体関係を結んでいたという事実を教育者の端くれとして許すことが出来ないのだ。それは明らかに犯罪であり、いくら愛があろうが無かろうがそれは全く関係ないのだ。怒りにまかせて立ち上がった恵が忍の方へ詰め寄ろうとした矢先、恵よりも先に紀子を押しのけて忍の前に立ったのは由衣であった。怒りを顔で表しながら全身も殺気立たせている由衣の背中を見やる紀子はただ言葉もなく涙を流しながらジッとしているのみだ。
「謝りなさいよ・・・江川さんに」
「あ?」
「謝れっつってんだよ!」
完全にキレた由衣は最初に紀子がしたようにバンと大きな音をさせながら机の上に手の平を叩きつけた。その音に紀子は体をビクつかせ、恵も目をぱちくりさせた。だが当の本人である忍は挑発した目を由衣に向けるだけであり、口元にはうすら笑いすら浮かんでいる。
「1回ヤらせてくれたら謝ってやるよ」
「お前、何様だよ!」
今の忍の言葉に完全にキレた由衣は信じられないことにスリッパを履いた足で座っている忍の顔面めがけて蹴りを放った。そのあまりの勢いと衝撃に忍は椅子から転げ落ち、紀子は涙もどこへやら身を固めてしまった。向かい側で見ていた恵も目を見開いて驚きを表現し、光二はゆっくりと立ち上がると紀子のいる方へと向かった。
「この、女ぁ!ぶっ殺すぞ!」
蹴られた右の頬をさすりながら殺気めいた目つきをして立ち上がると、由衣の胸ぐらを掴み上げた。だが、そうされても忍を睨み続ける由衣は全く動じる事無くそのままの状態を保っていた。
「ムカつくのもわかるけど、女性に手を挙げるのはどうかと思うよ」
由衣を掴んでいる忍の手首をそっと掴む光二は自分を睨むようにした忍の一瞬の隙をついてその腕を手首を軸にひねり上げた。
「無駄だよ・・・オレも空手の有段・・・・・・・・」
そこまで余裕の表情で言いかけた忍の顔が突然苦痛に歪む。手首を曲げるようにして軽く掴んでいる光二はそんな忍を見下ろしながらその手を下げるようにしてみせた。その瞬間悲鳴にも近い声を上げた忍は床にひれ伏すような格好を取ってみせる。いや、正確には取らされているのだ。
「合気の力だよ・・・これぐらいは今の僕でもできるんだ」
「な・・・・・ナメん・・・・な!」
悪態を付くものの、脂汗を流す忍は全く動けないでいた。高校時代にはその道で有名となり、空手の有段者で実力も評価された自分がたかだか手首を折り曲げられて軽くひねるように押さえられただけで身動きが取れないわけがない。だが、反発しようと力を込めれば苦痛が増し、体から力が抜けていく。
「有段者だろうがなんだろうが、ここまで完璧に極められたら逃げられないって・・・でも、少なくとも逃げられる人を2人知っているけどね」
そう言うと真後ろに立つ由衣を振り返ってにっこり微笑む光二は腕を極めたまま紀子の方へと視線を走らせた。
「このまま手首をへし折る事も可能だ。後は君の判断に任せるけど・・・どうする?」
折ると言われて顔を青ざめさせた忍はすがるような目を紀子に向けた。掴まれていた胸元を直す由衣の後ろで苦しげな表情を浮かべた紀子は小さなため息をつくと手を離すように告げた。紀子の言葉を受けて素直に手を離した光二を睨み付けながら極められていた右手をブラブラさせて立ち上がった忍はキッと由衣を見てから紀子へと顔を向けた。
「助かったよ・・・さすが紀子だ」
由衣に見せた表情とは違ってヘラヘラ笑う忍に怒りが収まらない由衣を制した光二は、由衣と紀子の位置を逆転させて後ろに下がると事の成り行きを見届けるように壁際に立った。
「いつか、誰かに刺されちゃえ!」
そう言うときびすを返す紀子はチラッと光二と由衣を見てから恵の方へと向いた。
「先生、こいつがいる限りもう塾には来ないから」
「心配ないわ・・・即クビにするから」
恵の言葉を聞いても表情を変えない紀子はそのままフンと鼻を鳴らすと来たとき同様大股で玄関へと向かうとそそくさと靴を履き、これまた大きな音をさせてドアを閉じると砂利を踏みしめる足音を残して去っていった。
「由衣、自宅に塾長がいるから呼んで・・・三宅君はこのバカの代わりに今日の授業を頼むわ」
言われた2人は即座に行動を開始した。忍は開き直ったスタイルで椅子に座るとまるでチンピラのような顔つきでそっぽを向いている。そんな忍をため息混じりに見ながら腕組みする恵は純一郎の起こした事件のダメージも拭えないまま発覚した新たな不祥事に頭を痛めるのだった。
貴史が運転するバスが角を曲がって大通りへと出ていくのを見ながら光二は階段に腰を下ろし、由衣はそんな光二に背を向ける形で手すりにもたれるようにしてみせた。ついさっき中学一年生と二年生の授業を終えた二人は同時にため息をつくと蒸し暑い熱帯夜の空気を肌で感じながらもその場でうなだれるようにするしかなかった。職員室の中ではまだ恵と康男が忍の尋問を行っている。そのせいまだで中に入れない二人は冷たいジュースを買うためのお金も取りに行けずにここでこうしているしかないのだった。
「恵さんがバイトの頃・・・私が生徒だった頃にも、こういう、先生が起こした事件があったの」
「・・・・大木ってヤツ?」
「あ、そっか・・・去年の・・・」
そう言った由衣は去年の秋の事を思い出していた。光二が自分の意志ではなく由衣の思考を読んでしまった際にそれを気味悪がった由衣から感じ取ったのが大木の事だった。トイレにカメラを仕掛けて盗撮をしようとし、そのカメラを見つけた由衣をレイプしようとした大木は塾の講師であり、そして『変異種』でもあった。幸いにも運良くやってきた周人によって倒され、極秘裏に警察に連行された大木の事件を知る者は少ない。
「佐藤の事件に、今回の事・・・・知れ渡ったら、塾、やばいかなぁ・・・」
悲しげな口調でそう言う由衣はこのまま塾が閉鎖になるのではないかという不安を抱いていた。たかだかアルバイトだが、恵や康男をよく知っている上にこの塾の居心地の良さ、思い出の多さを知る由衣にしてみればこんなことで塾がなくなるのは嫌なのだ。
「心配ないですよ・・・今回の事は木戸さんの案によるものですし」
いきなり周人の名を出された由衣は驚きの反応すら遅れて光二を見やった。階段の2段目に腰掛けている光二は由衣より低い位置に座ってるせいか、見下ろさせる格好となっている。
「実は、彼らの事をたまたま知って、木戸さんに相談したら今回のアドバイスをもらったんですよ」
そう言って微笑む光二は由衣に説明を始めた。かつて十股をかけていた哲生の悪事をなんとかしたいと泣いて相談してきたミカに周人が取った行動は、その十人の女性たちに噂話を直接話して聞かせる事だった。哲生が誰と付き合っているかをほのめかせば、自動的に彼女たちは哲生に詰め寄っていく。それもほぼ同時に行えばより効果的だ。その当時は相手の女性が同じ高校か近隣の高校の生徒だったせいもあって圭子や中学時代の同級生を使って噂を本人たちの耳に入れ、十人に詰め寄られた哲生はそれら全てにフラれる結果となったのだ。今回、忍の思考から彼女たちの情報を引き出した光二は匿名電話を使って噂を広め、生徒たちには紀子ではない他の生徒にそれらしいことをほのめかしたのだ。その子が噂の子とコンタクトを取り、やがては紀子の耳にそれが入って今日の事に発展したのだ。写真も紀子自身が噂を聞いた女子校生や女子大生と直接会った際に手に入れた物だったのだ。今日来た時から忍がブルーだったその理由は、ここ最近片っ端からフラれ出した事が原因だったわけだ。もちろん女性たちもプライドがあるために、そう言いふらすこともなく、生徒にしてみてもそれは親に話せる事でもない。それ故に一応女子生徒も内密に事を終わらせる事を望んでいたからだ。その辺のケアも心が読める光二がすることによってなんとかなると説明された由衣はもはや渋い顔をするしかなかった。
「もう!三宅君も周人も私をのけ者にしてっ!」
怒りで頬を膨らませる由衣はそっぽを向いて光二を苦笑させたが、とりあえず安心できる為にその心は怒ってはいなかった。
「すみません・・・これだけは僕の力でどうにかしたかったもので」
すまなさそうにそう謝る光二をチラッと横目で見た由衣の頭の中である案がひらめく。
「どうしよっかなぁ・・・・許してあげようかなぁ・・・」
「お願いします」
わざとらしくそう言う由衣に頭を上げる光二を見た由衣はニタリと笑うと、わざとらしい咳払いを一つしてから手すり越しに光二を正面にとらえた。
「許すかわりに・・・・・・恵さんの事どう思ってるか教えて!」
その言葉をまったく予想だにしていなかった光二はハトが豆鉄砲を喰らったような顔をしてみせるのが精一杯だった。あわてて能力を使って心を読むが、そこは表情同様好奇心でいっぱいだった。もはやどうすることもできずに深々とため息をつく光二は観念したように頭を掻くとため息混じりに言葉を発した。
「どうって・・・とりあえず今は気になる存在ってトコで・・・・・」
「ふぅ~ん」
「・・・・・その『ふぅ~ん』って、どういう意味です?」
「そうなんだぁって感じ」
「・・・そうですか」
もっと鋭く突っ込んでくるかと思っていただけに、由衣のその返事に拍子抜けしまった光二は苦笑いを浮かべるしかない。思考からも、そう特別に何も感じられなかった光二は力をうち消した。
「でも、カッコ良かったですよ、吾妻さん」
「え?」
光二の言葉に今度は由衣が面食らった。
「横山にタンカ切って、蹴り喰らわせた事」
そう言われた由衣はそれを思い出したのか、照れた顔をしながらガッツポーズを作って見せた。そんな由衣を見て笑顔をこぼした光二は立ち上がると手すりを持った。
「木戸さんもビックリの蹴り、でしたよ」
「でしょう?私は『キング』を倒した『魔獣』もビビる女だからね!」
そう言って笑い合う2人は蒸し暑さも忘れて砂利道の上に立った。
「恵さんと仲良くしてあげてね」
心を読まずともその言葉の意味を理解した光二は黙ってうなずくと、ジッと由衣を見つめた。ついこの間までまだ未練がどこかに残っていた自分が懐かしく感じるほどに今は由衣を見ても何もときめくものがなかった。由衣には周人がいる。絶対に敵わない、自分が尊敬できる人が彼氏だからこそ諦める事ができた由衣を好きになった事は間違いではなかったと思える。そんな事を考える光二は夏の星座が瞬く夜の空を見上げながら恵へ向けて芽生え始めた今の気持ちを大事にしようと誓うのだった。
9月になっても殺人的な暑さは変わりがなかった。そしてさくら西塾も佐藤純一郎が去り、横山忍が去ったぐらいでそう変わりはない。紀子が乗り込んできた日に即刻解雇になった忍と関係した生徒たちとは康男が個別に面談を行い、光二と2人でそのケアをすることによってこの件に関しては終焉を迎えていた。そしてあれ以来、紀子も由衣に対してつらく当たる事もなくなっていた。その事に関しては深く考えていなかった由衣だったが、自分の為に怒りをあらわにして蹴りつけてくれた由衣に対する見方を変えた紀子の精一杯の感謝の気持ちの表れだった。こうして一応の平和を取り戻したさくら西塾は中学三年生の受験へ向けた下準備が始まる中、由衣の中でもちょっとしたイベントが待ちかまえていた。直接的に関係ないのだが、周人の会社の社長、菅生要とその元秘書である美島優子との結婚披露宴に招待されていたのだ。もちろん周人も出席するのだが、平社員で、しかも若い周人が披露宴に呼ばれるなど例外中の例外であったが、かつて命を救われている菅生にしてみれば社員としてではなく恩人として、また友人として招待をしていたのだ。そしてどうせならばと、周人の彼女であり、菅生がファンでもある由衣も招待されたのだった。去年のクリスマスの事もあり、菅生とは面識もある由衣だったが着ていく服も無いために一度は断ろうと思った矢先、菅生からクリスマスに続いてまたもや豪華なドレスが送られてきたのだった。理由は昨年秋に起こったアメリカの令嬢アリス・クロスフォードの誘拐事件に巻き込んだ事によるお詫びとお礼ということであり、これまたサイズピッタリの赤いドレスは由衣によく似合うと両親も絶賛の一品だった。そんな菅生と優子の結婚式当日なった今日、由衣は母親の助けを借りてその豪華なドレスを身に纏うと、午前中に行きつけの美容院でセットしてもらった髪型を整えて鏡の前に立った。結婚式には出席しない2人が出席する披露宴は午後3時からとなっており、2時には会場に到着しておかなくてはならない。もうあと十五分もすれば周人が迎えにやって来るだろう。娘の晴れ姿を写真とビデオに残そうと撮影している父親はまるで由衣がお嫁に行くかのような心境に陥ったのか、瞳をうるうるさせていた。もはや何かの時にしか身につけなくなっていたかつて周人から送られたイルカのピアスをし、純一郎の事件のお詫びにと周人に買ってもらったチェーンタイプの時計を腕に巻いた由衣は母親のハンドバッグを借りた上に交際1周年の記念として周人が贈った小さなダイヤの指輪を左手の中指にはめこんでここに完成をみた。いらないと言ったのにわざわざ買っておいてくれたその指輪は安いものであったのだが、由衣にとっては最高のプレゼントであり、普段は身につけずに大事にしまっておいたのだ。そうこうしているうちに時間となり、インターホンが鳴らされる。モニター付きのそこに映し出されたのはキチッと正装した周人であり、最近バーゲンで買ったブランド物のスーツを着込み、髪型もいつもと違った感じに仕上げていた。そんな周人を画面越しに見てにんまり笑う母実那子にげんなりした表情をしてみせた由衣はスキップ混じりに前を行く実那子の後から玄関へと向かった。何故かそんな様子をビデオ撮影しながら後を追う父秀雄は開かれた玄関先に立っている周人の姿をビデオに納めた。フォーマル用の黒いスーツに白いネクタイを締めた周人は実那子と秀雄を見て頭を下げた。髪型もウェーブがかって後ろへと流れているせいか、普段にはない2枚目を演出している周人に実那子がうっとりとするのはいかがなものか。スマホで周人を撮影しまくる実那子を押しのけるようにしてこの日の為に買った赤いヒールを履いた由衣は最後のチェックを目で行うと周人の横に立った。薄く化粧してドレスアップした由衣にやや顔を赤らめるようにしながら笑う周人の顔を見る由衣もはにかんだ笑みを浮かべて見せた。
「なんだか2人が結婚するみたいねぇ」
実那子のその言葉にますます瞳を潤ませる秀雄はせっかくだから記念にと庭先に2人を立たせると2、3枚写真に納める。戸惑いながらもこれも記念だとにこやかに笑う周人と由衣を見やる実那子は早く結婚すればいいのにとつぶやきをもらし、それを聞いた秀雄は複雑な心境に陥ってしまうのだった。そんな両親を見て苦笑する由衣を伴って家の壁に隠れている車の方へと向かった周人は意味ありげな笑みを浮かべている。そして、その車を見た由衣の表情が驚きのものに変わるまでそう時間はかからなかった。そこにあるのは白を基調としながら薄い2色のブルーのラインが入った車体であった。タイヤのすぐ前あたりに縦に黄色いライトがあり、正面にやや吊り目がちにきらめいているのはメインとなるライトだった。後部のウイングもトランクに並行する形で1つだった物が両サイドに設置するように2つに分割され、空気抵抗を考慮されているのかドアには緩やかな凹凸がデザインされていた。明らかに周人の所有しているジェネシックとは違うその車を見た由衣はそれがかつて周人が乗っていたエスペランサES―11、通称『ダブルワン』に酷似している事に気が付いた。
「ジェネシックは?」
今日が披露宴ということもあってこの車で来たのかと思いそう質問を投げた由衣に意味ありげな笑みを見せた周人は何度も車を見ている由衣に先に助手席に乗るように告げた。すでにロックは解除されているようで、ドアはすんなりと開く。特殊なジェネシックと違い、縦ではなく一般的な車と同じで横方向に。
「では由衣さんをお借りします」
「はい、よろしくお願いします、いってらっしゃい!」
にこやかにそう言う実那子の横で相変わらずビデオ撮影している秀雄はしゃくり上げるようにして肩を震わせていた。そんな2人に再度頭を下げた周人はスーツがシワにならないよう気を付けながら車に乗り込むとスリットに金色のキーを差し込んで半回転させるとそのすぐ上にある赤いボタンを押した。その瞬間車体がエンジンの音で振動し、シートに座る2人に直接響いてくる。周人はサイドブレーキを解除するとそのすぐ真上に存在しているギアを入れてクラッチを踏み込み、ゆっくりと車を発進させた。由衣は手を振る両親に手を振り返しつつもざっと車内を見渡すようにしてみせる。やがて角を曲がって幹線道路へと続く住宅街の道を進み始めた頃、そこでようやく由衣はこの車に関する質問を投げかけた。
「これ、今日だけの特別?」
髪をアップにするように巻き上げている顔を向けてそう聞く由衣をあらためて可愛いと思いながら、周人は口元に笑みを浮かべつつ説明を開始した。
「いや、ジェネシックに替わる新しいオレの車だよ」
「じゃぁ、また試作の?」
「いや、こいつは違う・・・オレだけのオリジナルマシンだ」
幹線道路へと出る交差点で赤信号の為に車を停止させた周人の横ではジェネシックにあった複雑な機器がなく、普通の車に近い内装を見やる由衣の姿があった。2人ともドレスアップしているせいか、目の前の横断歩道を行く人々が珍しい車と乗っている2人の身なりを見て何事かといった好奇な目で見ていく。特に今目の前を行くカップルのうち男性の方が助手席に座る由衣を見て鼻の下を伸ばしたせいか、脇腹を女性に小突かれているほどだ。
「ジェネシックは次期ル・マン用マシンのテストカーとして工場に回されてしまったんでな、その為にオレに車をくれたんだ・・・・アリスのオヤジさんがね」
その『アリス』という単語を聞いて明らかに不快感をあらわにした由衣を横目にとらえた周人は苦笑しながら交差点から幹線道路へと車を進めた。
「彼女を助けたお礼と、ま、こういっちゃなんだがボディガードの不始末を口止めする為の物だよ」
「・・・・・・そっか」
「エスペランサES―11、以前に乗ってたダブルワンを基本に設計されたオレだけのマシン・・・エスペランサ級『シューティングスターSX―11』、通称『ダブルワン』」
まず車の名称をそう説明してから、周人はその経緯について詳しく説明を始めた。未来と出会ったあの日の帰りに本社のロビーで菅生に呼び止められた際にこの話を聞いた周人は翌日に菅生に案内される形で新型ダブルワンを試乗に行ったのだ。まったく別ルートで開発されたこのマシンはアリスの父親が経営している大会社クロスフォードインダストリーからの出資を受けて菅生自らの号令の下、極秘に開発されたものだった。名目上は娘のアリスを救ってくれた周人への謝礼ということだったのだが、身内の不始末を口外しなようにという口止めの意図もあるとさりげなく言われた周人にしてみれば、それはそれでもっともだと納得していた。とにかく好意は受け取ろうと思った周人はかつて自分が所有していたマシンの面影を残すダブルワンを気に入り、その場でそれを受領する事を決めたのだ。試作機ではないために内部には複雑な機器類などは装備されていない。だが、最新型DVDカーナビや音声入力システムなどの最先端技術は盛り込まれており、セミオートマチック切り替え機能といった時代の先を行くニューマシンとして周人の手に渡ったのだった。そしてその全ての装備を終えたのがつい先日だったために今日お披露目となったのだ。
「つまりはこれを壊れるまで乗るってわけさ」
「じゃぁ返却しなくていいって事ね?」
「そう。でもそのかわり、車検だなんだは自腹だけどね・・・安くは出来るけど」
そう言う周人の横で苦笑する由衣だったが、ジェネシックよりもやや広めの車内や、複雑な機器が無いことは気に入っている。やはり試作車ともなればあれこれマスコットを付けたりしにくかった事もあって、由衣はこの車にあれこれいっぱい飾りたいという申し出を周人にし、周人もそれをOKしたのだった。やがてダブルワンは高速道路の入り口へと差し掛かる。ETCのために料金所をスルーしつつ、スムーズに加速して道路へと出ていく白い機体をまだまだ暑い残暑の日差しがまばゆく反射していた。そう混雑していない高速道路をさらに加速させながら、周人は正面やや左にある白いボタンを押した。その瞬間、後部両脇に設置されていたウイングが一瞬にして車体に溶け込むようになった。普通ではあり得ない形状に変化したそれをミラーで確認した周人はさらにギアを入れて前を行く車にペースを合わせるようにしてみせた。乗っていた由衣はその変化に全く気付かなかったのだが、クロスフォード社の特許であり、現在はまだ試作段階である形状記憶合金を使用したウイングがまるで液状の様に溶け込み、変形する様はまるでSF映画のようであった。




