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Ψ
さて、家に到着した俺は、珍しくゴキゲンに何か言ってきたババアの声を完全無視し、屋根裏部屋への階段を上がった。
この家とババアというシロモノが少々ややこしく、一言でいえば俺は遠い親戚の家で暮らさせていただいている。だいぶ前からのことだが……。
ふと俺は階段の踊り場で立ち止まった。
ん? さっき何て言った? こいつの言うことをノイズとして一律処理していたから聞き損ねちまったが、「お客さまが来てるわヨ」とか言ったのか?
俺に対して愛想のいい顔を向けたのは、俺がこの家に来た初日以来と言ってもいいんじゃねえか?
こんな親に育てられて、よく健二のやつはあんな素直な性格になったもんだな。反面教師か。
「大事な用件だそうだから、ゆっくりお話するといいわよ。お茶でも持って行きましょうか?」
それにしても、機嫌のいいことだな。
まさか、俺の「隠し通帳」を見つけたんじゃねえだろうな。
いや、見つかるわけがねえ、隠し場所どころか、存在すら知られていないはずだからな。
……お、おい。てめえのエプロンのポケットからハミ出てるそいつは何だ?
それは札束ってやつじゃねえのか?
てめえ、まさか……。
俺は即刻階段から飛び降り、全力の二段蹴りを奴の古びた子宮の真上あたりに叩き込みたい衝動に駆られた。が、必死に抑えた。他人の家で暮らしていりゃあ、いかに俺でも忍耐の一つぐらいは身に付いちまう。残念だが、外に出されるよりは僅かにマシだ。
実力行使に出るのは、奴が隠し通帳から金を引き出した確証を掴んでからで構わねえだろう。
ここはまず、冷静なそぶりをした方がいい。
速やかに俺がそう決断できたのには、理由がある。通帳の隠し場所については、たとえこの家に監視カメラがついていても、絶対にバレない自信があったからだ。発見されるとは思えなかった。ババアが宝くじに当たる確率の方が、それより遥かに高いとすら思える。下手なことを口にして通帳の存在を知らせることはない。ここは大人しくスルーだ。
俺は、しずしずと階段を上がった。屋根裏部屋の戸を開け、危うく頭を打ちそうになるのをかわしながら、ようかんの箱みたいな狭い空間へと体を潜らせた。
その時点までは、通帳を確認する計画しか頭になかった俺だが、以降は完全に別の問題に頭を悩ますことになった。
客が部屋に上がり込んでいたんだ。そういえば、ババアが言ってたな。
大前提として、客が居るというのに通帳を確認する行為に及ぶわけにもいかないわけだが、それ以前に、俺の頭からは通帳のツの字すら吹き飛んでしまっていた。
客は二人居た。
背広が一人、私服が一人だ。
背広の中年男は、ドブネズミみたいなでかい図体を窮屈そうにこごめ、品定めするみたいに俺を見回している。
やつの白髪だらけの長髪は豊富な皮脂によって適当に撫で付けられ、どざえもんのように膨れ上がった肌はカビの生えた餅みたいに青味がかっている。鼠色の背広だけは一応パリッとしているんだが、それが余計に中味のグロさを引き立ててしまう。人間、中年になると醜くなるもんだが、こいつは群を抜いてそうだな。俺を見てあぐらから正座に組み直す動作だけで、脂肪に圧迫される気管から息がヒューヒューと漏れていやがる。いつ死んでもおかしくなさそうな、人造人間の失敗作といった風情だな。こんなやつにも部活なんかで元気に走り回れた時期があったのかねえ。
「親御さんに我々が渡した現金を見ましたか」
やつはイメージ通りの枯れた声で、まるで命令でもするように言った。
奇怪な客に突如押し掛けられた状況に戸惑う俺に気付いてか、やつは付け加えた。
「申し遅れたが、我々は〝協会〟の者なんです」
「〝なすべし協会〟か?」
俺は反射的にバカなことを訊き返してしまった。
ついさっきまで頭にあった単語なもんでな。
「いや、違いますな。〝人工政府創出検討協会〟です。機構図上は内閣府に従属します。実質的には財務省の直轄下にありますがね。これは真実ですが、学校のテストで書くとバツを食らうでしょうな。まだ新しい組織ですから。私は、こういう者です」
中年男は、太い体から出ている細い腕で俺に名刺を渡した。〝財務省××局××支部K町出張所特務機関係長〟なる肩書きが、二列に渡ってゴテゴテ書かれ、その下に「桐生 一男」と名前が記されていた。
俺は奴にガンをくれて言った。
「あんたの娘さん、五高の三年生か?」
「桐生寧と言います」
「まわりくどいイタズラをしやがる。結局、娘に泣き付かれて親が出てきたわけか」
「知りませんな。何のことです? 最近は仕事が忙しく、家にはとんと帰っていないものでね。うちの寧が何か問題でも起こしましたかな。親が言うのも変だが、あれは良くできた娘です。親を困らせたことは一度もありませんよ。手の掛からない娘でして、つまり、どうでもいい娘だということです。あれは小器用ですから、東大には入るかもしれません。が、私の若い時分のような才気走ったところは感じられませんな。ああいう底の浅い人間は、将来なにかと重宝されるもんです。バーベキューで使う紙のお皿みたいなものですな。色々なものを盛り付けることができますからね。たいがいの人間は、深さよりも浅さを共有したがるものですよ。浅さには広さと汎用性がありますからね。中央の連中には、私の深さが理解できなかったんですな。こんな聞いたこともない田舎に飛ばされたうえ、今年からできた新しい〝協会〟とやらのK町支部を任されてしまいましてね。私にとっては、恐るべき肩叩き協会ではありませんか。ああ怖い怖い。一方、〝協会〟はあなたには無限の可能性を与えることでしょう。では、参りましょうか」
「お、おい!」
奴は俺の手を握ったかと思うと、外へ引っ張って行こうとしやがった。
もちろん俺は拒否させてもらった。
俺の手のひらには、奴の手の汗と臭いがくっつき、酸化したごま油みたいに生臭くなってしまった。
「あんたが桐生女王様のオヤジかよ。娘が娘なら親も親だな。あんたの話はサッパリ分からないんだがな。勝手に人の部屋に上がり込むぐらいだから、俺に言いたいことがあるんだろ? 早く言ってくれ。そして早く帰れ」
そう言ったら、奴は急に横柄になりやがった。
「ん~。話す必要も無いんだよな~。小便くさいガキに馬鹿にされるのは癪だし、どうせ断る余地は無いんだしな。そう思うだろう?」
桐生一男は仲間に向かって顎をしゃくった。
その仲間は桐生一男以上に無礼なことに、はじめからずっと俺の座布団に座り、しかも後ろ向きで座っている客なのだが、あまりに腹が立つのでどう声を掛けたらいいか悩んでさえいたところだ。
ずーっと窓の外ばかり見ていた女は、両手をついて座布団上でクルリと俺を向く。見掛けから判断すると、女なんだろう。生意気にサングラスなんか掛けてやがるものの、髪はツインテールに結っていやがるし、ムッチリとした腿はミニスカートの中が見えないようにピシッと正座してやがるしな。
「桐生さん、あなたの望むように。ここはまだ、あたしの領分ではない」
サングラス女は取り澄ました顔で言った。その表情の動かなさといったら、腹話術でも使ったのかと思えたくらいだ。声の質的には意外と可愛げのある部類だと思うんだが、それも横柄な態度のせいで帳消しというか、むしろ不快感アップする。
だいたい、ツインテールとサングラスっていう組み合わせからしてミスマッチなんだよ。小学生に経済新聞を持たせているようなものだぞ。
「だいぶ彼女のことが気になっているようですね」
桐生一男が言った。そりゃま、良好なプロポーションの少女を見ているのは、あんたの意味不明な演説を聞くのよりは退屈しないからな。
ウエストは著名な陶工がろくろをかけた花瓶みたいにくびれているし、おっぱいは丸いスポンジケーキをホワイトチョコで固めたお菓子みたいに程良くふくらんでいるんだからな。そこに胸元のあいたフリルブラウスがフワッとくっつくんだから、この金髪ツインテールの色白女はどこの絵本でお姫様をやってるんだろうなという感じではある。
だからサングラスの頂けなさはますます引き立つわけで、さながら絵本のお姫様にことごとく目線が入っちまってるようなもんだ。元ネタを明かせない著作権上の問題でもあるのかね。
「で、来れますねー?」
はずしまくっている宴会芸のような、桐生一男の声がする。
「じゃ、行きましょうか」
イワシの皮膚を天日に当てたような生臭い加齢臭を漂わせながら、奴は再度俺の腕を掴んだ。
「だから、何の話だ」
俺もいい加減苛立って、ふりほどきざまに立ち上がった。いてえ! 天井が低いのを忘れていた。自分の部屋で頭をぶつけるとはな。
あんまり頭にきたんで、俺は奴のネクタイを引っ張り上げた。
「何なんだ、おまえらは。邪魔だから早く出て行きな」
「出て行きますよ? あなたと一緒にねえ」
桐生一男は春先だというのに炙り肉のごとく汗をぼたぼたと垂らし、余裕ぶっこいた口調で答えやがる。……ん? 俺と一緒にだと?
「えーとねー、〝人工政府創出検討協会〟は、〝人工政府〟を作っているんです。あっ、これ極秘ですからね? ほらー、世の中、いろいろ社会問題があるじゃない。しかも、一向に良くならないじゃない。しょうがないんだよね。しょせん、社会で生きるってことは、パイの奪い合いですからね。万人の万人に対する闘争。ホッブズ御大の時代から変わっていないんですよ。要はね、いくら政府というものがあったって、人間が政治をやっている限り、色々な社会問題は解決しないんですな。じゃあ、どうすればいい? ロボットないしコンピュータみたいな〝人工政府〟という超越的機関を創造し、そいつに政治を委託すればいい。その研究開発を行っているのが〝協会〟なわけですよ」
俺は思わずネクタイを離した。それは、いくらネクタイを引っ張っても、このおっさんの重量からして家の外に出すのは難しいと悟ったからなんだが。
つまり俺は、このおっさんがここに居座って、小学一年生が書きそうなマンガみたいな空想物語を聞く羽目になるわけか? いやがらせか? なぜだ。なぜ学校でも家でも俺を休ませてくれんのだ。
ま、桐生女王様の弱味は一つ握ったらしいな。やつの自慢の父上が、こんな狂人だとはね。肩叩きの対象になるのも当然だろ。
俺は奴に顔を近付け、言ってやった。どうしようもなく空手の素質がない後輩に「辞めた方がいいぞ」と言ってやるような具合でな。
「あんたなあ……。病院行った方がいいぞ」
なんなら、俺が119番してやるよ。
狂った粗大ゴミを部屋から除去するためにな。
「おまえだぞ。この部屋から居なくなるのは」
なんて言って、奴は笑ってやがった。キレっぷりが半端じゃねえ。国家公務員のエリートさんは、人格破綻度も優秀ってわけか。
俺は、携帯電話のボタンを、1・1・9と押し込んでいった。なんでうちのババアは、こいつらを追い返さなかったのかね、などと思いつつ。
パッ、と携帯電話が消えた。
サングラス女。
いつのまに、俺の鼻先に居やがる。
その手には、俺から奪い取った携帯電話が。
バキバキバキ……。
おおおおぉぉい! 握力いくつあるんだおまえ!? 全盛期の俺もできるか……。というか、痛くねえのか?
電話を粉々にされた俺は当然、ぶちきれて掴み掛かるところである。
が、なぜか黙っていたんだなあ。
理由は分からねえ。しいて言えば、空手で培った第六感だろう。サングラスの奥からレーザービームが出て来る気がしたわけでもねえが、相手の様子を見たいと思ったんだ。
色白金髪ツインテール女は、サングラスがでかいのも手伝い、相も変わらず無表情だ。人の携帯を潰しておきながら、目を合わせることもない。テールにまとめそこねた長いフロントの髪から、ハチミツを濃縮したようなキツい芳香が漂ってくる。なにしろ、至近距離だからな。
ん、まてよ。このシャンプーの匂いは何だったかな。
「あなたの一般的反応は、あたしたちに何の実りも齎さない。あなたのあらゆる異議が尽きたところから、あたしたちの仕事が始まる」
はじめて女は俺を見た。サングラス越しだが。
俺の第六感は、反応を続けていた。妙な感じだった。なんでかな。俺はこの無礼な女に、強い相手と試合で当たったみたいな興奮を感じていた。
なぜか、敵意よりも興味を覚えていたんだ。
やつは俺に膝がくっつくほどまで近付き、事務的な連絡を淡々と伝えた。
「〝人工政府〟が完成をみるには、きわめて限られた人間の脳より抽出される素子が必要となるの。総国民から選ばれた素子提供者の一人が、あなた。三年間にわたる探偵調査の結果、あなたの頭脳の系統は、人工政府システムにおけるポジティブエレメンツとして適合性を有することが判明した。あなたは、桐生一男氏の案内で〝協会〟に赴き、研究開発に協力しなければならないわ。あなたの保護者の同意は、金銭によって既に取り付けてある。あとは本人の同意」
「民法第一条第一項。〝私権は公共の福祉に適合しなければならない〟。これを根拠として、おまえの協力を要請する。国のために、もちろん来てくれるよね~?」
ちょっ、
ちょっと待て。そんな次々にわけのわからないことを言われても。ていうかこれ、マンガ? ラノベ? それともコント? 笑えねえんだけど。
〝人工政府なんちゃら協会〟とかいう極秘っぽい機関が存在し、その研究開発に俺みたいな一般人が巻き込まれるだとぉ?
この格安叩き売りな筋書きは何だ。
俺は、マンガやラノベみたいな、現実無視の腐った筋書きは大嫌いだと言っただろうが。
――あぁ、だが、これは現実だったか。
ババアのエプロンから札束がハミ出ていたのも、桐生一男がウザくて加齢臭まみれなのも、サングラス女が俺の携帯を握り潰しちまったのも、俺にとってだけは現実か。
っていうのは、桐生寧は勿論、大熊信吾さえもこの屋根裏部屋での事件を信じてくれるとは思いがたいからな。
つまり俺は今、それなりの辛酸をなめているんであって、あまりにも突飛で不愉快なラノベ風ストーリーを前に身動きが取れないわけだが、これが紛れもなく現実の出来事であるというわけだ……。
「ま、そんな事情でさ。〝協会〟としては、〝人工政府〟の完成のために君からデータを取らせてもらう必要がある。君が〝協会〟に来てくれないと困るわけなのね。何が困るか? 国がだよ。君が立っているこの地面全部がだ。だから君には是非とも来てもらう手はずになっていて、素直について来てくれれば手荒なことはしなくて済むんだけど、分かるかなァ?」
桐生一男は女みたいな声色を使い、パチリとウィンクした。
「やれやれ。分かったよ。それで俺は、何をすればいいんだ?」
俺は、探偵に名指しされた犯人の初期行動のように、あつかましいくらい平静にふるまった。
「それで」のあたりで少し声が震えちまったが、バレてねえだろうな。
俺は溜め息などつきながらツカツカと歩き、がらがらと窓を開けた。
春になって一月ぐらいか。花曇りの天気も、そろそろマンネリだな。
だが、鉄板に思われていた俺のマンネリ生活を解体するモノが、突然現れるとはな。
くそっ。癪だぜ。マンネリ生活も、こいつらも、どっちも癪だ。俺の膝さえ壊れてなかったら、こいつらを叩きのめしてゴミ置き場にでも出しておいてやるんだが。
――ほんとにそうか? 体が万全だったら、俺はこいつらと闘ったのか?
片手で携帯を粉々にする女と?
俺も弱くなったもんだなあと思うよ。ガキの頃は、何倍も体のでかい師範や先輩にばしばし掛かって行ったもんだがな。いつのまに二の足を踏むようになってやがるんだ。
そう気付いちまうと、やたらと自分に腹が立ったぜ。せめてここは、勇気あるところを見せないとな。
この窓は屋根裏だから、二・五階ってところか。
下は庭だ。土は柔らかい。
……よーし。頼むぜ、俺の靭帯。
何が〝人工政府〟だ。俺の知ったことか。面倒なことに巻き込むんじゃねえ。俺を一人にしろ。一人にさせてくれねえなら、自主的にそうなるまでだ。
「あばよ、異常者ども! お前らのお遊びに付き合う気は無いんでね!」
俺はふわりと跳ね、一瞬の早ワザで窓枠に両足をセッティングした。ええい、くそ、もう行くしかねえ!
俺は、窓から飛び出した。……うおっ、何だ? 何かが追い縋って来やがった。俺の体はギュッと掴まれて……。ここは空中のはずだぞ。俺は見事に動きを封じられ、そいつとひとかたまりになって落下したのだった。
「怪我は無いようね。よかった」
サングラス女。
そう呟くということは、俺の下敷きになって落ちるのは、おまえの計算通りだったっていうわけか。
そして、落下の衝撃でサングラスが外れるのも、計算通りだったのか?
その少女の、見たこともない薄紅色の瞳と向き合いながら、俺は頭がクラクラして来やがった。
こいつは誰かに似てねえか?
少女はニコリと笑う。特異な色の瞳が隠れる。そうだ。こんなにニコニコ顔では笑わないが……。
こいつは俺にそっくりだ。
「おまえっ……」
「あなたの留守はあたしが預かるわ。安心して行って来て? 小野まゆみさん」
後頭部が若干地面に埋まった少女は、もし人間が痛いときに笑う生き物なら、相当の痛みに襲われているような顔をするのだった。
おまえ、何者なんだ?