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 葉桜の下の面談で、俺は、花が散っても新しい葉が生えてくる桜のようにはいかない担任の頭皮を眺めていた。桐生を殴ったことを説教されたのは嬉しかった。鬱な気持ちが一%ぐらい晴れた。直接桐生に説教されたらもっと満足だったと思うが、それは脳内だけの理想論だろう。実際にあいつを目の前にしたら、また何をやるか分からん。とにかくあいつは嫌な奴だからだ。

 あいつは最低だ。頭はいいし、顔はキレイだし、スタイルも悪くないし、家は金持ちだろうし、それなりに男子からもモテるし、クラスの奴らからはチヤホヤされるし、教師受けは最高だ。ハハハ! 悪いところが一個もねえ! 俺ときたら、因縁をつけるにしても程があるな。校内調査で誰もが「支持」ないし「どちらかといえば支持」に回りそうなハイスペック委員長を最低呼ばわりするとは、遠吠え以外の何でもないに違いない。

 そんなことは分かってるよ。そして、あいつにとっちゃ、俺みたいなバカな生徒はさぞ目障りなんだろうってこともな。それでも、俺だって、あいつが嫌いなんだよ……。

 ――どうして、しがみついている?

 俺の脳内で桐生が言った。

 知るか。

 俺の方こそ訊きたいな。いつからあんたは俺に説教くれる立場になり、俺はあんたに説教もらう立場になったんだ? 二人とも同じような形で母親の股の間から出て来て、二人とも同じ十七年の年月を生きているのにな。この十七年は、何ていういかさまゲームだい。冗談じゃないや。

 ――辞めればいいじゃないか。

 脳内桐生は、母親に素朴な疑問を尋ねる幼児みたいな顔で囁きやがる。

「うるせえっ!」

 と思わず口に出した俺は、落ち武者担任から遠慮がちに睨まれたが、遠慮なく睨み返しておいた。奴はメガネ直しのフリをして目を逸らした。そうだ、静かにしててくれ。

 いちいちあんたらの指導に突っ掛かる俺は、たいそう厄介な存在だろうな。だけどあんたらなら、俺みたいな厄介者用の指導マニュアルだってちゃんと身に付けているんだろう? 桐生委員長の進路指導時に比べて数百分の一の熱意をもって接するべし、とかな。だから問題は無いはずだろう。繰り返すようだが、誰があんたたちに「指導してくれ」なんて頼んだんだ?

「君の場合は、全教科の底上げから始めないといけないなぁ」

 担任は相変わらず心にもない指導を続けやがる。「学校を辞めて働きなさい」とでも言ってみろ。自信なげな目で俺を見ながら、決まりきった激励を述べるのは楽しいか? 俺は、キメの細かい伊予柑みたいな奴の頭皮から汗が滲むのを見ていると、発狂しそうなくらいにムカついてきた。俺は一方的に立ち上がり、奴に一睨みくれてやると、自分の椅子を思いっ切り蹴り飛ばした。膝の中がゴキリと痛みやがった。クソーッ!

 そんなわけで、終わってみるとやはりクソな面談だったということだ。唯一のプラス面といえば、会場が校庭だったから、そのまま校門を出て帰れるというくらいか。

 ん? 校門の陰からヌッと生えているあの上半身は、大熊信吾だな。

 あれで隠れているつもりなんだから失笑だな。

「待っててやったぞ。小野」

「頼んでねェぞ」

 俺は気にせず家路を急ぐ。おせっかいな大熊がついて来ることは分かっている。トップセールスを誇る営業マンみたいなコイツを追い払う労力は侮れないものがある。だが、ここに大熊じゃなくて桐生が居たら、部活のウォームアップぐらいの労力を使ってでも追い払っていたけどな。

「荒れてるなあ」

 大熊は真正面の夕焼けを見ながら、渋い声色で呟く。

 青春ドラマのつもりか? この季節は日が短いから、舞台には持ってこいだな。

「何かあったのか?」

「なにも」

 まあ、青春ドラマの出だしなら、こんな答えが無難なところか。「おまえこそ部活はどうしたんだ? 帰っていいのか」とでも訊き返し、「いいんだよ。ダチの悩みの方が大事だからな」などという鳥肌モノの台詞でも引き出すべきだったかな。こいつを増長させると、こっちが恥ずかしくなる。悪い奴じゃないのは確かなんだがね。俺と一緒に空手の町道場に通っていた十年前から、大熊信吾は全然変わっていない。

 俺はというと、だいぶ変になったものだ。

「ウソつけ。三年になって、お前と一緒のクラスになって、俺は唖然としたぜ。一年の時はあんなマジメだったお前が、今は反対だからな」

「きもい台詞を吐くな。お前は俺の保護者か」

 と返したら、ははは、動揺してやがら。部活の稽古じゃ打たれ強かったはずだけどな。

「ほ、保護者なんかじゃねえが……。おまえを心配してるのは確かだ」

「痛み入る」

 真剣さが過ぎて芝居味をおびる大熊に、俺は白けきった棒読みで対処する。

「おまえは昔から、そうだったよな」

「なにがだよ」

「いつもそうやって、大したことないフリをするんだ。町道場の時からそうだった。捻挫してようが、骨折してようが、何くわぬ顔をして試合に出ていたな。骨折してた大会で優勝したのは驚きだったよ」

「昔の話なんか、忘れちまったなあ」

「嘘つくなよ」

 大熊は語気を強め、「今から決めのセリフが出るぜ」とでもいうように、ピタリと歩くのをやめた。それで俺は歩き続け、二、三歩も行ったところで奴を振り返り、奴の訓話を拝聴する……というのか? だから、気恥ずかしいんだよ。俺はメディアが憎いね。奴らはこうやって多くの若者に青春ドラマのフォーマットを刷り込み、そのフォーマットに沿った演技しかできなくさせちまう。ただでさえ大熊信吾は熱血ポジティブ馬鹿なわけだから、この場面はまさにドラマの一幕と化した。畜生、俺が振り向かなきゃ、いつまでも突っ立っているつもりかよ……。

「小野。忘れたなんて嘘だろ。おまえは過去を忘れちゃいねえ。いや、いちばん過去に縛られてるのはおまえじゃねのか?」

「大熊……」

 俺は、物思わしげな憂いを湛えた表情で奴を見詰めてやったさ。

 内心、憂いを感じているどころか、恥ずかしさのあまり服を脱ぎ捨て裸踊りでもおっ始めたい気分だったがな。

 期待通りのアクションを取ってやるのは、おまえとは十年来の腐れ縁だからなんだぞ。

 そしてたぶん、これで最後だろう。

 本当に腐り始めた縁を無理につなぎ止めても、両方とも傷付くだけだ。

 腐れかけていることにおまえが気付いていないうちに、俺が切り離してやる。

 おまえは桐生や他の生徒たちと同じように、これからもめでたく歩いていくことだろう。桐生だったらムカつくが、おまえに対してなら、俺はまだ祝福してやれるさ。めでたく歩いていけばいい! 

 俺は、そういうおまえを正々堂々拒絶してやる。それが今までの付き合いへの返礼だと思うからな。

 そのためには、しょーがねえ、この俺も俺達の青春ドラマを高見の見物しているわけにはいかねえだろうな……。

 俺は相変わらず、日照り続きの雑草みたいな脱力した顔で言った。

「過去に縛られてる? 俺が?」

「ああ。おれにはそう見えるな。一年のとき、膝を壊して部を辞めるまでは、おまえはマジメだったじゃねえか」

「空手に未練があるんじゃないか、というわけか」

「部に戻って来いよ。もう三年だけど、まだ間に合う。全然できなくなったわけじゃないんだろう?」

「まだできるよ。プロ野球選手がプラスチックバットを持って打席に立つぐらいのことはな。全力でやり合えないことほど悲しいものはない。相手に手加減されてまでやりたくもねえ。今はおまえにも五秒でひねられるよ」

 以降俺は、大熊に背中を向けて喋ることにする。

 こういう青春ドラマの決別シーンみたいな味付けは、大熊としてもお好みなんだろ?

「だから俺は、空手の続行については完全に絶望しているんだぜ? 動かない体で、どうやって空手をやれっていうんだ? 俺は昔、パソコンをぶっ壊したことがある。調子が悪いもんだから、フリーズするたびに強制終了していた。だが、強制終了するたびに、パソコンの中には小さいエラーが蓄積するらしいじゃないか。ある日突然、うんともすんとも言わなくなった。致命的なところまでエラーが蓄積していたわけだ。修理もできなかった。それと同じ理屈だ。一度エラーが起きたら、終わりなんだよ。人間の場合、パソコンよりもずっと脆くて、靭帯の一本や二本切れただけでゴミ箱行きだけどな。どうやって空手ができる?」

「小野……」

 俺は、この青春劇のクライマックスが到来したかのように両腕を大げさに開き、顔には晴れやかさを塗りたくる。

「それからは、俺の人生にもエラーが蓄積しはじめたのさ。最初のうちは小さいエラーだから気が付かないんだ。一見、問題なく動作しているように見える。手遅れなくらいまでエラーが積み重なって、そこで初めて気が付く。空手に打ち込んでいたマジメな生徒は、すっかりダメな人間になっていましたとさ。どうだ? 慰めの言葉でも掛けてくれるか?」

 せっかく俺が興奮しているというのに、

 なぜか大熊は白けやがった。

 それどころか一方的に不機嫌になり、口調なんかは完全に、キレている人間のそれだ。俺のことを女々しいとでも思ったのかな。とにかく、失望したんだろうな。

 ばーか。

「なあ小野。おまえの気持ちは良く分かるよ。一回挫折すると、立ち上がるのは大変だと思うよ。だけどやっぱ頑張んないとさ。もう三年なんだしな。おれにできることがあったら手伝うからさ」

「そうか。だったら、こうしてくれ」

 俺は大熊に、黙って立っていてくれるよう頼んだ。

 そして、突っ立っている大熊を、九十パーセントの力で殴った。

 十パーセント引いたのは、十年分の情けだ。

 奴はよろけたが、二年間もだらだら暮らしていた俺の一発なんか、さほど痛くもないだろう。ムカつくよ……! 

「いつまでも友達面して近付くんじゃねえ! 俺は飽きが来てるんだよ! おまえらのくだらねえゲームにはな! そのまま一生やってろッ!」

 俺は歌舞伎役者みたいに髪を振り乱し、大見得を切るのだった。こういう動作って、自然に出るもんなんだな。少しスッキリしたよ。桐生の時はチグハグな感じだったんで、罪悪感もあったのだが、今回は謝らなかった。これはおまえにくれてやった一種の挨拶なんだから、黙って受け取っておくんだな。

 俺は大熊を残して退場した。

 やはり、言うだけ無駄だったみてえだな。だが安心しろよ、もうおまえには言わねえさ。俺が疲れるだけだからな。

 畜生……。


 

 ……それにしても、どうしてだ? 俺にはありありと分かるこの問題が、やつらにはおよそ伝わっていない。やつらと同じ日本語で喋っているにもかかわらずだ。かりに俺の日本語能力が成績相応のものだったとしても、俺は中学生にだって分かる言葉しか使っていないつもりだ。それが高校三年の奴らに伝わらないとはどういうことだい。

 空手の道を絶たれた俺を慰めてくれとか、受験に向けて勉強の面倒をみてほしいとか、俺が言いたかったのはそういうことじゃないんだ。むしろその後から始まる問題が問題なんだよ。どうせ誰にも伝わらないんだから、俺一人で呟かせてもらうけどさ。

 俺は、肉体の故障という俺にはどうにもならない事故によって、十年間やってきた空手を取り上げられた。それからの俺は、学校も家も面白くなくなった。というより、毎日の生活の全部が、いちいち有害でムカつくものに思えてきたんだ。

 そう考えれば、空手という遊びは俺にとって強力な麻酔だったんだろうな。俺の周りにゴロゴロしていたムカつくイベントから、何も感じないようにしてくれていたんだ。

 っていうことに、俺は気が付きましたよ。

 麻酔が切れてからね。

 まったく、俺っていう人間は、怖ろしいほど単純だったんだな。人と向かい合って殴ったり蹴ったりするだけのお遊びが、俺の人生にはなかなかのウェイトを占めていたというんだから。

 そしてもっと怖ろしいことは、そういう曲がりなりにも重要なお遊びが、細い靭帯の一本二本が切れただけでアッサリとできなくなっちまうということに、俺が気付いていなかったこと、か。

 昔の俺は、細い靭帯一本に一点賭けしていたようなものだ。

 何を賭けていたと思う? 

 人生、とやらをだよ。

 なにしろこの阿呆は、靭帯がブチッと切れると同時に、それまでのぬくぬくした人生からもブチッと切り離されちまったらしいからな。

 そして俺には、気持ちの悪い、理解不能な、わけのわからない、イベントだけが残った。

 誰もが心身をあげて全力プレーしている、一大ゲームが。

 その名前を、こう言うんだそうだ。

 現実。

 だーかーらー、俺は認めた覚えはないんだがな。どこまでも狂っていやがる。

 このマッドなゲームを主宰するのが「なすべし協会」であることは周知の通りだ。俺としては協会のやつらにクレームをつけてやりたいので、協会の所在地を探している。判明したら、ぜひ俺に連絡してほしい。

 ん? クレームをつけてどうするのかって?

 さあなぁ……。

 ダルいよな。とにかく。

 それに、ムカつくぜ。腹の中が煮えくり返る気分さ。まんまと「なすべし協会」にハメられちまっているとは、この俺様もとことん非力な人間だよ。終わってるね。

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