11
Ψ
あちい。
なんで、太陽がほとんど真上にあんだよ。
エメラルドみたいにキレのいい山々の緑と、それが下りて来たみたいに青々とした田んぼの海はどうだい。
そして、目に痛いくらいにすがすがしい色の景色なのに、肌に全面まとわりつくカイロのような蒸し暑さはなんだよ。
どうして、こんな町外れで降ろしてくれるんだか。
右手にぶら下げているブレザーの出番が無いのは勿論だが、ここから学校まで歩いていたら、シャツまでグショグショに濡れてしまうぞ。
俺は、暑苦しいリボンを首根っこから抜き取り、シャツのボタンを二つ開けた。
ちくしょう、山に囲まれた町ってのはコレだからな。襟足から抜けていく風さえあったけえ。
校門をくぐるまで、何度汗を拭ったことか。
しかし、妙だな。
学校の中に、いつもより生徒が居ない感じがするんだが。
三年二組のドアを開けたら……。
うわ、半分ぐらいの生徒しか出席してないじゃないか。学校全体が暑気当たりでもしてるのか?
ジャージのパンツにポロシャツ一枚という涼しげな格好をした数学教師が、黒板に∫(インテグラル)を書く手を止めて俺を見た。
「おお。小野。夏休みの課外一日目から出て来たか! 最近のお前は、やる気があるな」
な。
なつやすみ。
……だとぉ?
てことは、当然だが、今は夏。
なるほど、暑いわけだ。
まてよ、じゃあ俺は何日ぐらい研究施設にカンヅメだったんだ? 連行されたのが桜の咲いてる頃で、そいで、今は夏。ええと、つまり、長い間いたわけか。そういやあ、だいぶ髪が伸びたもんだから、向こうを出るときにバッサリ切ってもらったんだもんな。
「何してるんだ、小野。自分の席に座りなさい」
数学教師は俺の胸元に課外のプリントを突き付けた。俺は呆然と受け取り、回れ右をした。
俺の机は何処だったっけ。
大熊は部活の夏合宿、桐生は図書館に籠もって独学でもしているんだろう。目印がないと席が分からん。
見知らぬ女子が何人も俺にアイコンタクトやジェスチャーを送り、にこやかに笑顔をくれる。いや、あの、俺は存じないんで。恥ずかしさで一段と顔が熱くなってきた。
いろんな置き土産を残して行ったようだなぁ。
あいつめ……。
課外授業中、俺は、ボンヤリと外を眺めていた。
桜並木はとがった緑色に光り、校庭はまぶしい白に光っていた。よそ見していたら、先生に指名され、いま解いている問題の答えを聞かれた。俺が解いてるわけねえだろ。
俺は、外を眺めたまま答えた。
「m=1」
それは正解だった。先生はおかしいくらい静かになってしまい、クラスのあちこちでザワメキが起きた。
もういちど指名されることはなかった。
図書室なるあかでみっくな領域に来るのは、三年間で初だ。一日じゅう居たら人間のシャーベットができそうなくらいにクーラーが効いてる。
受験勉強してる奴らが結構いるんだなあ。黙々とシャープペンを動かす動作は、十二時間でネジが切れるゼンマイ人形みたいで、どこかしら不気味だ。冷房とあいまって一気に汗が乾くよ。
奥まった所のテーブルには、やっぱり居た。
電源さえ入れれば常に百%のパフォーマンスを発揮するコンピュータのように、冷たい力に満ちた目を持つ女が。きっちりブランケットを肩から掛けているあたり、図書室通いのベテランなんだろうな。
「おい」
俺は桐生寧の斜め後ろに立ち、他の奴らに聞こえないよう、小声で呼んだ。聞こえているのは間違いない。こいつは俺を無視するのが大得意なんだから。
桐生の視線は参考書とノートの間を何度か往復し、ノートに英文和訳を四行ほど書き終えた。
銀ぶちのメガネを直す仕草とともに、よーやく俺を見た。
「昨日までとは、ヘアスタイルと……。瞳の色が違う。戻って来たのね」
やつは、再びノートに向かう。
「遅れてた分を取り返さないと、K大学にも入れないわよ」
委員長の憎まれ口にあるK大学とは、京都大学や慶応大学のことではなく、俺達の地元にある偏差値30の私立大学のことだ。ご心配いただかなくても、私立大学に積むような金は俺にはねえ。俺は、進路どころか大学という概念について考察したことすらないのに、大学に金を積むような慈善事業をする気になるもんか。
「お前のことは虫が好かねえが、ちょっと顔かしてくれないか。話があんだよ」
「余と貴様とで共有可能な話題など、存在するのか?」
やつは持参の水筒から熱いお茶を注ぎ、ゆっくりと啜っている。
俺は桐生に質問した。
質問に質問で返すな、などと言われるかもしれないが。
「〝協会〟に連れ去られたことがあるってのは、本当か?」
桐生は、無言で水筒を片付け、
供え物のように机に積み上げてあるライトノベルを片付け、
参考書をブックバンドで縛り、
立ち上がった。
いつものように俺を見下している能面で、図書室の出口を指差した。
「あついな」
桐生は一言ぼやき、ブランケットを頭からかぶり、日除けがわりにした。ずうっと図書室にこもっていたんなら、レンジで急速解凍されたような気持ちになるだろうな。校舎から出ると、それくらい暑い。
真上に太陽があり、コンクリートは見事に光を照り返し、ちょいと遠くの桜並木からはセミの大合唱って、なんなんだこの夏を題材にしたドラマのお気軽セットみたいな環境は。誰か木陰でセミの声のテープでも回してねえか?
「話があるなら、さっさとしろ。暑さで倒れる前にな」
と言う割には、あんたは百均で買ったようなビーチサンダルなんか装備して、俺より涼しそうだが。すねから甲にかけて同じ象牙色に焼けているので、夏はサンダル派のようだな。俺も年中ブーツを履くのは考え直そうかね。
「プールにでも行かねえか。夏休みだから、水泳部以外にも開放してるだろ」
「どうして貴様とプールなどに。第一、水着が無い」
「水着はパクればいいだろうが。それに、プールに行けって言ったのは、俺の発案じゃない」
町に帰ったら、二人でプールにでも行くんだな。
俺のデータ取りが終わった日に、高橋が言ってたセリフだ。
あいつには、今日のこの場面が見えてでもいたようだな。さすがのマッドサイエンティストとでも言ってやるべきか。
たしかに、夏の炎天下なら、プールに行きたくなるだろうし……。
同じ経験をした奴とは喋ってみたくもなるだろう。
ゾッとするぐらい冷たい青色をした空には、この町に覆いかぶさるような入道雲がひとつ湧き上がっていた。
桐生は入道雲に文句をつけるような目で空を一瞥し、プール方面へ歩き出した。ブランケットをかぶった後ろ姿がゆらゆらして、なんか幻影みたいだな。
俺は、ついて行った。やつのサンダルの音と、俺のブーツの音が、校舎の壁にぶつかって不規則に返って来る。乗り物酔いみたいな気分になるなあ。
Ψ
俺は、〝人工政府〟の開発に必要な脳内素子とやらのデータを取られたら、実験に関する記憶を消去されることに決まっていた。
記憶を選択的に消去する技術は、H.L.H.工学で充分に発達している。こっそりと人間に適用したっていいレベルにある。国の機密を守るためなら、俺の記憶を消すのをためらう理由はない。
が、俺は記憶を消されなかった。
高橋は、俺の記憶を消したことにして、上へ報告書を回した。だから、〝協会〟の公式な秘密資料の上では、俺の記憶消去は完了したことになっている。
高橋は、思い出の中の恋人にでも声をかけるように、しみじみと俺に言ったものだ。
「自分のされた仕打ちを忘れるな。ここでの記憶を忘れずに帰るんだ。それが君の人生だ」
やつが何を思ってそう言ったのかは分からない。やつは俺よりもずっと歳を召しているわけだからな。老人ならではの感傷でもあるんだろう。だから、俺は訊いた。
「ここでの記憶って……。俺は何かやられたのか? されたことは最初の身体検査だけ。あとは、来る日も来る日も狭い部屋で寝て、起きて、食っていただけだぞ」
と。
「脳内素子のデータを採取していた」
「された覚えはねえぞ」
「大丈夫。無線で行っていた」
なんていう具合だ。
拍子抜けもいいところだった。
まあ、最終日に初めて施設を見学させられた時は、ちょっとショッキングなモノを目にしたんだけど。
そのモノっていうのは、完全に生きたまま拘束され、〝人工政府〟に接続されている人間の群れだった。
「〝人工政府〟が求める人材には、二タイプあるんだ。まずは、脳内素子のデータを採取されるだけの人材。あとは、〝人工政府〟の駆動のために脳神経活動そのものが継続的に要求される人材さ。後者の人間は、一生、〝人工政府〟の電池代わりということでね。君は前者だから、運がよかった。明日にも開放されるわけだから」
コードやら電極やらカテーテルやらで全身がんじがらめになった人間達が、目玉だけを動かして俺達を見ていたっけ。後ろ髪を引かれたわけじゃないが、俺はその日、高橋に髪をカットしてもらった。
以来、ショート気味のザンバラ髪となり、今に至る。
そういえば、高橋は俺の髪を切りながら、倉庫の状況を報告する流通業者のように言った。
「H.L.H.が君の代わりをするのも、今日までだな。あのロボットのお勤めも終わる」
「……ああ。そーだな」
俺も流通会社の事務員のように平坦に呟いたが、実はフェイクのことを気にしてないわけじゃなかった。
研究施設に来てからも、たまに考えてた。
研究所の生活は、退屈この上なかったからな。
窓のないビジネスホテルのような狭い個室で、毎日寝ては起きるばかり。正気のある人間なら、当然、未来のことを考える。「ひょっとしたら、一生このカンヅメ生活が続くんじゃねえか」なんていう妄想だって起きる。
そうすると、部屋の真っ白な壁に幻燈みたいに浮かぶのは、なぜか高校生活のスケッチだったりするわけで、その幻燈絵巻にはフェイクだって登場するわけだ。
クソ退屈な高校生活、憎まれ口をたたく委員長閣下、〝協会〟とやらによる日常生活の破壊、さも自然に町に居残りやがった俺そっくりの人形。
俺は、そいつらが力を合わせて構成している演劇の舞台から、ひとりで締め出されている気がした。
俺の脳味噌は、俺の意志に関係なく何回も演劇の描写を繰り返した。
だから俺は、何回も締め出され気分へ投げ込まれた。
あまりにも暇だった俺は、ベッドじゃなく床で眠ったり、隅っこで座ったまま寝たりしながら、
クソな高校生活でもいいから戻りたいと思った。
もし、戻れたら……。
俺は、相変わらず毎日ふてくされて過ごすんだろう。
だが、それでいいんだろう。
駄目高校生のキャラクターは、すでに俺に染み付いた演目だ。俺は、駄目高校生としてしか高校生活を送ることはできねえ。そして、クソな高校生活にブーブー不満を言うことしかできねえ。
だが俺はそれをやる。クソでもいいからやる。それが俺の本心だと分かった。
ん?
まてよ?
戻ったって、どうにもならないんじゃねえか?
だって、俺の席には居るじゃねえか。
誰が見たって、外見から内面まで俺と遜色ないロボットが。
奴をムリヤリどかす理由がどこにある?
もし、かりに、俺が研究所の個室にて一生カンヅメのままなら……。
あのフェイクが、俺として生き続けることになるだろうな。
……。
まあ、それでもいいか、と俺は思った。
自分でも意外だったけど。
俺は、一生研究所の外に出られない生活なんて御免だ。でも、そうなったら、外にフェイクが生きてるのは俺の慰めになる。不思議とそんな気がした。
俺の代わりができるとしたら、あいつ一人しか居ない。
俺が、それを認める。
……などと、つまらない妄念にとらわれたほど、個室の生活は苦痛かつ退屈だったのさ。高橋は「無線でデータを取っていた」と言うが、無線で妄念を流していたんじゃないだろうな。
とにかく、俺の妄念は取り越し苦労に終わり、めでたく明日の開放を待つばかりとなってくれた。
フェイクはしっかりと俺の代役をやってくれたのかね。誰かを殺したりしてないといいが。
「その件は心配いらない。同級生の手首切断以来、異常行動の報告は入っていない。修理したからね」
「俺とそっくりになってて、ちょっと気持ち悪かったけどな」
「たしかに、性質がかぶるのは不快なものだ。かぶられた側の感情としては、相手に消えて欲しくなるだろう。だが、安心しなさい。まもなく消えるのだから」
「フェイクの記憶を消すのか?」
「いや、その手は使えない。同じ個体に何回も記憶操作を施すのは危険なんだ。あのロボットは既に一度、記憶の部分消去を受けている。だから、廃棄処分にされるだろう」
そう言われて驚く俺の反応の方が異常というか、高橋からすればどうでもいい反応なんだろう。
「何を驚くことがあるのかね? 君はまだ若いし、これから先も長生きしたいだろう。君の希望は、当然叶えられるべきだ。君はロボットではなく、人権を持った人間なのだからね。しかし、誰から見ても君にしか見えない個体が二つもあったら、世の中が混乱するじゃないか。君が生きるという以上は、フェイクには消えてもらわないとね」
ああ、分かっているさ。
〈法律的ロボット論〉は勉強させてもらった。フェイクはロボットなんだ。ロボットなりの扱いを受けるのは、不合理なことじゃない。
あいつが俺にとってだけロボットに感じられないとしても――、あいつをロボットから人間へと格上げできる法律なんか無いのだろう。
「あるいは、これがホラー映画の筋書きなら、ぼくはこう提案してもいい。君が人知れず処分されれば、フェイクが君として生きることは可能だとね。だが、君は死なないだろ?」
「まあな」
俺は、軽量ヘルメットみたいにまとわりつく髪をパサパサと回し、くっついている毛を振るい落とした。
「あのさ。これでフェイクを買い取らせてもらえねえか?」
俺は、ブーツを脱ぎ、中敷きの下から通帳を取り出した。
高橋はまばたきもせず、通帳の数字を目でなぞっていた。
やがて、通帳を閉じ、俺に突っ返した。
「ロボットを買うのは大金持ちの道楽に過ぎんよ。通帳はもっと有効な使い道があるだろう。第一、この金額でも、まだまだ足りないよ」
「そうか……。だったらさあ、せめて凍結して保存とかできねえのか? そういう方法があるって、フェイクは言ってたぞ。なにも処分することねえだろう」
「たしかに、それは一理あるね。分かった。君の意見は、上に伝えておこう。しかしぼくが思うに、人工政府プロジェクトという機密に関わったロボットを処分しない選択がありうるかどうかは疑問だ。期待はしないでおくんだね」
そういう結論になった。
俺は、高橋に出された茶を飲んだり、ブーツを履き直したり、だるそうに頬杖をついたりしてみながら、時間が過ぎるに任せた。
夜になり、研究所に客がやって来た。役人が、仕事を終えたフェイクを連れて来たとのことだ。やっと来たかって感じだな。
高橋は玄関まで二人を出迎えに行った。
俺も、笑顔で出て行った。
ちょっとはしみじみとした再会になるかと思ったら……。いきなりフェイクは俺に愛玩動物よろしく体当たり! お次に、痛いほどの抱擁ときやがった。よせよ。三年来の宿敵チームを決勝で打ち破った瞬間でもあるまいし。
「よう、御主人! 髪切ったのか! 退屈じゃなかったか? こっちはもう、すっっっっっっげえ楽しくて楽しくて。いいねえ高校生活って! 朝から晩までやること決まっててさ、頑張ってそれについていくってのは、スリリングな達成感だよなあ。四階だから景色も綺麗だし、食堂の中華飯はホントに当たりだったし、でもやっぱ一番は放課後だよな。みんなで雑貨屋行ったり、カラオケ行ったり、お城の前のだんご屋も通ったねえ。日曜はマックでテスト勉強したりね。今までに無かった経験ができて、ほんとに充実しました! あっ、これ、大熊から借りてる文法のヤマノート。あと、今週の土日はエリたちと駅前デパート行くことになってるからよろしく!」
エリだって? 知らねえ名前だぞ。
「ところで、上条はどうなった?」
「あいつなら、とっくに転校したよ。ずーっと前だ」
転校したのか。
させられたのか?
ともかく、
「いい経験、ね。そいつは言うことなし。お疲れさん。明日からは俺に任せとけ」
俺は大熊のヤマノートとやらを預り、フェイクの肩を叩いた。
フェイクはロボット独特の臆しない目で俺を見た。
「俺は、御主人と顔が似ていて良かった。御主人が居なかったら、こんな幸せな体験もできなかったと思うからさ。俺みたいに〝職閾〟の低い欠陥品でも、幸せを感じられる出来事がたくさんあるって分かった。昔の御主人達との思い出は、嫌なこととか失敗したことしか無かったから、どうせこれからも俺は駄目なんだろうって諦めてたところがあった。けど、今回の役目は、今までが全部嘘だったみたいに楽しかったんだよ。俺は、自分の未来には期待してもいいんだって分かった。御主人の代わりができて、良かった」
「そうかい。じゃあ、また研究で俺が引っ張られる時は、お前に代わりを頼むよ」
「喜んで!」
奴は試合を終えた選手を出迎えるみたいに手を上げた。すぐにハイタッチしたがるのは大熊の習性だ。刷り込まれたな。
俺は奴のハイタッチに応え、すれちがった。
奴は高橋に手を引かれ、暗い研究所の奥に消えていった。
Ψ
――ふう。
俺は水から上がり、焼き石のような飛び込み台に腰を下ろした。
何メートル泳いだかな。ちょっと影が長くなった気がするような、しないような。
貸切状態のプールには、俺だけが立てた波が騒いでいたが、今は自然なさざ波と区別がつかないほど静かになっていた。
俺は、濡れた足跡をぺたぺたとつけながら、プールサイドの見学者用パラソルへ向かった。
涼しそうな日陰の下、泳ぎもしないのに桐生が水着である点に突っ込むべきか。水着でラノベを読み耽っている点に突っ込むべきか。
「泳がねえのか?」
「更衣室に落ちていた水着を着た上、貴様が入った水で泳ぐ気になぞなるか。不潔極まりない」
「安心しろよ。落ちてた水着を着てる時点で不潔だから。二人ともな」
俺はパラソルの外で大の字に寝そべった。
……のはいいが、夏の日ざしは強いな。早くも背中がぬめぬめと暑い。体全体が生ぬるい。生殺しにされているような、うだる空気だ。
プールを囲っている塀の外から、遠いお囃子の音色が聞こえてきた。
そういや、今が夏休みってことは、K町恒例の夏祭りが今日であってもおかしくはない。昔の武将をたたえ、鉄砲をかついで仮装行列したりする祭りだ。毎年、毎年、飽きもせずにな。
「なあ。俺たちの生活って、〝神様〟に守られてるおかげで実現してるんだな」
桐生はラノベから目を離さない。まあいい。こいつの前で呟くのは、いつものことだ。
「〝神様〟だよ。政府とか、なんとか協会とかいう、クソバカ神だけどな。胸糞悪いよ。ヘドが出そうさ」
「じゃ、吐いたら? ちょうどプールは目の前」
俺は、粘りつくプールサイドから体を起こし、水ぎわに立った。もちろん、吐くわけではない。
言いたいことがある。
「何かやりたい。何かやらなきゃいけないと思うんだ」
うしろから、ラノベを閉じる音が聞こえた。
「何かやるって……。何をやるの? 国会に討ち入りでもして捕まるつもり? そうしたら、協会とやらの人達は、絶対にあなたを殺すんじゃない? 自分達の非人道的な事業のことをばらされないために。それなら、自分がされたことはスッパリ忘れて、ノーマルな一市民として暮らした方が賢いんじゃない? 私みたいに」
俺は、桐生を振り返った。
そういえば、水泳帽にメガネっていう取り合わせのキャラは、あまりラノベで見たことはないな。
だが、途中から喋り方を変えるようなキャラは、さほど珍しくはない。
二重人格キャラしかり、いくつもの話法を駆使するスパイキャラしかり、やむをえない理由で本来の喋り方を制限されているキャラしかり。
桐生が今までの女王様モードから偉そうな一般人くらいのモードまで下りた意図は分からん。別に俺は驚かん。ラノベには読者にインパクトを与える仕掛けが無節操に仕込まれるものだし、桜の時期の何気ない授業から今に至るまでの展開を省みるに、俺がラノベ的筋書きの中に居ないとは思えない。
「高橋から聞いた。お前も人工政府研究の〝レシピナー〟だったってな。お前のロボットが居たとは、気付かなかったなあ。いつごろだよ」
「一般人がロボットだと気付くようなら、入れ替わりの意味がないでしょ。でも、自分のフェイクを見た経験があれば、人のフェイクも見分けられるけど。私が研究所に行っていたのは、ずっと前。あなたと顔を合わせても居ない頃よ」
桐生は、自分の日記でも読むように物静かに言った。
昔の思い出を振り返ってんのかな。
それとも、協会のスパイに聞かれるのを警戒しているのか。
「高橋は、お前の記憶も消さなかったみたいだな」
「それは、私があなたに言いたいセリフでもある。〝人工政府〟の話題が共有されることなど、あり得ないと思っていた」
やつはパラソル下の椅子を立ち、日なたまでやって来た。
「だけど、あればいいとも、思っていた」
隣に委員長が並んだ。
水面に落ちる二人の影が、さざ波立ってモザイク状に見えた。
「父のパソコンをハッキングして、あなたが〝レシピナー〟に選ばれたことは、あなたよりも先に知っていた。だけど、国のやることはアナログかつ不透明。あなたが〝生きて帰るレシピナー〟なのか、〝一生、人工政府の電池となるレシピナー〟なのか、そこまでは明らかじゃなかった。話を共有するのは、あなたが帰って来た場合だけにしようと、私は決めた。生半可に友達が居ても、あなたが〝電池〟になった時に、友達のことを考えてあなたが悲しくなる。あなたが研究所に行くまでは、目一杯イヤな奴として接しようと思った。良い人間だと思われるには時間がかかるけど、悪い人間だと思われるのは簡単。記憶に残らない半端なモブキャラになるより、印象の強い悪役になる方がまし。あなたは、一人の友達も居ないカスでクズでバカな不良少女で構わない。……生きて町へ帰ってくるまでは。そして、あなたは生きて帰って来た。友達になってくれますか」
桐生は恥ずかしいのか知らないが、そっぽを向いて手だけ俺に差し出した。
ふん、てめえのしているその仏頂面、俺がやりたいところだな。というか、やっている。そうじゃないと、色々と顔が歪んだり捩じ曲がったりして、収拾がつかなくなりそうだ。
黙って奴と握手してやった。
熱っ。
……向こうも、そう思ってるだろうな。
じゃあ、体を心地良く冷やしますか。
俺は奴を引っ張り、奴もろともプールへ飛び込んでやった。今までさんざんこき下ろしてくれた仕返しだ。メガネが濡れる? ははっ、ざまーみろ!




