背後への道案内
かちっ、かちっと、マウスをクリックする音が聞こえる。
此処はとある高層マンションの一室、暗い部屋の中、唯一の光源であるPCのモニターの前に一人の青年が座っていた。
時間は草木も眠る丑三つ時、星一つ見えない空から六月の雨が降りそそいでいる。
そんな中、青年が何をしているかというと、何もしていなかった。
強いて言うのならばネットサーフィンなのだが、目的を持って行っているのではなく、ただ作業として文字を読み、記事から記事へとクリックとスクロールを繰り返していた。
その目には生気がなく、時折虚ろな瞳をモニターからはずし、机の奥に置いてある写真立てへと目を向ける。
飾られている写真は家族写真の様だ。
やわらかく笑う青年の他に満面の笑みを浮かべる青年に似た少女と、困った顔で苦笑するひと組の夫婦の姿があった。
青年が暮らす一室は広く、しかし全く人の気配がない。
リビングからも、夫婦の部屋からも、そして隣の妹の部屋からも、青年以外の人の気配が感じられず、その代わりに和室に額に入れられた三枚の写真と、線香のにおいだけがその理由を物語っていた。
家族写真と同じ表情であるはずが、額で区切られた物悲しい三枚の写真。
再び画面に視線を戻し、かちっ、かちっと、ただただマウスを操作する青年。
そんな彼の目にふと、とある単語が飛び込んできた。『怪談』『肝試し』『妖怪』そして。
「……『幽霊』」
かすれた声でぽつりとつぶやいた。
この季節、その手の話が目につかぬ日はない。
テレビでは最近話題の井戸から這い出てくる怨霊が出ずっぱりだ。
「幽霊でも怨霊でもいいから、出てきてくれればいいのに」
ぼんやりとした瞳からは、もう涙さえこぼれない。
重い息を吐き出し、再び無為な作業に戻ろうとした時。
『ぶぅーん、ぶぅーん』
と、携帯電話の振動音、こんな時間に、いったい誰だろうか。
ナンバーディスプレイには見慣れない番号、間違いなく、迷惑電話の類だろう。
「…………」
『ぶぅーん、ぶぅーん、ぶぅーん』
青年は居留守を決め込んで放置してみるが、十回、十五回を過ぎてもコールは鳴りやまない。
やがて根負けしたのか、ため息を一つつき、文句の一つでも言ってやろうと通話ボタンを押した。
「『ピっ』もしもし。こんな時間にどなたですか?」
「わたし、メリーさん」
メリーさん?と、怪訝な顔で首をひねる青年。
あいにく彼には外国人の知り合いはいない。
「あの、どなたかの電話と間違っては……」
「いま、こだま駅の前にいるの」
『ぶつっ』という切断音と共に一方的に通話を切られた。
「……こだま駅?」
こだま駅はこのマンションの最寄り駅で、徒歩でだいたい半時間と言ったところだろうか。
尚も首をひねる青年をよそに、再び『ぶぅーん、ぶぅーん』と携帯電話が鳴る。
反射的に通話ボタンを押してしまう。
「もしもし?」
「わたし、メリーさん。いま、うかいや書店の前にいるの」
またしても『ぶつっ』と一方的に切れてしまう。
この近くにうかいや書店は一店だけ、駅を少し北進したところにある一店のみだ。
「駅から北進。ひょっとして、近づいてきている?それにメリーさんって、もしかして……」
古い怪談話が頭をよぎる。そしてまた、『ぶぅーん、ぶぅーん』。
「はい」
「わたし、メリーさん。いま、郵便局の前にいるの」
さらに北進。
まちがいないと、青年は確信する、電話の主は怪談“メリーさん”を模した悪戯電話なのだろう。
「また、暇なことを……『ぶぅーん』はい」
「わたし、メリーさん。いま、ファミリーマートの前にいるの」
さらに北進、と考えたところで違和感を覚える。
青年は家周辺の地図を思い浮かべ、メリーさん(仮)の進路と照れし合わせてみる。
「ファミリーマートって、道から外れてないか?」
青年が住んでいるマンションに行くには、確かに駅から北進であっているのだが、途中の三叉路で、北ではなく北東に進まないとマンションにはたどり着けない。
そのまま通り過ぎて隣町まで行ってしまう。
そしてファミリーマートは北に直進ルートだ。
『ぶぅーん』『ピッ』
「わたし、メリーさん。いま、ドコモショップの前に……」
「あの、道、間違えていますよ」
「……え?」
おいおい。怪談が「え?」なんて、素に戻ったら駄目だろう。
そんなことを考えて思わず苦笑し。
「ファミリーマートに着く前の三叉路で直進したでしょ。あそこで右折しておかないと、ここには着かないよ」
などと、道案内してしまった。
「うそっ!? す、すぐに戻るから!」
『ぶつっ』と通話が切られるのと同時にぷっと、吹き出してしまう。あわてて取り乱す電話越しの相手が、あまりのかわいらしく、毒気を抜かれてしまった。
『……ぶぅーん』「はい」
「あ、あの、わたし、メリーさん。いま、ベーカリーみなみや?の前にいるの」
確認を求めるようにおずおずと話しかけてく声に、さらに顔の頬が緩む。
「うん、合っているよ。そのまま直進して、突き当りのT字路を左に進んでくれる?」
「あ、ありがとっ」『ぶつっ』
いかにも、「赤面しています」と言わんばかりの恥ずかしげな声が耳をくすぐる。
もうその後は、今か今かと、電話を待つばかりだった。
ゆっくりと、こちらに向かってくる謎の訪問者を電話で道案内しながら、彼女の到着を、首を長くして青年は待っていた。
「その、わたし、メリーさん。いま、ハイツもちづきの前にいるの」
「うん、おつかれさま。そこの603号室が僕の部屋だから」
「……ろくまるさん」
「そう、六階の三号室」
「…………」
「あれ?」
通話が切れない。無言の電話口からは何故か愕然とした雰囲気が伝わってくる。
「どうしたの?」
「…………『ぶつっ』」
ようやく切れた。
「?……まあ、これで、本物の怪談なら『あなたの後ろに……』って来るはずなんだけど『ぶぅーん、ぶぅーん』あ、きた」
背後を気にしながら通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「はぁ、はぁ……ぁたし、メリーさん、いま、二階の、階段に、いるの……はぁ、はぁ」
「はい?」
怪談が階段を上っている?
非常につまらない考えが頭によぎる。
「あの、なんでエレベーター使わないの?」
「……どかないの」
「え、なんだって?」
「とどかないのっ!エレベーターのボタンにとどかないの!!」
ほとんど半泣きで叫ぶ声に再び「はい?」と疑問符が漏れる。
「なんで届かないんだよ?」
「あたりまえでしょ!? おにんぎょうなんだか、ふぁ!? きゃあぁぁぁーーー…………『ぶつっ』」
ドタバタと転がるような音が聞こえてから通話が切れた。
「っ……あぁ~~、もう!」
思わず立ち上がり、サンダルをひっかけながら玄関を飛び出した。
「どんだけ手の込んだロールプレイだよ!というか、本物?家の前から一気に背後にテレポートするんじゃないの!?」
よくわからない悪態を吐きながら階段を駆け下りていく。
思えば、こんな時間に女の一人歩きはないよな?
いや、本物とか、もっとないだろ。
などと、肯定と否定を繰り返しながら、五階、四階と下りていき、二階の踊り場まで来たところで。
「…………」
ずぶぬれになった小さな人形を発見し、思わず息を呑む。
いや、まだだ。まだ悪戯の可能性も捨て切らない。と、恐る恐る近づき、仰向けに倒れている人形をゆっくりと抱き起こす。
「本物、なのか」
薄汚れた赤いナイロンの服を着た小さな胸はゆっくりと上下し、双眸を閉じたセルロイド製の顔には、明らかに自分よりも生気に満ちていた。
その小さな身体を抱き上げて、「ああ、お化けも呼吸してるんだ」なんて、場違いなことを考えていた。
メリーさんを部屋に連れ帰り、とりあえずびしょ濡れになっている服をタオルでぬぐい、自分のベッドに寝かせてみた。
眠り続けるメリーさんを観察してみると、やっぱりその小さな胸は上下している。
明らかに人工物の人形のはずなのに、確かに彼女は生きているのだ。
ベッドで眠るその寝顔はあどけなく、左手を握りしめたまま身体を胎児のように丸めている。
その寝相に、ふと、記憶の琴線に触れた。
「……たしか、この辺りに」
タンスからアルバムを引っ張り出す。
張られたラベルには二年前の年号が入っていた。
笑顔ばかり写っている過去の写真に胸が痛むが、なんとか一枚の写真を見つけ出した。
「やっぱり……『ぶぅーん、ぶぅーん、ぶぅーん、ぶぅーん』」
ポケットに入れたままだった携帯電話が鳴り響く、青年はもはや迷うことなく通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
「……わたし、メリーさん」
電話口と真後ろから同時に声が聞こえる。
背中につきささる視線。
金縛りにでもあったかのように凍りつく背筋。
いる。
音一つ立てず、気配すら感じなかったが、たしかに、そこに。
「いま……………………あなたの後ろにいるの」
ゆっくりと、視線を背後にむける。そこには。
「ぜぇー、はぁー、ぜぇ、あな……ぅし、ろに……」
荒い息を吐いてヒザをつくメリーさんがいた。
「…………」
「あ……あの」
「…………」
「う、うしろ、に……」
「それで?」
「う……」
素の表情で言外に「オチはなんだ?」と問う青年の視線に、ジワリと涙がにじむメリーさん。
「あ、その、必死な荒い息とか、リアルで怖かったなー、なんて」
見る見るうちに決壊寸前になり、さすがにまずいと思ったのか、青年もフォローをいれようとするが。
「うわぁぁぁん!もういやぁ!!」
時、既に遅かった。
「みち、まちがえるし、階段のぼらされるし、おまけに怖がらせる相手に介抱されたうえにフォローされるなんてっ!!」
一体怪談を何だと思っているんだ。
と、ガン泣きしながらわめき散らすメリーさんを何とかなだめようとするが、最近の道路は複雑すぎるだの、高層マンションなんて大っきらいだの、散々愚痴り、どうしてこうなった。と思いつつも青年は必死に聞き手にまわり、何とか落ち着かせることに成功した。
「素朴な疑問だけどさ。メリーさんって、テレポート的なアレができるわけじゃないの?ほら、君の怪談のキモの一つは『鍵の掛っているはずの家の中に音も無く現れる』だと思うんだけど」
「……『背後に現れる』ことはできるけれど、家の前まで来ないとできないのよ」
たしかにメリーさんの怪談はだんだんと近づいてきて、『家の前に』→『あなたの後ろに』という流れだ。
怪談も怪談のルールに縛られているということなのだろう。
「それじゃあ、マンションの前からいきなり背後に出てこれなかったのは」
「マンションの部屋全てがあなたの住所ってわけじゃないでしょ」
「なるほど。理にかなってる」
一人で納得している青年にメリーさんはジト目でため息をついた。
「……納得してないで怖がりなさいよ」
「いや、この状況で怖がれって言われてもなぁ」
道に迷ったり、階段で息切れする怪談(笑)を怖がれなど、土台無理な話だ。
「それに、思い出しちゃったからにはなおさら無理だよね」
「なに?どういう意味よ」
青年は一枚の写真をアルバムから引き抜く。そこには赤い洋服を着た人形を抱いて、楽しそうに笑う少女の姿があった。少女は青年の妹、そして人形は。
「これ、君でしょ?メェリさん」
「……忘れられてると思ったのに」
正式な製品名は『赤いお洋服のメリー』さん。
しかし持ち主が『お歌はメェリさんの羊♪じゃない!』と言い張り、結局その名前で定着してしまった。
「正直な話、忘れてたんだけど、君の寝相を見たらね」
「寝相?」
「うん。妹とそっくりだったんだ」
青年の妹も眠るときは猫のように丸まって、そして右手を握りしめたまま眠っていた。
「君の左手を握らないと、眠れなかったからねぇ。あの子」
「……ふん。それもとっくにお役御免でしょ。ま、思い出したのならちょうどいいわ。あの子はどこ?私を捨ててくれた恨み、思い知らせてあげる!」
「うん、そうだね。会ってもらえるかな」
剣呑な雰囲気を発するメリーさんに対し、青年は透明な笑みを浮かべて促した。
『―――チ――ン』
「よかったな。メェリさんが帰ってきてくれたぞ」
「……うそ」
響き渡る輪の音の中、人形はかつての主人と対面した。
かつての笑顔はそのままに、物言わぬ遺影となった、この世を去ってしまった自分の主に。
呆然とするメリーさんの横で青年は手を合わせる。
「ちょうど2年前かな。ゴールデンウィークの家族旅行中に、居眠り運転のトラックに突っこまれてね。難を逃れたのは部活で合宿中だった僕だけだった」
「うそ、よ。なんで……なんで!」
「そういえば、妹の遺品の中に君はいなかったよね」
まさか怪談になっているとは思わなかったけど。と、青年は苦笑する。
「だから、君は捨てられたわけじゃないんだ。どうしてはぐれてしまったのかわからないけど、僕が最後に見た妹は、君と一緒にいた」
「そんな……それじゃあ、わたしは、どうしたら」
がっくりとヒザをつくメリーさん。
その瞳には、先ほど泣き叫んだときとは別の涙がたまっていく。
「……今は、泣いてあげて。」
「……っく。あい、たかったのに。ぇぐっ…………お化けになってでも、ぅくっ、もういぢど、あいだがっだのにぃ」
ガラス玉の瞳から、セルロイドの肌をつたって大粒の涙が流れ落ちる。
次々と。
つぎつぎと。
青年は泣きじゃくるメリーさんを見ながら、いなくなってしまった家族のことを思った。
死者は泣かない。
笑わない。
怒らない。
もちろん、怖がりもしない。
豪華な葬儀を行っても、高いお経をあげてもらっても、彼らにそれが届いている保証はどこにもない。
それでも、大好きだった人の涙ぐらいは。
「……届いていてくれ。と、そう願うよ」
線香の煙がくゆるなか、しとしとと、六月の雨が降り注いでいた。