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シンガポール
そもそも、マサキには、サラリーマン生活は快適で、若い三十代には新世代プラズマテレビの開発責任者となり、一時はドル箱の大型テレビの売り上げに貢献した。そして、製造ラインのあるシンガポールには、実質的ナンバーツーとして工場長を任され、十年、滞在した。その間、マレーシアのジョホールやインドネシアのバタムにも工場を進出し、今の東南アジアの量産基地の布石を図った。シンガポールには家族で赴任し、広いコンドミニアムの部屋を社宅として借り上げられ、自分以外に妻にも運転手付のクルマをあてがわれた。あまさんと言うお手伝いさんは、家の掃除から洗濯、炊事場まで器用にこなした、妻は手持ち蓋さとなった。そこで、
日本人会で知り合った暇人たちと、昼間からゴルフの練習、
そして、食事会と、遊びほうけていた。序列は、銀行、商社が格上で、次に、大手有名会社、最後に大手メーカーにくっついて進出した中小法人であった。
マサキ自身も、日本やローカルの接待攻勢に明け暮れ、毎晩、シンガポール繁華街オーチャードの高級クラブで飲んだくれていたのだった。