第一話
暗闇に、一点の火が灯った。
火は風もないのに妖しく揺らめき、微かに焦げ臭さが漂ってくる。
闇を押しのける灯火は、薄ら笑いを浮かべた口元を照らした。
「……大いなる炎よ」
まだ若い、少年の声が暗闇に響いた。
どこか幼さの残る活発そうな声音。それを一生懸命に低い音程で保ちながら、できるだけ尊大さを強調するように言葉を紡ぎつづける。
「…世界を支配する偉大なる炎よ。束縛され、幽玄の時を彷徨う魂。その哀れな姿を今ここに顕現させ、我の声に耳を傾け、世界に示せ」
滔々と語る言葉に淀みはない。何度も練習して覚えたセリフだ。噛んだりすることもなくスムーズに言える。これならもしかすると成功するかもしれない。
焦りは禁物と胸の内で戒めながらも、自然と期待に胸が膨らむ。
詠唱を唱えながら、あらかじめ用意しておいたロウソクを横に置いていた巾着袋から何本か取り出す。最初に暗闇を照らしたロウソクの火に近づけ、次々と新しいロウソクに火を灯し、前もって理科準備室から盗んでおいた上皿天秤に使う小皿の上へ乗せていく。皿の上には画鋲の針が天井を向くように接着剤で固定してあるので、そこにロウソクを刺せば倒れて火事になる心配はない。
小学生の工作で作ったような簡易燭台を何個も並べ、床にあらかじめ決めておいたポイントに置いていく。10個も置くと、それぞれのロウソクの火が別々の揺れ方をし、床に映った影が散り散りと蠢き始めた。
とても幻想的な光景。足の底から浮遊感に包まれ、得体の知れない力が暗闇の中に満ちていくのがわかる。
これならきっと上手くいく。期待が確信に変わる。
この光景を第三者が見たら、まぁまず最初に驚くだろう。
暗闇の中、何本ものロウソクに囲まれた人間を見たら誰だって驚く。
だが、すぐに気づくだろう。この人間がこれからしようとしていることに。驚きは恐怖に変わり、奇異の視線は畏敬の念に変わるに違いない。
そう、俺はこれから魔術を行う。
ただの魔術ではない。黒魔術と呼ばれるものだ。他人に危害を加えることを目的とした邪術だ。
だが俺は別に誰かを恨みたいわけじゃない。呪殺とか、不幸を呼び出すのが黒魔術の全てではない。俺が行おうとしている黒魔術。それは召喚術だ。
そう、俺はこれからこの場所に悪魔を召喚する……!
やべぇ。俺は今かなりやばい。もう数分後に悪魔を使役している自分の姿しかイメージできない。
悪魔の召喚に成功したら今まで散々俺を馬鹿にしてきた連中は、一体どんな顔をするだろう。
間抜けな顔を順番に思い浮かべて思わず笑い声が出そうになる。笑わないよ? 笑ったらせっかく噛まずに言えている詠唱が全部無駄になっちゃうから。
あー、でも漫画とかで出てくる悪役の気持ちが今ならわかるわー。大きな力を手に入れた瞬間の悪役って大抵大声で笑ってるけどさ、あれわかるわー。多分すごい我慢してたんだよ。いろいろと。
不安と期待が釣り合ってる状況で一気に期待の方に天秤が傾くと、どうしても成功を確信するよな。でもまだそれは成功した! じゃなくて、成功してくれ! だからまだ笑っちゃダメ。それで無事成功したら今まで溜めてきたものが爆発しちゃう感じ、まさに今の俺だ。
「牡牛の脚。蛇の尾。獅子の爪。燃えるたてがみ。燻ぶる胴。焼けただれた醜悪の頭を我に差し出せ。人の言霊に自らを縛り、我が盟に応えよ」
いよいよ詠唱が佳境に入る。
胸が高鳴り、手に汗握る。暗記した詠唱を慎重に唱えながら、巾着袋からとっておきを取り出した。
この儀式は最後に大きな火を立ち上らせて成功する。そのために用意したとっておきの道具。業火の魔筒だ。
キャップを外すと黒っぽい部分が出てくる。筒に説明書がありこの部分をこすればいいだけらしい。なんてお手軽。外したキャップと黒っぽい部分を力いっぱいこすり合わせた。
こすった瞬間、筒の先端に目をおおうような閃光が灯り、部屋を包んでいた暗闇を弾き飛ばした。ロウソクとは比べ物にならない輝きに、テンションは最高潮に達する。
うぉぉぉぉぉぉ! すげぇぇぇ! 発炎筒ってスゲーーーー!
親の車からくすねてきた発炎筒が予想以上の炎を立ち上らせたことに大興奮していると、たちまちあたり一面に煙が立ち込める。いよいよ悪魔の召喚といったシチュエーションに差し掛かったとき、ふと外からざわざわと人の声が聞こえ始めてきた。あれ、まだ授業中のはずだけど……?
そんな疑問が頭をよぎった瞬間、ジリリリリリリリリリリリリッ! とけたたましい警報ベルが鳴り響く。やばい、予想以上の煙が火災報知器に反応したか!
遅ればせながら自分の危機的状況を察知するが、時すでに遅く。
スライド式のドアが破壊されかねない勢いで開かれ、地獄の底から落ちてきた雷のような怒鳴り声が響き渡った。
「ゴラアァァ! 川西ぃ! またテメェかぁ! 毎回毎回授業サボって問題ばかり起こしやがって、覚悟は出来てんだろうなゴラァ!」
授業中に無人の教室で発炎筒を焚いた俺は、抵抗する間もなくあえなく御用となった。
だが今回行った黒魔術による召喚術は、一応の成功を収めたといっていいだろう。
召喚されたのは悪魔ではなく、悪魔も裸足で逃げ出すほどの憤怒の形相をした鬼の体育教師、谷岡剛一郎だったが。