077 ある男の人生・2
年甲斐もなく、恋をした。
五十を過ぎても結婚出来ず、中小企業の平社員という冴えない生活。恋人がいた時期もあったが、それも何年前の話だろう。
「こんにちは、平泉さん」
彼女が笑ってそう声をかけてくれる。彼女は取引先の事務員さんで、名前を玲子さんという。年は三十四歳で、バツイチの子持ち。
五十になってバツ一つないこんな私を相手してくれるわけもないが、その笑顔に日々癒されている。
「こんにちは、玲子さん。お茶もらえるかな」
私はそう言って、いつもの会議スペースに座る。名前で呼んでいるのは、事務所に同じ名字の人がいるからだ。
「はい、どうぞ。まだみなさんいらっしゃってないですから、ゆっくりしていってくださいね」
今日は打ち合わせがあるが、少し早く来てしまったので、私は会議スペースで先にレジュメを広げさせてもらう。
「あの、平泉さん。ちょっとご相談があるんですけど、いいですか?」
突然、彼女がそう言ったので、私は驚きながらも嬉しさに頷いた。
「ええ、どうぞ。僕に出来ることなら」
「たぶん出来ます。それがあの……これなんですけど」
彼女が差し出したのは、子供用のおもちゃである。機械仕掛けになっているようだが、見た目にも線が切れている。
「子供の宝物なんですけど、電池入れても動かなくて……平泉さん、機械系得意でいらっしゃるから、もしかしたらと思って……」
小さな事務所の暇な時間、彼女の申し出に、私は笑った。
「ええ、たぶん大丈夫。線を繋げば動くと思いますよ。でも、今日は道具も何もないから、宿題にさせてもらってもいいですか?」
「ええ、ぜひお願いします。ああ、よかった。うちの事務所の人はやってもらえなそうで……平泉さんなら、優しいからきっとと思っていたんです。よろしくお願いします」
彼女の嬉しそうな顔を見れただけで、やる気が出るというものだ。
私はその日、そのおもちゃを家へと持ち帰り、線を繋いだ。簡単な作業だったためすぐに直ったので、聞いておいた彼女の携帯電話に電話を掛けてみる。
『え、もう直ったんですか? すごい』
「暇なんで、今から届けましょうか」
『いえ、それは悪いですよ』
「でも、今度事務所に行くのはいつになるかわからないし。玲子さんの家、事務所の近くでしたよね? 届けますよ」
『じゃあ……お願いしちゃおうかしら』
「ええ、じゃあ近付いたら電話します」
私は意気揚々と、おもちゃを持って玲子さんの家を目指した。自転車で三十分の道のり、楽しいことしか浮かばない。
「ああ、あのマンションかな」
電話で聞いていたマンションを当て、私は彼女の部屋を訪ねる。
「もう、本当にすみません! でも助かりました。ほら、おじさんにお礼言いなさい」
彼女の言葉に、傍らにいた小さな男の子が、宝物のおもちゃを受け取ってお辞儀をした。
「おじちゃん、ありがとう。パパ! 直ったよ!」
すると、男の子はそう言って、奥へと走っていく。奥から青年が、ペコリと頭を下げた。
「すみません、子供がいて慌ただしくて」
「いや。それより、旦那さんいたんだね」
「いえ、まだ籍は入れてないんですが、あの子も懐いているのでそろそろとは思ってるんですけど」
「そうなんだ。おめでとう」
どうせこんな落ちだろうとは思っていた。私は今までと変わらないように笑顔を繕い、そう言った。
「ありがとうございます。お茶でもと言いたいところなんですけど、子供がいて落ち着かないと思うので……これ、お礼です。本当にありがとうございました!」
彼女が差し出したのは、一本の缶ビール。私はそれを受け取って、彼女のマンションを後にした。
いや、最初から下心があったわけではない。そう言い聞かせ、私は自転車に乗りながら缶ビールを口にする。
帰り道、偶然居合わせた警官に、飲酒運転を注意された。散々な恋である。