076 ある男の人生
昨晩未明、一人の男が殺された。薬物学科の大学教授であり、死因は青酸カリによる中毒死。争った形跡や外部からの侵入ではないことから、身内の犯行と思われた。自殺の可能性も消えてはいないが、奇しくも明日は男の誕生日。数日前に高級ゴルフクラブを購入している点も含めて、自殺の可能性はないと考えられた。
容疑者として挙げられたのは、男の妻である。妻は男と別居中で、男の飼う犬の世話に一日一度来る以外は、別の場所に暮らしている。
「彼女にはアリバイがある」
取り調べをする中で、刑事が眉をしかめて言った。
男の死亡推定時刻、妻は友人宅で友人とともに映画を鑑賞していたのである。
「もう一度、現場を洗おうか」
刑事は死亡現場に戻ると、部屋を見渡した。
遺体はリビングの床に倒れており、第一発見者は隣に住む夫婦で、男の異常を吠えて訴えた犬に、様子を見に来たのがきっかけだ。
リビングのテーブルには麦茶があり、青酸カリはその麦茶に混入されていたものと考える。
また机の上には、買ったばかりの高級ゴルフクラブが置かれていた。自分のために買った物だが、リボンが結ばれている。きっと明日の誕生日に、初めて使うつもりだったのだろう。
「私は青酸カリなんて知りません。どうやって手に入れるというのですか」
妻は取調室で、そう言った。
確かに、一般人が手に入れられるものではないが、男は薬物学科の大学教授である。どこからか入手していたものを、妻が知っていたとも限らない。
「ベタに氷、かな?」
刑事の言葉に、妻の顔が曇った。
「氷に青酸カリを入れて凍らせておいて、それをご主人が麦茶に入れて飲む……こうすれば、何処にいても殺せるというわけです」
「確かに……別居していたとはいえ、あの人は料理が出来ないから、料理は私が作っていました。もちろん氷も……でも、私は知りません。それに、もしお客様にお出しするかもしれない氷に毒なんて入れるわけがありません」
「なるほどね……」
「とんだ誕生日だわ……」
妻がぼそっとそう言った。
「そうですね。旦那さん、無念でしょうね」
「違います。私の誕生日です」
「え? 奥さん、旦那さんと一日違いなんですか?」
「ええ。まあ主人は誕生日を喜ぶタイプじゃありませんでしたし、他人の誕生日だって祝いもしませんでしたけど……でもやっぱり、女にとってはいくつになっても特別な日じゃないですか。今日も友達と、唯一の趣味のゴルフに行く予定でおりましたのに……」
その時、現場を見ていた刑事が取り調べ室に戻ってきた。
「事件解決! 犯人は旦那さん本人だ」
一同は目を見開く。
「え、じゃあ自殺だっていうんですか? でも……」
「遺書が見つかったんだよ。というより、あなたへのプレゼントです」
そう言って、刑事はリボンの結ばれた高級ゴルフクラブを妻に手渡した。
「奥さん、ここを見てください」
刑事が指差したのは、ゴルフクラブに結ばれたリボンである。そこには、“Thank you, my Wife. Good-bye, my Life”と書かれていた。
更には、しばらく使われていなかったはずの地下室で、青酸カリが保管されているのが見つかった。地下室は暗室になっており、現像したばかりの古いフィルムが見つかった。
「奥さん、地下室はしばらく使っていなかったんですかね?」
「ええ、主人は写真が趣味でしたから、以前は古いカメラで撮影しては地下室で現像していました。足腰が弱ってからは地下室には入っていないと思いますし、最近はデジタルカメラになっていましたし……」
「たぶん、青酸カリはその古いカメラに必要だったものでしょう。おそらく旦那さんは、何らかの用があって地下室に入ったのでしょう。そのきっかけが、掃除だったのか、たまに入りたくなったのかはわかりません。でもその拍子に、未だ現像していないフィルムを見つけたようです」
「写真、ですか?」
不安げな妻の目の前に、刑事は数枚の写真を取り出す。それはまだモノクロの古ぼけた写真で、夫婦がまだ若かりし頃の写真であった。
「ああ、懐かしい……」
思わず言った妻に、刑事も頷く。
「そう。旦那さんもその懐かしさを思ったのでしょう。そしてまた、旦那さん自身の人生を振り返ったのかもしれない。ゴルフクラブは写真を現像したより後に買いました。そのリボンに書かれたメッセージから察するに、すでに自殺することを決められていたのでしょう」
やがてその地下室から、正式な遺書が見つかった。
若かりし写真を見て、自分の人生を振り返り、冷静になったこと。離婚したがる妻を解放出来ず、自分がいなくなったほうが良いと思い立ったことなどが綴られ、たまたま身近にあった劇薬で自殺を図ることにしたと推測出来た。
「馬鹿ね、あなた……どうして最後まで、一人で勝手に決めるのかしら……最初で最後の誕生日プレゼントがこれだなんて……あんまりだわ」
妻は冷めきった目に光を取り戻し、涙を流した。若かりし写真で笑う若夫婦は、こんな日が来ることなど夢にも思わず、屈託のない笑顔を向けている――。