071 DV
あれは些細な喧嘩だったと思う。僕は妻の純と大喧嘩をし、そのまま純は家を飛び出していった。着の身着のまま、持って出たのは置いてあったバックのみ。その中に入っていたものは、財布くらいなものだろう。携帯電話すら、リビングに置きっぱなしである。
「ぎゃーぎゃー」
泣き叫ぶ赤ん坊の娘をあやしながら、僕は溜息をついた。
「すぐ帰ってくるだろう……」
だがその日、純は帰って来なかった。
次の日、僕は仕方がないので近くに住む両親に娘を預けた。両親は純を気に入っていなかったから、ますます小言を繰り返す。でも、娘を一人きりには出来るはずもなく、僕は会社へと出勤する。
その日、営業の外回りで自宅近くを通った僕は、ふと気になって自宅マンションへと戻った。こんな時間に帰るなんて初めてのことである。
ドアを開けるなり、驚き、怯えた様子の純がいた。まさに家を出ようとしていたところらしく、純の手にはボストンバッグが下げられている。
「純、おまえ!」
僕は純の首根っこを捉まえ、リビングへと引きずり戻した。
「やめて! 叩かないで!」
叩くより先に言った純に逆上し、僕は彼女の頬を叩く。腹を蹴る。それでも怒りは収まらない。
「よくも僕に恥をかかせやがって! お母さんがまた怒ってたぞ。赤ん坊残して何やってんだ!」
僕の言っていることは正論のはずだ。なのに、なぜ純はこうも僕に逆らうのか。
「やめて!」
僕を止めようと立ち上がった純を振り払い、その拍子に純はテーブルの角に頭をぶつけ、ぐったりとなった。頭からは血が流れ出しているのがわかり、やっとそこで僕は我に返った。
「じゅ、純……ごめん。ごめんよ」
「救急車、呼んで……」
「うん……いや、待てよ。おまえ、この状況をどう言うつもりだ?」
まるで僕が悪者みたいじゃないかと思った。
そんな僕を睨みつけて、純はゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、一人で行くわ……」
僕は放心状態で、純が出ていくのを止めることすら出来なかった。
その日のうちに、とある機関の人が数人やってきた。
「純さんを保護しています。あなたのやっていることは立派なDV、ドメスティックバイオレンスなんですよ」
聞けば、夫や恋人の暴力から逃れるための支援施設に、純は世話になっているらしい。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕だけが悪いんですか? 原因はあいつなのに!」
「原因はどうあれ、弱者に手を上げるということは犯罪なんですよ」
「犯罪って……そんな大げさな。僕こそ被害者ですよ。そりゃあ、思わず手が出たことは謝ります。でも、あいつの……純の言葉だけで僕を加害者にしないでください」
「それはもちろんです。あなたの言い分は大いに聞きます。しかし、あなたの暴力は今回が初めてではありませんね? 純さんの体には、治りかけの痣が無数にありました。他にも言葉の暴力、医師の診断でも、人為的な傷だということわかりました」
僕は純に対する怒りがこみ上げてくるのを、ぐっとこらえた。
そして僕は今日、犯罪者になった。こんなに身近に潜んでいたことに、僕は少しも気付かなかったんだ。僕自身の狂気に――。