066 異国の街にて
彼女にフラれた夏、僕は失恋のショックを癒すため、大した準備もせずに外国へと旅立った。商社に勤めているので金はあるし、彼女のいる日本じゃない何処に行ければそれでよかった。
北欧の国で、僕は何するでなく公園のベンチに座ったまま、ただその街並みを眺める。見なれた日本じゃないために、その風景は動く美術のように新鮮で美しい。
「―― ―― ――?」
突然、間近で女性がそう話しかけてきた。だが、異国の言葉で何もわからない。
だか彼女は、諦めることなく身振り手振りで僕を見つめる。
僕は持っていた電子辞書を開こうとしたが、彼女のジェスチャーを見てひらめく。
「ここにずっといるから、どうしたのって聞いてるの?」
今度は僕が異国の言葉だったので、彼女は首を傾げた。
僕は自分を指差して言った。
「ケン」
「ケン?」
「そう、ケン」
彼女は嬉しそうに笑い、今度は自分を指差す。
「エレナ」
「エレナ」
名前だけわかっただけなのに、僕らは意気投合していた。
ジェスチャーだけでも伝わるものだ。エレナは近くのレストランのウエイトレスをしており、年は二十三歳。長時間ただ座っているだけの僕を見て、声を掛けてくれたらしい。日本語を教えてあげると、とても喜んだ。
異国の地で、異国の人と触れ合う機会があるとは思ってもみなかった。だって僕はただ、傷心旅行に来ただけなのだから。
「ケン。アリガトウ」
食事を共にした後、覚えたての日本語で、エレナはそう言った。
僕は頷き、ありがとうとエレナの国の言葉で返す。
それから僕らは、その場で別れた。会う約束もしなかったのは、明日には帰るからだ。これ以上の情などいらない。
ホテルに戻った僕は、財布がないことに気がついた。
「やられた!」
そう思ったが、カード類は別の場所に持っていたので無事である。財布には小銭程度しか入っていなかったから諦めがつくが、パスポートが一緒だったことを思い出し、僕は顔面蒼白でホテルを飛び出した。
思えば、僕が女性に声を掛けられるはずがなかったんだ。でも彼女は、いい紛らしになってくれた。金はその代償と思えば、高くはない。だが、パスポートは別である。
ホテルを出たところで、目の前にはエレナがいた。
「エレナ……!」
エレナは眉をひそめ、僕のパスポートと財布を差し出す。
「エレナ……?」
そう言ったところで、エレナは涙を溜めて僕に抱きついた。何が起こったのか、僕は少し身構えたままわからない。
その時、慌てた様子の警察が、エレナの手を掴んだ。その様子から、エレナが観光客目当ての泥棒だということを悟った。
僕は警官を静止して、エレナを庇う姿勢を取ったので、警官は静かに去っていった。
「ケン……」
庇った僕に何度も頭を下げながら、エレナは僕の体を掴む。まるで日本に帰らないでと言っているようだ。言葉はわからなくとも、彼女が僕のパスポートを盗ったのは、僕にまた会いたかったから、そう思うことにした。
僕はエレナを宥めながら、小指を差し出す。エレナは首をかしげながらも、自分も小指を出した。やがて絡んだ小指同士、上下に動かす。
「また会おう、エレナ」
僕はエレナに日本の住所を教えると、涙に濡れたエレナを置いて、静かにホテルへ戻った。
それから僕は、日本に戻った。
日本では、僕が失恋したのを知っている人たちから慰めの連絡が入ったが、その頃にはすっかり傷も癒えており、エレナとの一日が輝いて残る。
それからエレナには会っていない。でも、年に一度届くクリスマスカードには、変わらぬエレナの笑顔が映っており、僕の心は異国へと馳せる。