060 たったひとつの香り
「あ……」
人ごみの中、私はふと振り返った。
「どうかした?」
先を歩く女友達の声で我に返り、私は小走りで近付く。
「ごめん」
「まーた、愛しのカレ?」
「……ごめん……」
あの人と、同じ香水だった――。ただ、それだけ。それだけなのに、私は何度も振り向いた。
彼とは一度だけ会っただけの人。満員電車を降りた朝の駅で、気分が悪かったのを助けてくれた。名前も言わずに行ってしまったので、私の気持ちは宙ぶらりんのまま……。
「よし、そんなに言うなら、確かめに行こう」
「え?」
友達に手を引っ張られて、私たちは近くの百貨店へと入っていった。連れて行かれたのは、香水専門店。
「ここ?」
「そう。匂いで思い出すことがあるかもしれないって思ったのよ。ハイ、どんな匂いだった?」
友達に言われて、私は香水のテスターを嗅ぐ。店員さんも交えての、匂い探しが始まった。
「うーん、もう少しフローラルっていうか、なんだろう……」
「じゃあ、こういうのかな?」
「あ、これ!」
私は突然、そう叫んでしまった。彼の匂いだ。
「これを買うお客様は、学生さんが多いですよ」
店員さんの言葉に、私たちは頷いた。これで一つ情報が得られたというわけだが、肝心の人が見つからない。
「でもこれだと思うんだけど、もう少し違うような……」
「香水というのは、香りに段階があるんです。同じ香水をつけても、最後に香る香りはその人だけの香りになるんですよ」
「じゃあ私が思っている香りって、その人だけの……」
「そうかもしれませんね」
そんな話を聞いて、私たちは百貨店を後にした。私は思わずその香水を買った。
「でもさ、もし愛しのカレを見つけたとしても、どうするつもり? 香水まで買っちゃって」
いきなり現実に戻した友達に、私は空を見上げる。
「……いいの。彼女がいても覚悟は出来てる。なによりお礼が言いたいし、ためらいもせず助けてくれたことが人として素敵。なんかこの匂い嗅いでると、私まで勇気もらえるって感じで……」
その時、人ごみの中で、私はふとすれ違う人と目が合った。
「見つけた……」
思わずぼそっと言った私は、目の前にいる男性の腕を掴んだまま、目が逸らせない。
「同じ香りがする」
男性が、静かにそう言った。
「あ、あなたを探していたんです!」
人目もはばからず、私は彼にそう言った。