362 最期の告白
夫婦になって五十年。
一緒に年老いてきたけれど、見合い結婚をし、出産、子育て、定年退職など……さまざまな行事を共に過ごしてきたものの、ただの一度も、愛しているとかそういう言葉を聞いたことがない。でも、それが私たちの時代では当たり前のようになっているし、彼が私のことを大切に思っていることはわかるので、私はこの人生に満足している。
でも今、目の前の彼を見て、私は人生を振り返る。
最近の彼はいわゆる痴呆が進み、この間は徘徊し、町内中を騒がせてしまった。
世話をするのは正直疲れたけれど、苦ではない。ただこのまま私のことも忘れてしまうのかと思うと、やはり寂しさから逃れられない。
「今日は少しすっきりしてるんだ。何か書くものはあるかな」
彼が言うので、私は彼に紙とペンを渡すと、彼はすらすらと文字を書き始めていた。
今は調子のいい日はこんな感じだが、まったくわからなくなる日もあり、浮き沈みが激しい。
「何を書いているの?」
聞いてみたけれど、彼は答えてはくれない。
やがて書き終わった彼は、早々に封筒を取り出し、封をしてしまった。
「誰かに手紙ですか?」
そう聞いてみたけれど、彼は微笑し、封筒に「遺書」と書いた。
「あなた……」
「俺になにかあったら、これを読みなさい」
そう言って、彼は茶箪笥の引き出しにそれをしまう。
私はなんだか悲しくなってしまい、もうそれ以上何も言えなくなってしまった。
それから何年も月日が経ち、私たちはそれからも長く寄り添うことが出来た。
そして先日、彼が先に旅立ち、私はあの時の遺言書を思い出して茶箪笥を開けた。中には少し古びた茶封筒。私もそろそろ後を追うだろうに、その遺書を開けてみる。
思えば長い人生でした。
ですが、あなたのおかげで実に有意義な人生でした。
いつも家や僕のことを任せきりにしてすみません。
あなたと結婚できてよかった。
こんな僕についてきてくれてありがとう。
ずっと好きでしたよ。
僕は先に逝って待っています。
あなたはもう少し長生きして、疲れたらこちらへいらっしゃい。
当時すでに震えた彼の字は、遺書という名のラブレターだった。
私とって最初で最後の、彼からの告白でもある。