320 憎まれ口
結婚後してしばらくして復職した職場にいた上司は、私の後輩でした。まあよくあること。私が昔、彼をいじめていなければ――。
「美咲さん。この書類はなんです?」
彼に言われ、私は目を泳がせながらも、大きく口を開いた。
「先日ボツになった企画の改善案です。いい企画でしたので、こうすれば今の企画よりもっとよくなるはずというのを、グラフにしてまとめてみました。一度目を通していただければと思い……」
「仕事熱心なのもいいですけど、周りが目に入っていないようですね。今、我々は、新しい企画に向かって一丸となってやっていかなければならない時期に、ボツになった企画を練り直すと?」
不覚ながら彼の言葉は、彼が新入社員だった頃に、私が言い放った言葉。
「……ご一読いただければ結構です」
「復職して間もないので、実績を上げようと必死なようですね。ブランクはあなたを馬鹿にさせたんですか? 上の決定に従えないと?」
「すみません……考えが浅はかでした。その書類は破棄します」
そう言って書類に手を出した私より先に、彼は書類をしまった。
「一度提出した書類です。破棄ならこちらでやりますから、もう戻ってください」
「わかりました。失礼しました」
クソ……と思うと同時に、せっかく復職したからには、どんなことにも耐えてこの会社でもう一度頑張らなきゃという気持ちもある。せめて彼を昔いじめてなければと思うけれど、当時の私は自信に満ち溢れていたし、新入社員の彼が使えなかったのも事実。まあ、もう少し言い方があったとは思うのだけれど――。
今さら後悔しても遅い。どうあがいても、彼は私の上司なのだから。でもこの会社は好きだし、大手企業に復職出来たのも奇跡に近い。待遇もいいから辞める気にはなれない。
しかし翌日、緊急会議が招集され、昨日出した私の企画案が全員に配られ、私は拍子抜けして彼を見つめた。
「先日ボツになった企画の改善案を、美咲さんが作ってくれました。読んでみたら、なかなかよく出来ている。よって、ボツになった企画を再検討することにしました」
「待ってください。ただでさえ新企画にてんてこまいの状態なのに、同時進行でやるというのですか?」
同僚からの反発は当然のことだと思う。私もすぐに再検討してほしかったわけではなく、今後何かの役に立てばと思ったのだが、彼の表情は変わらない。
「大企業である我が社が、一つの企画にかかりきりというのはおかしい。今までだって同時進行でやってきたでしょう?」
「規模が違います。今回の企画は、会社全体で動いてもおかしくないほどのものです」
「あの……私もすぐに検討してほしくて出した企画案ではありません。再検討してくださるのは嬉しいのですが、今すぐというのは無茶かと……」
私もそう言った。すると、彼は眉を顰める。
「僕はせっかちなんです。目の前にこれだけいい企画があってやらないのは気が引ける。企画を温めすぎてボツになることも多々あるし、これはすぐにやらないと、すぐに他社が嗅ぎ付けることでしょう。では今日出した企画は、美咲さんにお任せします。人手がないので、補佐は僕がします」
「部長がですか?」
「人手がないので仕方がないでしょう? 新企画が落ち着いたら、みなさんにもこちらの企画を手伝ってもらいます。では以上。美咲さんは、ここに残ってください」
そう言われ、全員が会議室を出ていく中、私は彼と二人きりになった。
「あの……先程も申し上げましたが、今すぐでなくても……それに、なんで急に?」
私が言うと、彼は息を吐いた。
「僕も同じことを二度言いたくはないですね。これはすぐにやったほうが価値が出る。大丈夫。かつてやり手だったあなたならわけないでしょう? それに、これはあなたにとって復職後最初のチャンスなんです。僕も期待してますよ」
そう言った彼の顔はどことなく輝いていて、からかうような笑顔が憎たらしくも思える。
「部長。私が……嫌いですか?」
思わず言ってしまった私に、彼は微笑む。
「大嫌いです。でも僕は、公私混同しませんからご安心を」
彼はそう言って去っていった。
「ああそうですか。私だって大嫌いですよ」
こんな私たちに恋が生まれるのは、もっと後の話――。