308 誘惑
「俺を愛しているなら死んでくれ」
夫の言葉に、妻は絶句する。
「なにを言っているの?」
妻は後ずさり、夫から目をそらした。
だが夫は、妻の肩をがっしりと掴む。
「俺のことが好きじゃないのか?」
「……好きじゃないと言えば、私を許してくれるの?」
「いいや。おまえはここで死ぬ運命なんだ」
夫の言葉に、妻は受け入れたように力を抜いた。
「わかったわ。でも、せめて死に方だけは私に選ばせて。そうね……車で崖に突っ込むのはどうかしら」
「派手でいいんじゃないか? 死に方はどうでもいいさ。とにかく今夜だ。今夜おまえは死ぬんだ」
「ええ、いいわ。でも一人で死ぬのは怖いの。離れたところでいいから、見ていてほしい」
「ああ。それなら俺には見届ける義務があるから。そうだな……最初にデートしたあの峠にしよう。俺は展望台の駐車場にいる。あそこなら見えるだろう」
おかしな夫婦の会話だった。だが夫には、妻が言いつけどおりにすることはわかっていた。それは、妻が異常なまでに夫に執着し、愛していたからである。
夫は目を伏せ、近くに置かれたボストンバッグをちらりと見つめた。中には大金が入っているはずで、先程、店に押し入った際に奪ったものだ。
動転しながらも、夫は冷静に妻を見つめ、妻に罪を被せようとした。
妻は異常な愛情で夫の言いなりになることを決意し、着々と準備を始める。不思議なことに妻が冷静なのは、危険なまでの夫がいつかこんなことを言い出すのではないかとわかっていたからである。
とはいえ、横暴すぎる申し出だが、妻は愛のもとにその申し出を受けた。
「最後に化粧したいの。ちょっとでいいからここを出てくださる?」
妻の申し出に、夫は妻を抱きしめる。
「こんなことになってしまってすまない。すぐに俺もおまえを追いかけるから。愛してるよ」
心にもないことだったが、夫はそう言って、リビングから出て行った。
妻は最後の化粧をし、息をつく。いけない男を愛してしまったのだと、理由も聞かずに死を受け入れる自分に笑った。
「さあ、行きましょうか」
疲れた様子で、妻はひとり車を走らせる。夫は別の車で、同じ峠に向かったはずだ。
その日、確かに峠から車は落ちた。と同時に、展望台の駐車場で、人知れず一台の車が燃えた。
燃えた車には、夫の死体があった。崖を落ちた車からは、見知らぬ男の死体があった。
「私を好きなら死んでほしいの」
数時間前、妻が愛人の男に下した命令――。
消えたのは、大金の入ったバッグのみである。