303 ぼくのバラ
あの人は、いつも空ばかり見てる。
しがない庭師の僕は、お屋敷のテラスにいる奥様をぼんやりと見つめていた。
「ハリス。手が動いてないぞ」
そう言われ、僕はハッとして、目の前のバラ園を剪定する。
途端、バラのとげが指に刺さり、僕は苦痛に顔を歪めた。
「痛っ!」
その時、僕はまたもハッとして、テラスにいた奥様を見つめた。
奥様はこちらに気付いており、庭師なのにバラにとげを刺された僕に、くすりと笑っている。なんという恥ずかしいことだ。
「すみません、奥様。息子がお見苦しいところを……」
そばにいた僕の父が、僕より先に奥様に謝る。僕も後からお辞儀をした。
「いいのです。庭師とあれど、バラのとげには敵いませんでしょう。ハリス、すぐに手当してもらいなさいな」
「は、はい。ありがとうございます、奥様」
僕の返事を待たず、奥様はまた空を見上げている。
奥様というにはまだ若いその女性は、昨年、旦那様を空の事故で失くした。それから暇があるたびに、空を見上げて旦那様を想っているんだろう。そう思うと、僕の心は痛くなる。
次の日。お屋敷では、旦那様が亡くなられてからあまり行われなかった盛大なパーティーが行われていた。今日は奥様の誕生日なのである。
たくさんのご来賓の中で、奥様は笑顔を見せながらも、時折、空を見つめていた。
庭師の僕はもちろんパーティーになど参加出来ないし、奥様に渡すような高価なプレゼントは変えないから、そんな奥様の様子を、庭先からひっそりと見ていることしか出来ない。
そんな時、奥様がひとり、テラスからバラ園へと下りられてきた。
「イタッ……」
不意にバラに触ろうとして、奥様がお怪我をなされたので、僕は思わず姿を現す。
「ハリス……どこから来たの?」
「突然すみません。少し手入れをしていたもので……手を見せてください」
僕の言葉に、奥様は無言のまま手を差し出す。
透き通るような折れそうな細い指先に、とげが刺さっている。僕はそれを抜くと、奥様にお辞儀をした。
「僕のような汚い手で申し訳ありません。医務室できちんと消毒していただいてください。また、これからバラ園のバラは、出来るだけとげを取っておくようにいたします」
そう言った僕に、奥様は微笑みをかけられる。
「バラはとげで自らを守っていると聞きました。私がよそ見をしているうちに、バラを傷つけようとしたのかもしれません。とげを取ってしまったら可哀想だわ。そのままで結構よ」
「奥様……かしこまりました。それから遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます。ですがあいにく、僕には奥様に見合うだけのプレゼントが用意出来ず、申し訳ございません」
恥を忍んで、僕はそう言った。
すると奥様は、優しい笑顔で首を振る。
「あなたのプレゼントは、このバラ園でしょう? 何日もかけて、この日のために手入れしてくれていたのを知っているわ。ありがとう、ハリス」
「恐れ入ります、奥様……」
「私は馬鹿ね。あの人が亡くなって空ばかり見ていたけれど、地上にはこんなに美しいものがあったのに」
バラ園はキラキラと輝く。その中にいる奥様もまた、それ以上の輝きを見せていた。
「奥様が望まれるならば、このお屋敷じゅうを美しい園に致しましょう」
「ありがとう、ハリス。その頃には私の心も、空から解き放たれるでしょう」
奥様の笑顔のためなら、僕はなんだってするよ。
それに応えてくれるように、花たちも美しく輝いた。