029 ストリートミュージシャン
深夜の商店街に、歌声が響く。拙いギター、耳ざわりな声。
それでも彼は、歌い続ける。
「ありがとうございました……」
あれだけ大声で歌っていた直後、か細い声で彼は礼を言った。
人通りもあれば、目の前には居酒屋から出てきてたむろしている若者もたくさんいる。だが、彼の歌に耳を傾ける者も、もちろん彼のギターケースに金を入れる者もいない。
それでも彼は、歌い続ける。
「最後の曲にしよう……」
また彼は、独り言のようにそう言って、ギターを爪弾きはじめる。
「ねえ」
その時、一人の少女が声をかけてきた。
彼は驚き、ギターを弾く手を止める。
「え?」
「ねえ、それ弾かせて」
少女はそう言って、彼のギターを指差す。
「駄目だよ」
「いいじゃない。ちょっとだけ」
そう言って、少女は奪うように彼からギターを受け取ると、突然、早弾きを始める。
そばにいた人たちが、驚いてこっちに目を向けた。
「上手い……」
彼は目を丸くして、少女を唖然と見つめた。
やがて人だかりが出来て、少女は彼にギターを差し出す。
「楽しかった。ありがとう」
「……これだけ人集めといて、返すのかよ」
彼は少しむっとして、少女に言い放った。少女に嫉妬しているのだ。
だが少女は、歯を見せてにっこりと笑う。
「私は前座よ。華のないあなたのためにお客さんを集めてあげただけ。大丈夫、自信持ってやりなさいよ。あなたの曲はいいと思うよ」
そう言って、少女は立ち上がった。
「さっきの曲、弾いて」
とっさの少女からのリクエストに、彼はもう反論すら浮かばないようで、無言のままギターを弾き始める。
少女が集めた客は、もう帰ろうとはしなかった。
初めて掴んだ客がいるという感触に、彼は満足して一曲を終えた。それと同時に、拍手が沸き起こる。
「あ、ありがとうございます!」
いつになく大声で、彼はそうお辞儀をした。だが、大勢いる客の中に、もはや少女の姿はなかった。
あれから数年が経ち、彼はホームグラウンドのようなその場所に降り立った。変わらない夜の商店街は、新しいストリートミュージシャンたちが何組か見える。
彼は腰を下ろし、ギターを鳴らし始めた。途端に客が集まる。
「おい、あれって……本物?」
客たちがざわめき始めた。今でこそトップミュージシャンになった彼を、この街で知らない者はいない。
「サインください。今日はどうしてここへ?」
曲が終わるや否や、彼はたちまち客に囲まれ、サインをせがまれた。
彼は優しく微笑み、それに応じる。
「ここは僕の原点なんです。ここである人に会わなければ、今の僕はここにいない。恩返しも含めて、今日は……」
そう言った彼の目に、見覚えのある少女が立っていた。たった一度しか会ったことのない、彼にとっては幸運の少女である。
あの日、少女のおかげで客を掴み、マスコミ関係の目に止まったのは、彼の実力だけではない幸運が重なったことである。
「あ……」
彼が少女に声をかけようとしたその時、少女は笑って去っていった。
声にならず、客に囲まれている彼は、少女を目で追うだけで何も出来ない。
だが、遠く消えた少女は、かすかに見える新しいストリートミュージシャンの輪に入り、ギターでも弾いているようだった。
彼は静かに笑い、何曲か弾いてその場を後にする。やがて途絶えかけた商店街の隅で、人だかりを見つけた。その中心には、ストリートミュージシャンがいる。
「いい声だ……」
彼はそう言って、ストリートミュージシャンを覗く。
やがてライブが終わり、消えかけた人だかりを見計らって、彼はストリートミュージシャンに声をかけた。
「ここではいつもやってるの?」
「え? あ、はい……」
ぶっきらぼうなストリートミュージシャンが返事する。彼はキャップを被っているせいか、まだ面が割れていないようである。
「もしかして、さっきここに、飛び込みで女の子がギター弾いてなかったかな?」
「え? はい、弾いてました」
何かの運命を見ているかのように、彼の口元が緩んだ。今度は自分が役目を果たすべきなのだと思う。
「君、事務所に入ってみる気はないかい? 推薦するよ」
彼と少女の、奇跡のお話……。