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271 あの日の真実 ~横浜米軍機墜落事故~

これは1977年に横浜市で実際に起こった事件をもとに描きました。脚色はしましたが、事実に基づいた出来事です。

 一九七七年九月二七日。神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)――宅地造成で新しい家々が立ち並ぶ中に、私たち家族も住んでいました。

 いつもと変わらない、静かな日常。それをかき消すかのようなけたたましいまでの轟音が、突如として辺りを包み込みました。轟音がものすごい勢いで近付いてくるのがわかりましたが、もう逃げる暇もなく、気が付けば、辺り一面が火の海に包まれ、私は幼い二人の我が子を抱きかかえ、外へと飛び出したのです。


 何が起こったのかわかりませんでした。

 あとで聞いた話では、それは米軍のジェット機が、私の家に落ちたということ。パイロットは早々に脱出したので無傷でしたが、すぐに駆けつけた自衛隊はパイロットを収容して帰ってしまい、私たちは近所の住民や、宅地造成工事をしていた人たちによって助け出されたということでした。


「和枝……和枝!」

 遠くで夫や父の声が聞こえましたが、私の体は動きませんでした。

 一週間以上も視線を彷徨った私は、ようやく目を開け、いの一番に、目の前にいる夫と父に尋ねます。

「裕一郎は……康弘は?」

「……二人は別の病院で頑張っているよ」

「そう……あの子たちも、頑張ってるのね……」

 暗く頷く周囲に負けないように、私は子供たちに会うために頑張ろうと思いました。

 三歳になる裕一郎、一歳になったばかりの康弘。あの子たちは私の生きる支えです。あの子たちが頑張っているならば、私も頑張らねば、と思うのです。


 病院での治療は、口では言い表せないほど過酷なものでした。

 全身八割もの火傷を負い、失われた皮膚が化膿しないために、硝酸銀の薬浴。全身を刺すような痛みは、死んだほうがましだと思うほどでした。

 それでも私が耐えたのは、同じように頑張っている我が子に会うため。そして我が子をもう一度この手で抱くため以外にはありません。


 やがて、私のために大量の皮膚移植が必要になりました。家族だけでは皮膚を補いきれないため、「皮膚をください」と異例の見出しで新聞やニュースでも取り上げられ、最終的に千五百人もの申し出があったと聞き、私は本当に心から感謝しました。

「元気になったら、福祉の仕事をして恩返しをしたい」

 そう決意し、皮膚を提供してくださった方々のためにも、どんなに辛い治療も頑張らなければと思うようになったのです。


 そんな中で、私の生きる支えである子供たちが、事故翌日に亡くなっていたことを、聞かされたのです。

「嘘……嘘よ! 嘘だと言って――!」

 涙が涸れるまで泣き続けても、私の子供たちは返ってこない。

 裕一郎の最期の言葉は「パパママバイバイ」。康弘は、よく一緒に歌っていたハトポッポの歌を歌いながら亡くなったそうです。

 なんてかわいそうなんだろう。怖かったでしょう。熱かったでしょう。痛かったでしょう。苦しかったでしょう。あの子たちのことを考えると、私はめちゃくちゃになりそうでした。

「これから何を支えに生きていけばいいの……」

 思えば、二人の様子を聞いても、誰も簡単な返事しかくれなかったのはそういうことだったのだと、今気付きます。でも、黙っていた人たちを恨む気はなく、むしろ感謝せねばと思いました。

「……皮膚を提供してくれた人たちのためにも、私の命は無駄には出来ない。あの子たちのぶんも……生きるわ」

 やがてそう決意をして、私は少しずつ立ち直ろうと努力することにしました。


 でも苛立ちもあれば、憎しみもあります。そして私の知らぬところで始まっていた心理療法によって、私は夫とすれ違い、離婚。看護師さんにまで当り散らすように、私の心はどんどん荒んでいくのがわかりました。

 また、不誠実な態度の政府を許すことが出来ず、何度も電話をかけて抗議したりしましたが、そのうち電話も繋がらなくなり、私は病院まで追い出されることになったのです。


 半ば強制的に入れられた病院は、精神病患者のみを扱う病院でした。

 鉄格子のはめられた病室に、私は怒りもし、絶望もしましたが、献身的に看病してくれる両親のためにも、元気を取り戻さなければという気持ちになります。

「生きる支えはもうない。でも私には、失うものももう何もないわ。元気になりたい。みんなに恩返ししたい」

 私の支えは、今も絶えず全国から届く、激励のお手紙に変わっていました。

「ありがとう。元気をくれて……私も頑張ります」


 けれどそんな時、私の喉につけられていた、呼吸を補助するためのカニューレが抜かれたのです。

「苦しいから、カニューレを戻してください」

 何度そう頼んでも、この病院には呼吸器の専門医師がいないから勝手には戻せないと言われ、戻してはもらえません。

 元いた病院の先生を呼ばなければならないらしいのですが、詳しい話が出来ないので、とりあえず父を呼びました。とはいえ父も、この病院から一時間以上離れた場所に住んでいるため、来るのは容易ではありません。

 それでも来てくれた父に、私は必死の目で訴えました。

「お父さん。苦しいの……助けて……」

 私を見てすぐに病院へ掛け合ってくれましたが、父が話しても埒が明かないようで、そんな中で消灯の時間がきたということで、父は追い出されるように帰されてしまいました。


「苦しい……誰か……助けて……苦しい……」

 私の人生はなんだったのか。生きる気力はなくとも、生きなければと思う。両親のために、私を支えてくれた人たちのために、失われた子供のために、生きなければ……生きたい……。


 一九八二年一月二十六日、午前一時四十五分。

 植物人間状態になった私は、そこで三十一年の生涯を閉じた。


 無念でならない。私がどんな悪いことをしたというのだろうか。

 ただ生きていただけ。ただ平穏な日常を送っていただけ。それはどこも人と違わない。それを突然めちゃくちゃにされ、命より大切な子供を二人とも失った。

 そんな私の代わりに、誰か闘ってくれますか。ええ、わかっています。今も各地で起こる同じような米軍の事件に、闘っている人がいるということを。今でも私たちのことを忘れないでくれている人がいるということを。


 ああ、ではせめて私は、天国であの子たちを思いきり抱きしめたい。

 そして祈るわ。穏やかな空が戻ってくる日を。あんな恐怖のない、平和な未来を――。

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