220 指輪の勇気
ポケットに忍ばせた小さな箱には、銀色の指輪が入っている。
店で見たきり、ラッピングしてもらったので、僕はその指輪にさえ触れていないが、今日が僕にとって最大の勇気を出さねばならない日であることは、重圧となって押しかかっている。
いや、今日が人生最大の勇気――というのは、実のところ今日が初めてじゃない。
先日の週末も、同じレストランに来たが、結局勇気が出せず、彼女に告白することは出来なかった。
「週末ごとにこんなお洒落なところじゃなくていいのよ?」
彼女はそう言って笑う。
確かに付き合いはじめの頃は、それこそ居酒屋でもファミレスでも、どこでもよかった。
でも今は、居酒屋で告白なんて、彼女にも可哀想じゃないか。
僕は早くこの指輪を渡さねば、と思った。
「あ、ごめんなさい。職場からだわ。ちょっといい?」
彼女はそう言って、携帯電話を持って、店の外へと出ていった。
大手企業に勤める僕ら。彼女の部署は忙しくて有名だ。デートの途中でいなくなるなど、ざらにあった。
やがて戻ってきた彼女は、案の定すまなそうな顔をしている。
「ごめんなさい。ちょっとトラブってるみたいで、行かなきゃならないの……」
「……今日は休みだろ? 君じゃなきゃならないことなの?」
思わず僕はそう言った。
「ごめんなさい……」
彼女は謝るばかりで、もうすでにバッグを持って構えている。
「次は……いつ会える?」
「わからないわ。このところ残業が続いてて、今度の休みもどうなるか……」
「そう……」
「ごめんなさい。多分、週末なら……」
「もういいよ。早く行ったほうがいい」
「うん……ごめんなさい」
そう言って、彼女は店を出て行った。
仕事に打ち込む彼女に寂しさを感じる一方で、それを認めている自分がいる。確かに彼女は有能だ。そんな彼女に惹かれたのだから、それを奪う権利など僕にはない。
一人残された僕は、目の前のフランス料理をただただ食べ続ける。空しい味がした。
僕のポケットに入った指輪は、このまま渡すことなど出来ないのかもしれないと思った。
「ごちそうさまでした」
会計を済ませて店を出た僕は、背広の内ポケットに指輪がないことに気付き、慌てて店へと戻った。だが、どれだけ探しても見つからない。
奮発して高い物を買わなければよかったと思う一方、失くしたのはやはり彼女に言い出せないというきっかけを与え、僕は自暴自棄になる。
「もういい。神様がやめろって言ってるんだろ……」
僕は空しく笑って、家へと帰っていった。
次の日。会社では一つの噂で持ちきりだった。それは、マドンナ的存在である僕の彼女が結婚するというのだ。
僕らの交際は社内で秘密にしていたので、相手は誰なのかと僕も気になった。
その日、たまたま廊下ですれ違った彼女を見て、僕は驚愕した。
彼女の頬は赤く染まり、そしていつもより輝いている。なによりその左手の薬指には、見なれた指輪がはまっていた。
「それは……」
「ありがとう。あなたの気持ち、受け取ったわ。これが私の答え」
白昼の会社で、彼女は左手を見せながら、頬を染めてそう言った。
だが、僕には何が何だかわからない。
「……その指輪、どこにあった?」
「昨日帰ったら、バッグの中に……指輪にあなたと私の名前が刻まれていたから、てっきりあなたからのプレゼントかと……違った?」
不安げな様子の彼女を、僕は思わず抱きしめた。
「違わないよ! 大好きだよ。僕と……結婚してくれますか?」
「はい。お願いします」
人目も気にせぬ白昼の社内で、僕らはそう交わした。
なぜ指輪が、僕の背広の内ポケットから彼女のバッグに入っていたかはわからない。
でも、今は思える。神様が僕の後押しをしてくれたんだって。
もうグズグズしたくない。何よりも大切な、彼女を手に入れることが出来たんだから――。