201 プロミス
約束したんだ。一本の樹に。
あの日、僕はお母さんとさよならをした。離婚して、僕はお父さんに引き取られることになったからだ。
「樹。この木を大事になさいね」
大きな屋敷の片隅に佇む、まだ小さな椎の木の前で、お母さんはそう言った。
この木は僕が生まれた時、お父さんとお母さんが二人で植えた木だと聞いている。だから僕はそれこそ赤ん坊の頃から、この木と一緒に大事に育ってきたんだ。
「うん。この木は、家族の思い出だもんね。それに、僕も分身みたいに思ってるよ。大事にするからね」
そう言った僕を、お母さんが優しく抱きしめる。
この大きな屋敷に縛られ、お母さんは僕を引き取ることも出来ないのだと、後で知った。
「ごめんね、樹……樹が大きくなるのを見られないのが悲しい……でも、お母さん、ずっと樹のことを思ってるからね。一人じゃないって、わかってね」
「お母さん……」
僕はお母さんの胸で泣いた。お母さんも泣いていた。僕はまだ小さかったけれど、その日、お母さんとはもう会えないことを知っていた。
それから十年後。僕はお父さんとも一緒におらず、アメリカの学校へ通っている。寮に入っているため特には困らないし、お母さんが恋しいというより、もう家族の誰とも会わない生活に慣れてしまっている。
ハイスクールに通っていたある日、僕のもとへ国際電話がかかってきた。お父さんからだ。
『元気にしてるか?』
心なしか、お父さんの声は疲れている。
「うん。お父さんは? ずいぶん疲れた声してるよ」
『そうか? まあ、こっちは少しバタバタしててね……突然だけど、家を引っ越したんだ。事後報告になるが……おまえの荷物は全部移してあるから心配するな』
それを聞いて、僕は驚いた。
「え、どうしたの?」
『去年、お爺さんが亡くなっただろう? それの相続だなんだで大変でね……いっそ家を売って新しい家を買おうかと思ったんだ。お婆さんももちろん一緒だよ』
僕は納得した。お爺さんはあの大きな屋敷を手に入れた大地主だった。そんなお爺さんがいなくなっては、あの屋敷を維持するのも大変だろうと、お父さんの苦労が見えたのだ。しかも、遺産を狙っている親戚も大勢いるという。
お父さんは、そんな汚い日本から出して僕を守ってくれているけれど、こういう話は嫌でも入ってくる。
「そう……お父さんが決めたならいいよ。僕の部屋、前に帰った時にも整理したし、いるものはないから、勝手に処分してくれて大丈夫。でもあの……」
僕は、木のことを思い出した。お母さんが大事にしろと言った木……でも、なぜだか聞けなかったのは、お母さんとの思い出の木だということを、お父さんも知っているから。それに、あの家を売ってしまったのならば、もうあの木に関わることも出来ないのは明確だったからだ。
「いや、なんでもない……」
その後、僕はお父さんといろいろしゃべって、電話を切った。次に帰る時には、あの家に帰ることもない。大きすぎる屋敷に、お母さんは潰された。僕もあの家があまり好きではない。
次の年末、僕は一年ぶりに日本へ帰国した。
新しい家は、前ほどではないけれど立派な家だった。僕の部屋も用意されていたけれど、なんだか落ち着かない。
「ちょっと出かけてくる……」
年明けの静かな住宅街を突っ切って、僕はその足で前の家へと向かった。
家を売り渡してから半年以上、どうなっているのか……でも、その光景は想像を絶するものだった。
表通りの塀だけが残され、門はなく、あとは瓦礫の山。もちろん庭の木も何もなく、ブルドーザーなどの重機がところどころに置かれている。
「こんなに広かったんだ……」
僕はぼそっとそう言うと、家のあった位置などを想像しながら、奥へ奥へと進んでいく。幸い、正月は工事も休みらしく、誰もいない。ここは大型のマンションが建つと聞いた。
「このへんだと思うんだけどな……僕の椎の木……」
見なれた裏門が近くにあったので、僕はその位置を正確に知っていた。
「ごめんね、お母さん。大事にしろって言われたのに……もう、家族がバラバラになったみたいで、椎の木一本守れなかったよ……」
途端に僕は空しくなった。何もない広大な土地に、木くらい残しておいてもいいではないかと苛立ちもしたが、僕は唯一の思い出であるお母さんとの約束も守れなかったことになる。そう考えると、空しくてたまらなかった。
「……樹?」
その時、僕の後ろで声がした。
振り向くと、懐かしい顔がある。
「お母さん……?」
お母さんは笑いながらも涙を堪え、複雑な表情をしている。
「こんなところで会えるなんて……樹、お母さんとの約束覚えていてくれたのね?」
嬉しそうにそう言ったお母さんに、僕は目を伏せた。
「覚えてたよ……でも、椎の木守れなかった……」
するとお母さんは、恐る恐る僕の顔に手を触れ、そして静かに抱きしめてきた。
「覚えていてくれただけでいいの……それに、椎の木は生きてるわ。ここが取り壊される前に、枝を頂いておいたの。そこから苗を作ったから」
「本当?!」
「私には、樹との唯一の思い出だから……」
お母さんの胸の中で、僕は安らぎを感じた。僕の手で椎の木は守れなかったけれど、椎の木は僕をお母さんに会わせてくれたんだ。
「あ、見て、樹。ここにも新しい命が……」
お母さんはそう言って、地面を指差す。僕もお母さんから離れると、地面を見つめた。するとそこには、小さな芽が出ている。
「これ、椎の木かな……」
「どうかしらね……」
「僕、持って帰って新しい家に植えるよ」
お母さんは、優しく頷く。
その後、僕はお母さんの家へついていった。そこには僕の椎の木の枝がある。僕が持ってきた芽と同様、きっとこれから大きくなってくれるに違いない。
「今度は僕の力で守るって約束するよ。だからおまえも、安心して出ておいで……」
僕の約束は、椎の木に届いているだろうか――。