172 モトカレ
死ぬほど苦しい想いをして別れた彼を忘れるため、彼のいないところで新しい人生をスタートさせた。
新しい街、新しい家、新しい仕事、もう彼への接点はないけれど、別れて三年経った今も、悔しいくらい未練たらたらで、そんな自分に嫌気が差してる。
「吉田さん。本当に、今日の合コン行けないんですか?」
後輩の声に、私は苦笑する。
「ごめん。興味ないし、この仕事早く終わらせなきゃ」
「もう。恋しましょうよー」
「いいの。私は仕事に生きるんだから」
そう言って、私はパソコンに向かう。
大好きだった彼と別れてからも、何度か人と付き合ったけれど、どれも長続きしない。もう私には仕事しかないんだと、最近では言い聞かせてる。親ももう諦めたらしく、私に結婚話を持ち掛けたりはしない。
「吉田さん。ちょっといい?」
その時、今度は先輩に呼ばれ、私は立ち上がった。
「はい。なんでしょうか」
「これからクライアントと新プロジェクトの企画打ち合わせなの。急で悪いんだけど、一緒に出てくれる? 部長と出るはずだったんだけど、部長が急用で出られないっていうから」
「わかりました」
こんなことは日常茶飯事。私はすぐに支度をして、先輩について会議室へ向かう。
「新プロジェクトって、イベントのですか」
会議室を軽く掃除し、企画書を見ながら、私は先輩にそう尋ねた。
うちは広告会社で、イベントなんかにも携わっている。
「そう。大通り公園のフェスティバル。結構大きなプロジェクトになるわ」
「この規模じゃそうですね。いろんな出店あるんですね。ステージまで」
「うん。チラシとかはこちらで作るけど、これだけてんこもりだと大変ね」
「そうですね。やりがいはありますけど」
その時、会議室の入口に人影が見えた。
「すみません。フェスティバルの打ち合わせはこちらでよろしいでしょうか」
男性の声に、私は固まった。
「はい、そうです。北村様と沢野様ですね。どうぞ中へ」
先輩がそう言って、お客様を中へと通す。
北村和希――。私の忘れられない元彼である。彼もまた、私を見て驚きながらも、やがて何事もなかったかのように、中へと入って座った。
打ち合わせの内容は覚えていない。だが、業種もまったく違う彼がどうしてここにいるのかと思ったが、彼は企画の責任者だという。
彼は音楽の仕事をしていたので、その関係でイベント業の責任者も頼まれたのだと悟った。
その日、私は家に帰るなり、ポケットに入っていた彼の名刺を見つめた。もう三年も経っている。連絡出来るわけがないし、私に未練があるとも思えない。私は仕事と割り切って彼と付き合おうと決めて、ベッドに寝そべる。
彼と別れたのは、お互いが重荷になっていたから。彼は仕事ばかりで、でも結婚を望まなかった。その頃にはもう、ただ会えば楽しいというような、子供みたいな関係では満足しなかったのだ。お互い嫌いで別れたわけではないけれど、あのまま一緒にいたら、お互い駄目になっていたんだと思う。
その時、私の携帯電話が鳴った。知らない番号に、はっとして握りしめていた名刺を見つめる。彼の番号である――。
迷いに迷って、私は電話に出た。
「はい……」
『北村ですけど』
思いのほか、彼は明るい声をしている。きっと彼はもう、私なんかよりずっと吹っ切れているから、そう接しられるんだと思う。
「ああ、うん……」
『今日は驚いたよ。まさかあんなところで会うとは』
「うん。私も……」
『ああ、ごめん。突然電話なんかして……』
乗り気でない私の声に、彼も気付いたんだと思う。
「う、ううん」
『ああ……今度……食事でもしない? 仕事の話もしたいし』
「……仕事の話なら、私は下っ端だから……」
『馬鹿。口実だよ。おまえに会いたいんだ』
彼の言葉に、私は言葉を失った。
「え……」
『俺が吹っ切れてると思う? それに、こんなところで会えたんだ。運命とか信じてなかったけど、そう思えるよ。もうおまえにはおまえの生活があるんだろうし、新しい男とかもいるのかもしれないけど……会いたいんだ。もう一度……』
「……」
『おい。聞いてる? 切ったのか?』
「……私も……会いたい……」
涙が溢れ出す。それがわかったのか、電話の向こうで大きな音がした。
『イテ!』
「和希? どうしたの?」
『ああ、大丈夫。ちょっとぶつけただけ……それより、今から会える? すぐ出るから』
必死な様子の彼に、私は嬉しくて笑った。少し期待してしまう。
「うん……」
それからの私たちのことは……ご想像にお任せします。
ただ、これだけはいえる。この出会いが奇跡だとすれば、それを手放さない勇気も必要だってこと。