159 Family
市子は走っていた。
「市子が来たぞ!」
そんな声とともに、市子目掛けて石が飛ぶ。投げているのは、市子よりも年上が多い、小学校高学年になったばかりくらいの子供たちだ。
「やーい、ててなし子!」
「おまえの父ちゃん、はんざいしゃ!」
その言葉に、市子は鬼の形相で子供たちを睨みつける。
「逃げろ! 市子が怒ったぞ!」
「怒ったってなんも出来やせん。それよかそろそろ配給だ。行くぞ」
去っていく子供たちに、市子は石を投げ返した。
「おととい来やがれ! このいじめっ子が!」
市子はそう言うと、走って瓦礫の中へと入っていった。
太平洋戦争真っ只中――。みんなが助け合わねばならない時に、市子は執拗ないじめを受けていた。
「市子……その傷」
瓦礫をくぐった先の空間に、市子の母親が寝そべっている。もう何日も動くことすら出来ず、日に日に衰えていくのがわかる。
「なんでもない。ちょっと転んだ」
「……また石でも投げられたんね? ひどいことしよる」
「いいの。いじめっ子なんか相手にせん。それよか母ちゃん、お芋見つけた。外で焼いてくるね」
「ごめんね。母ちゃんこんなになってもうて、市子に苦労ばかり」
「なに言うてるの。母ちゃん、精をつけてもらわないと」
そう言って、市子は外へ出て火をおこすと、落ちていた枝に拾った芋を刺し、それを焼いた。
市子の母親は病に倒れたまま、この瓦礫となった家の隙間で市子と暮している。父親は大学教授をしているが、この戦争は負けると言ったり、戦争反対の運動員として動いていたために、アカや犯罪者と罵られ、特高に連れて行かれた。母親は何も言わないが、たぶん拷問にあって殺されたのだと、市子は幼いながらに認識している。
「なにが犯罪者だ。戦争反対で何が悪い。うちかて平和主義者。父ちゃんはなんも悪いことしとらん」
自分にそう言い聞かせるように、市子は芋を焼いて、母親のもとに持って行った。
「母ちゃん。お芋焼けたよ」
だが、母親は動かない。
「母ちゃん……母ちゃん!」
もう、母親は目を覚まさなかった。
「一人に……なってしもうた」
市子は冷めてしまった芋をかじり、空を見上げる。
「信念を貫いた父ちゃん。それを信じて私を守ってくれた母ちゃん。私は生きてる。負けるもんか」
次の日も、またその次の日も、市子は一人になってもいじめられた。でも、一人になってもめげなかった。
やがて戦争が終わり、怒涛の戦後を生き抜いた市子は、数十年後、何千人という人の前に立っていた。
「それでは、会長よりご挨拶をいただきます」
その言葉に、市子が前へ出る。
「みなさま、この度は会社設立六十年記念パーティーにようこそお越しいただきました。今日はご来賓の方だけでなく、社員の皆様にもお集まりいただきました。それは、ここにいるみなさまが、私のファミリー……家族だからです」
毅然としてそう話す市子は、老人といえど足取りのしっかりとした、瞳を輝かせる女性のままだった。
「戦後しばらくして、生きるために興したこの会社が成功し、小さな商店が百貨店にまで上りつめました。思えば今日まで怒涛の日々で、会社設立当時が昨日のことのように思い出されます。戦争孤児となった私は、親もなく一人ぼっちでした。それが今や、これだけの家族を持つことに幸せを感じます。これからも、もっと多くの家族が出来るよう願います」
そう言うと、市子は天井を見上げた。
「それから――亡くなった両親に、この光景を見て頂きたい。孤独という檻の中にいた私を救い出してくれたのは、誰でもなくあなた方一人一人です。すべての人に、心からの感謝を伝えたいと思います――」
市子はそう言って、お辞儀をした。涙を浮かべるその先には、たくさんの人々が見える。市子が築き上げた家族であった。