122 丘の上の花嫁
お嬢様はお嫁にはいかないと、僕は勝手に思い込んでいた。
いや、それはいつかの約束。お嬢様は、僕に言った。
「エディ。いつか私を、お嫁さんにしてね」
使用人の息子である僕は、身分差を感じていながらも、お嬢様がその日を待ってくれていると、心のどこかで信じていた。
でも、彼女は明日、嫁いでゆく。
この風の強い丘の上から、あの遥か見える街の向こうへ、お嬢様は嫁いでゆく。
「エディ。綺麗かしら?」
その夜、僕は予行演習で花嫁衣装を纏ったお嬢様に、そう言われた。
僕は使用人のまま、お嬢様の身の回りをお世話するだけで明日を迎える。
「はい、お嬢様。本当に……とてもお綺麗でございます」
僕の言葉に、お嬢様は静かに笑う。それは、どこか悲しそうな笑顔でもあった。
「……私がこの家からいなくなったら、寂しい?」
そう聞かれ、僕は頷いた。
「もちろんでございます。お嬢様にお仕えすることは、僕の生き甲斐なのですから」
「もう、私をお嫁さんにはしてくれないのね……もう、待つことも出来ないのね」
お嬢様はそう言った。僕は目を見開く。
「覚えてらしたんですか……」
「当たり前じゃない。でももう、駄目ね。もういいから下がって。おやすみなさい、エディ」
僕は深くお辞儀をして、お嬢様の部屋から出ていく。
ドアの向こうまで、お嬢様の泣き声が聞こえた。
でも、僕に何がしてあげられるというのだろう。
その場から去ろうとしたとき、僕はお嬢様のことを走馬灯のように思い出した。
出会ってから今日まで、僕たちは身分の差を超えて、良き友人として育ってきたはずだ。僕は今こそ、お嬢様を送り出さねばならない。
僕はお嬢様の部屋に戻ると、その顔を見つめた。
「エディ……?」
「僕には……身分の差を越えることは出来ません。でも僕は誰よりも、お嬢様の幸せを願い、そして今までの思い出がキラキラと輝いています。どうかそのまま輝いて、この丘から巣立ってください」
そう言った僕に涙しながら、お嬢様は僕の体に抱きつき、そして唇を奪った。
僕も同じく、お嬢様の唇にキスを返す。だがそれは、別れの挨拶である。もう二度と、僕はこの人をこうして抱けないだろう。
「ありがとう。エディ……」
お嬢様はそう言って、この風の強い丘の上から、美しい姿のままで嫁いでいった。
丘の上では、ただ美しいだけの花が咲き乱れている。もう、一緒に見ることはないだろう。
そんな丘の上に、数年後、小さな足が大地を蹴った。
お嬢様のお子様が、この丘を走り回る。
「お嬢様。そんなに走っては転んでしまいますよ」
僕はそんな言葉をかけながら、この丘の上に思いを馳せた。