100 もう一人の神
ここに、神話にならなかった神がいる。
それは母親の存在すら消された、タブーの子供だ。
オリンポスの山の上、全知全能の神・ゼウスの城の一角に、小さな離れの家がある。
本殿に入ることも許されず、だが殺されることのなかった子供は、今日も一人、離れから人間界を見下ろしていた。
少年の名前は、フェス。年は十歳。彼が十年生きるまでに様々な嫌がらせや苦労があった。だが、それを避けて通れたのは、フェスが忌み嫌われる理由である。
フェスの母親・カディテは、オリンポス山の麓にある小さな泉の女神であった。その美しさに引き寄せられるように、最高神・ゼウスと恋に落ちる。
だが、それを知ったゼウスの妻・ヘラが嫉妬し、麓の森を焼き払い、泉を枯れさせ殺されたのが、カディテだった。
カディテは燃え狂う森の中でフェスを産み落とし、息絶えた。
ゼウスの手により消し止められた火の中で、フェスは傷一つなく神々しい光に包まれ、守られていた。それを見た神々は、口を揃えてこう言った。
「これはゼウスよりも広大な力を持っている赤子だ。ゼウスの後を継ぐ、全知全能の神になるだろう」
そんな噂がたちまち広がり、フェスはゼウスの城へと連れて行かれた。
本来ならヘラが許さないことであるが、事実、ヘラがどんな手を尽くしてフェスを殺そうとしても、生まれついての加護より手が出せない。
フェスはこのゼウスの城の離れで、たった一人で暮らしていた。
「フェス。変わりはないか?」
普段は誰も訪ねて来ない離れにやって来たのは、父親であるゼウスである。だが、フェスはゼウスと父親と呼ぶことを禁止されていた。
「ゼウス様。はい、変わりありません」
「そうか。おまえが生まれて十年になるな」
今日はフェスの誕生日である。だが、特に祝ってもらった記憶などない。ヘラが最低限の交流以外認めないのだ。
「はい。今日まで育てて頂いてありがとうございました。ゼウス様、今日になったらお話しようと思っていたことがありました」
「うむ、なんだ?」
「私は世界を旅してまわろうと思います」
ゼウスは驚いた。
「世界とは、下界をか? だが、下界に降りるにはそのままの姿ではいられない」
ゼウスがそう言ったのは、神が下界に降りるときは、人間や動物の姿を借りて降りなければならないということだ。そうしなければ、神の神々しさに、人間は焼かれ死ぬ。
「わかっています。私は人間の姿を借りて、人間と同じように旅をします。過酷なものになりましょうが、この十年、ずっと下界を見てきて、私は人間に興味が湧いたのです」
フェスの決意に喜んだのはヘラである。いくら神といえど、人間となってこの山を降りるとあれば、危険で困難な旅になる。ゼウスは心配したが、フェスが言った初めての願いを聞き入れることにした。
それからフェスは、初めて下界へ降りた。
初めての人間。初めての食べ物。知らないことばかりで新鮮さを感じる。時には砂漠を何日も歩き、倒れたりもしたが、フェスは己の信念だけで、その目で世界を見て回る。
三百と六十四日が過ぎ、フェスはオリンポスの山へ戻って来た。
フェスは森の中で倒れていた木に腰をかけると、空を見上げた。
「この山を登れば家に着く。私も少しは、世界の物事がわかったはずだ」
頼もしく微笑むフェスは、月明かりに照らされた辺りを見回した。なんだか心がざわつく。
フェスは立ち上がり、座っていた倒れた木を見つめる。
「この光景は、見たことがある――」
そこでフェスは、かつてこの森がヘラの手によって燃やされ、そして母親が死んだ森だと気付いた。
「私の母上は、ここで……」
途端、フェスの目から大粒の涙が溢れ出す。
「……母上。私はなぜここにいるのでしょう。私はヘラ様からも大勢の神々からも疎まれ、蔑まれる存在です。こんな私に比べれば、人間たちはなんと愚かで美しい――今日を懸命に生き、汗を流し、笑っています。私はわからなくなりました……」
フェスの涙はとどまることを知らず、やがて地面のくぼみに涙が溜まった。
旅の疲れか、泣き疲れてか、もうフェスが目を覚ますことはなかった――。
その日、かつて母親の泉があった場所で、フェスの涙により復活した泉が生まれた。
奇しくもその日は、フェスの誕生日。旅から三百六十五日目を迎えた朝のことだった――。
※ 93話の続編です。
フェス、カディテはオリジナルのキャラクターです。ギリシア神話に二人はいません。