010 プリマドンナ
今日も広いフロアに、トウシューズの軽やかな足音と、クラシックの音楽が響く。
「アン、ドゥー、トロワ。アン、ドゥー、トロワ……」
いつも誰よりも早く来て、いつも誰よりも遅く帰るのは、努力家のアンナ。
アンナはお姫様を夢見て、バレエを始めた。
「アン、ドゥー、トロワ。アン、ドゥー、トロワ……」
みんなが帰ったフロアで、アンナは鏡を見つめる。
年頃の娘ではあるが、その体系はバレエを始めても細くならず、初心者の小太りで、発表会にも出してもらえない。お姫様など、夢のまた夢だ――。
それでもアンナは、練習を続ける。
「アン、ドゥー、トロワ。アン、ドゥー、トロワ……」
プリマドンナを思い浮かべて、アンナは軽やかに舞う。
一人きりのフロアは、アンナには広過ぎるわけでもない。
「あれ。まだ残っていたの? 熱心だね」
そこにやってきたのは、ロシュ。いつも王子様役をしている。
アンナとは、しゃべることも初めての、雲の上の存在である。
「お姫様の踊りだね。僕が相手しようか」
そう言うのと同時に、ロシュはアンナに手を差し出す。
筋肉質なロシュと、ぷにぷにとしたアンナの手が触れ合った。
なんて不格好な二人だろう――。だが、アンナは幸せだった。
(ロシュと踊っている。しかも私はお姫様だ……夢にまで見た、プリマドンナになれる……)
「そこでターンして。大丈夫、僕が支えるから」
ロシュの言葉に、アンナは無言で応える。
「……無言のままだね。でもいいよ。今だけは、王子と姫なんだから。さあ、お姫様」
夢見心地とはこのことだ。
アンナはうっとりと、ロシュを見つめる。
やがて、ロシュはおもむろに、アンナの腰を掴んだ。
とっさに、アンナは足を踏ん張らせる。
「リフトだよ。いくよ」
「キャア!」
初めてのリフト。アンナの体は強張って、持ち上がりはしなかった。
気がつくと、アンナは踊っていたはずのフロアで横になっていた。
いつの間に寝ていたというのか。すべては夢だったのだ――。
アンナは微笑む。夢でも幸せだった。
「アンナ」
そこにやってきたのは、ロシュであった。
アンナは、何度も瞬きをする。
「大丈夫かい? 急に倒れたんだ。はい、水」
差し出された水を無言で受け取るものの、アンナはロシュから目が逸らせない。
「どうかしたの?」
「私……」
「リフトしようとしたら、失敗してね。ごめん、突然で怖かったよね」
優しいロシュの顔が、そこにある。
「私……?」
ふと、自分の顔が鏡に映った。
恋をする自分の顔は、いつもより痩せて見える。
「アンナ?」
「私、太ってるから……」
アンナの言葉に、ロシュは吹き出すように笑った。
「どこが? 大丈夫。またリフトに挑戦しよう。また踊ろう」
そう言ったロシュに、アンナは微笑む。
(そうだ、私は人より太っていると自分で思っていただけ。たとえ少しくらい太っても、それを改善する努力だってしてこなかった。練習量は誰より多い自分は、何を卑屈になることがあるというの。ロシュともう一度躍るために、お姫様になるために、これからも頑張ろう。そして諦めなければいいじゃない)
アンナの笑顔は輝き、更に練習に磨きをかけた。
たちまちアンナの体は筋肉質に絞られ、次の発表会には念願のお姫様という座を手に入れたのは、彼女自身の努力の賜物である――。