プロローグ
「……ここ、かな?」
半分廃墟と化した雑居ビルの四階。まだ寒さの厳しい、二月の初め。
田邊咲はスチール製の灰色のドアを眺め、独り言ちた。
――下の案内板には確かに『フラワーアレンジメント教室』と表記があったけれど。
ドアの横に視線をずらす。そこにはインターホンがあるのみで、表札や看板らしきものは見当たらない。
咲は少し考えて、そのボタンを押した。中から呼び鈴の鳴る音がかすかに漏れ聞こえてくる。
ややあって「はい」と柔らかな男の声が応じた。
男の人?と少し戸惑う。
「あ、あの、ホームページからフラワーアレンジメントの体験教室を予約した田邊ですが……」
「ああ、田邊さん」
声の主は了承したとばかりにインターホンを切った。ほどなくしてドアが開く。若い男が顔を覗かせた。
目鼻立ちのはっきりとした端正な顔立ちの男だ。背中まで伸びた艶のある黒い髪を緩く三つ編みにし、その先を左肩から胸へと垂らしている。
身長は一七五センチくらい。年齢は自分より年上っぽいから、三〇歳前後といったところだろうか。
人懐っこい笑みを浮かべた彼は、柔らかな雰囲気を纏い、どこか女性っぽくもある。
「いらっしゃい」
容姿と違わぬ穏やかな、男の人にしては少し高めの声だった。とても耳障りがいい。おそらくインターホンで応答したのは彼なのだろう。
「ほ、本日はお世話になります」
すっかり見惚れていた咲は、ペコリと頭を下げた。
「そんな畏まらなくていいから」
男は笑い、「どうぞ」とドアを大きく開いた。
「……お邪魔します」
咲は軽く会釈をし、玄関ドアを潜った。室内はやはり外と変わらず無機質な印象である。
――本当にここで合っているのかしら?
一抹の不安が胸を過ぎった。
フラワーアレンジメント教室にしてはあまりにも殺風景に感じた。
「うちは土足で大丈夫だから」
男はそう言って静かにドアを閉めた。途端、逃げ道を絶たれたようで心細くなる。そんな気持ちを知ってか知らずか、男は咲の横をすり抜け先に立って歩き出した。咲もおずおずとそのあとに従う。
ふと目を上げると男の背中越しに、アーチ型のステンドグラスを上部に据えた白い扉が見えた。南欧を彷彿とさせるそれに、ようやくフラワーアレンジメント教室の片鱗を見つけ、咲は胸を撫で下ろす。
男はその手前でピタリと立ち止まった。そういえば、と振り返る。
「田邊さんの下の名前って、『咲』だよね?」
「あ、はい、そうです」
咲はコクリとうなずいた。
「咲、かぁ」
男は感心したように咲の名を口にする。改めて自分の名前を呼ばれて、咲は何事かと身構えた。
「いい名前だね。お花を習うにはぴったりだ」
男は柔らかな笑みを浮かべ、咲を見る。
「そ、そうですか?」
「そうだよ。じゃあ、咲ちゃんって呼んでいい?」
「え? えっと……」
思いがけない問いかけに咲は眉根を寄せた。
どうしよう、と思う。
初対面の異性に下の名前で呼ばれるのは流石に抵抗を感じる。それに距離の詰め方が手慣れ過ぎていてついつい警戒してしまう。
咲はチラリと男の様子を窺った。
穏やかな笑みを浮かべた男はとても美しく――
つい妙な考えが頭を過った。
もしかしてここは、フラワーアレンジメント教室を騙った美人局的なものを行う本拠地なのではないか、と。
現実的ではないが、けれどその考えを否定する材料もない。
フラワーアレンジメント教室を営むにはあまりにもくたびれていて、飾りっ気もなく、不似合いな場所。そして、目の前にはやけに美しい男。
状況的に自分の考えが正しいように思えた。
ゴクリと喉を鳴らす。
――確かドアに鍵は掛けていなかったはずだ。
咲は頭の中で逃走経路を確認する。不味そうなら、真っ直ぐ後ろに走ってドアから飛び出ればいい。
――でも、その先は?
ふと思う。
もし他に人がいなかったら? いたとして、その人が仲間だったら?
徐々に顔が青ざめていく咲を見て、男は「あっ」と小さく声を上げた。
それから「そうだった」と頬を搔く。
「ごめんね。僕、自己紹介まだだったよね」
「え? あ、はい……」
咲はキョトンとして男を見上げた。
「申し遅れました――僕はこの教室を主宰している華村花音と申します」
男は右手を胸に当て、まるで英国紳士のようにお辞儀をした。
「えっ?」
咲はますます目を見開き、男を凝視する。
「……ほっ、本当に?」
驚きのあまり声が上擦った。んん、と喉を整え、言葉を継ぐ。
「本当に、あなたが華村花音さんなんですか?」
「ええ」
男はクスリと笑い答える。
「こちらでフラワーアレンジメントを教えている?」
「ええ」
「講師の?」
「そう」と男は大きくうなずいた。それから「みんな同じ反応するんだよね」と肩をすくめた。
「華村花音って、女性だと思っていたんでしょ?」
「そう、ですね……」
だって、ホームページに載っている写真は後ろ姿で長髪だし、女の人みたいな名前だったから。
それに、フラワーアレンジメントって、女の人がやっていそうじゃない?
「思い込みだよ」
咲の心を見透かしたような答えを返して、男――花音は悪戯っぽく笑った。
「そんな固定観念で世の中を見てると、窮屈じゃない?」
それで咲はハッとした。
今、まさに固定観念を押しつけられて窮屈な思いをしている自分が、固定観念で他人を見ていた。
それでは父と同じだ、と咲はうなだれた。昨日のやりとりを思い出し、キュッと口の端を結ぶ。
「……大丈夫?」
明らかに表情の変わった咲を見て、花音がポンと優しく頭に手を置いた。
顔を上げると、心配そうな花音の顔がすぐ目の前にあり、咲の心臓は大きく跳ね上がる。
「はっ、はい、大丈夫です」
慌てて視線を逸らしたが、まだ心臓は激しく脈打っていた。
花音は怪訝そうに咲の様子を窺っていたが、大丈夫と判断したのだろう。
それなら、と新たな笑みを浮かべる。
「咲ちゃんって呼んでもいい? 僕のことは『花音』でいいから」
今度は交換条件を提示する。
――まだ、諦めていなかったらしい。
「年上の方を呼び捨てするのはちょっと……」
変な誤解をしていた負い目から強くは断れず、言葉を濁した。
なるほど、と花音はうなずき、「じゃあ、『花音さん』で」と再度条件を付け加える。
「……わかりました」
ニコニコと見つめてくる花音に、咲は渋々うなずいた。
――条件を飲まないことには、いつまでも話が進みそうにない。
「よかった」
花音は満足げに笑いドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、咲ちゃん――ようこそ、『アトリエ花音』へ」
そう言って花音は大きく目の前のドアを開け放った。




