『蛙の池』
梅雨のある日、激しい雨が容赦なく降り続いていた、そんな夜の出来事です。
バスで通勤しているのり子は、今日は少し仕事が遅くなり、いつもとは何本か遅いバスに乗りました。雨がひどいせいでバスは安全運転をしており、いつもより時間がかかっているようでした。遅い時間だったせいか、お客さんはあまり乗っていません。そのうち乗客はみんな降りてしまい、のり子は車内で一人だけになってしまいました。
そうしているうちに、バスのアナウンスが流れました。
「次は、 蛙の池、蛙の池です。お降りのお客様は、バスが止まってからお立ちください」
蛙の池なんてバス停は、のり子は初めて聞きました。もしかしたらいつも乗っている時間のバスと違うから、ルートが違うのかもしれませんね。
窓の外を見ても、ひどい雨と夜の暗闇で何も見えません。見えるのは窓ガラスに映る自分の顔と、窓についた水滴の筋だけです。
そしてバスは蛙の池に止まりました。
乗客が乗ってきます。みんな黙って乗ってきます。雨のせいか頭を深く下げて乗り込んできます。みんなびしょびしょです。のり子の座っているすぐ横にも、乗客がやってきました。小さく頭を下げて、隣に座りました。
のり子は何とはなしにその方を見ました。
のり子は驚きました。
人間ではありませんでした。カエルでもありませんでした。カエル人間でした。
慌てて視線を正面に戻して、目を合わせないようにしました。
バスは動き出しました。のり子はとっても心臓がドキドキしています。夢なんだろうか、でも隣にはっきりとした冷たい存在感があります。そのうちバスが次のバス停のアナウンスをしました。でも今度は人間の言葉ではありません。
「ゲロゲロゲロゲロ」
それだけです。
のり子は、とても怖くなってきました。隣の乗客だけでなく、アナウンスまでもカエル語(?)です。
のり子は、こっそり周りを見回しました。すると、他にも乗客がいましたが、全員カエル人間でした。
のり子は、はやく降りなきゃと思いました。このままバスに乗っていたら、どんどん異世界に連れていかれると思ったのです。
「ゲロゲロ、ゲロゲロ」
バスのアナウンスが最後に流れました。のり子には意味が分かりませんけど、たぶん終点のことだろうと思ったのです。
しばらく進むと、バスが止まります。乗客は、みんなぞろぞろ降りていきます。
のり子も、隣のカエル人間の後について一緒に降りてしまおうと思いました。
運賃箱に、降りる人たちがお金を入れています。でも、そのお金の硬貨は、のり子が見たことがない物でした。
すぐにわかりました、だって緑色の硬貨だったのです。
のり子は、とにかく降りなければと思い、人間の日本のお金の硬貨を、少し多めに入れました。
そして、ステップを降りようとしたときに、呼び止められました。運転手が、激しく
「ゲロゲロゲーロ」
と言っています。
のり子のことを、怒ってるようです。
のり子は、意味が分からず、財布から追加の硬貨を取り出し運転手に見せたりしましたが、運転手の怒りは収まる気配がありません。
その様子に気づいて、先に降りていたカエル人間が、降車口に戻ってきて、運転手さんにゲロゲロと何かを話し、自分のポケットから、数枚の緑の硬貨を運賃箱に入れました。
運転手は、それで怒りが収まったのか、のり子を一瞥して、手……吸盤が見える手……を、降りろと言うように振りました。
のり子は、やっとバスを降りることができたのですが、外は激しい雨で、とにかく小さなバス停の屋根の下に逃げ込みました。
そこには、さっき助けてくれた(?)カエル人間が、いました。
カエル人間は、近くに生えていた葉の大きな草を二つちぎると、その一つをのり子に差し出しました。そして、もう片方の手で、手招きをしました。
のり子は、仕方なくそれを受け取って、カエル人間についていきます。
しばらく歩いていると、いつの間にか雨が止んでいました。
そして、先の方に明かりが見えます。街灯の明かりでしょうか?
雨は止んでいましたが、周りは静かな通りです。雨上がりで、周囲は真っ暗です。
街灯の明かりだけが静かに光っています。
横から、吸盤が付いた指がまっすぐ街灯の方を指さします。
どうやら、その灯りの下はバス停のようです。
のり子は、お礼を言おうと振り返ると、そこには誰もいませんでした。
周りには、のり子以外誰もいません・・・
「え?・・・」
のり子は、不安な気持ちのまま街灯の元まで進みました。
見慣れたベンチ、路線図、すべてがのり子が毎日使っているいつものバス停そのものです。
「どういうことなの?夢じゃないわよね・・」
のり子は、さっきまでの出来事を振り返りました。でも、カエル人間なんているわけないし・・・
ついさっきのことが、どこか遠い記憶のように感じられてきました。
しばらくすると、バスがやって来ました。のり子がいつも乗っているバスです。
安心したそのとき、のり子は自分の左手に違和感を覚えました。
ぎゅっと、何かを強く握っていることに気が付きました。
手を見ると、しっかりと、大きな芋の葉を握っていることに気が付きました。
葉はまだ雨に濡れたままで、葉脈がくっきりと浮かび上がり、表面にいくつもの水滴が光っています。まるでついさっき池のほとりで摘まれたばかりのように、みずみずしく濃い緑色をしていました。
のり子は慌ててその濡れた芋の葉を地面に捨てました。
そして左手を軽く払うと、バスに乗り込みました。
バスの中の明かりが、彼女の顔を優しく照らします。
バスは動き始めます。
「次は、 蛙の池、蛙の池です。お降りのお客様は、バスが止まってからお立ちください」
おしまい




