『脇役のお前には用がない』と追い出された令嬢が、実は乙女ゲームの攻略対象全員のフラグを管理していた件
学園祭が、中止になった。
シュテルン王立学園の百二十年の歴史で、こんなことは一度もなかったらしい。食堂で噂を聞いた生徒たちが騒然としている様子が、私のいない教室にも伝わっているのだろう——いや、もう私はあの教室にいないのだけれど。
窓の外では秋の風が柿の木を揺らしている。ここはアッシュフォード男爵領、私の実家。王都から馬車で三日の、何もない田舎町だ。
学園祭の中止を知ったのは、父が持ち帰った王都の新聞だった。
『シュテルン王立学園、創立以来初の学園祭中止——実行委員会の機能不全が原因か』
私はその記事を読んで、少しだけ眉を寄せた。
……ああ、やっぱり。
あの会議の議事録、私がいなくなったら誰も書かないんだろうな、とは思っていた。
二ヶ月前のことだ。
「脇役のお前には用がない。今日限りで学園を去れ」
ユリア・エーデルシュタイン嬢は、そう言い放った。
放課後の中庭。薔薇のアーチの下で、彼女は腰に手を当て、勝ち誇ったように微笑んでいた。その隣にはアレクシス殿下が立っている。彼は何も言わなかった。ただ、困ったように視線を逸らしていた。
「エーデルシュタイン嬢、私は——」
「あなたが何をしているかなんて、誰も興味ないの。モブはモブらしく、物語の邪魔をしないで」
「ユリア、もう少し穏やかに……」
「殿下、この子は物語に必要のないキャラクターなんです。いないほうが全部うまくいくの」
モブ。
ユリア嬢はよくその言葉を使う。私には意味がわからなかったけれど、彼女の中では重要な概念らしい。
彼女はこの世界が「乙女ゲーム」であると主張していた。自分はその「ヒロイン」で、私のような男爵令嬢は「モブキャラクター」——つまり、物語に必要のない背景の一人なのだと。
正直に言えば、何を言っているのかさっぱりわからない。
でも、アレクシス殿下がユリア嬢の言葉に従い、学園長に進言し、私の退学が決まったのは事実だった。理由は「学園の秩序を乱す行為」。そんなことをした覚えはないけれど、王子の進言を覆せる者はいない。
「……わかりました」
私は一礼した。
泣かなかった。怒りもしなかった。ただ、少しだけ——ほんの少しだけ、胸の奥が冷たくなった。
三年間。
この学園で、私は自分なりに精一杯やってきた。誰にも気づかれないように、でも確実に。
それが終わるのだと思ったら、冷たさよりも先に、不思議な軽さがあった。
私がシュテルン王立学園で何をしていたのか。
それを説明するのは少し難しい。なぜなら、私自身が「大したことじゃない」と思っていたからだ。
一つ目は、アレクシス殿下の剣術訓練の下準備。
殿下は剣術科に籍を置いているが、実のところ対人戦の経験が圧倒的に足りなかった。王族は暗殺を恐れて訓練相手を限定する。だから殿下の稽古相手は、近衛騎士の三人だけ。
でも三人では型が読まれる。殿下の剣はいつも同じ受け方、同じ返し技になっていた。
私は毎朝、殿下が訓練場に来る一時間前に到着して、訓練用の人形に七種類の癖をつけていた。左利きの構え。盾を使う型。二刀流の間合い。槍兵の突き。魔法剣士の半身。南方流派の足運び。そして北方辺境の重剣術。
これが簡単な作業だと思う人もいるかもしれない。でも、訓練用人形に「癖」をつけるのは繊細な仕事だ。歯車の噛み合わせを一つ変えるだけで、人形の動きは全く違うものになる。左利きの構えを再現するためには、右肩の軸受けを三ミリだけ内側にずらし、左腕のバネを一段階強くしなければならない。
私は入学して最初の半年間、毎晩図書室にこもって各国の剣術教本を書き写した。型の特徴を理解しなければ、人形に再現させることはできないから。
「おい、今日の人形は南方剣士の動きをしているぞ。誰がこんな設定をした?」
殿下がそう言ったのを、廊下で偶然聞いたことがある。近衛騎士は首を傾げた。
「さあ……整備係でしょうか」
「整備係にこんな知識があるものか。各国の型を正確に再現している」
整備係じゃない。私だ。でも名乗り出る理由がなかった。殿下が強くなるなら、それでいい。
二つ目は、魔法科の薬草調合の管理。
学園の温室には二百種類以上の薬草が栽培されている。魔法科の授業で使う素材は全てそこから供給されるのだけれど、薬草には相性がある。
たとえば、月光蘭と火炎草を隣に植えると、月光蘭が三日で枯れる。でも間に水晶苔を挟めば問題ない。星降草は満月の日に摘まないと効能が半減するけれど、曇りの満月なら翌朝でも間に合う。竜血樹の樹液は気温二十度以上で採取しないと固まってしまうから、夏の早朝しか収穫できない。
温室の管理係は園芸委員のベルタさんだ。真面目で責任感の強い人だけれど、薬草学の知識は少し心許なかった。だから私は毎週、その週の配置表を作って彼女のロッカーに入れていた。「参考資料」と書いた紙を添えて。
配置表には植え替えだけでなく、収穫のタイミング、水やりの量、日光の遮蔽率まで全て書いてあった。これを作るのに毎週三時間かかった。
ベルタさんは律儀な人だから、その配置表通りに管理してくれた。
「また入ってたわ、あの『参考資料』。誰が書いてるのかしら」
食堂でベルタさんが友人に話しているのを聞いたことがある。
「すごく詳しいのよ。プロの薬草師みたい。でも名前が書いてないの」
「感謝されたいんじゃなくて、ただの親切じゃない?」
違う。親切でもない。ただ、配置を間違えると月光蘭が枯れるから。それだけだ。
おかげで魔法科の調合授業は三年間、一度も素材の品質問題が起きなかった。
三つ目が、一番厄介だった。学園内の派閥調停だ。
シュテルン王立学園には三つの派閥がある。王子派、騎士団長子息派、そして中立派。この三つのバランスが崩れると、授業の編成から食堂の席順、果ては学園祭の出し物まで全てが紛糾する。
私は中立派に属していた。男爵令嬢で、特別な才能もない。だからこそ、どの派閥とも利害が衝突しない。
具体的に何をしていたかというと——議事録だ。
学園の会議で議事録係を引き受ける生徒はほとんどいない。地味な仕事だからだ。でも議事録は、書き方次第で会議の方向を変えられる。
たとえば、王子派が「夜会形式」を主張し、騎士団長子息派が「武闘大会」を主張した場合。私は両方の発言を正確に記録した上で、末尾の「要約」で両派の主張の共通項を浮き上がらせる。
「両案とも『学園の威信を外部に示す』という目的は共通しており、夜会の格式と武闘大会の迫力を組み合わせた『騎士舞踏会』形式が検討に値する」
自分の意見としてではなく、あくまで議事録の整理として。次の会議では、この「要約」が議論の出発点になる。誰も私が調停していると気づかなかった。気づかれないように、やっていたのだから。
これが、「乙女ゲーム」の——ユリア嬢の言葉を借りるなら——「攻略対象全員のフラグ」だったらしい。
アレクシス殿下の剣術が上達するフラグ。エミールの魔法研究が進むフラグ。カイルの派閥運営が安定するフラグ。
全部、私が裏で回していた。
大したことじゃない、と思っていた。
退学してから一週間が経った頃、最初の異変が起きた。
アレクシス殿下の剣術大会での惨敗。
王都の新聞にはこう書かれていた——『殿下、一回戦で敗退。見たこともない型に対応できず』。
記事にはもう少し詳しいことが書いてあった。対戦相手は南方辺境の領主の息子で、独特の足運びを使う剣士だったという。殿下はその動きに全く対応できず、開始三十秒で剣を弾かれた。
私は記事を読んで、そっと息を吐いた。南方流派の足運び——訓練用人形に組み込んでいた七種類のうちの一つだ。あの人形で練習していれば、少なくとも初見殺しにはならなかったはずだけれど。
次の週には、魔法科で調合事故が起きた。
相性の悪い薬草を隣に植えてしまい、授業用の素材が半分腐敗したという。新聞には載らなかったけれど、行商人の噂話で知った。月光蘭が全滅して、上級調合の授業が二週間中止になったらしい。
ベルタさんのことが心配だった。彼女は真面目な人だから、きっと責任を感じて眠れない夜を過ごしているだろう。配置表を入れなくなった私のせいだと気づいているかもしれない。
そして三週目——学園祭実行委員会が機能不全に陥った。
王子派は「夜会形式」を主張し、騎士団長子息派は「武闘大会」を主張し、中立派は——調停する人間がいなくて、ただ黙っていた。議事録を整理する人もいない。共通点を見つけ出す人もいない。
会議は紛糾し、決裂し、やり直しになり、また決裂した。議事録すら残らないので、前回の合意事項を誰も覚えていない。三回目の会議では王子派の生徒と騎士団長子息派の生徒が掴み合いの喧嘩になり、教師が仲裁に入ったという。
結果、学園祭は中止。百二十年の歴史で初めての、中止。
「リネット、大丈夫?」
父が心配そうに声をかけてきた。私が新聞を読んで黙り込んでいたからだろう。
「大丈夫よ、お父様。少し考え事をしていただけ」
嘘ではなかった。考えていたのだ。
私がやっていたことは、本当に「大したこと」ではなかったのだろうか。
実家に戻ってからの日々は、穏やかだった。
朝は薬草園の手入れをする。アッシュフォード領は王都と気候が違って、学園の温室では育たない寒冷地の品種が自生している。氷雪蘭、霜降菊、冬眠苔——どれも希少で、王都の薬問屋に卸せば高値がつく。
私は薬草園を拡張することにした。裏庭の空き地を耕し、品種ごとに区画を分け、相性を考えた配置図を作った。学園の温室でやっていたことと同じだ。ただ、今度は「参考資料」ではなく「リネット・アッシュフォードの薬草園設計図」として。
最初は上手くいかなかった。
寒冷地の薬草は気難しくて、土壌の酸度が少しでもずれると根を張らない。植え付けた氷雪蘭が三日で萎れたときは、さすがに落ち込んだ。畑の前にしゃがみ込んで、萎れた茎を指先で触った。冷たくて、もう戻らないとわかる手触りだった。
学園の温室なら助けられたかもしれない。でも、ここには温室がない。私には——私の知識しかない。
でも、父が声をかけてくれた。
「リネット、お前が学園でやっていたことを、ここでやればいいんだよ」
「お父様、知っていたの?」
「知っていたよ。お前が毎朝四時半に起きて何をしているか、母さんが生きていた頃からずっと見ていた」
父は穏やかに笑った。
「お前は、人のために何かをせずにはいられない子だからな。ただ、今度は自分のためにやってみなさい」
自分のために。
その言葉が、妙に胸に刺さった。
土壌の酸度を調整し、肥料の配合を変え、日除けの角度を計算し直した。夜は父の書斎で薬草学の文献を読み漁り、寒冷地薬草の栽培法を一から学び直した。
二週間かけて準備をした。土壌の深さを変え、腐葉土の比率を調整し、風除けの柵を手作りした。二度目の植え付けで、氷雪蘭は根を張った。一週間後、小さな白い花が咲いたとき、声が出そうになった。
三年間の学園生活で一度も泣かなかった私が、畑の前で目を潤ませた。嬉しかったのだ。自分の力で、自分のために何かを成し遂げたことが。
昼は父の書斎で領地の帳簿を手伝った。男爵領は小さいけれど、国境に近い分だけ交易路の管理が複雑だ。隣国の商人との取引記録を整理し、関税の計算を二重チェックし、未払い分の督促状を書く。
ある日、隣村との水利権の問題が持ち込まれた。上流の水車が下流の畑を干上がらせているという。
私は両方の村長を招いて話を聞き、調停をした。
「水車の稼働を午前に限定して、挽いた小麦粉の一割を下流に卸す契約を結びましょう。双方にとって利益になります」
二人の村長は、ぽかんとした顔で私を見た。
「アッシュフォードのお嬢さん、あんた若いのにすごいな」
「大したことじゃないですから」
口癖が出た。でも、上流の村長がぽんと膝を叩いて笑った。
「いやいや、大したことだよ。わしらだけじゃ一年かかっても決まらんかった」
……大したこと。
学園では誰にも言われなかったその言葉が、田舎の村長からあっさりと出てきた。
それから次々と、近隣の揉め事が持ち込まれるようになった。交易商人の契約書の不備を見つけ、子供たちに薬草の見分け方を教え、国境の関所の当番表を効率化した。
「リネット嬢、あんたがいてくれて助かるわ」
「大したことじゃないですから」
「またそれ! 大したことなの。あんたが来る前は、あの紛争三年も揉めてたんだからね」
市場のおばさんがそう言ってくれたとき、胸の奥で小さな灯りが点いた気がした。
ここでは、私のやっていることが「大したこと」として認めてもらえる。
学園祭の中止だけでは済まなかった。
崩壊は、加速していった。
まず、アレクシス殿下。
剣術大会の惨敗は、ただの敗北では終わらなかった。
「なぜ南方流派の型を知らないのだ! 訓練で一度も出てこなかったぞ!」
殿下が近衛騎士を怒鳴りつけたという。近衛は困惑して答えた。
「殿下、以前は訓練用の人形が南方流派の動きを……」
「人形? 人形がいつそんな動きをした」
「それが、最近は動かないのです。誰かが毎朝調整していたはずなのですが」
誰が——とは誰も答えられなかった。気づいていなかったのだから。
殿下は焦って訓練量を倍にしたが、型が偏ったまま量を増やしても意味がない。二度目も負け、三度目も負けた。
次に、エミール。
魔法科の天才と呼ばれた彼の研究は、完全に止まっていた。上級調合に必要な月光蘭は温室で全滅し、代替品を外部から取り寄せるにも予算がない。
「三年間、一度も素材の品質問題がなかったのに。何が変わったんだ」
エミールが研究室の前でそう呟いたという噂を、行商人が教えてくれた。ベルタさんが必死に育て直そうとしているが、配置の知識がないから同じ失敗を繰り返す。三ヶ月かけた実験をやり直す羽目になり、エミールは魔法科をやめようとしているらしい。
そしてカイル。
派閥調停の崩壊は、最も目に見える形で表れた。
学園祭の中止をきっかけに、王子派と騎士団長子息派の対立は修復不能な段階に入った。廊下での小競り合いが週に三回起き、教師の仲裁も効かなくなった。ついには騎士団長子息派のカイルが王子派の生徒に決闘を申し込み、学園長が直接介入して停学処分を出す事態に。
カイルは停学処分の直前、学園長室でこう訴えたという。
「以前は会議の議事録が妥協案を示してくれていたんです。あの議事録がなくなってから、全てが——」
「議事録? ただの記録にそんな力があるものですか」
「ただの記録じゃなかったんです。……でも、書いていた人間がもういない」
対立を収める仕組みそのものが消えていた。
全てが、一人の「モブ」がいなくなっただけで崩れた。
そして、ユリア嬢。
「こんなの原作にない! なんで全部のルートが崩壊するの!?」
「原作って何のことだ。いい加減にしてくれ」
彼女が学園の廊下で叫び、周囲から冷ややかに突き放されたと、行商人が面白がって教えてくれた。
「原作」では、モブキャラクターは物語に影響しない。排除しても何も起きないはず。ユリア嬢の「ゲームの知識」が教えてくれるのは攻略対象の好感度イベントだけであって、そのイベントが成立する前提条件——裏方の仕事——については何も書かれていなかったのだろう。
殿下にはもう好感度イベントが発生しない。剣術が弱い王子に、ヒロインが惚れるシナリオは存在しないから。エミールの研究は止まり、知的な会話イベントも消えた。カイルは停学中で、学園にすらいない。
全ルート、バッドエンド。
物語を動かしていたのは、スポットライトを浴びる「主要キャラクター」だけではなかった。照明を調整し、舞台装置を直し、役者の衣装を整える——そういう裏方がいなければ、舞台そのものが成り立たない。
ユリア嬢は「ゲーム」の知識があっても、「現実」の構造を理解していなかったのだ。
私はそれを聞いても、もう胸が痛まなかった。最初のうちは申し訳ない気持ちがあった。でも次第に——これは私の責任ではない、と思えるようになった。
だって、追い出したのはあちらだ。
退学から一ヶ月と少しが経った、秋の午後のことだった。
薬草園で球根の植え付けをしていたら、庭の門の前に見覚えのある人影が立っていた。
背が高い。銀髪を後ろで束ねている。左腰に細身の剣を佩いて、旅装束の上に黒い外套を羽織っている。
「……シュヴァルツ伯爵子息?」
「レオンでいい。久しぶりだな、リネット」
レオン・シュヴァルツ。剣術科の首席で、学園では「氷の剣士」と呼ばれている人だ。無口で、いつも一人でいて、派閥にも属さない。
——攻略対象の一人、とユリア嬢は言っていた気がする。
「どうしてここに? 王都から馬車で三日かかるのに」
「二日で来た。馬を飛ばした」
「……なぜ」
「お前がいなくなって、学園が壊れた」
直截的だった。この人はいつもそうだ。
「壊れた、というのは」
「全部だ。剣術大会、魔法科の授業、派閥の均衡、学園祭。全部がお前がいなくなってから狂い始めた」
私は泥だらけの手袋を外して、レオンを家に招き入れた。父が淹れてくれたお茶を二人で飲みながら、レオンは学園の現状を淡々と語った。
殿下は自分の剣が弱い理由がわからず、近衛騎士を責めている。エミールは実験の失敗が続いて魔法科をやめようとしている。カイルは停学処分を受けて実家に帰された。ユリア嬢は「原作と違う」と騒ぎ続けて、ついに誰にも相手にされなくなった。
「それで、戻ってほしいという話?」
「違う」
レオンは静かに首を振った。
「俺はお前に頼みに来たんじゃない。伝えに来た」
「伝える?」
「お前がやっていたことを、俺だけが知っている」
心臓が跳ねた。
「毎朝、訓練場の人形に細工していただろう。七種類の型。左利き、盾持ち、二刀、槍兵、魔法剣士、南方流派、北方重剣。全部見ていた」
「……見ていたの?」
「俺は毎朝五時に訓練場に来る。お前はその前——四時半に来ていた。歯車を調整して、バネの強さを変えて、軸受けの角度をずらす。毎朝三十分、一人で黙々とやっていた」
知らなかった。誰にも見られていないと思っていた。
「温室の配置表も。お前が園芸委員のロッカーに入れていたのを、一度だけ見かけた。それから注意して見ていたら、毎週月曜日の朝に入れていた。三時間かけて書いた表を、匿名で」
「……」
「学園祭の議事録。あの議事録がただの記録じゃないことは、読めばわかる。両派の主張の共通点が、不自然なほど綺麗に浮き上がる構成になっていた。あれは記録じゃない。設計図だ」
レオンはお茶を一口飲んで、私の目を見た。
灰色の瞳。冷たい色なのに、不思議と温かさを感じた。
「お前は自分で『大したことじゃない』と思っていたんだろう。でも、大したことだ。お前がいなくなって、全てが証明された」
涙が、込み上げてきた。
泣かないと決めていた。退学を言い渡されたとき泣かなかった。学園を去るとき泣かなかった。実家に帰って一人きりの夜も泣かなかった。
でも、「見ていた」と言われて——「大したことだ」と言われて——堪えられなくなった。
「私……私は、ただ、」
「泣いていい」
レオンの声は、氷の剣士と呼ばれる人のものとは思えないほど、柔らかかった。
「三年間、誰にも気づかれずに全部を回していたんだ。泣く権利くらいある」
私は泥のついたエプロンで顔を押さえて、声を殺して泣いた。
安堵の涙だった。
誰にも見えていなかった仕事が、たった一人にでも見えていたこと。それが、三年間の全てを報われたものに変えた。
レオンは帰らなかった。
「辺境伯の仕事で来た。しばらくこの領地に滞在する」
明らかな嘘だった。シュヴァルツ辺境伯の領地はここから更に北で、アッシュフォード領に用事などあるはずがない。
でも、私は追及しなかった。追及する必要がなかった。
レオンは毎日、薬草園の手伝いをしてくれた。無口なくせに、私が説明する薬草の特性を真剣に聞いて、几帳面にメモを取った。剣を握る手で、土を掘り、水をやり、球根を植えた。
「この氷雪蘭、王都に卸せば金貨十枚になるの。アッシュフォード領の特産品にできるかもしれない」
「……お前は学園でもこうだったな。数字と計画で、黙々と状況を改善する」
「そうかな」
「そうだ。だから誰も気づかない。劇的なことは何もしないから」
それは——褒め言葉なのだろうか。レオンの表情からは読み取れなかったけれど、声の温度が少しだけ高い気がした。
「レオン」
「何だ」
「あなたは最初から見ていて……どう思ってたの?」
「……変な奴だと思っていた」
「変な奴」
「四時半に来て、人形をいじって、誰にも言わずに帰る。変だろう」
「……否定できない」
「でも、あの人形のおかげで俺は南方流派の型を知った。お前が調整した翌日は、必ずその型で素振りをしていた」
「気づいてなかった……」
「借りが、ずっとあった」
「それで馬を二日飛ばしてきたの?」
「……それだけじゃない。だが、今はそれでいい」
不器用な人だ。でも、その不器用さが嫌いじゃなかった。
「ところでレオン、これ学園に持って帰って温室に植えたらどうかな。耐寒性があるから、冬の授業でも使える」
「俺に農学の才能はないが」
「レオンなら大丈夫。配置表を渡すから」
「……お前はまた、誰かのために表を書くのか」
「今度は、ちゃんと名前を書いておく。『リネット・アッシュフォード作成』って」
レオンが——笑った。ほんの少し、口の端を上げただけ。でも、私はそれを見逃さなかった。
この人が笑うところを、学園で見たことは一度もなかった。
やがて、学園からの使者が来た。
学園長名義の手紙。赤い蝋封に王家の紋章が押してある。開いてみれば、格式ばった書体でこう書かれていた。
『リネット・アッシュフォード嬢の退学処分を撤回する。速やかな復学を望む』
アレクシス殿下の署名があった。エミールの、カイルの署名もあった。全員が「リネット・アッシュフォードの復学を願う」と書いていた。
殿下に至っては、追伸でこう書いていた。
『訓練場の人形のことは聞いた。あの型の調整ができるのは、学園で君だけだった。必要だ。戻ってきてほしい』
——必要だ。
三年間、一度も言ってもらえなかった言葉が、いなくなってから届いた。
エミールの手紙には丁寧な字でこう書かれていた。
『月光蘭の配置表を書いていたのが君だと、ベルタが教えてくれた。僕の研究を三年間支えてくれていたのに、一度もお礼を言えなかった。本当に申し訳ない』
申し訳ない、か。
カイルの手紙は短かった。
『議事録の件、今更ながら理解した。あの要約がなければ、派閥対立は去年の時点で破綻していた。学園に戻ってくれるなら、正式に調停役として迎えたい』
「正式に調停役として迎えたい、ですって」
私は手紙を膝に置いて呟いた。三年間、匿名で、無報酬で、気づかれないようにやっていたことが——今さら「正式」と呼ばれるらしい。
「どうする?」
レオンが聞いた。
私は手紙を丁寧に折り畳んで、封筒に戻した。
「お断りします、と伝えて」
「……いいのか」
「いいの。だって、もう遅いから」
「……遅い?」
「壊れてから気づくのは、もう遅いの」
「私ね、三年間ずっと気づいてほしかった。訓練場の人形のこと、温室の配置表のこと、議事録のこと。誰か一人でいいから、『ありがとう』って言ってほしかった」
「……」
「でも誰も気づかなかった。気づこうとしなかった。私がいなくなって困って、初めて探しに来る——それは『必要としている』んじゃなくて、『不便になった』だけでしょう?」
レオンは黙って聞いていた。
「レオンは違った。私がいた頃から見ていてくれた。いなくなる前から、気づいていてくれた」
窓の外で、秋風が薬草園の葉を揺らしていた。氷雪蘭の白い花が、夕日に染まって淡く光っている。
「——大事なことなんです、私の仕事は」
三年間、心の中で否定し続けた言葉を、初めて声に出した。
大したことじゃない、ではなく。
大事なことなんです、と。
「ああ」
レオンが頷いた。短く、でも確かに。
「知っている」
学園は、結局自力で立て直すしかなかった。
ユリア嬢は「ヒロイン」としての立場を完全に失った。攻略対象は全員がユリア嬢から離れ、彼女の「ゲームの知識」は信用されなくなった。
行商人が最後に教えてくれた噂は、こうだった。
学園長室に呼び出されたユリア嬢は、こう問われたという。
「リネット・アッシュフォードの退学を進言したのは、あなたですね?」
「だってあの子はモブのはずなのに! モブがいなくなって物語が壊れるなんて、おかしいでしょう!?」
学園長は「モブ」の意味がわからなかった。エーデルシュタイン伯爵家が蒼白になって謝罪の使者を出した頃には、全てが手遅れだった。
モブを排除すれば物語が思い通りに進む——その前提が、根本から間違っていたのだ。
私は学園に戻らなかった。
代わりに、アッシュフォード領で薬草園を本格的に運営し始めた。氷雪蘭の出荷が軌道に乗り、隣領の薬問屋から定期取引の申し込みが来た。水利権の調停が評判になって、国境紛争の仲裁を王都の役人から依頼されることもあった。
父は嬉しそうに笑って言った。
「お前は立派な領主代理だな、リネット」
「お父様、まだ代理よ」
「いや。もう代理じゃない」
そしてレオンは——まだ、うちにいる。
辺境伯の仕事はとっくに終わったはずなのに。薬草園の球根が春に咲くまで見届けたい、と言っている。
「それ、春になったら帰るの?」
「球根の次は夏草の植え付けがある」
「……ずっといるつもり?」
「お前の仕事を、ちゃんと見ていたいだけだ」
「見ていてくれるのは嬉しいけど、レオンには学園が——」
「学園は俺がいなくても回る。お前がいないと回らなかったが」
「……それ、口説いてる?」
「違う」
即答だった。でも、耳の先が赤い。
「……まだ、口説いてない」
「……まだ、ね」
——まだ。
私は吹き出しそうになるのを堪えた。この人は本当に、自分の気持ちを伝えるのが下手だ。
私は振り返らなかった。王都も、学園も、「あの頃」も。
ここにある仕事と、ここにいてくれる人。
それで、十分だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「発覚型」と「乙女ゲーム型」を掛け合わせた作品です。乙女ゲーム転生ものはなろうの一大ジャンルですが、今回は「モブ」の側から描きました。
「大したことじゃないですから」という台詞が、「大事なことなんです」に変わる瞬間がこの作品の核心です。自分の価値を自分で認められない人は多い。誰かに「見ていたよ」と言ってもらえるだけで、三年分の全てが報われることがある——そういう小さな救済を書きたいと思いました。レオンが特別なのは、リネットを助けたからではなく、リネットが「いた」ときから見ていたからです。いなくなってから探しに来る人と、いた頃から見ていた人は、決定的に違います。
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