第4話:氷の辺境伯と運命の一杯
ナイトハルト城の最上階。石造りのバルコニーからは、果てしなく続く銀世界の地平線が見える。
外気温は氷点下二十度を下回り、吐き出す息は瞬時に白く凍りついてダイヤモンドダストのように舞う。だが、この極寒の空間には今、奇跡のような「熱」が宿っていた。
私の前で、特製の銀のコンロが小さな青い炎を上げている。
その上で、昨日採取したばかりの「万年雪の深層水」が、静かに、だが力強く沸き立っていた。
(……聞こえる。泡が石英のように砕ける音。今だわ)
私は、乾燥させた茶葉――この極寒の地で一晩あえて凍結させ、その後に低温で熟成させた『氷華白龍』――を、温めたポットに滑り込ませた。
熱湯が注がれた瞬間、凍りついていた細胞が劇的に覚醒し、この世のものとは思えない芳香が爆発した。
それは、ただの香りではなかった。
冷徹な氷の芯に、燃えるような情熱を隠した、矛盾する二つの顔を持つ香り。
その湯気がバルコニーの冷気と混ざり合い、幻想的な銀色の帳となって周囲を包み込む。
その時。
静寂を切り裂くように、重厚な革靴の音が石畳を叩いた。
「――いたぞ! 逃げ出した無能令嬢め、こんな魔境で茶を啜っているとはな!」
現れたのは、王都から派遣された特別調査官、ダグラス公爵だった。彼の背後には、武装した十数名の騎士たちが、寒さに顔を顰めながら控えている。
王都は今、ジュリアン王子の自白によって大混乱に陥っている。彼らは、その「自白」を引き出した私の能力を、今度は政治的な兵器として利用しようと追いかけてきたのだ。
「クロエ・エルバ。貴女を『国家機密保持法違反』の疑いで拘束する。……だが、もし貴女がその『喋らせる茶』を我々のために供し、政敵の喉を開かせるというなら、罪を免じてやろう」
ダグラス公爵の目が、欲にぎらついていた。
彼の「魔力膜」は厚い。王宮で培われた虚飾と保身の壁が、彼の精神を幾重にもガードしている。
私は、ティーカップを静かに三つ、用意した。
「……長旅、お疲れ様でございました。まずは一杯、いかがでしょうか? この地の厳しい寒さをしのぐには、これが最適ですわ」
「ふん、毒ではないだろうな?」
「お茶を汚すような真似はいたしません。……茶葉への冒涜ですから」
私は、琥珀色を通り越して「透き通った黄金」に近い液体を注いだ。
ダグラス公爵は疑い深い目で私を睨みながらも、そのあまりにも甘美で清涼な香りに、抗うことができなかった。
渇いた喉が、無意識にゴクリと鳴る。
彼はカップを奪い取るように掴むと、一気に飲み干した。
「――はっ」
公爵の瞳が、一瞬で虚ろになった。
彼の厚い魔力膜が、お茶に含まれる圧倒的な「情報の純度」によって、春の雪のようにドロドロと溶け出していく。
「……おい、公爵閣下? いかがされましたか?」
騎士の一人が怪訝そうに尋ねる。
だが、ダグラス公爵の口から飛び出したのは、高慢な威圧ではなく、自嘲に満ちた醜い笑い声だった。
「……はは、はははは! 兵器? 冗談じゃない。俺はただ、この女を王に献上して、空いた大臣の椅子に座りたいだけなんだよ! 正義なんてどうでもいい。俺が横領した三億フランの穴埋めができれば、この国が滅ぼうが知ったことか!」
「なっ……! 閣下、何を……!」
「お前らだってそうだろ! この寒い中、わざわざ俺についてきたのは、功績を上げて裏金を山分けするためじゃないか。昨日、野営地でお前の奥さんと不倫しているって自慢してたのはどこのどいつだ!?」
「なんだと!? 貴様、俺の妻と……!」
途端に、バルコニーは修羅場と化した。
騎士たちが互いに剣を抜き、これまで隠していた憎悪と嫉妬を、剥き出しの言葉とともにぶつけ合う。
友情も忠誠も、一杯のお茶の前に霧散した。
彼らは自分たちが何を話しているのか、その自覚すら奪われ、ただ「真実を吐き出す快楽」に酔いしれていた。
私は、その混沌を背に、ゆっくりとバルコニーの隅に座る一人の男へと歩み寄った。
アルカード閣下。
彼は最初から、影の中でその様子を眺めていた。
彼の前には、冷めかけた私の二杯目のお茶がある。
「……片付いたようだな」
アルカードは、剣を抜くことすらなく、崩壊した調査団を一瞥した。
彼は私の淹れたお茶を、一口だけ、慈しむように含んだ。
「お前は恐ろしい女だ、クロエ。この茶は、剣よりも多くの首を撥ねる」
「私はただ、美味しく淹れただけですわ。……さて、閣下。あなたには、三杯目のお茶を用意しました」
私は、彼のためにだけ取っておいた、最も純度の高い「芯」の部分を注いだ。
アルカードはそれを受け取ると、逃げ場のない真実を迎え入れるように、真っ直ぐに飲み干した。
沈黙。
周囲の騎士たちの罵声が、遠い雑音のように消えていく。
アルカードの魔眼が、青く、そして深く燃え上がった。
彼の「理性の壁」が、完全に崩落する。
「…………クロエ」
彼の声は、震えていた。
氷の辺境伯、冷酷な守護者、人間不信の孤独。
それらの鎧が、お茶の熱によって剥ぎ取られ、一人の不器用な男がそこにいた。
「俺は、人間が嫌いだ。……嘘をつき、裏切り、自分の利益のために他人を食いつぶす、あの王都の連中と同じ血が流れている自分が、反吐が出るほど嫌いだった」
彼は、私の手首を掴んだ。
その手は、かつてないほど熱い。
「だが……お前が淹れる茶だけは、信じられる。嘘のないこの苦味だけが、俺の乾いた魂に染み込むんだ。……お前を、手放したくない(本音)」
私は、彼の瞳を見つめ返した。
魔眼の奥にある、剥き出しの、震えるような孤独。
「それは……茶葉の仕入れ担当としてですか?」
私がわざと首を傾げると、アルカードは苦笑混じりに首を振った。
「違う。……俺の、生涯の『共犯者』としてだ。この地を、誰も嘘をつけない『真実の領地』に変える。そのために、俺の隣で、一生お茶を淹れ続けろ。……お前なしでは、俺はまた、氷の中に閉じ込められてしまう(本音)」
彼の告白は、詩的でも優雅でもなかった。
だが、これほどまでに濃厚で、不純物のない「言葉」を、私は他に知らない。
それは、最高の茶葉が放つ、あの一瞬の輝きに似ていた。
「……ふふ。それは、とても重い生涯契約ですね」
私は、自分のカップを満たした。
そして、彼のカップに、私のカップを軽く触れさせた。
銀と磁器が、澄んだ音を立てて共鳴する。
「謹んで、お受けいたしますわ。閣下。……本音を語る人生は、きっと、とても苦くて、そして甘いでしょうから」
バルコニーの下では、理性を失った騎士たちが去り、静寂が戻りつつあった。
アステリア王国の歴史は、この日、大きく変わることになる。
虚飾にまみれた王宮は崩れ、北の果てには、決して嘘を許さない、誠実で残酷なほどに純粋な「お茶の帝国」が誕生したのだ。
私は、アルカードの隣に寄り添い、まだ温かいティーポットを抱えた。
雪解けの予感。
氷の層の下で、新しい命の脈動が聞こえる。
次は、どんな水を使いましょうか。
どんな茶葉を、彼の本音という名のスパイスで彩りましょうか。
私の指先は、未来への期待で、心地よく火照っていた。
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『全肯定未亡人は今日も可愛い子を甘やかす』(N3385LM)




