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第3話:全員自白、お茶のあとさき


 その頃、アステリア王宮は「真実」という名の劇薬に溺れていた。


 石造りの回廊には、普段なら決して耳にすることのない汚濁した本音が、物理的な質量を伴って渦巻いている。

 クロエが去った後のガゼボ。そこには、空になったティーポットと、冷え切った琥珀色の液体が滴るカップだけが残されていた。だが、その香りの残滓――わずかに鼻腔をくすぐる、森の深淵を思わせる冷涼な芳香――が、その場に駆けつけた者たちの理性を次々と「融解」させていく。


「……おい、お前。さっきから何をメモしている」


 駆けつけた近衛騎士団の分隊長が、青ざめた顔で記録係の襟首を掴んだ。


「ひっ……! 記録ですよ! 王子がいかに無能で、隣国と通じているかを正確に記して、いっそ私が次の国王に成り代わろうと思いまして!」

「なっ、貴様……! ……いや、待て。俺もだ。俺も、この重い甲冑を脱ぎ捨てて、今すぐ隣町の酒場の女将のところへ逃げたいと思っていたところだ。給料分しか働きたくないんだよ、こんな腐った国のために!」


 城門を守る衛兵も、豪華な食事を運ぶ給仕も、等しくその「空気」に感染していた。

 クロエのお茶は、魔力による洗脳ではない。ただ、あまりにも「純粋」すぎたのだ。

 雑味を一切排除し、水分子の隅々まで行き渡った茶の成分が、人間の脳が本能的に張り巡らせている「自己防衛の嘘」というフィルターを、物理的に洗い流してしまったのである。


 ガゼボの奥では、ジュリアン王子とカトリーヌが、泥沼のような罵り合いを続けていた。


「殿下、さっきから聞いていれば……! あなたのその、自分だけが悲劇のヒーローだと思っている薄っぺらな正義感、反吐が出ますわ! 寝室でのあのみっともない泣き言、バラして差し上げましょうか!?」

「黙れ、この性悪女! 君のその香水の匂い、実は最初から大嫌いだったんだ! クロエの方が、ずっと清らかで……ああ、そうだ。俺は、あの静かなお茶の時間を、ただ失いたくなかっただけなんだ。なのに、どうしてこんな……!」


 愛も、忠誠も、矜持も。

 すべてが剥がれ落ち、そこにはただ、醜く震える剥き出しの「個」だけが転がっていた。

 割れた磁器の破片が、西日に照らされて無情に光っている。王宮という巨大な「仮面劇」の舞台は、一杯のお茶によって、修復不可能なほどに破壊された。


---


 それから数日。

 馬車に揺られること数百里。私の鼻をくすぐる匂いは、泥炭と馬の汗、そして次第に濃くなる「雪の気配」へと変わっていった。


 北の果て、ナイトハルト領。

 そこは、王都の華やかさとは無縁の世界だった。

 視界を遮るものは、天を突くような黒い針葉樹の森と、その背後に聳え立つ、万年雪を戴く峻険な山脈。空気は密度を増し、吸い込むたびに気管支が凍りつくような、鋭利な冷たさを帯びている。


「……ここだ。お前が望んだ場所だ」


 馬を止めたアルカード閣下が、顎で示したのは、岩山の中腹にある小さな洞窟だった。

 私は馬車を降り、雪に足を取られながらも、その場所へ吸い寄せられるように歩いた。


 そこには、世界から切り離されたような「沈黙」があった。

 洞窟の奥から、ポタリ、ポタリと、水晶の滴が落ちる音が響く。

 岩肌を伝い、長い年月をかけて濾過された氷河の融解水。それは、地上のどんな宝石よりも深く、透き通った青を湛えた泉となっていた。


「……あ」


 私は思わず、泉の淵に膝をついた。

 

 指先を浸す。

 痺れるような冷たさ。だが、その直後に襲ってきたのは、驚くべき「情報の純度」だった。

 不純物が一切ない。魔素の乱れもない。ただ、太古の昔から凍りついていた「時間」そのものが、今、私の指先で溶け出している。


(素晴らしい……。この水なら、茶葉の細胞ひとつひとつに、語りかけることができる)


 私は夢中でトランクを開けた。

 アルカード閣下が背後で腕を組み、私の奇行を黙って見つめている。

 彼の「魔眼」には、この泉が単なる水の溜まり場ではなく、莫大な魔力を秘めた聖域として映っているはずだ。だが、私にとっては、これは単なる「最高の溶媒」に過ぎない。


「閣下、薪を。……いいえ、魔法で結構ですので、この石を熱していただけますか? 炭火の匂いすら、この水の純度を汚してしまいます」


「……俺を火種代わりに使うのか。お前という女は」


 アルカードは呆れたように嘆息したが、それでも指先から細い魔力の焔を出し、私が用意した石のプレートを温め始めた。

 

 私は、アルコールランプでじっくりと水を温める。

 気泡が生まれる音に耳を澄ませる。

 「チチチ……」という小さなささやきが、「ゴウ……」という低い唸りに変わる直前。

 私は、厳選した茶葉――今回は、あえて香りの強いものではなく、繊細な白茶を選んだ――を、温めた陶器に滑り込ませた。


 お湯を注ぐ。

 その瞬間。


「――っ」


 アルカードが、息を呑む音が聞こえた。

 

 香りが、弾けたのだ。

 それは、王宮で放ったあの暴力的な誘惑とは違った。

 もっと静かで、深く、魂の根源に触れるような「凪」の香り。

 雪原に一輪だけ咲いた花のような、清廉で、どこか寂しげな香気が、洞窟内の冷気と混ざり合い、目に見えるほどの銀色の霧となって広がっていく。


 私は、最初の一杯を自分自身のために注いだ。

 そして、二杯目を、戸惑ったように立ち尽くすアルカードへと差し出した。


「どうぞ。お礼ですわ」


「……俺は、お茶など嗜まん。ましてや、人間を狂わせるようなものはな」


「狂いはしませんわ。ただ、あなたの『重荷』を少しだけ下ろすだけです」


 アルカードは、私の瞳を凝視した。

 嘘を見抜く魔眼。だが、私の瞳には、彼を陥れようという意図も、媚びも、恐怖すらなかった。あるのはただ、この一杯が正しく抽出されたかどうかという、狂気的なまでの確認作業の残火だけ。


 彼は大きな手で、繊細なカップを受け取った。

 そして、覚悟を決めたように、その液体を口に含んだ。


「………………」


 アルカードの身体が、微かに震えた。

 彼の鎧の内側で、何かが「融解」していく音が、私には聞こえた気がした。


 彼の脳裏には今、何が映っているのだろう。

 裏切った戦友の顔か。自分を道具としてしか見なかった親の冷たい目か。あるいは、誰にも見せることができなかった、孤独な子供のままの自分か。


 やがて、アルカードはカップを置かずに、そのまま目を閉じた。

 彼の目尻から、一筋の雫が零れ落ちる。それは涙というよりも、彼の中に溜まっていた「凍土」が溶け出した結果のようだった。


「……苦いな。だが、ひどく……温かい」


 彼は、初めて「辺境伯」という役職の仮面を脱ぎ、一人の男としての声を漏らした。

 その声は、驚くほど不器用で、そして透明だった。


「この水は、私の領地で最も冷酷な場所にある。だが、お前が淹れると……まるで、春が来たようだ」


「春、ですか。……いい表現ですね。次のブレンドの参考にさせていただきますわ」


 私は淡々と答え、残りのお茶を飲み干した。

 情報の獲物が、ついにこの北の地で見つかった。

 王宮の混沌も、王子の自白も、私にとってはもう過去の出がらしに過ぎない。


 目の前にいる、この「氷の男」が、次の一杯でどんな本音を漏らすのか。

 それを想像するだけで、私の指先は、歓喜で震えが止まらなかった。



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