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第1話:無能令嬢と淹れたての絶望


 シャンデリアの結晶が、冬の午後の冷たい陽光を反射して、大理石の床に鋭いナイフのような光を投げている。

 王立庭園のガゼボ。本来なら優雅な茶会が開かれるべきその場所は、今、凍りついたような沈黙に支配されていた。


「――聞こえなかったのか、クロエ。君との婚約を破棄すると言ったんだ」


 第一王子、ジュリアン・フォン・アステリアは、吐き捨てるように言った。

 彼の背後では、私の異母妹であるカトリーヌが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて彼の腕にすり寄っている。彼女が動くたびに、安っぽい人工香料の混じった薔薇の香水が鼻をつき、私はわずかに眉をひそめた。


「理由はわかっているだろう。この国において、魔力は血筋の証。生活魔法すら満足に使えない『無能』を、次期王妃に据えるわけにはいかない」


 ジュリアンの声は、まるで事務報告でもするかのように冷淡だった。

 私は、足元に叩きつけられた婚約破棄の書状を見つめる。羊皮紙の端が、乾いた風に煽られてパタパタと音を立てる。

 だが、私の思考はそこにはなかった。

 私の視線は、テーブルの上に置かれた純白のティーポットに釘付けになっていた。


(……ああ、抽出が始まってから、ちょうど三分。今、茶葉が呼吸を止めたわ)


「クロエ? 聞いているのか!」


 怒鳴り声。けれど、私にとっては遠雷のようなものだ。

 私は静かに、椅子から立ち上がった。震えていると思ったのか、カトリーヌが「お姉様、そんなに悲しまないで」と、猫撫で声で追い打ちをかけてくる。


「悲しい……? いいえ、そんなことは。ただ、お湯の温度が下がるのを懸念していただけですわ」


 私は、ドレスの裾を翻してテーブルへ歩み寄った。

 ジュリアンが呆れたように鼻で笑う。


「ふん、相変わらず茶汲み人形のような女だ。最後だ、その無駄に丁寧なだけの茶を淹れて去るがいい。それが君の、この国への唯一の奉仕だ」


「承知いたしました。殿下」


 私は微笑んだ。

 ここからは、私の領域だ。


 まず、白磁のカップを温める。注がれた湯が陶器に触れる「コポコポ」という音の密度で、私はその日の湿度と気圧を測る。

 今日選んだのは、北嶺の峻険な崖に自生する希少種『銀糸青月ぎんしせいげつ』。

 魔力を全く含まない私のような人間が、唯一、この世界の理に干渉できる瞬間。それが、この「抽出」という化学反応だ。


 ポットの蓋を開ける。

 立ち上る湯気。それは、単なる水蒸気ではない。

 茶葉の中に閉じ込められた数年分の記憶が、熱によって一気に解放される瞬間だ。


(……もっと。もっと深く。水分子と魔素が、茶葉の細胞膜を優しく突き破るまで)


 私は意識を集中させる。魔力測定器には決して感知されない、微細な「感覚の指先」で、水の中のイオンバランスを整えていく。

 本来、貴族は「魔力」で強制的に成分を引き出す。だが、それでは雑味が混じる。私は、ただ待つのだ。水と茶葉が、互いに愛し合って溶け合うその一瞬を。


 やがて、ポットから注がれた液体は、透明感のある深い琥珀色の中に、微かに青い燐光を宿していた。

 カップに注がれる際、空気を含んだ液体が奏でる「トトト……」という清涼な音。

 その瞬間、ガゼボの空気が一変した。


「……なんだ、この香りは」


 ジュリアンが、思わずといった風に鼻を動かした。

 それは、暴力的なまでの芳醇さだった。

 冬の朝の澄み切った森の匂い。熟れきった果実が弾けるような甘美な予感。そして、人の心の奥底にある「安らぎ」を無理やり引きずり出すような、抗いがたい誘惑。


「『銀糸青月』でございます。殿下、そしてカトリーヌ様。どうぞ、お召し上がりください。これが、私が皆様に差し上げられる、最後の一片にございますから」


 私は恭しく、二人の前にカップを置いた。

 カトリーヌは「ふん、お茶なんて誰が淹れても同じよ」と毒づきながらも、その香りに抗えず、吸い寄せられるようにカップを手にした。


 ジュリアンもまた、無意識に喉を鳴らした。

 彼は、この国でも有数の魔力量を誇る。その強大な魔力は、常に「自己を守る鎧(魔力障壁)」として彼の精神を包んでいる。貴族が本音を明かさず、常に冷徹な政治機械でいられるのは、その魔力の膜があるからだ。


 だが。

 私の淹れたお茶は、その鎧の「継ぎ目」を正確に突く。

 魔力ではなく、圧倒的な「多幸感」という名の劇薬。

 脳が、魂が、「これを拒むことは生存への冒涜だ」と誤認するほどの味。


 ジュリアンが、一口、その液体を口に含んだ。

 カトリーヌも同時に、喉を鳴らして飲み込む。


「――っ!?」


 二人の瞳が、カッと見開かれた。

 ジュリアンの手にあったカップが、カタカタと震える。

 彼の顔から、それまで張り付いていた「高貴な王子の仮面」が、ボロボロと崩れ落ちていくのが見えた。


「おい……なんだ、これ……体が、熱い……。頭の中が、真っ白に……」


 ジュリアンの瞳から、鋭い理性の光が急速に消退していく。

 代わりに浮かんできたのは、見たこともないような「だらしない悦楽」の色だ。

 頬が赤らみ、口角がだらしなく吊り上がる。


「殿下ぁ……、私、なんだか、とっても……気持ちよくなって……」


 カトリーヌも同様だった。彼女の自慢の淑女らしいポーズは崩れ、椅子に深く沈み込み、足が不作法に投げ出される。


「ああ……。そうか。そうだった」


 ジュリアンが、うわ言のように呟いた。

 その声は、先ほどまでの冷徹な響きとは正反対の、粘りつくような本音の響きを帯びていた。


「クロエ……。君を、追放する……。ああ、そうだ。そう決めなきゃいけなかった。だって……そうしないと、隣国の公爵から約束された裏金が、手に入らないからな……。ぐふ、ぐふふふっ」


 私は、静かにカップを置いた。

 情報の獲物が、罠にかかった音がした。


「……裏金、でございますか?」


「そうだよぉ! あの公爵、馬鹿だよなぁ。カトリーヌと結婚して、君を追い出せば、国境の砦の魔力結晶を横流しさせてくれるってさ……。王父上? あんな老いぼれ、さっさと毒でも盛って隠居させればいいんだ……」


 ジュリアンの口から、国家を揺るがすような機密事項が、まるで堰を切ったように溢れ出してくる。

 止まらない。一度緩んだ魂の堤防は、もう閉じることができない。

 彼のお喋りは、もはや快楽そのものと化していた。


「殿下ぁ、私もぉ……」


 カトリーヌが、濁った瞳で笑いながら、ジュリアンの胸元に指を這わせる。


「私、本当はお金さえあれば、殿下の顔なんてどうでもいいんです。だって、殿下、夜は全然……あっ、言っちゃった。あはははは! お姉様の婚約者を寝取るのも、あの悔しそうな顔が見たかっただけだしぃ。でも、お姉様ったら無表情なんだもん。つまんないの!」


 二人は、自分たちが何を口にしているのか、もはや理解していないようだった。

 ただ、心の奥底に溜まった泥のような本音を吐き出すことが、絶頂に近い快感をもたらしている。


 ガゼボの周囲に控えていた近衛騎士たちが、顔を蒼白にして凍りついているのが見える。

 一人は震える手で記録板を取り出し、王子の自白を書き留め始めた。

 もう一人は、慌てて王のもとへ走っていく。


「……あら、大変。少しばかり、抽出が完璧すぎたようですわね」


 私は、わざとらしく口元を隠した。

 私の淹れるお茶は、飲む者の「理性の壁」を完全に融解させる。

 それは、魔力による攻撃ではない。ただの「究極に美味しい飲み物」がもたらす、生理的な弛緩。

 だから、どんな防御魔法も意味をなさない。


 私は、まだだらしなく笑いながら陰謀を語り続ける二人を一瞥し、深くカーテシーをした。


「それでは殿下、カトリーヌ様。ご機嫌よう。……ああ、そうそう。そのお茶、冷めると『本音』に加えて『激しい自己嫌悪』が襲ってきますから、お気をつけくださいませ」


 私は、一度も振り返ることなく、ガゼボを後にした。

 背後からは、まだ王子の「俺は天才だ、誰も俺を騙せない!」という、滑稽な絶叫が響いている。


 私の手元には、もう婚約破棄の書状はない。

 代わりに、ポケットには一袋の茶葉。

 そして私の胸にあるのは、復讐の喜びではなく、ただ一つの純粋な欲求だった。


(さあ、次のお水を探しに行きましょう。……確か、北の辺境には、氷河が溶け出す絶品の原水があるという噂ですわね)


 雪解け間近の風が、私の髪をなでた。

 城門の向こう側、漆黒のマントを翻した一人の男が、こちらの騒動をじっと見つめていることなど、この時の私はまだ知る由もなかった。



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