異世界の風
目が覚めた。
……いや、正確には「目覚めた」というより、意識がふっと戻ってきた、という感じだ。
さっきまでいた白い空間も、女神の声も、全部跡形もなく消えている。代わりに、柔らかい草の感触が背中と腕に広がっていた。
ケイスケはゆっくりと上体を起こした。
視界が、ひどくボヤけている。
いつも通り、と言えばいつも通りなんだけど……それにしても酷い。
世界が白い霧に包まれているみたいで、輪郭がほとんど掴めない。色も形も、全部が滲んで溶け合っている。
ただ、遠くの方に、なんとなく大きな木のような影が立っているのが分かった。
ぼんやりとした緑と茶色の塊が、ゆっくり揺れている。枝なのか、葉なのか、それすら定かじゃない。
柔らかい風が頬を撫でた。
転生前には、こんな風、感じたことなかった。
都会の空気はいつも埃っぽくて、排気ガスの匂いが混じっていて、風なんてただ「吹いてるな」くらいにしか思わなかったのに、今は違う。
甘い花の香りと、土の匂いと、どこか湿った草の匂いが混じった、生きているような風。
ここが、本当に『別の世界』なんだと、急に実感が押し寄せてきた。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
不安だ。
何も見えない。どこにいるのかも分からない。
この先、どうなるのかも分からない。
……でも。
ケイスケは小さく息を吐いて、自分に言い聞かせた。
大丈夫だ。
俺には、無限魔力と概念剥奪の能力がある。
女神が言っていた通りなら、魔力は尽きない。どんな魔法だって好き放題使える。
概念剥奪だって……もしヤバい状況になったら、例えば「痛み」とか「死」とか、そういう概念を剥ぎ取ればいい。
理論上、俺はほとんど無敵のはずだ。
そう言い聞かせると、少しだけ心が落ち着いた。
まだ震えは止まらないけど、少なくとも「死ぬかもしれない」という恐怖だけは、薄らいだ気がした。
「……あの、大丈夫ですか?」
突然、すぐ近くから声がした。
女の人の声。
柔らかくて、少し心配そうな響き。
ケイスケは慌てて顔を上げたけど、視界はボヤけたまま。
目の前に、ぼんやりとした人影が立っている。
細いシルエット。長い髪らしきものが風に揺れている。顔の輪郭も、服の形も、何もはっきりしない。ただ、声の主がすぐそこにいることだけは分かった。
「あ……えっと」
ケイスケは喉を鳴らして、なんとか言葉を絞り出した。
「大丈夫……です。たぶん……」
人影が少しだけ近づいてきた気がした。
温かい気配が、すぐそばにある。
「私はアリエルです。貴方は……?」
「あっ、えっと……俺は門田ケイスケ……」
短い沈黙のあと、アリエルと名乗った彼女が、ぽつりと言った。
「……もしかして、異世界転生された方ですか?」
俺の心臓が、どくんと跳ねた。
「……えっ、なんで、異世界転生ってわかるの?」
アリエルは、答えた。
「異世界転生された人達って、よくわからない布を纏ってる事が多いんですよ」
俺は、自分の服を見下ろした。
……確かに、Tシャツにチノパン。コンビニに行く途中で着ていた、いつもの普段着だ。
この世界から見たら、完全に浮いてるんだろうな。
視界は相変わらず、全部が白く滲んだままだった。




