つながり⑨
いいことがあると悪いことがある。本当に不思議だ。
帰宅するとリビングのカーテンが裂けていた。ひどく暴れた痕跡が見て取れ、なんの言葉も出ない賢太に母は力なく笑った。
「嫌よね、破けちゃった」
母の不安定さは増していて、ヒステリーを起こすようにひとりでもなにかを喚いていることがある。静かになったかと思うとぶつぶつとなにかを言っていて怖い。
「賢太は私についてくるでしょう?」
「……離婚するの?」
答えはなかった。母の視線はダイニングテーブルの上の紙に注がれている。離婚届と漢字が並んでいる。
心のどこかでほっとした。ようやく解放されるのだと思ったら、それだけで身が軽くなった。
「そう」
それ以上なにも言えなかった。ただ今は解放感に満たされたかった。母の様子もおかしいのですぐに二階にあがり、部屋に入ってずるずると座り込む。
「離婚するんだ……」
解放される。
ふと疑問が湧き起こった。
賢太の状況が解決されても、あの声は聞こえるのだろうか。もし聞こえなくなって、つながりが途絶えてしまったら――小さく頭を振る。
声の主の彼――秀星にとっても心の内を話せる大切な時間だったはずだ。賢太だけが救われることへの罪悪感が湧き起こり、今度は素直に喜べない。
……そっか。
支えてもらった分、今度は賢太が秀星をこれまで以上に支えてあげればいいのだ。今後は心の中での会話ではなく、実際に目と目を合わせて話せばいい。
――頑張ってるな、賢太。
昼休みの言葉を思い出し、頬にかっと熱が集まった。実際に顔を見て話せば、秀星ともっと仲良くなれるかもしれない。心で会話ができるほどに引き寄せられたのだから、もしかしたら親友なんて呼べるくらいの友だちになれるかも――。想像しただけで口もとがにやけた。
でも本当に不思議なことに、いいことと悪いことは表裏一体なのではないかと思わされる。父が帰宅して、いつも以上に激しい声が響いてきた。
「離婚なんて、俺の立場を考えろ!」
どうやら離婚が決まったのではなく、母が一方的に結論を出しただけのようだ。父の様子から、合意はしないだろう。つまり、賢太の状況に解決は訪れない。
「……」
掛け布団をかぶって身体を丸くする。耳を両手で強く押さえ、なにも聞こえないように塞いだ。
もう嫌だ……!
ほんの一瞬でも夢を見てしまったから、余計に現実が痛い。解放されるなんてあるはずがないのだ。
『大丈夫か?』
聞こえてきた声に、閉じていた瞼をそっとあげる。真っ暗な布団の中に光が射したように思えた。
『……前は、ごめん。いらいらして、ついきついことを言った』
ううん。大丈夫。僕こそごめんなさい。
相手の不器用な謝罪に、もうそうだとしか思えなかった。でもそれを言っていいのかがわからない。名乗らない約束だったけれど、気がついてしまった場合はどうしたらいいのだろう。
『きみは優しいな』
あなたも優しいよ。恰好いいし。
『恰好よくなんてないよ。本当にそんなことない』
照れくさそうな声音に小さく笑う。そんなことない、なんて否定したって知っている。あんなに恰好いいのにごまかすなんて。少しのいたずら心が湧いてきた。
あなたはたぶん、兄弟がいる。
『なんでわかるんだ?』
やっぱり。お祖父さんとお祖母さんはパンが好きでしょ?
『そう。祖父母は昔からご飯よりパンなんだ。本当にどうしてわかるんだ?』
相手はまだ気がついていないようで、賢太はひとりでおかしくて仕方がない。でもここで名乗っていいのかわからない。だけれど勇気を出した。きっと互いの正体を知れば、もっと近づけるから。
あなたの名前を教えてくれない?
『……名乗らない約束だっただろ』
だって、「あなた」より名前で呼びたいよ。せっかくこんなに話すことができてるんだから。
相手は悩んでいるのか、しばし無言になった。迷っている様子がなぜかわかる。彼の心に流れる思案が伝わってくるのだ。
『じゃあ、イニシャルだけなら』
それでもいいかな、と賢太は「わかった」と答える。それでも「きみ」と「あなた」よりはより秀星と賢太に近い。
僕はKだよ。
先に賢太が告げると、声の主は「K……」と小さく繰り返した。彼にも会話の相手が賢太だとわかっただろうか。
『じゃあ俺の番だな』
うん。
聞かなくてもわかる。秀星だから「S」だ。
『俺は、R』