つながり⑦
十月になると暑さも落ちついてきた。それでもまだ長袖には早くて、シャツの袖を折ってまくりあげた。
「暑いよな」
「うん」
一緒にパンを食べていた秀星も、同じように袖を折ってまくっていた。ふたりで少し笑う。
「秀星は今日もほみるのパン?」
「そう。祖母が弁当を作ってくれるって言うんだけど、あそこのパン以外は味がしないんだ。それに賢太のおすすめはいつもはずれがない」
あれから秀星は頻繁にパンを買いに来る。学校でも話しかけてくれて、まるで友だちのようだとくすぐったい。
秀星は今、祖父母の家に住んでいて、祖父母が以前からほみるのパンが好きなのだという。祖父母宅はほみるから五分ほどのところにあり、朝にも寄ってくれていて、秀星の昼食は話すようになってからずっとほみるのパンだ。ちなみに賢太は朝はほみるに寄れないので、購買で適当に買っている。
「食べないとお腹が空くって不便だよね」
たいして味のしない焼きそばパンを食べながら呟くと、秀星は向かいで口もとを緩めた。こうして、女子なら大騒ぎしそうな笑顔も見せてくれるようになった。
「でも俺には賢太がおすすめしてくれるパンがあるから、腹が減ってももう平気だ」
「そっか。僕でも役に立てることってあるんだね」
「あるよ。勉強になる」
秀星はフレンチトーストを食べ終えて、パンの入っていた小袋を綺麗にたたんでからレジ袋に戻した。
「勉強?」
「ああ。今まではひとりが一番いいと思っていたけど、そうでもないと知った」
賢太がそばにいることを喜んでくれているようで、頬が熱くなった。照れ隠しでパンに大口でかぶりつく。なんだか先ほどより味がはっきりしている。気のせいかもしれないけれど。
「でもお祖父さんとお祖母さんがいてくれるんでしょ?」
「……親との関係が悪い俺に気を遣ってるんだと思う」
秀星も両親との関係がうまくいっていない。秀星には弟がいて、両親は弟だけを可愛がっているらしい。
「親だって、自分に似た子どもが可愛いよな」
卑屈に唇を歪める秀星に胸が痛む。秀星の弟は両親に似ているが、秀星は家族の誰にも似ていないそうだ。そのことがずっとつらくて、ひとりで心を塞いでいる。
「わからないけど、でも秀星は恰好いいよ。僕は秀星の見た目も好き」
「好き?」
「うん。話してて楽しいし優しいしよく気がついてくれるし、すごいところばっかりなのに、そのうえ恰好よくて背も高くてスタイルもよくて、勉強までできるなんて、尊敬しちゃう」
虚を突かれたように目を丸くした秀星は、くっと笑い出した。今度は卑屈さのない、素直な笑いだ。
「そんなにいろいろ並べられたら照れるな。でも俺なんか尊敬したところでいいことはない」
「そうかなあ。尊敬したら僕も少し恰好よくなれるかもしれないじゃない」
恰好良さが伝染するかもしれない。見た目がよくなったら、父も母も賢太を愛してくれるかもしれない。
「賢太はそのままがいいよ」
頭をぽんと撫でられ、とくんと心臓が高鳴った。甘やかすようにくしゃくしゃと髪を撫でられて、先ほど以上に頬が火照る。
「あ、悪い」
「う、ううん。大丈夫」
慌てた様子で手を引いた秀星は、ごまかすようにパンをもうひとつ出した。俯きがちにパンをひと口食べているが、頬がわずかに赤くなっているのが見て取れる。
優しいところも、ひとりでつらさをかかえてるところも少し低い声も、あの声の主と似ている。
もしかして……。
ふと頭によぎった予感に、どきりとした。秀星があの声の相手かもしれない。
今日も変わらず両親の怒声はリビングで行き交っている。でもこのところは以前ほどつらくはない。あの声の彼がいるからだ。
『どうして子どもは親を選んで生まれてこられないんだろうな』
うん。そうだね。
賢太も何度もそう思った。選べたなら、もっと仲のいい両親のもとに生まれて幸せな毎日をすごせただろうに。思うようにいかないのが現実だけれど、幸せそうな人を見ると羨ましくなる自分も嫌だ。羨んだところでそうはなれない。
暖房の効いた部屋で掛け布団をかぶると、少し暑い。それでも彼と会話をするときの基本体勢がずっと掛け布団の中だったから、今から変えるのもなんとなく落ちつかない。
不思議な声が聞こえるようになってから、半年弱が経っていた。夏が終わったかと思ったらあっという間に寒さが増し、朝晩にはコートが必要なほどだ。
彼と会話をしているときは、一階のひどい罵り合いはまったく聞こえない。だから心から安らげるのだ。本当に神様が賢太にくれたシェルターかもしれない。
『なんだか声が弾んでいるみたいに聞こえるけど、いいこともあった?』
え?
『普段は暗くて沈んだ声しか聞こえてこないのに、今は少し明るく感じる』
毎日秀星と話していることが心にいい栄養となっているのかもしれない。パンの味もおかしくないし、食べものを食べたときの砂を噛むような感覚も減ってきた。
よくわかったね。そうなんだ。学校でいいことがあったんだよ。
『友だちができたとか?』
友だちではないけど、話してくれる人ができたんだ。
そう答えながら、秀星は友だちなのかなと疑問をいだいた。「友だちになろう」と言ったわけではないから、どこからが友だちなのかわからない。これまで仲良くできる人がいなかったし、友だちとそうでない関係の境界がどこにあるのかわからず考える。
『ふうん。よかったな』
え……?
『きみはそうやってひとりじゃなくなっていくんだな』
どこか皮肉のこもった声にどきりとする。なにか悪いことをしただろうか。
ひとりじゃなくなるかはわからないよ。だってずっと一緒にいるわけじゃないし。
『でもきみの支えが他にできてるんだろ』
それは……。
そう言われたら、そのとおりなのかもしれない。でも秀星はたしかにそばにいてくれるけれど、こうやって話ができる彼も賢太の支えだ。比べられないくらいにどちらも大切だ。
でもあなたがいないと、僕は――。
『いいよ。俺なんかすぐ忘れてしまうんだ。きみだって実際会える相手のほうが近づきやすいしな』
……。
なにを言っても機嫌を損ねそうで、なにも言えない。
『別にいいよ。俺はきみの友だちじゃないし』
続く言葉がないことも彼には苛立ちのもとだったのか、耳に響く声はとげとげしくなっていく。
……ごめんなさい。
こんなときにどうしたらいいのかがわからず謝ると、相手の声は聞こえないのに圧迫されるような耳への圧があった。彼の苛立ちや不満が押し迫っているように、鼓膜がぐうっと押される。声が耳に直接響くようだったけれど、こんなふうに感情まで伝わってくるなんて知らなかった。
『謝ってほしいなんて言ってない』
でも……。
『もういい。俺は寝るよ』
うん……。おやすみなさい。
返事はなかった。静かになった耳を両手で押さえ、先ほど感じた圧迫感にひとつ身震いする。誰かの怒気に触れると身体が竦む。なにが怒らせた原因なのか考えるがわからず、賢太の受け答えすべてが気に入らなかったのかもしれないと落ち込んだ。父と母の怒声以上に、彼の怒りは賢太の心を抉った。