つながり③
心に思うことがあの声の主に丸聞こえだったら恥ずかしいし、それは少し嫌だなと思ったら、そうでもないようだ。朝起きて学校に行って授業を受けて、といつもの生活をしても、あの声は聞こえなかった。だからきっと賢太の心の声も相手に聞こえていない。相手がなにも考えずに無の状態でいるとは考えられないから、たぶんあのときは特別な状況だったのだ。なにがどうなったのかはわからないが、似たような思いを胸にかかえている彼と、どういうわけか心と心で会話ができた。思い返してみても不思議で仕方がないが、世の中には不可思議なことはたくさんあるのだから、と非現実的な出来事も意外とすんなり受け入れられた。
今日はアルバイト先が休みなのでまっすぐに帰宅する。玄関ドアの前で深呼吸をした。
「……」
もう一度深呼吸をする。どんなに心を落ちつけても不安になる。
「ただいま」
そっとドアを開け、リビングに声をかけるがなんの返事もない。母はいるはずだ。足音をなるべく立てないようにして、リビングを覗く。
椅子に座り、テーブルに両肘をついて手で顔を覆っている母がいた。気分がすぐれないのかもしれない。こういうときはあまり話しかけないほうがいい。それはこれまでの経験からわかる。
「ただいま」
でも一応帰ったことだけは知っていてほしくて、声をかけた。母は手をはずして賢太を見留め、力の入っていない瞳を細めた。
「おかえり」
きつく睨まれているわけではないが、微笑まれてもいない。父がいないときの母は静かだが、心にかかえるものがあるらしい。いつも塞ぎ込んでいる。賢太に攻撃を仕掛けることはなくても、好意的にも接してくれない。自分のことで精いっぱいなのだろう。
帰ったことは伝えたから二階にあがる。母とはこんなやり取りしかない。部屋に入って一度室内を見まわす。特に乱れた様子もない、朝出たときから変わりのない部屋だ。ここが賢太のシェルターで、唯一の逃げ場所。
父が帰ってくるまでに食事を済ませ、風呂も終えた。母が作る食事はご飯にレトルトのおかずをのせたものなのですぐに食べ終える。賢太が食べるあいだ、母はぶつぶつとずっとなにか呟いていたので、賢太まで疲れを感じた。
使った食器を洗っていたら父が帰宅した。今日は早い。早く帰宅しても母と衝突するだけなのに、なんて思ってしまう。
「おかえり」
「……」
賢太がリビングを出るのと入れ違いに父がリビングに入る。急いで階段をあがっていく途中で、地響きでも起こりそうな大きな怒声がした。
「またそんな暗い顔をしているのか! 俺への当てつけか!」
なにからなにまで気に入らないのなら離婚すればいいのに。苦い気持ちになりながら部屋のドアを閉めた。
父が母を責め、母が父をなじる。そんなやり取りを毎日聞かされる子どもの身になってみてほしい。それがどんなにつらいか、しんどいか、苦しいか――両親はきっとわかってはくれないだろうが。自分たちのことしか頭にないふたりを嫌いになれたらいいのに、どこかでまだ拠りどころとしている。昔……賢太が覚えていないくらいの過去には愛し合ったのだから、いつかまたその気持ちを思い出してくれるのではないか、と馬鹿な願望が捨てられない。諦めればこんなにつらくならずに済むのかもしれないが、なかなかうまくいかない。
掛け布団をかぶって目をつぶり、手で耳を塞ぐ。聞きたくないし、見たくない。見た目だけ繕った家の中は冷たく、温度がない。負の感情だけがそこにある。
なんでこんな親のところに生まれたんだ……。
親は子を選べないし、子も親を選べない。その結果がこんな毎日なんて、あんまりだ。誰に文句を言っていいのかもわからず、でもなにかに怒りをぶつけたい。もやもやと心で渦巻くものが黒く濁って、全身に満ちていくようだ。
『好きで生まれてきたわけじゃない』
「……!」
また聞こえた声にはっとする。あの低い声は泣き出しそうな色を滲ませている。
『俺の気持ちなんて、みんなどうでもいいんだ』
あなたもつらいの?
心の中で声をかけると、答えが返ってくる前に安堵した。同じ思いをかかえている人が他にもいることが、安心を生む。賢太の考え方がおかしいのではないと思わせてくれる。
『きみもなのか?』
うん。
慰めをようやく見つけた気がした。誰かわからない、名前も知らない。幻聴のようでいて幻聴ではなく、しっかりと耳に届く声。心で話しかけるときちんと答えてくれる誰か。もしかしたら相手は人間ではないかもしれない。それでもいい。気持ちの共有ができるのであれば、天使でも悪魔でもおばけでもかまわない。自分で思う以上に、ひとりでかかえるものが重くて苦しかったのだ。吐露する相手を見つけたら、それだけで心が楽になった。
僕なんていらないんだ。なんで生まれてきちゃったんだろう。僕がいるから、親は離婚したくてもできないのかもしれない。
こんなことを言えるのも、相手が彼だからだ。誰にも話したことのない弱音を言葉にするのは勇気がいるが、心にしまっていたものを出すことで気持ちが軽くなった。
『親の仲が悪くないだけ、俺はましなのかな。きみのほうがつらそうだ』
あなただって大変だよ。たくさん嫌な思いしても気持ちを隠して我慢してる。優しいね。
『優しい?』
うん。
声音が驚きに変わり、おかしなことを言ったかと焦る。でも次に聞こえてきたのは穏やかで包み込むような温かい声だった。
『きみのほうが優しい。俺よりも大変なのにいつも頑張ってて、すごいな』
え……。
まさか褒められるなんて思わなかったので、今度は賢太が驚く。なんと続けたらいいのかわからないほどに照れくさく、頬がさっと熱を持った。
す、すごくなんてないよ……僕なんて。
自分の頬をつねって軽く引っ張ってみる。痛いから夢ではない。本当に褒められたのだ。信じられなくて、もう一度頬をつねってみた。やはり痛い。
あなたのほうがすごいよ。気遣いができるし優しいし。きっともてるんだろうなあ。
『俺なんて全然だよ。恰好いい人ってどこから見ても輝いてるみたいじゃないか? そういうのないし』
互いに褒め合って、冗談を言って。心地いい会話が安らぎをくれる。知らない誰か、でもたしかにいるひとりの存在が賢太の心の支えになっていた。
夏休みはつらかった。長い休みはいつも憂鬱だ。なるべくアルバイトのシフトを入れても、帰る場所は家しかない。賢太が帰宅するとすでに怒声が行き交っていたときもある。なにがそんなに気に入らないのか、なにをそんなに怒るのか。すべてがわからない賢太は部屋にこもって心を塞ぐ。両手で耳を塞いで少しすると、彼の声が聞こえてくるからほっとした。
『きみは強いな。俺だったら家を飛び出してるかもしれない』
飛び出しても行く場所がないから、結局帰るしかないし。それならはじめから疲れることはしたくないっていうだけだよ。
現実はつらくても逃げるところがある。救いは安心と心の平穏をくれた。他に縋れるものがない賢太は、耳に直接語りかけるように聞こえてくる声だけを支えにしていた。