国を背負う君へ、餞として
むわっとした人いきれのせいで、靄が掛かったような夏の夜空。その靄にぼやける月を眺めたルカは、そのまま頭を搔いた。おそらく小一時間の遅刻である。春に執り行われたリディアス新国王イワンの戴冠式が、未だにリディアスの民の中にあるお祭り気分を盛り上げているのもあり、夏至を過ぎた夏の陽の高さもありで、近衛騎士としての終業が遅くなってしまったのだ。
そして、この終業がルカにとってはリディアスに尽くす最後の仕事。そして、これからは故郷であるディアトーラに尽くすことになるのだ。だから、人に任せる気になれなかったのだ。
アルバート前国王を御守りするという大切な役目をやり遂げたかった。国というものが知りたいというルカの思いを汲み取って、近衛騎士として傍においてくれた、自分の大叔父にあたるリディアス国王を、最後まで見送りたかったのだ。
しかし、反して、それを祝ってくれようという相手に対する遅刻。
ルカの気持ちが重いのは確かだ。
ただ、おそらく、すでにリディアスの内情に深く関わっているロアンは、すべてを知りながら、のんびりと構えてくれているのだろう……とも期待し、その重たい木製の扉に付いてある黒鉄の取っ手を引き開けた。
扉に付いていた鐘が『カラン』と一度だけ鳴り、酒場に来客を知らせる。
その音に気づいたマスターが手を止めて「いらっしゃい」とルカに伝える。そして、再びグラスに紫色のシロップを垂れ流し始めた。グラスの中は幾重にも色が重ねられており、最後に銀製のマドラーがそのグラデーションを突き崩し、歪みを与えた。
グラデーションを受け取った客の男は、おそらく貴族だろう。目を細め、その色合いを楽しんでから、一口、口に含み、マスターに何か話しかけていた。
全体的に照明は暗く、座席数も少ない。騒ぐような客もなく、酒を楽しむためだけの場所。
こういう雰囲気は、ルカも嫌いではない。
ただ、少し小洒落すぎている雰囲気に気後れするだけで、故郷であるディアトーラでは、このくらいの規模の飲み屋しかなかったのだから、どこか落ち着くのも確かだった。おそらく、それも見越して、ロアンはここを準備してくれているのだろう。
「やぁ、お疲れだったね」
そして、そんなルカを先に見つけたのは、やはりロアンだった。ロアンはふわりとした雰囲気のくせに、意外と目端が利くのだ。そこはさすがリディアスの要職と言ったところだろう。結構手強いとも聞いたことがある。
しかし、それはルカが学生の頃に博愛主義者って、掴めない者だなと思っていたことと変わりないような気が、今もしている。そう、ロアンは今も誰にでも優しい。
そして、非公式の妻をたくさん持っているくせに、正妻はまだいない。
ロアン曰く、皆に等しく愛を与えるための方法らしい。
真似はしたくないし、自分には真似できないような気がしていた。
うん、無理だ。
そんな風に親友でもあるロアンを評価したルカは、彼に謝罪をする。
「申し訳ない、お待たせしてしまって」
「いや、いいよ。君も忙しかったんだろう? これは、僕のせいでもある」
ロアンはふわりとした口調で、ふわりとルカに微笑んだ。これは本当に学生の頃から変わらない。そして、本当は何を考えているのかすら掴ませないが、おそらく言葉通りである。
「さぁ、掛けたまえ」
そして、何もなかったかのようにただ、ルカを迎える。
「君は飲めたはずだよね」
そして、ルカが答える前にマスターに声をかけ、琥珀酒を告げる。ままアルコール度数のあるものだ。彼はいつもそんな風にして物事を進めていく。
「最近、君の父上に会ったよ」
ルカが椅子に腰を下ろすのを確かめて、ロアンがふわり微笑みながら続けた。
「君の父上は下戸だとおっしゃっていたから、君は母親似なのだろうな」
「ご存じでまたそのようなことを仰いますか?」
「もう敬語はやめたまえよ。今後はルカ、君の方が上の立場になる」
ルカとロアンが黙った理由は、マスターがそっと彼らの邪魔にならないほどの距離で、琥珀酒をテーブルに給仕したからだ。ロアンはマスターに微笑みで感謝を示す。ルカは、その琥珀酒に視線を落としていた。ロアンの言う通り、ロアンはリディアスの侯爵家、ルカはディアトーラの王族になるのだ。ただ、……。ルカはそっと、目の前に置かれた琥珀酒に視線を落とした。アルコール度数が高いのだ。ルカの父はこれは飲めない。母は飲めるのだろう。
しかし、ロアンが言ったことは、それを意味していない。
琥珀酒は明暗色の照明に深みを帯びた色になり、中に転がる氷が粘りのある光を反射させている。今はその氷が、琥珀酒の味を引き立てているのかもしれないが、いずれ、琥珀酒の味を損なうものとなる。
それはまるで『ルカ』を示唆しているようにも思えた。
「大丈夫ですよ。こんなことくらいで足元をすくわれたりしませんから。私が彼らの実子でないそれは、もはや公然の秘密です。父も母も、何があっても私の両親に変わりない。他に親が出てきたとしても、……僕の心が揺れることはないし、どんなことを言われようが、今の僕の足元が崩れることもない。そんな風に固めてきましたから」
その答えを聞いたロアンが、やはりふわりと笑う。そして、何でもないような口調で、とても重大なことを、そのふわりの中に漂わせた。
「イワン新国王は、君とかなり距離がある。僕でさえそうだ。リディアスは意外と血を重んじる傾向があるからね。だが、直系であるとかではなく、その『血』なのだよ。リディア神は常に優秀なリディアの血を求めてらっしゃる」
そして、自分のグラスを手に持ち、ルカに向けて傾ける。
「近衛騎士の務めを最後まで真面目に果たした、賢き騎士ルカ・クロノプス。これからはディアトーラのルカ・w・クロノプス」
ルカもゆっくりと琥珀酒を、口調を変えたロアンに傾ける。
「これは祝杯だ」
「痛み入ります」
その声を合図に、ふたりが琥珀酒を一口。そして、ロアンがルカを見ずに語り出す。これは、何か謀がある。ルカはそう感じた。
「君の妹君を僕がもらおうかと思っているのだよ。そうすれば、君は僕の義兄という立場になるからね。晴れて君も僕の傘下だ」
確かに、足元はずっと盤石になるだろう。ルカの父はイワン国王の従弟だ。彼らの実子である妹は、確かにその血は持っている。しかし、その父の実子でないルカにはそれがない。ロアンはおそらく、ルカのことを思ってそんなことを言い出したのだろう、とは容易く想像できた。しかし、もっと別の意味があるのだろう。ロアンは、こういう取引はあまり好まないはずだから。
例えば……
「正妻の椅子は空いているからね」
いや、ロアンは今先ほど、ルカのことをディアトーラ跡目として扱ったことをルカは思い出した。そうか、これは試験のようなものなのだ。学生時代三つ上のロアンがルカをよく試していたような。
「ありがたいお言葉ですが、シアはもっと別の機会に、もっと別の駒として使うべきだと思っていますから」
そう、妹のグレーシアは己のための政略結婚などというものに使おうなど、もったいない逸材なのだ。さらに言えば、グレーシアは自覚なしのかなりのやきもち焼きである。博愛主義のロアンでは、彼女が幸せになれるわけがない。
あぁ、そうか。
「ロアン様が、妹のことをただひとり愛してくださるというのなら、考えますが」
その返答に、ロアンが笑う。どうやら、正解を導いたようだ。
「そうか、兄の君の許しがないのなら諦めよう」
そして、わずか後、ロアンが続けた。
「もし、君が父君の許しをなどと宣ったのならば、本気で奪おうかと思っていたところだ。グレーシア嬢は、なかなかの逸材だからね。あの審美眼、国にひとりは欲しい者だ。君の父君などよりもずっと、僕の方が使える駒をこのリディアスに持っているのだから、簡単なことさ。だが、今日は君への祝いなのだ。妹思いの次期元首の意見は立てるべきだな」
ルカはまだ真剣に答える。ロアンは半分冗談、まだ半分は本気なのだ。気を抜くには早い。
「えぇ、ロアン様のためにおやめください。ロアン様はお優しいお方ですから、女性を泣かすのはご趣味ではないでしょう」
そして、ルカも言葉を崩す。
「まだ幼い恋のようですが、すでに心に決めた者がいるようですから。どうぞ邪魔はしないであげてください」
ロアンが琥珀酒を飲み干して、もう一度マスターを呼ぶ。
「そうか。これは初めて振られてしまったようだ。これは面白い。祝杯をあげねばならないな」
「えぇ、その記念。私もご一緒しましょう」
そして、ルカも自分のグラスを空にする。
少しずつ、元首への道を歩むルカに、初めての与えられた餞の交渉だ。もちろん、返答次第はあっただろう遊びではない交渉。
「ロアン様、ありがとうございます」
「良きディアトーラの元首となるように、良き好敵手であってくれたまえ。皆が傅いては面白くない。イワン陛下も同じ考えをお持ちの方だ。これは、餞の言葉だ」
そう、ルカは故郷よりもなじみ深くなってしまったリディアスから離れ、故郷のディアトーラのために努めなければならないのだ。
そして、これは親友として最後の乾杯となるのだろう。
ふたりはそんなことを心に、時を惜しむようにしてグラスを勝ち鳴らした。