うわさ探偵2 〜蟲の怪〜
調子に乗って続編です
こちらだけでもお読みいただけます
前作「うわさ探偵 〜扉の怪〜」 https://ncode.syosetu.com/n3239jg/
昼間とは、こんなに暑いものだったか。
後ろから追い立てられてでもいるかのように、せかせかと歩く人の波に揺蕩いながら、僕は街を歩く。
この街の人たちが追い立てられているのは、恐らく時間なのだろう。
決して逃げているわけではないのに、時間に捕まる恐怖から逃げるように、人々は追い立てられ、それぞれに散っていく。
夜になると開放的で享楽的な賑わいを見せるこの街も、昼は至って真面目な顔をして、僕らのことなんて気にもかけやしない。
やはり、昼の光は夜の光とは違うのだ。
どちらにしても、恐ろしいものが背後で嗤っているには違いないけれど。
「おい」
前を歩いていた月見里が、半分こちらを振り返った。
それにしてもこの男、暑くないのだろうか。
真夏の最中でも陰気な黒いスーツを着て、人より高めの頭から一身に夏の陽射しを浴びているというのに、驚くほど平然としている。
暑くないのか聞いたら、普段から無愛想な顔を更に無愛想にして、無視された。
……暑いのだったら、もっと涼しい格好をすればいいのに。
人の波に逆らわないよう、だけどさっきよりもゆっくり進みながら、月見里が視線をやった方向を見る。
視線の先には、小太りのおじさんがいた。
大きな買い物袋を両手に下げたおじさんは、汗だくになりながら信号が変わるのを待っている。
両手に荷物を持っているので、拭うこともできない汗が、絞った油のように額からぬるりと垂れた。
ぬるり、ぬるりと、汗が次々に垂れていく。
信号が変わり、歩き出したおじさんと僕らの距離が近くなった。
「一応、声かけとくか?」
「…………いや」
離れていても妙に目についたおじさんの汗が、はっきりと見える距離まで近付いた。
汗ではなかった。
額から垂れていたのは、無数の蛆のような小さな白い塊。
油のようにぬらぬらしたそれは、額からおじさんの顔を這って降りていき、顎の辺りまで辿り着くと、そこからにゅるりと中へ潜り込んだ。
ぞわりと、背中に怖気が走る。
「……必要ないよ。あの人もう、《喰われ》てるから」
顔と同じくらいの大きさになった白い固まりが、ずるりとおじさんの背中から這い出した。
そいつは目も鼻も口もないくせに、僕を見てニヤニヤと嗤っていた。
すれ違う瞬間、おじさんが僕の耳元で「ゴチソウサマ」と嘲るように囁いたのは、きっと、気のせいだろう。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
待ち合わせ場所に指定されていた中華料理店に入る。
そこらへんの町中華と違って、本格的なやつだ。
クーラーの利いた店内に安堵の息を漏らしながら、僕は顔を覆っていた暑苦しいマスクと帽子を剥ぎ取った。
薄暗い店内には、鬼灯を模した形の提灯が金色の細い鎖で幾つも天井からぶら下がっていて、ここだけ夜なのではないかと錯覚してしまう。
赤と金がふんだんに使われた内装は、けばけばしい色合いにも関わらず落ち着いた雰囲気で、舞台の客席のように段々になったフロアには、洋風の華奢な造りのテーブルと椅子が綺麗に整列されている。
段になっているフロアのいちばん奥、壁際の席は個室になっていた。
壁で区切られた狭い空間が、貴人の使う御簾のような瀟洒な布で、こちらの世界と切り離されている。
まるでそこにいる貴い人を守護するように、厳しい顔つきをした金色の龍の像が、僕らをぎろりと睨んでいた。
「彼方さん」
僕が呼びかけると、個室にいた女性が御簾の横から顔を出して、こちらに向かって手を振った。
彼女の他に客はいない。
今が、昼営業と夜営業の隙間時間だからだ。
本来なら店の営業時間外だが、僕らが外で会うときは、いつもこういった時間と決まっている。
この街で、他人に聞かれず安心して話ができる場所を見つけるのは、なかなかに至難の業だったりする。
その点、彼方さんが懇意にしているこの店は、営業時間外だろうがきちんと僕らを客扱いしてくれて、尚且つ不必要にこちらに踏み込んでこない、理想の密会場所なのだ。
「お疲れ、傘屋くん、月見里くん。暑かったでしょ、お茶でも飲みなさいな」
体に籠もった熱気を冷ますような冷たいお茶を期待していたのに、なんの冗談か彼方さんが僕らに差し出したのは、熱々の茉莉花茶だった。
「……いただきます」
「すみません、冷たいお水とメニューください」
諾々と従った僕を裏切り、店員を呼んで1人だけ冷水を手に入れた月見里を横目で睨む。
運ばれてきた氷入りの水を、月見里が一気に半分ほど呷るのを恨めしく睨みながら、僕はヤケクソのように熱いお茶を飲み込んだ。
「冷房も利いてるし、暑いからといって急に体を冷やすもんじゃないわ。頭脳労働の月見里くんはともかく、私たちは体調管理に気を遣わないと。ね、傘屋くん」
自分も熱いお茶の入ったカップに口をつけながら、真っ直ぐこちらを見て微笑んだ彼方さんを、僕は魔女のようだと思った。
意志の強さを感じさせる切れ長の目、さらさらと流れるような艶のある黒髪、低いヒールの靴でも僕とたいして変わらないくらいの長身。
いちいち目を惹く動作は優雅で、けれどもどこか妖しい雰囲気も持ち合わせている。
とんでもなく悪役が似合いそうな彼女は、悪役でこそないが、動画投稿サイトに不定期配信される人気ドラマ『うわさ探偵』に、僕のライバル役として出演している女優さんだ。
同じ役者でも、出演作が『うわさ探偵』しかない僕と違い、彼女は本物の舞台役者で、ときどきテレビ出演もしてるらしい。
そんな人がどうして、素人が作ったような僕らのドラマに出ているのか。
主演の僕も、脚本家の月見里も、それは知らない。
僕たちが何も知らずに《上》から言われた通りに動画を配信しているように、彼女も《上》から言われたことに従っているだけなのだろう。
じっとこちらを見る彼方さんの真っ赤な唇が、にいっと弧を描いて、不敵な形に歪んでいる。
僕は、少しだけ彼女のことが苦手だ。
「そういや傘屋、さっきは何を見たんだ?」
店員に遅めの昼食を頼んだ月見里が、水のなくなったコップから掬い上げた氷を齧りながら、僕に問う。
さっきというのは、街中ですれ違った小太りのおじさんのことだろう。
あのおじさんは、少し前、ドラマに関連した取材の途中で出会って、話を聞いた人だった。
月見里が脚本を書いて僕が主演を務めるドラマ『うわさ探偵』は、奇怪な噂の陰で起こる犯罪を暴く推理ものだ。
妖怪や悪霊、呪いや超常現象などのせいにされて見過ごされている犯罪を、白日のもとに晒していくスタイルが、若者を中心にウケている。
それから、実際に巷で噂されている話が元になっている、というところも。
「なになに。傘屋くん、また昼間から変なもの見たの?」
「まあ……この前の配信の元ネタになった《噂》の関係者ですけど」
僕と月見里は、ドラマ作りのために、色々と奇怪な噂を集めている。
その過程で、噂の現場を見に行ったときに出会ったおじさんは、噂のせいで迷惑を被っていると憤慨していたけれど……今はもう、噂のことも僕たちのことも、全て忘れてしまっているのだろう。
僕たちがドラマにした《噂》は、どうやってか知らないが、あの白い不気味な塊が関係者の記憶ごと《喰って》無かったことにしてしまうから。
僕はさっきの光景を思い出して、ぶるりと体を震わせる。
ぞわぞわと嫌な感じがして、首筋や腕に鳥肌が立っていた。
「この前というと、犯人が贋作の絵画にゲロった話ね。あれはなかなか傑作だったわ」
「くくくっ……俺も、あれは傑作だったと思う」
いつも無愛想な月見里が、意味有りげにニヤついた顔を僕に向けてきたので、テーブルの下で脚を蹴飛ばしてやった。
「さっきのこと、話してもいいけど。聞いたら多分、食欲なくなるよ」
仕返しの意味も込めて、僕は月見里にそう告げた。
実際、僕に食欲が全くないのは、暑さのせいだけじゃないだろう。
月見里のような大多数の人が見ることのないものを、僕だけが見てしまうのは、昔からよくあることだ。
あれが何かなんて知らない。
知らないけれど、多分悪いものだと思う。
そうでなければ、人の体から這い出てきて、記憶を《喰った》り、本人の意思ではない言動をさせたりはしないはずだ。
「ん……そうだな。知らない方がいいこともあるか。すまん、傘屋」
「そうねえ」
妖しげな視線を僕に向けた彼方さんが、指先でテーブルを叩き、それに誘導された僕の視線が、指先へと落ちる。
白く細い指先は、綺麗に爪が整えられていた。
艶のある綺麗な彼方さんの爪がメリメリと剥がれていき、どろりとした白い塊になって、ぶるぶる震えながらテーブルに垂れた。
見る間に、僕の記憶にも新しいあの蛆虫と同じような形になった白い塊は、うぞうぞと蠢き出すと、戯れるように彼方さんの指先にまとわりつく。
悍しい動きをした不気味な塊は、再び彼方さんの中に潜り込もうとしているのか、爪の上へとよじ登った。
だけど、彼方さんの指先は、不気味な塊を厭うようにそいつを弾き飛ばしたのだ。
弾かれた白は、ぐにゃりと歪むと空気に溶けてしまったかのように消えてなくなった。
冷たい嫌な汗が、僕の背中を伝う。
そろりと顔を上げれば、僕を見つめる彼方さんの瞳が、酷く楽しげに揺れていた。
「知らない方がいいことも、世の中には沢山あるわよね。傘屋くん」
赤い唇が弧を描く。
できるだけ自然に見えるように和やかな笑顔を作ってみたけれど、僕の顔は青くなっていただろう。
僕は、少しだけ彼女のことが苦手だ。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
昼間の刺すような暑さに代わり、夜はまとわりつくような不快な暑さが跋扈する。
昼の光が齎した暑さの残滓は、紛い物でできた夜の光の中にあっても強く存在を主張しているというのに、昼と見紛うほど溢れる夜の光は、闇を塗り潰すには少しばかり力不足のようだ。
街中がどれほど明るくても、夜の闇はどこにでも落ちている。
況してや、光溢れるメインストリートを離れたこんな場所では、夜を僅かに切り取る程度の役目しか持たない街灯だけが、僕らの頼るべき道標だ。
心許ない道標に導かれながら、僕と月見里は、先を歩く彼方さんについていく。
「ここよ」
「ふん。庚申塚か」
「何これ? 石碑?」
彼方さんに連れられて来た先、道の端でビルの隙間に埋もれるように建っている小さな石碑の前で、僕は首を傾げていた。
訳知り顔の月見里を軽く突くと、無愛想な顔に面倒くさそうな表情を乗せて、仕方ないとばかりに口を開く。
「こいつは庚申塚だ。昔、庚申会って巫山戯た行事があってな、その関連で建てられたんだろう」
不親切な月見里の解説では結局よくわからなかったけれど、僕は黙って頷いた。
月見里は、僕なんか及びもつかないくらい智に長けていて、それが必要なことなら絶対に教えてくれる奴だ。
そいつが言わないのは、必要ないことか、大したことがないことだからだろう。
或いは、単に面倒くさかっただけかもしれないが。
「私が聞いた噂だと、庚申の日にここで虫の神様に願い事をすると、どんな願いでも絶対に叶うらしいわよ」
「げぇ……なんで虫…………」
虫と聞いて、すぐさま脳裏に浮かんだあの不気味な白い塊のせいで、僕は思い切り顔を顰めてしまう。
そんな僕の様子を、彼方さんはどこか楽しそうに眺めていた。
「庚申会はね、人の体内にいる虫が、寝ている間に神様に悪事をばらしに行くから、寝ないで過ごそうって行事なのよ。だからじゃないかしら?」
「うええ、何ですかそれ。キモいし、意味わからんし」
「昔の話だ。そういうものが大勢に信じられていて、祀り上げられてた時代があった。それを言ったら、俺たちが集めている《噂》だって大して変わらんだろ」
「…………確かに」
体の中に告げ口をする虫がいるという発想もわからないけど、ざわめくように多くの人の間で囁かれる噂だって、大概が意味のわからないものだ。
いや。噂か、噂の元になったものか、噂に便乗するものか。
僕らが追いかけている得体の知れない何かに、意味なんて最初からない。
「それで、庚申の日ってのはいつなんだ?」
「それがねえ、先週だったのよ」
「は? ……つまり、次はまだまだ先ってことか」
「ええ。2ヶ月後なの」
「だから傘屋を呼び出したのか」
忌々しげに舌打ちをした月見里に対して、彼方さんは少し困ったように笑っただけだった。
「確か先週、あんたのとこの劇団員が失踪したんだったな。…………これは《上》の奴らの指示か?」
「私情であることは認めるけれど、私の判断だもの。そう思ってくれても構わないわ」
いまいち会話についていけてない僕は、オロオロしながら2人のやり取りを見守るしかない。
「ふざけんな! あんたの復讐に傘屋を巻き込むんじゃねえ! あれは偶然助かっただけだと、報告書を読んだならわかるだろう!」
「だとしても、ここの《噂》は放っておけないの。可能性があるなら、試すべきだわ!」
ついていけないながらも、自分に関わることで口論しているのはわかる。
段々激しくなる2人の会話を止めようと、一歩踏み出した、そのときだった。
突然、どおんっと地の底から響くような音がして、地面が割れたのかと思うほど、ぐらりと大きく揺れた。
とてもではないが立っていられないほどの揺れに抗えず、地面に手をついて踏ん張ってみるものの、それすらも許さないとばかりに地面は縦に横にと目茶苦茶に揺れまくる。
地の底から響く音はどんどん大きくなり、今や鼓膜を直接叩かれてでもいるような、痛みを伴う轟音になっていた。
脳を鷲掴みにして揺らされているみたいな酷い目眩を堪えて、歯を食いしばることしかできない。
月見里と彼方さんは大丈夫だろうか。
少しでも動いたら舌を噛んでしまいそうな激しい揺れの中、必死に視線を動かして見えた光景に、愕然とした。
地面がどこなのかすらわからなくなるほど激しい揺れの中、虫のように這いつくばるしかない僕を尻目に、2人は平然と立っていたのだ。
こちらに駆け寄った月見里が、僕の顔を覗き込んで何か言っている。
声は聞こえない。
僕だけだ。
月見里にも彼方さんにもわからない何かを、僕だけが体感しているのだ。
「息を吸え、傘屋ッ!」
ばんっと激しく背中を叩かれた衝撃のせいか、耳を劈く轟音がぴたりと止まり、月見里の声が聞こえた。
自分が息を吸う、ひゅっという音がする。
立ち上がれないほどの激しい揺れも収まっていたが、まだ頭と目がふわふわしていて、もう暫く立てそうもない。
「傘屋、大丈夫か。立てるか」
立てない。
呼吸をするのが精一杯で、声も出ない。
これはダメだ。
一刻も早く逃げた方がいい。
とてもじゃないけれど、僕らの手に余る。
立つことさえできないほど感覚を狂わすような何かなんて、たとえ偶然でも僕らに対処できるとは思えない。
そう伝えたいのに、ぜえぜえと荒い呼吸に阻まれて、僕の喉は音を忘れてしまったようだ。
どうにか伝える術はないかと、縋るような気持ちで顔を上げた先で、彼方さんが静かに僕を見下ろしていた。
憐れむような、挑むような、楽しむような、そんな目で。
「何を見たの傘屋くん。何が、何処にいるの?」
僕は何も見ていない。
ビルとビルの間にある細い隙間。
庚申塚の、その奥に広がる暗闇に。
ずぞり、すぞりと、不気味な音を立てる何かが、死骸に集る無数の虫の群れのごとく蠢いている。
何を見たかと聞かれて、無意識に視線を動かしたことを後悔した。
あのまま何も見なければ、目が合うこともなかったのに。
夜の闇をぐずぐずに煮溶かして腐らせたような黒い塊は、確かに僕を見て、くつくつと嗤っていた。
頭に浮かんだのは、彼方さんが言っていた『虫の神様』とかいうやつだ。
得体の知れない何かに対する恐怖心と、暗闇で蠢く黒い蟲に対する嫌悪感で、怖気が止まらない。
僕にはわかる。
少しでも気を抜いたら、あの黒い蟲たちは一斉に僕に向かってくる気だ。
無様に逃げたところですぐに追いつかれて、成すすべもなく全身を埋め尽くされた挙げ句、生きたまま外からも中からも食い破られる。
これは、見えないものに対する想像や妄想の類じゃない。
そんなあやふやなものよりも確信に近い、もっと現実味を持った、目に見える恐怖だ。
「そこにいるのね」
ビルの隙間の暗闇を見つめた彼方さんが、同じ場所を見たまま動けなくなった僕の前に足を踏み出した。
こつんと、硬質なヒールの音が、ひと気のない夜の街にやたらと響く。
闇の奥に潜む黒い蟲たちが少しだけ怪訝そうにざわついて、それからすぐに、新しい獲物を見つけたとばかりに愉悦でぐにゃりと歪んでいた。
こつん。
こつん。
金縛りにあったように、まるで動けなくなった僕の前で、すらりと伸びた白い脚が、庚申塚へと辿り着く。
こつん。
白い脚が、どろりと溶けた。
いや。彼方さんの脚から、腕から、至るところから這い出た白い塊が、どろりと流れる落ちるように地に這いつくばる。
「行きなさい」
彼方さんの足元を埋め尽くすほどの白い塊は、無数の小さな粒になって、うごうごと虫のように蠕動しながら庚申塚に取りついた。
奥からは、白い侵入者に不機嫌を隠そうともしない黒い塊が、うぞうぞとこちら側に這い出そうとしている。
寒気がするほどの不快感を覚えながら、僕はその光景から目が離せない。
そこからは、さながら陣取りゲームのように、白い蛆虫と黒い油虫がお互いを喰い合おうと激しく蠢き、混ざり合っていった。
津波のような激しさではなく、じわじわと砂地に足を取られて流砂に呑み込まれるような厭らしい攻防が続き、見ているだけで足元が覚束ない気持ちになる。
白が勝とうが黒が勝とうが、どちらにしても悍しいことには変わりない。
それでも、少しずつ白の陣地が増えていって、やがて僅かに残った黒の陣地が、忌々しげに闇の中に潜り込んでいくのを見たら、悔しいけれどなんだか安心してしまった。
「はぁ、」
安心したら気が抜けたのか、妙に間の抜けたおかしな声が漏れ出てしまった。
座り込んだまま、未だ力の入らない体で呆然とする僕を振り返って、小首を傾げた彼方さんが顎に指を置く。
指し示されたような赤い唇は、両端が吊り上がって楽しげに歪んでいて、やはり彼女は魔女なのではないかと思った。
「緊張が解けたみたいね。ということは、もう終わったのかしら?」
何がとは言われなかったが、肯定の言葉を返そうとして、ぎくりとする。
振り返った彼方さんの背後、庚申塚に纏わりつく白い無数の蛆虫たちが、一斉にこちらを向いた。
そいつらは、けたけたと小馬鹿にした嗤いを僕に向けてから、先程まで争っていた闇と同化するように、ぬるりと溶けて、跡形もなく消えてしまった。
「おい、彼方」
僕と彼方さんの間を隔てるように、月見里が立ち上がる。
見えなくとも不穏なものは感じただろうに、逃げることも問い詰めることもせず、僕の横でじっと成り行きを見守ってくれている人がいたのは、とても有り難く、心強かった。
「何をしたのか知らねえが、俺に黙って勝手に傘屋を囮にしやがって。いくら《上》の指示だとしてもやり過ぎだ。こいつが恐怖で壊れたら、どうするつもりなんだ」
囮。
そうだ、僕は正しく囮だったのだ。
僕らの追う《噂》には、殆どの場合、時と場所と手順が存在する。
人が囁く《噂》の中に潜み、しかし人の理の外にある《噂》には、実はそこまで手順は重要じゃない。
必要なのは、時と場所。
だけど本当はそれすらも、奴らにとってはどうでもいい。
奴らは自分と目が合う人を探している。
定められた時と場所は、奴らが人と目を合わせやすくするための条件のようなものでしかない。
だから、それらの条件を無視してあれと目を合わせられる人間、つまり僕が使われたということだ。
「お前個人の思惑で、妙な前例を作ったんだぞ! お前のせいで、これから《上》は傘屋を便利使いするようになるかもな!」
僕らが《上》から言われているのは、《噂》を調べて、それを元に作ったドラマを配信すること。それだけだ。
後は、僕らの知らないところで全てが片付いている。
そういうふうになっていた。
けれど、僕と彼方さんが赴くことで、ドラマなんて遠回りなことをせずとも片が付けられるとなれば、そちらの方が便利と考えるのは当然だ。
僕は、呆然と月見里を見た。
今よりももっと危険な目に遭うんじゃないかとか、人を囮に使うなんて巫山戯てるとか、そんなことはちらりとも頭になかった。
僕の頭を占めていたのは、ただ1つだけ。
そんなことになったら、もう月見里と『うわさ探偵』のドラマを作れなくなるじゃないか。
それは嫌だなあ……と。
「あら、そんなことにはならないわよ」
だから僕は、彼女の言葉に過剰に反応して、思い切り目を剥いてしまった。
相変わらず、赤い唇は楽しげに弧を描いている。
黒い瞳だけは優しげに、困った子を見るように僕を見ていたけれど。
「どうして言い切れる。お前は確かに《上》の指示だと言ったんだぞ」
「ふふふ、私は『そう思ってくれても構わない』と言っただけよ。勝手に勘違いしたのは、月見里くんでしょ」
「!? …………っ」
月見里が唖然として、開きかけた口を真一文字に固く結んだ。
平時より無愛想な顔が更に無愛想に……いや、膨れ面になっている。
「月見里くんの言う通り、傘屋くんに手伝ってもらったのは、私の個人的な思惑よ。まあ、お願いと言った方がいいかしら?」
「はッ、こっちはお願いされた覚えはねえけどな」
「あら、先払いしてあげたじゃない。傘屋くんにはお茶、月見里くんには食事。レシート、見る?」
ピラリと彼方さんの手から突き付けられた紙片に、僕らは度肝を抜かれてしまった。
お茶1杯の値段が、僕の知っているお茶の市場価格より、ゼロ2つばかり多かったからだ。
食事に至っては、それなりの旅館に1泊するほうがお安いかもしれない金額設定だ。
これには、僕も月見里も黙るしかなかった。
「それにね」
僕をじっと見た彼方さんが、柔らかく目尻を下げた。
なんだかもう、抵抗する気も起きない。
「私はそんなに目が良くないの。だから傘屋くんに聞くのだけれど……ここで、何かあったかしら? 傘屋くんは、ここで何かを見たの?」
「…………何も……見てません……」
さっき同じことを聞かれたときには答えられなかった言葉を、改めて口にした。
彼方さんは、よくできましたとばかりに目を細めて微笑んでいたから、これで正解だったのだろう。
「傘屋くんがそう言うなら、ここの《噂》はガセね。私も同行したのだから、報告書は要らないわよ月見里くん。勿論、ドラマにする必要もね」
こうやって、庚申塚の《噂》はなかったことにされる。
けれど、彼方さんは知っているのだろうか。
あの黒い蟲の形をした塊は、闇に溶けただけだ。
決して、なかったことにはできない。
そんな僕の考えなどお見通しと、彼方さんは悪戯っぽく微笑んで、言い足した。
「ま、今は……ね」
ここを根城にしていた黒い塊は、またいつか夜の闇に紛れて表に出てくるのだろう。
それは2ヶ月後の庚申の日か、それとももっと後なのか、僕らに知る術はない。
けれど《噂》がある限り、ここは奴の領域のままだ。
そのときにまた、何食わぬ顔でここの《噂》を調べればいいのだと、そのために形に残る報告書など今は要らないのだと、彼女の何も語らない唇が言っていた。
月見里が『勘違い』した理由が僕の考える通りなら、彼方さんは僕を使って個人的な目的を果たした上で、彼女なりに僕らのことを守ってくれたのかもしれない。
やっぱり僕は、少しだけ彼女のことが苦手だ。
「奇遇だな、俺もだ」
どうやら僕の心の声は、知らぬ間に口から零れていたらしい。
僕らを見て、薄っすらと笑う彼方さんの唇から、ちろりと舌がはみ出した。
……いや、舌にしては白すぎる。
にゅるにゅると口端から飛び出たそれは、雨で地上に出たままアスファルトの上で干からびていく蚯蚓のように、うねうねと身をくねらせながら、僕を見ていた。
眼球から、耳から、鼻から、頬から、髪の生え際から、蚯蚓は次々と現れては、僕を見る。
目も鼻も口もないそいつらは、ニマニマと嗤っていた。
だけど、以前ほどそれを不快に思わなくなっている。
僕はふと、以前撮影の合間に彼方さんが言っていたことを思い出していた。
『私の故郷の村ではね、年頃になった女の子は巫女の真似事みたいなことをさせられるの。あの頃は自分が良い事をしてると思ってたけど、そういうものではなかったのね。傘屋くんが私を見る目で、気付いちゃったわ』
あのときは分からなかったけれど、今ならなんとなくわかる。
彼方さんは、自分が何をしているのか、身の内に抱えているものがどれほど気味の悪いものかなんて、知らなかったのだ。
《噂》と関わった人たちとは違い、《喰われ》たわけではないからある程度の主導権は持っているようだが、それでも彼女は宿主として白い塊に身体を掠め取られている。
「苦手だけど、そこまで怖い人じゃないのかも」
僕は、何も知らないままあれを飼うことになった彼方さんを哀れんだけれど、彼女はきっと哀れみなんて必要としないくらい強かだ。
それがわかったからか、彼女に対して抱いていた恐怖心が少しだけ薄らいだらしい。
月見里はじっと観察するように僕を見て、それからとても嫌そうな視線を彼方さんに向けていた。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
「あの人、僕らの上司だったんだね」
「あいつも変なもんが見えてたんだな」
ビルの狭間に捨て置かれているような庚申塚に、ぽつんと置かれた小さな髪飾りを眺めながら、僕と月見里はどちらともなく呟いた。
髪飾りは、彼方さんの劇団が次にやるはずだった公演で、主役が着ける予定だったものだそうだ。
「こんなものに頼らなくても、次の主役に内定していたのに……本当、バカなんだから」
小さな鞄から取り出した髪飾りを置いて、少しだけ寂しそうな顔をした彼方さんは去って行った。
あとに残された僕たちは、何となく、会ったこともない人のために黙祷を捧げると、来たときよりも重い足を動かして、その場を離れた。
再び僕らが訪れるまであの髪飾りが残っているかはわからないけれど、そうだといいなと思いながら。
「自分でも言ってたけど、彼方さんは多分、ちゃんと見えてないよ。そうじゃなきゃあんな……」
歩きながら、何とはなしに月見里の呟きに返事を返す。
けれど途中で言い淀んでしまったことで察したのか、月見里は僅かに眉根を寄せて、軽く頷いた。
「知らない方がいいこともある、か」
いくら悪役が似合いそうな魔女のような人だと言っても、彼方さんは妙齢の女性だ。
あんな得体の知れない、蛆虫や蚯蚓のようなものが好き勝手に出入りしていると知れば、気分は良くないだろう。
それこそ自分に置き換えて考えてみて、あまりの悍ましさに、思わずぶるりと身を震わせてしまった。
「彼方は《上》との繋ぎというか、窓口みたいなもんだ。まあ、俺らに来る《噂》の投書を選別してるのは彼方だし、多少は権限あるらしいから、直属の上司と言えなくもないかもしれないが、それにしても今回のことはやり過ぎだろ」
月見里が言うには、《上》からの指示を伝えてきたり、こちらから報告を上げたりするときに、直接やり取りをしていた相手が彼方さんだったということだ。
僕のところには『うわさ探偵』の主演をやれという指示が来て以来《上》から連絡なんてなかったから、全然知らなかった。
「共演者の情報は、必要最低限でいいと思って言わなかった。あいつのことを怖がってるのはわかってたしな。お前は、」
月見里が口を噤む。
いつの間にか、街の明かりがだいぶ近くまで迫っていた。
僕は慌てて帽子を目深に被り、心なし俯く。
まだ距離はあるものの、ちらりと見えた人影をやり過ごしてから、月見里がまた口を開いた。
「お前、あんまり演技が得意じゃないだろ。負担をかけ過ぎるのも、変に仲間意識を持たれるのも良くないと思ってたんだが……なかなか上手くいかないもんだな」
仮にも人気ドラマの主演俳優に、演技が得意じゃないとは酷い言い草だと思うけど、月見里の言ってるのはそういうことじゃない。
俳優として『うわさ探偵』を演じることではなく、僕が普通の人間としての『傘屋』を演じることがあまり得意ではないと、月見里は見抜いているのだ。
他人には見えないものを見てしまう、普通ではない僕は、昔から普通を演じきれなかったから。
彼方さんの前で普通を演じきれない僕は、月見里の目に彼女を怖がっていると見抜かれていたのだろう。
ずっと気を遣わせてしまっていたのだなと、申し訳ない気持ちになった。
「まあ俺としては、程々に飯が食える現状に満足してるから、これ以上の面倒事にならなかったのは助かったけどな」
「月見里、ありがとね」
素直な気持ちを伝えたら、月見里は随分と驚いていた。
「礼を言われるようなことをした覚えはないし、何に対しての礼かわからん」
「あはは、実は僕もよくわからないんだ」
「はあ?」
役者は成り行きで始めただけで、特に執着もやる気も持ち合わせていないと思っていたけれど、どうも僕は案外この仕事が気に入っていたらしい。
それはきっと月見里がいたからで、月見里が関わらない作品に役者として関わりたいかといえば、答えはノーだ。
僕のために怒ってくれた月見里にだからこそ、僕の下手くそな演技を見続けてほしいと思うのだ。
「別に。相変わらず、世界はクソみたいだなって、思っただけだよ」
和やかに笑う僕の姿は、奇妙な顔をした月見里の目にはどう映っているのだろうか。
油断すれば、どこから何に蝕まれるのかわからず、蝕まれたことすら気付かせない、悍しく恐ろしい世界。
目に見える黒や白の不気味なものだけでなく、きっと目に見える人間だって、同じくらい不気味で恐ろしいものなのだ。
だけど今、目の前にいる人だけは恐ろしくないものだと、それだけは自信を持って言える。
きっと、月見里という光がある限り、僕の後ろをひたひたとついて来る闇に惑わされることはない。
綱渡りのような心許ない足元を見ないようにしながら、僕は今日もこの恐ろしい世界を歩くしかないのだ。