第2節 第32話 On the Origin of Species
レイアを3.5次元空間に残したまま荻号の借家の1階に降りてきた恒は、薄紫色の薬を火からおろし、湯冷ましをして遼生に飲ませる。
ファティナは気休めに遼生の背中をさすったが特に変化もなく、落胆の息をついた。
彼の与えた薬は遼生の容体には影響しないが、恒のこの処置によって死体が傷む心配はなくなった。彼はおもむろに遼生を担ぎ上げた。
「彼と共に一度神階に戻ります。急がないと手遅れになります」
ファティナは恒の行動に口を挟まない。
手遅れになるといっても、もう既に手遅れに違いないのに……。
などと余計なひと言を付け加えることもしなかった。
諌めたとしても彼の気がおさまらないだろうから。
「待っている間に、気になるものを見つけました」
ファティナは無造作に机の上に置いてあるリングを指差した。
彼女の指先を追って目を見張る。
この場に置かれていてはならないもの、まさに今荻号が手にしていなければならないものがそこにある。
忘れ物なら、届けに行ってやらなければならないほど重要なもの。
いつも肌身離さず身につけていたものだが――。
「これは……!」
「相転星(SCM-STAR)です、ですが――正常な構造ではありません」
彼女は先ほどから薬の火加減をみる傍ら、相転星が壊れていることに気付きΔδΔを通じて相転星に呼びかけていたのだが、相転星からの応答はなかった。
恒は意識を研ぎ澄まし相転星の触性免疫に同調すると、リングの外れた相転星を両手ですくい上げるように取り上げた。
以前と同じように、神具は恒の手を傷つけない。
反応中枢の不気味な顔のついた月のレリーフをいたわるように撫でると、息もたえだえといった様子で唇を震わせわなないている。
見るたび不細工だと思う月のレリーフは力なく瞼をもたげ、恒を見つめていた。
線路から脱輪してしまったかのように、3本のリングがバラバラに分解されて無残な姿を晒している。
3本の環が直交しなければ相転星は起動することすらできない。荻号 正鵠がその機能に気付いていたかどうか定かではないが、相転星には自我にも似た高度知性があり、自律思考ができると聞いたことがある。
これは直るのだろうか?
荻号の持ち物である以上、その管理は荻号に任せておけばいいのだが、苦しげな表情を浮かべる神具を手に、恒はふと心配になった。
早く直さなくて大丈夫なのかと危篤の神具を案じる。
恒も一度、FC2-メタフィジカルキューブを空山に壊された経験があるが、気が気ではなかった。
神具はアトモスフィアが尽きるとやがて機能を失う。
フラーレンもそうだが特に相転星の起動は莫大なアトモスフィアを要する神具なので、一度ダウンしてしまうと起動できなくなってしまう。
この神具を手にすることは恒にでもできるが、それを修理し、相転星にたらふくアトモスフィアを喰わせてやることは荻号にしかできない。
「どうしてこんなことに」
「可能性があるとしたら、相転星は物理依存性神具で、正常な物理法則が働いていなければ使い物になりません。荻号様はこの異常環境下で無理やり起動を試みたのではないでしょうか」
だとしたら……特務省との戦闘のさなか、荻号は相転星なしで戦えるのだろうか?
ファティナは心配そうに天井を見上げる。
「荻号様は苦戦しているのでは? 特務省は超神具もいくつか所持していると」
互角以上の戦いが予想されるとファティナはそう言うが、特務省職員を相手に荻号が苦戦?
恒は首を捻らずにはいられなかった。
そもそもユージーンを抜きにして、荻号に敵う相手がいるのかと恒は信じられない。
荻号が負かされる瞬間を見てみたいほど、彼の実力は突出していた。
フラーレンと相転星はほぼ同格の性能で、どちらを持って戦闘に臨んでもさして結果に差は出ないだろうと思っていたが……。
「でも、フラーレンも超神具ですよ」
「それは間違いです。超神具が別格なのではありません、相転星だけが別格なのです」
恒の掌に乗せられた代物を見下ろしながらも、ファティナの声色には恐怖心が窺える。
相転星はINVISIBLEの遺物として知られているが、この世のものではない金属で作られた神具はそれだけ性能も段違いなのか。
恒がコメントに苦しんでいる間にファティナはとある重大な変化を察知し、大声を上げた。
恒はびくっとして相転星を宙に浮かせてしまった。
「えっ!」
「ど、どうしました?」
「い、今、ヘクス・カリキュレーションフィールドが荻号様のアトモスフィアを見失いました。それより何より、ほら!!」
ファティナは怯えたように天井を見上げ、恒も違和感に気付いた。
荻号のアトモスフィアはあまりに強大なので、探知できなくなるということはありえない。
どこか場所を移して特務省と戦闘を行っているのか、彼は亜空間を使うのでその中に入ってしまったのか……可能性は多々あれど、どんな亜空間も荻号ほどのアトモスフィアを漏らさずにいることはできない……不可能だ。
空間がそこに積層している限りアトモスフィアは消えず、そこがどんな空間でも探知できなくなるということはないのだ。
万が一荻号の身に何かがあれば……という話だが、特務省が荻号を破ったあと次に狙うものはレイアであり、レイアを燻りだすために風岳村を破壊する可能性がある。
「これはいけません! 急いで行って来ます」
恒は遼生を背負い、慣れた様子で神階の門へと転移した。
ファティナの結界中では物理法則が生きているので、風岳村に辿り着いたときと違い簡単に戻ることができるのだ。
ゲートから神階へ戻るなり、慌てふためく門番に報告もせず検疫所を神々の専用ゲートから通過した。
傍目に、検疫所に並ぶ長蛇の列の中に日本人の一団が見えたが、あまり注意してみないようにした。
うっかり知り合いに会って引き止められでもしたら、逃れられそうにない。
彼はすぐに医神、紺上 壱見のフロアに転移をかけ、遼生を担ぎ込んだ。紺上は性格がすこぶる歪んでいるが、ここぞというとき医者として頼りになる。
彼女、医神の持つフロアの総面積の4割は病室として使用されている。
残りの2割は手術室、2割は分析機器室、1割が病理検査室、残り1割が彼女の執務室と秘書室だ。
紺上はこの時間帯、病棟の総回診があって彼女一柱が総ての病室を回っていると第一使徒は言うのだが、目ぼしい場所を捜しても彼女はいなかった。
彼はふと思い出して紺上のアトモスフィアを手繰り寄せ転移する。
さすがに二人分の転移をこう何度も繰り返すと疲れてきて息があがる。
そういえばここのところ、食事もろくすっぽとっていない。
スタミナも落ちているに違いなかった。
「これは、検屍をしてほしいということなのかな?」
紺上 壱見は病室に突如現れた恒に皮肉を述べると、あからさまに不機嫌な顔になった。
回診中に紺上を追ってくるとはどうかしている。
しかも、無菌的な感染症病棟に不潔な子供二人が押しかけてきたのも気に入らない。
紺上は白衣を着て、首からはごてごてと医療器具をぶらさげ金属音を立てている。
特徴的なのは彼女がまるで傘でも持つように手に携えるアスクレピオスの杖(The lod of Aesculapius)という杖状神具だ。50cmほどの丈の木製の杖には、つぶらな瞳の模造生命の白蛇が巻き付いて、チロチロとせわしなくピンク色の舌を出したり引っ込めたりしている。
この蛇は紺上の診察を手伝う利口な蛇だ。
あるときは患者の腕に巻きついて血圧を測ったり、患者の指をかぷっと噛んで採血や血液分析を行ったりもするが、言うまでもなく毒はない。
蛇は基本的にはおとなしいが、不審者には鎌首をもたげて威嚇するので恒はおのずとへっぴり腰にもなる。
彼女は一目見て、少年が背負った物体が死体とわかる。
死体は崩御して間もない様子だが、ご丁寧にも薬剤によって組織の保護が施されていた。
この処置を施してすらいなければすぐに壊死が始まるので取り合う必要はなかったのだが……最低限の目通りの条件はクリアしてきている、そんな小細工も気に入らなかった。
恒は遼生を背負ったまま頭を下げた。
「お願いします、蘇生を試みてはいただけませんか」
「嫌だね。まっぴらごめんだ、死体じゃないか。ボクは死者に鞭打って延命をしたいタチでもないのでね」
取り付く島もない。
助かりそうな患者には執念をもって治療にあたるが、助かる見込みがないとなるととことん諦めが早いのが彼女で、恒は比企に連絡を入れておらず、アポなしで紺上のところに押しかけてしまった点で心象を損なってもいる。
しかも紺上ときたら、患者に臓器損傷があった場合、手当たり次第に健常者を平気でドナーにする。
紺上に頼むには恒もそれなりに身を切る覚悟が必要だった。
紺上は厄介払いをしたいようだ。
「もし、比企様のご命令があれば、蘇生を試みていただけますか?」
恒は彼を負ったまま携帯を取り出し、脅迫まがいにちらつかせる。
その場で電話をかけて直接比企から迫られれば、それは極陽からの勅令だ。
有難い事に比企は彼を除く総ての神々に、叛けば法的に裁かれるほどの強制力を持った勅令を下すことができた。
いくらはねっかえりの紺上でも診ないわけにはいかない。
彼女はその態度が勘にさわったようで、眉をぎりっと吊り上げ恒に詰め寄った。
彼女の気迫におされて、恒は思わず数歩後ずさる。
「生意気なことはするものじゃないよ、ぼうや。死体の蘇生は未遂でも大罪なんだ。ギリシャ神話で有名な先代医神、アスクレピオスが厳罰を受けた逸話を知らないのか」
ギリシャ神話において医神アスクレピオスは死神の領分を侵し、数多の死者を蘇生させた罪で、主神ゼウスに雷霆によって殺されたという。
しかしその実は、法務局に死者蘇生の罪を断罪されユージーンの受けた身体罰を420日間受けたのだが、97日目、刑の途中に事切れて崩御したというのが真相である。
「極陽に罪を負わせる算段があるならそれも宜しいが? 加えて、死者蘇生の秘儀持出は法度であり、ボクは死体を生き返らせる術など持ちあわせていない」
人間の蘇生でも大罪だといわれてユージーンやアスクレピオスが裁判ざたのうえ虐待刑を受けたのだから、より罪の重い神の蘇生を試みてどうなるものか、恒に想像がつかないわけではない。
血に染まった彼女の手を更に罪にも染めさせることにもなる。
そしてそれは彼女にとって、実害を被る。
「ですが……! あなたは以前、24時間以内に亡くなった死者を蘇らせた実績があるとお聞きしました!」
「それはバイタルが残っていて、合法的蘇生の場合だけだ。そのコの場合、バイタルは尽きて、完全に死んでいる」
確かに遼生は死んでいる。
だが生命力の強い遼生ならば蘇ることができるかもしれないと思うからこそ食い下がっている。
紺上は彼女の傍近くに仕える使徒を数名呼びつけ、遂に煩わしくなったらしく、武力行使でつまみ出すように命じた。
どこからともなく現れた筋肉質で屈強そうな男使徒たちにじりじりと囲まれる。
殴られはしないだろうが、腕のひとつも折られそうだ。
いわんや遼生などは棺桶に詰め込まれて火葬場に直送されるに違いない。
「お覚悟を」
ただの医者から遼生を蘇生できないと言われているのではない、誰あろう最高の医療技術と設備を持つ医神からも見放されたのだ。
恒は心の底から情けなくなって惨めな気分になった。
仕方なく彼女に頼むのを諦めて遼生を背負い、岡崎を頼って実験室へと転移をかけた。
広大な細菌培養室の前室、岡崎は白衣と清潔なスリッパを脱いでモスグリーンのジャケットを着こみスニーカーを履き、彼の使徒に指示を出して実験室を出てゆくところだった。
外から流れ込んできた冷気に、息が白くなる。
先ほど約束した通り30分後に比企との懇談をひかえていたのだが、それを妨害するかのように見覚えのある少年が立ちふさがっている。
疲労困憊といった様子の少年に、岡崎は先制をしかけた。
「また君か。君の軽率な行動に、迷惑していたところだよ」
岡崎は乱れ放題になっていた長く伸びたアイビー色の毛髪を指でかきあげ恒を睨んだが、すぐさま、彼が背に負っている荷物に目をとめて非難をやめる。
それは岡崎にとって何よりの朗報でもあった。
場合によっては、これから比企のもとに遼生の危険性について進言するための直談判に行く必要もなくなりそうだった。
岡崎は恒の背中の荷物を回収したがっていた。
恒は岡崎が遼生の死を歓迎していることを見抜いたが、それでもと交渉に持ち込む。
先代極陽と結託していた彼こそは遼生のすべてを知っているはず、何故なら彼は遼生の設計図を描き、恐るべき計画の枢要な部分に携わった神だからだ。
その研究に携わった責任を今こそ果たしてもらいたい。
「助けてください。特務省に殺されてしまったのです」
「よかった。彼に直接帰還するよう促したが、まさか死んで戻ってくるとはね」
岡崎の非情な対応の行間に、交渉の余地は残されていない。
恒は岡崎との遣り取りであまり時間をロスしている場合ではないと心の片隅では分かっている。荻号に異変が起こりアトモスフィアが消えた以上、風岳村を庇護していたフラーレンの結界もすぐに剥がれ落ちるのも時間の問題だ。
そうなったら、特務省から風岳村とレイアを守るものはなにもない。
戻らなければならないのだ、遼生の処置を信頼できる誰かに任せて!
岡崎がこの様子では、彼に任せることもできはしない。
「そうではなく、蘇生をお願いしたいのです」
「でも、死んでいるだろう? 君が言ったじゃないの。それに彼の内部に妙な熱源があるね……致命的な損傷を被ったようだ。憐れだとは思うし彼には同情する。が、彼は死ぬべきだ。何故なら八雲 遼生はINVISIBLEを予期せぬ場所に引き寄せる」
「ど、どういうことですか」
岡崎の話では、彼は強大な重力子を内包し、アトモスフィアを加速させることにより重力場を発生させることができるとのことだった。彼の重さはあまりにも重く、INVISIBLEには匹敵しないまでもINVISIBLEを引き付け、墜落させることは簡単にできたというのだ……。
先代極陽 ヴィブレ・スミスはINVISIBLEの収束期が近いことを内々に知りつつも、Xデイを正確に予言して備える事はできなかった。
いつとも知れぬXデイを故意に前倒しにするための手段として、遼生を切り札として用意していたということだ。
収束のXデイはINVISIBLEにのみ決定権があり、神々はただそれを甘受するしかないという……主導権を取り戻そうとしたものだった。
確かにヴィブレ・スミスの策は画期的だった。
しかしINVISIBLEを万全な状態でないうちに引きずり落とすことはリスクが大きすぎる、果たして遼生を使ってXデイ以前にINVISIBLEを墜とせば、INVISIBLEは弱体化しているのだろうか?
その全能性を行使できないのだろうか、そうではない。
それより何より、生身の少年に全ての責任を押し付け、道具のように扱うことは神の倫理にもとる。
岡崎はヴィブレ・スミスの策に表向きには服従しながらも、強く反発したものだった。
当時はそうだったが、しかし遼生が崩御した今、それももはや過去の話となった。
淡々と事後処理を行うだけだ。
「サンプルとデータを採取して、亡骸はすぐに極陽に返すよ。手厚く葬ってあげなさい」
岡崎は遼生の遺体を受け取ろうと、恒に両手を差し伸べた。彼の手は血が通っていないかのようにぞっとするほど青ざめていて、骨ばっている。
岡崎に遼生を渡してしまえば、きっと彼は遼生の死を決定的なものにする。
なんならとどめを刺されそうだ。
もはやこれまでかと観念しつつ、恒は最後に駄目でもともと、と懇願した。
「……伏してお願い申し上げます。何卒、蘇生を」
「必死だね。……そうやって何度彼を苦しめれば君は満足なんだ」
岡崎は落ち着いた声色で恒を叱った。
今更と言われるかもしれないが、彼もまた、科学者としての倫理に反する生体実験に手を貸すことはうんざりだった。これ以上の犠牲者を出してはならず、哀れな検体である遼生を二度も死なせてはならない。
非情ともとれるか知れないが、彼はここで死ぬべきだ。
実験に用いられなかった実験動物は、どんなに情が湧いても必ず処分すべきである。
彼が実験体No,18として生み出された以上、実験体として安楽死を迎えるべきだ。
それを見届ける事が岡崎の責任だった。
「誰かひとりを犠牲にして拓ける未来なんてない。終わりにすべきだ。もうこれ以上、罪もない子供たちが犠牲になるのを見るのはたくさんだ。彼はいまようやく得た平安のうちにある。呼び戻すな」
もし三階が滅ぶべき運命にあるのなら、ありのまま受け入れることが自然なのではないかと、岡崎は思う。
INVISIBLEの収束をわざと早めたり、不幸な子供たちを造りだして全てをおしつけ、意味もなく捨て石にしてはならなかったのだ。
あの実験は間違っていたと、岡崎は痛感している。
「信じてもらえないだろうけど……本当はきみのことも心配なんだよ」
「実験体は一体残らず殺そうと? あなたの責任において」
恒は岡崎の言葉が信じられなかったので思わず皮肉を言ってしまった。
岡崎は苦しそうに顔を歪めたが、否定はしなかった。
検体番号No, 25と名づけられた恒のことも、岡崎は処分したいと思っているに違いない。
単純な理由で生かされているだけだ。
岡崎にとって非力で頭でっかちな恒は、遼生ほどには危険な存在ではなかったということだ。
「あなたがまだ実験を継続しているのでなければ……自分の死にざまぐらい、自分で決めます」
彼の束縛から逃げるように転移をかけた。
すぐ傍で聞こえた「待ちなさい」、という声を振りはらって――。
4回目の転移によって、めまぐるしく景色は変わる。
もうへとへとだ。
あてどなく戻ってきたのは恒の居室であり、比企のもとだ。
恒が生物階に向かう前に、比企は数日執務室をあけると言っていたので、まさか在室だと思わなかったが比企は思いがけずすぐそこにいた。
比企の顔を見て、どこかほっとした。
比企は容貌こそ冷たいが、必ず力を貸してくれ、必ず恒の味方でいてくれる。
執務室に隣接する小会議室の両開きの扉は開きっぱなしになっていて、陽階2位 智神(女神) リジー・ノーチェス、陽階4位 光神 レディラム・アンリニア、陽階8位 熱力学神(女神) ナターシャ・サンドラ、陰階2位 確率神 梶 奎吾、陰階2位 時神 夜刈 伝、陰階29位 物理学神(女神) 境 日鞠という、錚々たる面子が揃って会議が行われているのが見えた。
会議室にいたのはそればかりではない、スーツを着た人々が机の上に大量の資料を広げて、同じテーブル上についている。
明らかに生物階の首脳陣ではなかったから、何らかの専門家集団だとうかがえる。
彼らが熱心に注ぐ視線の先にあるホワイトボードには、地球と太陽系と思しき軌道が示されている。
これは何かあったなと一目で分かったので、恒は会議室の外から最も手前に座っていた壮年の男を直視し看破を試みようとしたが、あえなく情報はシャットアウトされた。
比企がマインドブレイク無効フィールドを張っていて弾かれたようだ。
つい最近知ったことだが、比企は看破遮断というスキルを身につけている。
これは比企のごく近くにいる人物に対して行われるもので、比企の厚いマインドギャップでマインドギャップの薄い対象者の心層の脆弱性を覆い隠すのだ。
傘を持たざるものが雨に打たれないよう、比企の持つマインドギャップの傘に入れてやるようなものだ。
頻回用いられるのが彼の第一使徒の寧々に対してで、誰かに話を聞かれたくない場合や主だった神々との面会の際には、彼女を比企のマインドギャップで覆い尽くしている。
一般的に現在の思考ほど看破しやすく、脳表面に惹起されない過去の記憶ほど看破しにくくなってしまうので、恒が彼の後頭部を見て過去を看破することは難しい。
いま、比企は誰にも聞かせたくない話を彼らにしていたのだろう。
比企の字で書きつけられた膨大な計算式とともに描かれたホワイトボードの、とある軌道を目で追う。
あれは……何だ? 地球を突き刺すように交わる、あまりに巨大すぎる軌道。
恒は地球に衝突する軌道を持つ、あるいは近傍を近々通過する彗星を知らない。
比企が恒の帰還に気付いて顔を出し、梶も席を立ってこちらにやってきた。
恒と先日手合わせをしたばかりの、夜刈 伝も会議室から恒に軽く会釈したので、夜刈が頭を下げるほどの人物なのかと、人々も彼に倣って恒に目礼した。
恒は以前夜刈の大腿部に大きな負傷をさせてしまったものの、どうやら彼は達者な様子だ。
リジー・ノーチェスは相変わらずウェディングドレスのような純白の装束でやってきて、モバイルを開きながら恒には目もくれず、隣のナターシャ・サンドラと真剣な面持ちで話し込んでいた。
おとぼけ系の物理学神である境も珍しく、人々と熱く議論を交わしていた。
そこかしこでぺちゃくちゃという話し声が聞こえて会話が把握できない。
彼らは何について話しているのか。
「如何した」
会議中にもかかわらず、心配そうに外に出てきた比企の声が緊張している。
兄が……! と言いかけて、危ういところで、こちらを見ていた梶の目を気にして飲みこむ。
兄弟という関係自体が不自然で、余計な疑念を抱かせる。もう隠しても隠さなくても同じようなものだと思うのだが……比企の面目もある。
恒は取り繕って訂正した。
「あの……八雲さんが殺されてしまいました。生物階降下した特務省に挑みかかったのです。それで」
「は? 特務省? 何で特務省が生物階に」
梶はとうとう顔を出してきて、煙草を咥えつつ、蒼い眉毛を釣り上げている。
梶はつい先ほど比企とともに特務省を訪れ、久遠柩の発動を乞うたばかりだ。
恒は梶の言葉には答えず床の上に遼生を注意深く寝かせ、比企に詳らかに診せた。
比企は彼にくまなく目を配りながら、もっともな疑いを恒に向ける。
「その前に答えよ。レイア・メーテールは生物階にいたのか」
特務省が生物階に出てくるということは、彼女が生物階にいますと言っているようなものだ。
特務省は……というより織図は久遠柩の拘束からレイアを逃がした、そこまでは比企も把握している。
もしレイアの脱走に特務省が気付いたとしたら彼女の行方を、特務省は全力で追っていることだろう。
あれほど厳重に捕えておきながら逃したとなれば特務省の沽券にかかわることだ。
もっともレイアを逃がしたことがバンダル・ワラカに明らかになっていたとすれば、厳罰を下され織図の命はないのかもしれないが……。
「……先に彼をお願いします」
恒は比企に診察を促すが、比企は応じない。
「そういうのは、後にできんかな。もしくは紺上に診てもらえ。こっちは今それどこじゃないんだ」
梶が迷惑そうな顔つきで口を出す。
梶が彼を知らないのはもっともだったし、もう死んでいるというのならば今診ようがあとで診ようが大差ないというのもよくわかる。
だが遠慮して引き下がるわけにはいかないのだ。
「いや藤堂、こちらが先だ。先ず答えよ」
先ほどの続きだが、比企が強く問いただすので恒は渋々頷いた。
こんな時、恒の小手先のごまかしでは通用しないほど比企は厳しい。
恒はよく考えて、彼女の居場所を比企に売った。
居場所を白状したところでレイアは……特務省はおろか比企には干渉できない場所にいる。
まずレイアの居場所を明かさなければ、比企は遼生を診てくれないのだろう。
「汝は知っておったのだな。先刻……汝が己を欺かねば、此の者についてもかような結末にはなかっただろう……」
恒が志帆梨のもとに行くと言ったのはうまい口実で、実はレイア・メーテールと会うことが真の目的だった。
しかし恒は比企を欺いて居場所を隠したがために、遼生を図らずとも犠牲にすることになってしまった。
反論もできない。
比企の言うとおりだ。
恒が遼生を生物階に連れていかなければ、比企の言うとおり彼の腹心の使徒に同行してもらっていれば……遼生は神階にとどまっていただろうし、恒は進んで戦闘には加わらないし、むざむざ死ぬこともなかった。
今となっては恒が推測したレイアの居場所を、比企に言っておけばよかったのかと思う。
あのときは確信が持てなかったにしてもだ。
恒がいつになく悔いている様子だったので比企は追い討ちをかけることをやめ、ようやく懐柔扇を取り出し診察をはじめた。
懐柔扇は深部生体モニタリング性能を備えており、これがまた高性能だ。
比企の表情が険しくなった、あまりよい状態ではないのだ。
岡崎は遼生の内部に熱源があると言っていたが――。
「で、生物階のどこにいたんだ」
比企にかわって手持ち無沙汰に、梶が恒を問い詰める。お白州での取調べは続いていた。
「彼女は荻号様の結界中に匿われていて誰にも手出しができません、それで……」
「あ? 何で荻号さんがレイアを? まさか……」
梶はいちはやく、それがいかにまずいことであるかに気づいた。恒は梶に向かって力なく頷く。
そのまさかだ。
「はい。荻号様と特務省が全面交戦中です」
比企はぴたりと診察の手を止めた。
「何故それを先に言わぬか! 特務省のバンダル・ワラカと、荻号が生物階で一戦交えておるとあらば、非常事態だ」
これは非常にというか壊滅的にまずいことになる。
バンダルと荻号の双方がたとえ手加減をしたとしても、地上を戦場として選んだだけである意味終わっている。
愚かとしか言いようがない。
彼らの攻撃が地上にかすりでもしただけで、生物階は木っ端微塵だ。
まだ神階への避難を予定している15%の人々の避難が完了していない。
神階と生物階のゲートは開きっぱなしだ。そんな状態でゲートを破壊されたら、人々は宇宙の果てに放り出され全員が即死だ。
「おい、やめさせろ。冗談じゃねーぞ!」
梶は慌てているが、恒はまだなお大事なことを話していなかった。彼らをひどく失望させる情報だ。
そう……荻号は今アトモスフィアが消え、生きているとも死んでいるとも知れない状況であり、この瞬間には既に、彼は特務省に敗れているかもしれないのだと。
「戦場はどこだ。風岳村か?」
「どうしたんだい、騒々しい」
もったりとした口調で呟きながら梶のあとに続いて出てきたのは光神レディラム・アンリニアだ。
フードをかぶったまま、魔導師のようないでたちの白いローブの裾をぞろぞろと引き摺って歩く。
藤堂少年の乱入によって会議が中断され、比企について出た梶がいつになく興奮している様子だったので何事かと会議室から出てきたのだ。
恒はレディラムとは初対面だが、いまはそんなことはどうでもいい。
リジー・ノーチェスがここに来るのはそれほど珍しいことではないとして、レディラム・アンリニアを、比企の傍近くでは普段あまり見かけない。
夜刈と境もだ。会議室のホワイトボードの惑星の軌道を示す図柄からするに、彼らと人々が呼び出された理由はおそらく、何か宇宙の星々の運航を変えてしまおうとしているように見える。
このとき恒は議題にのぼっていた加速器HEIDPAのことなど微塵も知らなかったものだから、比企がレイアと同じアイデアに至ったのかもしれないと考えた。
すなわち比企らはグラウンド・ゼロを消し去り、INVISIBLE収束を妨げることを計画していたが、恒は地球をどこか安全な場所に移すための会議なのだととらえた。
その為に彼らが呼び出されたのだとしたら、非常に納得できた。
そう思って見渡してみると、彼らはみな共通して宇宙の天文学的法則に影響を及ぼすことを職務とする神々だ。しかも、闇神の第一使徒も参加している。
「じゃ、俺が行っとくか?」
つい先ほど、特務省にしてやられたばかりだというのに好戦的な梶は自ら生物階降下を買って出たが、比企に素気無く却下された。
ここのところ、梶はいいところなしだ。
「いや、汝ではなくレディラムに夜刈、汝らを任ずる。理由は説明するまでもなかろう」
光神(The god of Light) 、レディラムと時神(The god of Time) 夜刈は実力的には梶に劣るが、双方ともに戦闘中実体を持たないという珍しい特徴を持つ神だ。
梶のように実体を持ったまま戦闘に臨んでは、特務省か荻号に、あるいはその両方に殺されるのは目に見えている。
レディラムはさきほどまで眠たげだった目を丸くして見せた。
比企に不満を訴えるためにだ。
アトモスフィアを大量に消費する、生体神具オプティカル・アイを起動させるのが億劫だからだ。
一方の夜刈は表面上無表情を装いつつも、望むところといった心境なのかどことなく落ち着きがない。
「いいぜ、だが比企さん。それは構わんが、俺らはどちらを止めればいいんだ?」
そう言ってゴーグル型解析装置の下でにやにやと微笑む夜刈に、比企は真剣な顔つきを向けた。
夜刈は出動を待ちきれないといった様子で懐中時計型神具 ORACLE (託宣者)を指の腹でいじる。
こういう非常時や汚れ仕事に出撃を命じられるのがAA(武型)神だが、神階で武者修行に明け暮れていたものの実戦の機会は生物階のパンデミック騒動以来ほとんどなく、夜刈に実戦配置命令が出たのは久しぶりだ。
「止められるほうを諌めよ。いずれにも加担をするな」
「了解」
夜刈とレディラムは比企の勅令を受けて瞬間移動で消え、後には比企と納得のいかなそうな梶、そして恒が残った。
彼ら二人で、特務省と荻号の戦闘を止められるのだろうか? 恒が何より彼らに教えておかねばならなかった二つの情報を伝えられないまま彼らは行ってしまった。
ひとつは生物階で重力異常が起こっているということだ。つまり飛翔術、転移術がほとんど使えなくなってしまうこと。
それどころか彼ら夜刈、レディラムの神具の性能の殆どが発揮できないかもしれないこと。
そしてもうひとつ、荻号は相転星を失っているということ。
風岳村はもはや安全な戦場ではないのだ。
何が起こるか分からない。
彼らは敢無く崩御してしまうかもしれない。
この決定的な情報を伝える間もなく、彼らは行ってしまった。
たった一言、口を挟んでいれば……恒は落胆と後悔の息をもらす。
彼らは実体も持たず、殺してもただでは死なないような神々ではあるが……。
せめてすぐに恒自ら彼らを追って、重大な情報を伝えなければならないと思った。
「比企様、あなたから調合を教わった壊死阻害薬を応急的に飲ませました。でも……もう、無理なのでしょうか。紺上様にも岡崎様にもかけあいましたが――。教えてください。どうしても、もうどんな手段を用いても駄目なのでしょうか」
「……経緯が分からんので何とも言いがたいが……ただ」
「ただ?」
彼の冷酷な眼差しがまだ遼生に興味を失っていないことを、恒は知っている。
「見た限り、神体は無傷だの」
比企の一言は、恒にはもっともな疑問だった。そうだ、彼は何故無傷なのに蘇らない?
もはや遼生に傷はないのだ。組織も壊死しないよう保たれて、完全に元のように修復されている。
元通りでない点といえば、体液が枯れていることぐらいか。
「傷はありましたが、荻号様が処置をして下さったそうです。したがって死因は血液還流量の減少による出血性ショックだと思われます。あとは、脳に損傷があるのではないかと」
比企は再三、今度はより丁寧に遼生の青ざめた遺体に目を配った。
「それだけか。ではGMMを処置すれば何とかなるだろう」
生還の可能性が出てきた。
比企は密かにアトモスフィア不含性の代替血液を準備していた。
神々の間で輸血ができないのは人間でいうところのABO式血液型のように、適合の悪いアトモスフィアが体内に入ると神体組織を融解するからだ。
理論上は血液成分からアトモスフィアを抜けば輸血ができるのだが、アトモスフィアは血漿成分と同じほど低分子であるため分離不能だ。
そこで比企が考案した手段は、血液バンクにストック後6000年を経過した血液を再回収、再滅菌することだ。
放射性物質であるアトモスフィアは下位位神のものでは6000年を経過すると減衰し、殆ど消失してしまう。
一方、酵素系は凍結保存をしている限り失活することはない。
アトモスフィアと血漿成分の劣化の差を利用して、比企は百年も前から、膨大な血液ストックを極秘裏に作らせていた。
INVISIBLEとの戦いに多くの神々や使徒の血が流れるであろうことを想定していたからだ。
「やるだけはやってみよう」
「ああ? そんなことをしとる場合か?! こいつはあんたの何なんだ! 死体で遊んどる場合じゃないだろ!」
梶は遼生を指差して比企を怒鳴りつける。
梶はそう言うが、比企は遼生の蘇生を試みようと決めたようだ。確かに、比企にとって彼がどれほど重要なのかというと、実はそれほどでもない。
しかし、あまりに短く不憫にすぎた彼の生涯を思うと、蘇生を試してみようかという気になった。
ヴィブレ・スミスの創作物として生まれつき不当に扱われ、ようやく彼自身の足で歩み始めたというのに、虫けらのように死んでゆかなければならない理由もなければ、わずかな猶予もないほど時間がないわけでもない。
取り込み中だった神々を待たせたままで極位神に手術の執刀をさせるとは申し訳ないと思うが、恒は比企の心意気に感謝し、平伏した。
「30分で戻る。その間、汝らで測距計算を急いでくれ」
「ファティナがいないのに?」
スーパーコンピュータ、ヘクス・カリキュレーションフィールドなくしてあれほど大規模で緻密な計算は無理だと、梶は先ほども比企に提言したばかりだ。
そしてオペレータのファティナは行方不明ときている。
恒はつい先ほど風岳村でファティナに会ったばかりだが、神階ではファティナが行方不明となった影響が大きいようだ。
彼女は今、風岳村で荻号の後方援護をしているところだった。
いや、正確には荻号の援護をしていた、という過去形になるのだが……。
「なに、概算でよい」
比企は会議室内部を振り返った。
中ではホワイトボードに数人の男達がそれぞれいくつもの数式を猛烈なスピードで書きつけていた。
彼らはみな人間だ。
彼らはCERN(欧州原子核研究機構: European Organization for Nuclear Research)の研究員だ。
むろん、比企はHEIDPAの起動シミュレーションについて、彼らに全部が全部丸投げするわけではなかった。
比企、境、リジー・ノーチェス、梶、ナターシャ・サンドラは確かにそれぞれ物理学、分析、確率論、熱力学の専門家ではあるが、実際に粒子加速器を取り扱った経験はない。
突き詰めると銀河系規模のLHC(大型ハドロン衝突加速器)であると想定されるHEIDPAを起動するために、彼らの蓄積されたノウハウが必要だった。
世界最高の頭脳集団が結集して、グラウンド・ゼロというポイントに準光速にまで加速した超エネルギーポテンシャルを持つ素粒子を衝突させ、創世者に匹敵するエネルギーを取り出し、グラウンド・ゼロという座標を力づくで削り取る。
比企がその計略をCERNに話をもちかけたとき、彼らはそれが実現可能であって、彼らが実験に参加できるならばそれは素粒子物理学者としての本望だと言った。
何故なら、彼らはこれまで地理的、予算的、物理的な制約により全長27kmの加速器で実験をするほかなかったからだ。
彼らは長らく解明できなかった様々な理論を実証できると喜んだ。ただし、試行は一度きりだ。
いかに荻号といえど、相転星を用いてそう何度もはHEIDPAを起動できはしない。
それはグラウンド・ゼロの座標のみならず荻号の命をも確実に削る。
そこで彼らは興奮した様子で、神々もそっちのけにホワイトボードでなにやら計算式を書き付けたり、持参したモバイルに計算を放り込んだりと、世紀の大実験への準備に余念がなかった。
会議室には英語と日本語が入り交ざって飛び交っている。
神々が人々と話す時には英語、人々同士は英語、神々同士で話す時には日本語という、ややこしい状態になっていた。
「いいのか、そんな適当で」
梶は比企を非難するようなまなざしを向けて確認した。
生物階の存亡に関わる適当でよいと答えたのは、そのままの意味で適当でよいと思っているのではない。
比企は荻号に強いるか請うて相転星を起動させ、HEIDPAの焦点を絞るつもりだったからだ。
相転星の補正機能を使えば前もって厳密に計算をしておく必要もない。
どこにどれだけの深度でHEIDPAの焦点を絞るべきかは、荻号の相転星が正確にはじき出すだろう。
「比企、あんたの案は確かに納得できるが、グラウンド・ゼロの座標に確信がもてん」
比企は梶の疑いの言葉に気難しい顔をして、恒は話が見えない。何を言っているのだ、彼は……グラウンド・ゼロの算出は何度となく行われている。
グラウンド・ゼロを消せば、他の場所にINVISIBLEが現れるとでもいうのか。
「シミュレーションに誤りがあると? それならば心配には及ばん」
「そうじゃない。俺らがグラウンド・ゼロの座標をチートで消したとする。しかし俺らに消されることは前提で、そこにできた新たな座標こそがグラウンド・ゼロなんじゃないか?」
神々が何度賽を振ろうが振るまいが、干渉しようがするまいが……波動関数はもう、とっくに収束しているのではないかと。梶は疑問に思っていた。
梶が言いたいことは、神々が干渉し寄与する全ての振動も、何をしてどう抗っても総てINVISIBLEの計算のうちにあって、未来は予めたった一つの結果に収束していたのではないのかということだ。
そうだったとしたら、これ以上の些細な努力が一体何になるのだろう。
「よく考えろ。この場合、成り立たないんだよ、確率論(The Probability Theory)は」
比企は特に気にしなかったのかもしれないが、恒は……梶の言葉をもっともだと感じた。
そう、レイアと恒がグラウンド・ゼロだと思っているあの座標は宇宙上の固定化された座標などではなくて……もっと浮動的で逃れられないものである可能性が高い。
神々が何をして足掻いてもINVISIBLEは最初から、あるいはグラウンド・ゼロの特異点を欺いてでも収束するものだというなら……。
収束を防ごうと労力を費やすより、収束後の被害を防ぐことに労力を費やす方がよほど効率的かつ現実的だと、梶は併せて付け加えた。
たとえば、久遠柩だ。
Hidden Variable Theory(隠れた変数理論)か。
確率神が確率の学問である量子力学を否定するとは相当だな……と、比企は閉口して彼の言葉に耳を傾けた。
「俺たちは奴のテーブルで、試行遊びをしているに過ぎん。場は奴のものだ、俺らは勝てるかもしれないと錯覚させられてるんだよ」
最初から勝てない手札を配られてゲームのテーブルについているとわかっていてもなお、ゲームを受けてたつのかと梶は言いたいようだ。
「さにあればこそ、無駄な事などひとつもないと思うがの」
比企はそう返すにとどまった。無駄になるかもしれない、
だが今この瞬間にしか出来ない、総ての手を尽くしておく。
*
「何で神階ってトイレ遠いんやろ」
音を上げたのは築地だった。
トイレからかれこれ10分は歩いた。
比企は先ほどの電話を終えた直後、ほうぼうに電話をかけはじめた。
専門家に召集をかけると、どこからともなく神々はぞろぞろと執務室に現れた。
転移術を駆使しどこでも神出鬼没、レスキュー隊よりはやく駆けつける。
これだと移動の時間も短くて集まりもよくていいだろうな、と築地は思う。
神々が集まってくるのだとしたら、人間が主神の執務室に上がり込んでいる不祥事を見咎められるに違いないと気を廻した築地と長瀬は空気を読んで執務室から出ていった。
CERNの研究者達が呼ばれたのは二人が出ていったあとだ。
築地と長瀬はついでに、寧々に言ってトイレを借りていた。
しかし広大な執務室に足りないものは何もなさそうだったが、不便なことにトイレだけがないのだ。
それもそのはずで比企はトイレに行かないからなのだが……というわけで彼ら二人は使徒たちが使っているトイレに案内してもらったところだった。
「トイレ、本当遠かったねー。みんな間に合うのかな。転移で行くのかな」
こそこそと通路から執務室の脇の控室に戻って、扉を少し開けて執務室に集まってきた神々の一群を見ていた長瀬はあっと息を呑んだ。
比企ともう一柱、おそらく梶と思われる青髪の神と、そして先ほどはいなかった少年が、彼らと対等に話をしているのが見えたからだ。
少年だけが築地と長瀬の気配に気付いて少しだけ視線をこちらに寄越したが、すぐに興味もなさそうにはぐらかした。
気付かれないよう取り繕ったようにも見えた。
少年の背格好と横顔を見て、長瀬は心当たりがある。
「ねー……。あれって例のあの子じゃない? ……藤堂って子。なんか中学生っぽいし、見てみて、見える?」
長瀬は築地にひそひそ耳打ちする。
見たところ、他の神々のように特徴的な服を着ているわけでもなくジャケットとジーンズにスニーカーといういでたちなので普通の少年に見えるが、普通の少年が臆することもなく神々と議論するなど神階ではありえないことだ。
築地もドアの隙間から片目でのぞく。
「あーどうやらそれっぽいな」
「さっき比企さんがあの子のこと、神様と人間のハーフだっていってたよねえ……」
築地と長瀬は主神の執務室にいりびたる中学生が何者なのかを知りたくて、先ほどトイレに案内してくれた寧々にしつこく尋ねたら白状したところだ。
生殖能力のない神々と人間のハーフがどのようにして誕生したのか、それはクローン技術のたまものなのだろうが、長瀬と築地は神々がそのようなプロトタイプとも呼べる存在を創り上げていたということに、ある種戦慄を覚えたものだ。
神々の議論の最中に口を挟むことすら咎められず、見る限り、彼は神々のうちでも重用されている様子だ。
「さっきのおばはんらの野望、結構すぐ達成するんちゃうか。もうあないな子がおるんやったら……」
まるで先ほどの澄田 咲江の決意と野望を嘲笑うかのように……。
澄田は人類が神々の科学力に追いつくことを目標として高らかに掲げていたが、すでに神と人のあいの子がいるというのだ。
響 寧々の話だと、彼は常人では考えられないほどの知力、身体能力を持ち、飛翔術、転移術、読心術をマスターしているという。
また、彼は突出した記憶力を持ち、読んだ本の内容を決して忘れないのだという。
12年間で延べ18000冊以上もの本を読み、読んだ内容の99%を記憶している。
9000冊の本を暗記した人もいるといわれる知的障害の一症例であるサヴァン症候群という症例にも似てはいるが、彼の場合IQが200を上回っているそうなのでそういうわけでもない。人類最高IQ値が210程度と言われているから、天才どころではすまない値だ。
中学生に身をやつして彼にとっては退屈な授業の合間、裏紙に落書きついでにトポロジー問題をそつなくこなす。
超難問といわれるリーマン予想だって真面目に取り組めばすんなり解けるんじゃないか、と思うほどだ。
冗談じゃない、と築地は言ってやりたくなる。
わずか12歳で! 築地は12歳のときに何ができただろうと振り返る。
言うまでもなく鼻たれ小僧であり、ゲームに漫画に遊びに明け暮れていた。
環境保全ポスターを描いたりホームルームの時間以外に、人類に対して何か貢献しようと思ったことなどないに等しい。
比企たち神々は敢えて、まさに実験体ともいえる藤堂少年が人間社会で適応できるかを調査するために地上での生活を命じたのだろうか。
彼という存在は神々が人類を媒介に、人類の可塑性と繁殖力を利用して、神々という種の個体数を回復させるための……。
ひいては個体数の減少と衰退の一途を辿る神という種族が未来へ延命を図るための、可能性を模索しているように見えたのだ。
そう遠くない未来の次のステップとして、人類は神階に吸収される。
「あの子みたいに人間が人間じゃなくなるってことが、人類の生き残るべき唯一の道なのかなあ」
この場合、人類が神階に適合することは、両者の利害一致ともいえる。
人類が種の保存という原則をこえて神々と交わるか、もしくは人為的にDNAに手を加えてゆくことだ。
ここ数十年、人類は遺伝子操作技術という土壌を築きあげてきて、その準備は整えられつつあった。
だがそれが自然淘汰圧に沿った合理的な進化なのかというと、長瀬はわからなかった。
ただ彼女にわかったことは、いよいよ人類が滅亡してしまうのかもしれないということだ。
たとえ神々が人類という種をありのまま保存しようと思ったとして、人類は神々のゲノムライブラリになることを是としない。
標本に成り下がり神々に飼い殺しにされるほどには、人類は惰弱ではない。
人類は神々と対等に話し合うテーブルにつくために死に物狂いで彼らを目指し、追いつき、いつか凌駕しようと懸命になる。
人は走り続けるだろう。
何度挫かれても、その足を止めない。
よりよく在ろうといつの瞬間も未来へ向けてたゆまぬ努力を続けてゆく生き物だ。
もし造物主というものがいるのなら、人類の性質をそうデザインしたのだとしか思えない。
だから神々に追いつくという無謀な試みも、まったくの絵空事だと長瀬は思わない。
人がそう在りたいと願う限り、人類と科学は決して無力ではないと彼女は信じている。
長瀬は確信していた。
野望に滾る澄田 咲江がよい例であるように、神々からの申し出がなかったとしても、人はやがて科学力を支えに進化の最適解を求め、高みを目指しはじめる。
いや、その過程はもう始まっている。
彼らの目指す答えはすぐ目前にあり、各国研究者は恐怖と屈辱とともに地上のヒエラルキーの頂点に君臨する、神々の社会を目にやきつけた。
科学者たちは如何に難解なパズルでも、必ず解法を得ようと試みるだろう。
そして人々が理想の肉体を、頭脳を神々とひとしくなるまで更新し続けたとき。
そこに誕生するのは人類だろうか?
それとも、かつて人類であったという情報としての過去をもつだけの、まったく新しい生命体なのだろうか。
神々は人類に手を差し伸べるのかもしれない。
進化の最短距離にあって前世代的には人々が思いを巡らせるだけでも不遜であり狂気であったひとつの難問を解消する、禁じ手。
すなわち、種の統合へ――。
そのとき人は、神となることができるだろうか。
「人間って、どこまで行けるんやろうな」
築地は寂しそうにそう呟いた。
「ツッチー……ねえ、あの子に声かけてみない?」
人の心を持ちながら神であるとはどんな気分なのか、長瀬はふと、尋ねてみたくなった。
彼がどんな目的のもとに生み出されたにせよ、彼はいわば人類の可能性の限界と、超えてはならぬ一線上にある存在だ。
ひとつだけ、築地と長瀬がどうしても解消できない疑問がある。
比企と遭う度思い出したように、明るみになってきた不自然。
人は何故、神と同じ姿をしている?
神は何故、人と同じ姿をしている?
倒置すると恐るべき意味合いを醸し出す。
その説明には、人々が神々のコピーであるという以前に、もっとがっかりするような単純な理由があるのではないのか。
そんな気がしてならなかった。
神は、かつて人間であったのではないだろうか?