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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第31話 HARMONICS± vs Fullerene C60

アラビア語、ヘブライ語フォントが入ります。

 八雲 遼生が殺された――。


 恒はその一部始終を目撃していたが、人間以上に視力がずば抜けているわけでもないので経過を把握することはできなかった。


 遼生に何が起っていたのか。

 バイタルが故意に、何ものかによって断たれたという客観的な事実は揺らがない。

 荻号は彼を救おうとしたかもしれないが、効果的な処置を施せなかった。

 荻号は遼生の蘇生を諦めたのか忽然とその場から消え、ファティナとアルシエルが遼生のもとに駆けつけたようだが、アルシエルも特務省に突進していった。


 遼生が……彼がいかに無謀なことをしてしまったのか、恒はしっかりと覚えておかなければならなかった。

 特務省は神階の神々の生殺与奪の権利を有しているということ。

 遼生のために何ができるのだろうと必死に考えを巡らせたとき、不意に思い出したのはユージーンが自殺を遂げたあの日のことだ。

 夏草と腐葉土のにおい、木漏れ日、じっとりと絡みつく湿気、そして横たわる首のない彼の死体。

 あのとき、恒はただノーボディに助けを求めただけだったが、今はあの頃の自分とは比較にならないほどのことができるようになった。

 なのに、何もできずに立ち竦んでいる。

 恒は先ほど遼生がいた位置に、ファティナのアトモスフィアをとらえている。

 あの方法が有効かもしれないと思いついた恒はFC2-メタフィジカルキューブをポケットから取り出し、神具間連絡機能でファティナを呼んだ。小さな立方体に向かって、力強く呼びかける。


“ファティナさま、聞こえますか”


 荻号とアルシエルが去り、なすすべもなく取り残されていたファティナは、名を呼ばれたのでひどく動揺した。

 彼女の足元に白い塊となって折り重なる特務省職員達の意識は一柱残らず荻号がとばしているので、暫くは目覚めることもないのだが……なにごとかしらとP≠NPを開くと、FC2-メタフィジカルキューブから神具間連絡機能を用いた非常用のコールが入っている。


 FC2-メタフィジカルキューブの所持者は誰かと検索せずとも、持ち主は藤堂 恒だとわかっていた。

 彼は比企の管理下にあるアカデミーの特待生で、例外的に神具の所持と使用を許されている噂の少年だ。

 枢軸神から、勿論興味本位で私的に手合わせを申し込まれた経験も一度や二度ではない。

 間接的にでも言葉をかわすのは、実ははじめてかもしれない。やや緊張してΔδΔを耳に宛がうと、思い詰めたような藤堂少年の声が聞こえてくる。彼は前置きなしに尋ねた。


“八雲 遼生さんはどうなりましたか”


 ファティナは遠く背後に気配を感じて振り向いた。

 視力のよいファティナには結界の外に締め出されている少年の米粒ほどの姿が鮮明に見える。

 彼はファティナに手を振ってその存在を主張しているので、ファティナも手を振り返す。

 彼の視力では認識できていないのだろうが、彼はファティナに認識されていると分かっている。


「見えましたよ。藤堂 恒ですね。彼はあなたの知り合いですか?」

“そうです。どうなりましたか?”


 彼は答えをはぐらかそうとするファティナを急かして問い詰める。隠しても仕方がないことは、ファティナも白状するほかない。


「それが……八つ裂きにされてしまいました。彼の持っていた金色のアンプルを使って荻号様が修復されたようですが……意識も生命反応もないのです」


 ファティナの声がずんと暗く沈んだからか、藤堂は息をのんで沈黙し、ややあって問い返した。


“それで彼のアトモスフィアは消失しましたか? こちらからは殆ど感じ取ることができませんが”

「まだ残留していますが、どうするつもりです?」


 要するに、外に締め出しをくらってしまっているので遼生の遺体を確認するために中に入れてくれという話なのだ。

 しかし、ファティナは彼を中に入れる訳にはいかなかった。

 藤堂少年の乱入は、事態を好転させる材料になるとは考えられないどころか、足手まといでしかない。

 何より、頭上に特務省だ。

 危険な目に遭いたいというのが理解できない。


“そちらに行きます”


 そう言ったのはファティナではなく、藤堂だ。

 何を言っているのだ、彼は――? 

 ファティナが中に入れてやらなければ、彼はこちら側に入ることもできないはずだ。

 さもなければ、フラーレンを破る必要があり、相当な労力を要するばかりか、命にもかかわる。


 ファティナの結界と荻号のフラーレンの結界の位置関係は、荻号がドーム状に村を囲み、ファティナがさらに内側に円筒状の結界を形成している。

 ファティナは空間矯正結界、荻号は外部からの防御結界ということになる。

 ファティナの結界は恒を傷つけはしないが、荻号のそれは侵入してこようとするものに対して致命的な損傷を与える。

 無傷で通り抜けるためには必ず転移術で格子をすり抜けるべきだが、藤堂はファティナの結界の外にいるのでこの方法は使えない。

 物理法則異常で転移術が使えなくなっているからだ。

 だから藤堂の申し出は、2つの結界の性質のどちらも理解していないという彼の無知を丸出しにしていた。


「どうやって?! やめなさい! ダメです、来てはいけません!」


 結界を物理的に壊されてしまう可能性はゼロだが、フラーレンに触れると大怪我をさせてしまう。

 この場に藤堂が居合わせた事態に関して比企の責任は重大だ。

 だからといって彼を遼生と同じ目に遭わせることはできない。


 恒はファティナが慌てている様子だったので、話の途中で通信を切った。

 遼生は恒の予想通り、特務省に仕留められていた。

 恒の耳に引っ掛かったのは金色のアンプルという一言だ……金色の、アンプル? それは遼生が比企から掠め取った絶対不及者の体液のことじゃないのか? 


 荻号はそれを使って遼生のエンバーミングを行ったとファティナは言っているのだろうか。

 いずれにせよ、早急に真相を確かめなければならない。レイアも心配だが、遼生が先だ。

 恒は集中力を高めると、行く手を遮っているフラーレンを改めて睨みつけ袖をまくりじわじわと手を伸ばす。

 フラーレンは毒々しい警戒色である赤色光を明滅させ、近づくなと恒の接触を全身で拒絶しているかのようだった。

 大丈夫……触れられるはずだ。

 先ほどは気が急いて考えもなく物理的衝撃を加えようとしてしまったが、冷静に考えれば全神具適合性を持つ恒はどんな神具であっても触れられる。

 それを教えてくれたのはノーボディだ。

 たとえ超神具、相転星であっても フラーレン C60であっても原理は同じ……フラーレンに荻号のアトモスフィアが満タンに充填されて朱に染まっている限り、フラーレンは許容値を超えて恒からアトモスフィアを奪うことはできない。


 損傷はないはずだ、理論的には!

 ひたり、とフラーレンの冷たい素肌に触れてつまみ、格子のポジションをわずかにずらす。

 術の平衡がやぶれたその隙をついて、恒はレーザーで編まれた格子の網目をかいくぐり、結界内部に侵入を果たした。

 恒によって動かされた一枚のフラーレンはすぐさま異変をネットワーク全体に伝達しようとしたが、恒が手放して元通りの配置に戻されたので、告げ口を諦めた。

 恒は後ろを振り返ることもせず、結界内に分け入ってゆく。


「あれ……」


 外部からは気付かなかったが、フラーレンの内側にさらに一枚、ファティナが造り上げたと思われる分厚い緑色光壁がある。

 手でかいてまさぐってみても特に拒絶される感触はなかったので注意深く光壁に踏み入って蛍光ゾーンを抜けると、すっと体が軽くなったような気がした。

 その場で大きくジャンプをすると忘れそうになっていた飛翔感覚が蘇り、どこまでも高く飛べそうだ。

 勢いまかせて数十メートルも蹴上がりながら気付いたのは、ファティナの結界によって重力異常が矯正されているということだ。

 では転移はどうだ。

 恒は両手でぐんと空を掻くと、追跡転移でファティナの気配を追った。

 世界の隙間に自身が圧縮されるのを感じながら空間をまたぐ、いくつものステップを慎重に確認する。


 恒の肉体は虚無と化し、意図した場所に再構成されてゆく。

 目を開けると、空中に浮遊する法衣を纏った女神の姿があった。

 数学神 ファティナ・マセマティカ……ヘクス・カリキュレーション・フィールドというモンスターコンピュータを御し、数という真理を司る。

 宇宙定数Λ(ラムダ)というスカラー量を制御することによって局所的にではあるが、この世の空間法則をどこででも彼女の望むままに変換することのできる、秩序の守護神と呼ばれる女神だ。

 数によって統御できる現象において、という条件をつければ、彼女の神具は限りなく相転星の機能に類似する側面もある。

 彼女の計算能力の真骨頂ともいえるかの神具は神階から動かせないほどの重量であるが、遠隔通信によって制御することができ、彼女には巨大な脳がある。


 ここは荻号が特務省と全面対決をするにあたり、戦闘の場を支持するためにファティナがヘクス・カリキュレーション・フィールドに演算させ、彼女の技術の粋を尽くして構成した矯正空間なのだろう。

 荻号の神具は物理干渉系……空間法則が乱れていては役に立たないタイプの神具だからだ。恒は最初から低姿勢で、彼女の傍近くにお邪魔した。


「失礼いたします」

「どうして来てはいけないというのに、来てしまうのですか。あなたたちは!」


 藤堂の出現を嘆くファティナはあたりを見渡し、所在なさげに特務省を見上げる。

 恒はファティナへの挨拶もそこそこに、 特務省職員たちが地上数百メートルの空中に敷かれた不可視のフィールドの上に積み重なって倒れ伏したその上に乗っている、遼生の容態を確認しはじめた。

 ファティナのいうよう彼に外傷は見受けられないかわりに、呼吸も脈拍もない。

 体温もまだあるようだが……。

 遼生は抗体を効率的に放散できるすべを知っていると言ったが、絶対不及者に対しもともと強い抗体を持っているわけではないということはここ7年で実証済みだ。

 よかれと思ってのことだろうが、絶対不及者の体液を擦り込まれて、彼の身体はどんな拒絶反応を起こしているのか。

 ひょっとして、体を切り刻まれたのは致命傷ではなく、この絶対不及者の体液によってとどめをさされてしまったのではないかとも勘ぐってしまう。


「たくさん失血しましたか?」

「ええ……血圧は急激に下がったと思われます」


 なにしろ八つ裂きだというのだから、血が出ましたという規模の出血ではない。

 恒が遼生の周囲に注意深く目をこらすと、山積みになっている特務省職員らの制服に飛び散っている無数の赤い染みのほとんどは、飛散の様子から遼生の血液だと推測される。

 これだけ失血すれば……彼の身体は体液がなくなってからっぽになったまま絶対不及者の体液によって接合されてしまっている。


「助けましょう。まず生命維持をはからなければ」

「ですが藤堂。問題にすべきは体液の枯渇ではありません。脳を4分割にされたということです」


 遼生がまだ生きたいと願うならば、彼はきっと助けられる……。

 彼を紺上のもとに預け、あるいは岡崎 宿耀と八雲 青華を呼ぶべきなのかもしれない。

 彼らは遼生のすべてを知っている。八雲 青華は感情的に取り乱すかもしれないから、岡崎を呼んだ方がよい。

 しかしファティナは恒の期待を裏切ることを心苦しく思っているのか、申し訳なさそうに首を振った。


「やめましょう。脳を裂かれた者は助かりません」


 彼が遼生に同情的なのは、数少ない同年代の神に親近感を覚えていたからだろうと慮ったので、恒と遼生の間にどんな関係があるのか、ファティナはそれほど深く詮索しなかった。

 藤堂は何か反論したそうな顔をしている。

 この少年らしからぬ、堂々たる落ち着きはどうだ。

 藤堂 恒は幾多もの修羅場をくぐってきたと聞くが、この状況下でも方策を見出しているのだろうか。


「普通は助からないと思います。ですが彼は以前、脳死状態から回復したのです。蘇生が可能であれ不可能であれ、彼を連れてレイアの居場所に行き、ただちに神階に戻り紺上様に蘇生をお願いしてまいります」


 そう言いながらも、恒は今後の段取りを決しかねていた。

 レイアを荻号の自宅から連れ出すというのならば、それはまずいことだ。

 彼女を連れ出しては、それがどこであってもあっという間に追いつかれて、特務省に捕縛されてしまう。

 彼女はINVISIBLEとの関係を断たれ、久遠柩の中で正気を取り戻すかもしれない。

 しかし、INVISIBLEが荻号の言ったように悪しきものでなかった場合、三階の滅亡は確定する。


「……待ちなさい!」


 ファティナが彼を呼び止めたときには、すでに姿はなかった。


「もう!」


 ファティナが転移で藤堂の気配を辿ると、彼は遼生を負ったまま土足で民家に上がりこんでいる。


「ここはどこです」


 勝手についてきておいてそう尋ねるのもなんだが、ファティナにはこの住宅が村内にあると知っていた。

 彼が行きそうな場所といえば、レイアの居場所だ。

 何故ついてくるんだ……とでも思っているのか、恒は返事をしない。


「レイア・メーテールをどうするつもりですか。この村で生まれ育ったあなたが村の滅亡を回避させるために、特務省に恐れをなしてレイア・メーテールを差し出したくなる気持ちもよくわかります、ですが、軽率な行動は控えなさい」

「え……ああ、違いますよ」


 ファティナはそちらの方向に解釈したのか、と恒は心外だ。

 確かにレイアを特務省に引き渡せば、特務省に村が焼き払われる事もなく全てが穏便に済むだろう。

 遼生も殺されずにすんだことだ。レイアが村に立てこもっているせいで、村が狙い打ちにされているというのは事実である。

 だからといって、ファティナの言うようにレイアを特務省に突き出すことなど恒は考えてもいない。

 ただ、彼の望みはINVISIBLEが彼女に語りかけた内容と、彼女の本心を聞きたいだけだ。

 村の一大事にそんな事をしている場合なのか、という指摘は勘弁してもらいたい。

 レイアがこの場所にいる限り、特務省の標的となり続ける。

 そしてそこが荻号の家である限り、特務省が彼女に触れることは容易ではない。


「彼女から真実を聞きたいだけです。特務省の手が及ぶ前に」

「あなたの自己満足のためにですか」


 辛辣な一言を耳に留め置いて、恒は遼生を1階のソファーに横たえ部屋の中を物色しはじめた。彼はここにあることが分かっている、とあるものを捜していたが、捜しものはすぐに見つかった。


「やっぱり、ここには薬草がたくさんありますね」


 リビングの奥に踏み込むと一部屋まるごと、調剤室のようなものがある。

 つくりつけの棚に整然と薬剤が並べられて、天秤やガラス器具などが置いてあった。

 このあたりの趣向は、比企のそれと共通するものを感じる。

 恒は遼生のために応急処置を試みようとしていた。

 この二年間で比企の空中庭園に出入するうち比企の手ほどきをうけ応用薬学を少しばかりかじったので、多少の調合はできる。

 彼は棚に並べられたいくつかの怪しげな小瓶を手にとったが、荻号の字は現代神語で書かれていないのでラベルが判読できない。

 どんな薬剤を造るべきなのか、原材料を見ないことにはイメージが出来上がらない。

 そのまま、何か役立つものがあるかと引き出しをあさる。

 彼は整理された引き出しの中からいくつかの見慣れた材料を拝借する。


 はかりで簡単に材料の目方をはかり、手早くナイフで刻み乳鉢で潰して水を混ぜ、漏斗で濾してフラスコにうつすと、フラスコを火にかけガラス管を組み合わせてガラス管をあぶり、ガラスを曲げて蒸留トラップを作り、最後にオープンカラムを連結させた。

 濾液を沸騰させてカラムに通し、薬草の成分を抽出するのだ。

 トラップされた濾液は上品な薄紫色の発色をはじめ、香ばしい香りがあたりに漂いはじめた。蒸気は一滴ずつ蒸留装置に流れこみ、冷却されて雫をつくる。

 合成は時間がかかる、抽出は速い。しかし恒の覚えている、もっとも迅速かつ確実な薬効を持つ薬剤だ。

 ファティナの目には、遼生の死を受け入れられない彼の気休めのようにみえて哀れだった。

 恒はファティナに言い訳じみた解説をする。

 薬が完成するまでには、少し時間がかかる。


「細胞の壊死を防ぐのに有効な化合物で、名前は何だったかな、遼生さんに飲ませようと思います。時々振って、火加減をみていていただけませんか」

「その間に、レイア・メーテールと会うつもりですか」


 まんまとファティナに用を押し付けて、その隙を狙ってレイアと会うつもりだということは見え見えだ。


「そのカラムが全て落ちきる頃には、戻ってきます。話をするだけです」

「早まったことはしないと約束しますか」


 恒はファティナの目を見て深く頷くとスニーカーを脱ぎ、急いで二階に踏み込んでゆく。

 この家はデザイナーズ住宅なのだそうだが、一階の広いダイニングから吹き抜けの階段が家の中央を貫いている。

 木目の美しい螺旋階段を踏みしめ階段を上がりきってすぐの廊下に、フラーレンで編まれた幾重もの結界が張り巡らされているのが見えた。

 一歩踏み込むごとに、フラーレンがフローリングに、壁面に、そして棚の上にも……一枚ずつ出現して夜に潜む猛禽類の瞳のように光を宿す。

 何か言いたげなファティナを1階に残し、恒は怯むことなくその全てに手を添えて一枚ずつ丁寧に剥がし取り、左手に束ねていった。


 ファティナは恒が階段を上りながらこともなげにフラーレンを手玉にとってゆく様子を見て驚き、全神具適合性という珍しい特異体質を備えていることになお驚く。

 彼は遂に全てのフラーレンを剥がしきってしまったが、ふと後ろを振り返り、階段とダイニングを隔てるように3枚のフラーレンを張り付けた。

 フラーレンはすぐに赤く細い結合の手を伸ばし、光線のフェンスが張られる。

 こうして結界の配置を乱さずに分け入ってゆくことで、荻号に気取られないようにしているのだろう。

 彼は無言で深呼吸をすると、ざわつく心を落ち着けた。

 結界の中に入った途端に感じる、存在を主張するかのようにレイアのアトモスフィアだけが色濃く漂ってきた。

 彼は足元に不自然に転がっていたティースプーンを拾い上げ、険しい顔つきでつきあたりの部屋に踏み込んでゆくと、そこは殺風景なダイニングルームだ。

 レイアのアトモスフィアを最も強く感じる、ダイニングルームのテーブルに恒は注意深く近寄った。

 彼女が恒の手をすり抜けて会えなくなって……随分と長い時間が経ったような気がする。

 そこにいるのか?


「レイア」

“……恒さん”


 レイア・メーテールはそこにいた。

 思わぬ来訪者に翡翠色の瞳が大きく見開かれて絶句する。

 恒もまた驚いて息を呑んだ。レイアは恒に飛びつこうとして、すぐにあることに気付いた。

 恒の視線がはぐれる。

 レイアと合わない。

 彼の視線は何かを求めるように、ふらふらと彷徨っている。

 彼はあろうことかレイアを素通りして、テーブルの横を通り過ぎていった。


「どこだ?」


 彼は確かにそう言った。

 レイアは恒の異様な言動に強いショックを受けた。

 そんなことを言うだなんて……からかうにしても、度をこえている。


“ど、どこって? ここです”


 レイアはすぐ目の前にいたではないか。

 彼女はすぐさま恒の目の前の前に回りこんで彼の手を握ったが、彼は気付かない。

 レイアの手は恒に確かに触れている。

 彼女は彼の姿を確かめるように、視線を上げる。

 少し伸びた涼しげな直毛の下に、いつも表情の違う深い藍媚茶色の瞳はあらぬ方向を見て、困惑しているように見えた。

 彼の体温もその息遣いもすぐそこにあって、レイアは感じている。

 なのに、何が起こっているのか。


「どこに隠れてる?」

“……みえて……いないのですか? わたしはここにいます。あなたの手を握っています”


 恒のいる場所とレイアのいる場所……ほんの少し、次元がずれているのだろうか。

 高い次元にある者の姿を、低い次元にある者が捉えることはできないことはレイアにもわかる。

 いま、レイアは恒より少し高い次元にいて、恒は3次元空間にいるからだ――いや、それとも……別の理由があるのか。

 レイアも恒も、後者の可能性には触れなかった。

 ただ次元がずれているだけなら懸念すべきではないのかもしれない。

 だが、レイアは内心、ひどく心細くなった。彼女はいつからか本当に、幽霊になってしまっていたのではないか。

 鏡に映らないばかりでなく、恒の目に映らなくなっているのではないか――。

 INVISIBLEが不可視の創世者であるように、スティグマに支配されたレイアもまた、目に見えないものになってしまっているのではないかと。

 この世界にまだ、わたしはいるのだろうか?

 胸を張っていえない、わたしはここにいると。


 恒もまたレイアと類似した疑いを抱いていた。

 レイア・メーテールは創世者INVISIBLEの一部であって、姿などもともとなかったのではないかと。

 しかしかつてユージーンがそうであったように、INVISIBLEによって彼女を取り巻く環境全てに強烈な暗示にかけられて、そこにレイアがいるように錯覚していただけなのではないかと。

 彼女と過ごした時間の全ては、どこにも存在しない亡霊と過ごした空虚な時間であったなら――。


「声は聞こえる……空間がずれてるのか。俺たちは同じ場所にいるが、違う空間にいるようだ。もしかして須弥仙種を使った?」


 恒はレイアの姿が見えない原因を、ひとまず須弥仙種におしつけることにした。

 誰もいない場所から音声を伴わない念だけが届く、これでは……なんら違いない。

 ブラインド・ウォッチメイカーと、ノーボディ、そしてINVISIBLEと。

 たとえこの三体の創世者がレイアを装っていても、それと区別する方法はもはや存在しない。彼女のアイデンティティは消失している。

 ノーボディから教わった言葉を思い出した。目を凝らして何も見えなくなったら、それが創世者という存在だ。レイアの姿は恒の視界から完全に消えていて、彼女が主張するように恒の手を握っているとはとても思えない。

 アトモスフィアは感じるが、その息遣いも体温も感じない。耳をすましても、彼女の肉声すら聞こえてこない……。


“はい、使いました。でもここから出られなくて。わたしから恒さんのことは見えます”

「レイア。自分自身の姿、お前には見えてる?」


 恒は言葉を選んで、慎重にたずねた。

 その答えによっては、彼女が創世者であるか否かを確かめることができるかもしれない。


“見えています。でも……そこにある鏡には映りませんので、顔はわかりませんが”


 おそらく彼女は指をさしているのだろうが、そこと言われても恒はどこなのか分からない。

 そういえば、キッチンの上に置き鏡がある。恒は誰もいないキッチンに近づき、何も仕掛けがないことを確かめるために鏡を取った。

 恒の姿は何事もなく鏡に映っている。

 鏡に映る自分の顔をまじまじと眺めるのは、あまり好きではない。

 彼は別段異状もなかったので、流しの上に鏡を戻した。


「空間がずれているからな。今だけだよ」


 恒は彼女を落ち着かせる。


“恒さん……ずっと申し上げませんでしたが、今だけではなくてわたしは鏡にうつりません。でも、わたしの姿は見えました”

「そう、なのか……」

“驚かないのですか?”

「驚いたけどね」


 恒は心底困り果てたように、頼りないため息をついた。

 彼女は気付いていないのだろうが……彼女は固有の姿を持っていない。

 彼女の姿は見るものによって主観的に、様々な姿にとらえられるが客観的な事象には反映しない。

 つまり、鏡に映らず、写真におさまることもない。

 レイアもユージーンも不死身なのは何ら不思議なことではない……プライマリであるか否かにかかわらず、彼らは最初から生あるものではないからだ。

 彼女もユージーンも死んでいることに気づかない亡霊のように自我を持ち、現世に降り立った。

 彼らはいわば、実在と非実在の中間にある。

 そんな性質を持つ彼らにINVISIBLEが宿るのは、INVISIBLEもまたこの世のものではないからだ。

 肉体を持たなければ、現世界には触れられない。

 だが、INVISIBLEは肉体に触れられない。その中間が必要なのだ。

 恒は問いを続けた。


「俺達は絶対不及者となるべきものとその抗体で、相反する存在かもしれない。だからって俺もお前も、その宿命に縛られて逃れられないわけでも、最初から結論が出ているわけでもない。お前がINVISIBLEに何を云われ何を感じ、どうしてこんな行動をとったのかわからないから、理由を教えてほしいんだ。教えてくれ、お前とINVISIBLEの間に何があったのかを」

“――あなたに分かっていただくのは難しいかもしれません。ですが、未来をつなげてゆくためにINVISIBLEの収束が必要なのです”


 レイアは率直に彼女の思いを述べた。

 恒に打ち明けるつもりもなかったが、もしかするとレイアも姿だけでなく、声もそのうち消えてなくなってしまうのではないかと思ったからだ。

 レイアも消えてしまったら――真実は闇の中だ。そしてINVISIBLEの代弁者はいなくなる。


「INVISIBLEが収束したら、どうなると思う? INVISIBLE収束のエネルギーで生物階全てが吹き飛ぶんだぞ。神階もどうなるかわからない。大勢、死ぬんだぞ。人も神も、使徒も動物達も……お前はお前ではなくなって、別のものになってしまうんだ。だからINVISIBLEを収束させてはいけない。INVISIBLEがユージーンさんであってもなくても、彼が破壊を望んでいようと本意でなかろうと、もう彼の意思は関係ない。立ち向かうだけだ、滅びの力に。INVISIBLEを止められないなら、俺の命を使う」

“恒さん。あなたがおっしゃること……わかっています、わたしも嫌です。みんなが死ぬのもあなたが死ぬのも。……だから、あのひとはわたしに教えたのではないでしょうか”

「何を」

“もし、わたしの中に収束するだけならば、先に教えなくてもよかったと思うんです”


 INVISIBLEに良心はあるのではないかと、レイアはまだ信じている。

 レイアの感じたINVISIBLEはそれまでレイアがさんざん悪いほうに想像を膨らませていたように、悪意に満ちた存在ではなかった。

 彼の意識は薄くなって、言葉もままらならないようだったが、たどたどしい言葉で、レイアの理解を得ようとした。

 彼はレイアの体も心も力づくで従わせることができたのにそれをしなかった。

 やろうと思えば、いとも簡単にできたことだ。


“あのひとが降り立つ事のできる場所は最初から決まっていました。だから、こういうメッセージではないかと思えてならないのです”


”もうすぐそこに降りるから……危ないから、逃げていて――と”


 もう、やめてくれ。もうたくさんだ。

 恒は彼女の言葉を打ち消したかった。

 もしINVISIBLEがユージーンだというなら、彼はそう願うかもしれない。

 彼はINVISIBLEに立ち向かう為にINVISIBLEとなったのか、あるいは最初からINVISIBLEだったのか。

 真相はどうであれ、彼はあまりに大きくなり過ぎた。


 電車のすみの座席に、生温い日差しにうたれて居心地が悪そうに身をすぼめ、座っていた外国人の姿を、恒は今も思い出す。

 彼はINVISIBLEに抗う為に自身を巨大にしてゆく必要に迫られていたのだろう。

 質量はエネルギーに通じ、巨大になることは強くなることだ。

 だからって……そんなに大きくならなくてもよかったじゃないか。

 教室にも入らないどころか、地上にも降り立てないほどに、皐月や子供たちとも話せないほどに、そして、自分自身が誰なのかも分からなくなるほどに――。 


 恒は何もかも、引き剥がされて抉り取られるように感じた。

 レイアの全てを破壊し、遼生の命を奪い、ノーボディを滅ぼし神階を疲弊させ、平和だった村を無人の廃墟にし、地球上のあらゆる文化・経済・社会生活を叩き壊して――。

 そんな状態でINVISIBLEの中にまだ彼の自我があって、残してきた者たちのことを思っているなど嘘だ。


 認めたくない。

 彼は完全に自我を失った、そして彼の狂気が三階を滅ぼす。

 だから彼に立ち向かい、彼の暴力から三階を守る。


 それが生前の、正気だった頃のユージーンへのせめてもの供養にもなる。

 そう結論づけてしまう方が、どんなに救いがあることか。


「INVISIBLEは、逃げろと言ったの?」

“いいえ、ですが”


 言葉など、聞き取れたものではなかった。

 ほとんどの音声はレイアには聞こえなかったが、レイアの中で少し休みたいのだと、少し休んだら自由にするから怯えるなと彼は途切れ途切れに伝えた。

 そして、彼がレイアの脳裏に直接送り込んだ数々の映像からは、彼の責任と使命において、世界を終わらせたくないという悲壮な願いがひしひしと伝わってきた。

 彼はレイアには逃げないでほしいと伝えたが、逃げるべきものたちに逃げろとは云わなかった。

 依代さえ無事ならば他はどうなってもよいという意味なのだろうか。

 そうではなく、誰も殺さず何も奪うつもりがないから……だから彼は敢えて、彼が過去、神々に何を齎したのか、どれほどの命を奪ったのかをレイアに審らかにした。

 それは暗に、逃げてほしいというメッセージなのではないかと、レイアにはそう思えてならない。


“……逃げるべきだと思いました”


 逃げるべきだと言ったのは、彼女の保身のためではなかった。

 はじめ彼女が特務省から逃げ惑っていた理由は、確かにINVISIBLEの言うなりになっていたからだ。

 誰も巻き添えにしたくなかったというのもあった。

 そこで彼女は逃げた。

 どこどこまでも、世界の果てまで逃げて遂に逃げることができなくなったとき、彼女はようやく気付いてしまった。

 逃げるのではなく、逃がせばよいのだと。


 恒は彼女がみなまで言わずとも、レイアの行動の裏に秘められた彼女の思いを理解した。

 彼女は必死で考えを巡らせ、グラウンド・ゼロを含む生物階を彼女の力で転移させようと決意した。

 超空間転移は習得しているし、ポテンシャルは充分だ。

 ユージーンが挑み、荻号が実現したように、常神には不可能ともいえる荒業、惑星ひとつを超空間転移に巻き込むことは、不死身にして無尽蔵のアトモスフィアを持つレイアが発奮すれば、実はそれほど難しいことではない。


「それで被害を防ぐために、生物階を安全な場所に移そうと?」


 レイアの姿が見えないので恒は看破を使えない筈だが、レイアの考えはすっかり恒に見透かされているように思える。

 レイアは緊張して、硬直して身動きがとれなくなった。

 レイアは恒と視線が合った。

 じっと見つめ合う。

 恒はレイアの姿が見ているかのように彼女を見た。

 長い沈黙の末、恒は小さく頷いた。


「良案かもしれない。時間と場所を間違えなければ」


 レイアはほっとして恒の手を握り締めた。

 ほんの少しずれた時空で重なり合うその両手は、恒には見えていない。

 その感触を感じてもいない。

 恒とレイアの立場は必ずしも対立したものではなく、根本的には同じだ。

 恒もレイアも、三階を何も変えずにありのままに守りたいと考えている。

 そのときINVISIBLEを信じるか否かという点においてのみ、彼らの立場と能力は異なっている。

 恒はINVISIBLEに自我があるとは考えておらず彼女が受けたという天啓、INVISIBLEからの働きかけに懐疑的であって、一方、レイアはINVISIBLEの言葉を信じている。

 悪くない考えだ、と恒は思った。


“では、急がないと”


 レイアは意気込んだが、この部屋から一歩だって出られないという現実にいきあたる。

 そうだった。

 須弥仙種を以てしてもびくともしなかった結界の中にいるのだ。


「いや、今はだめだ。一度戻って、比企さんに訊いてくるよ。生物階を動かすとなると勝手なことはできない。生物階の人々の避難が完了して、ゲートを外さないといけないんだ。それに、地球だけ動かすわけにもいかないしね」

“どういう意味ですか”


 今やらなくて、いつやるというのだろう。

 特務省の攻撃も目前に迫っているというときに。


「地球は太陽……太陽じゃなくてもいいけど、恒星とセットじゃないと動かせないんだ。恒星を失った地球はたちまち凍りつき、数日と経たないうちに死に絶える。神階のようにはいかない」

“!”


 結果的に恒が止めてくれたようなものの、レイアがもし自由の身であったなら生物階の移動はとっくにやってしまっていたことだろう。

 後先考えずに行動する前に、恒に止められてほっとした。


「ここは一番安全なのかもしれない。特務省も、これでは近づけないしね」


 フラーレンに触れられる恒ですら、レイアのいる次元にたどり着くことができなかったのだ。

 恒が見つけたのは彼女の思念だけで、その実体には指一本触れていない。

 恒は、荻号の結界が破れない限り、この場所からレイアがいなくなることはないと判断した。いま、特務省といえど彼女を脅かすものではない。

 ほんの少しの間なら、彼女は大丈夫だ。

 ファティナのサポートによって、荻号は特務省相手に長時間もちこたえることができるだろう。

 一度神階に戻ろう、恒は様々なしがらみに板挟みになりながらも決断した。

 遼生を神階に戻して医神 紺上に最後の望みを託し、またこの場所に戻ってくる。

 急がなければならなかった。

 こうしている間にも、遼生の命は刻一刻と潰えてゆく。

 ファティナとの約束もある。そろそろ恒の仕掛けた薬が精製され、カラムから最後の一滴が落ちるころだ。


「ここで待っていて。すぐ戻るから」


 そっけなくも思える一言を残し、恒はレイアを置いて振り返りもせず、フラーレンを素手で押しのけて結界の外に出ていった。

 レイアは彼を引き留めない。

 彼にはここを離れなければならない理由があるからだ。

 どうか、気をつけて……レイアは去りゆく彼の背中にそっと伝えた。



 特務省内、第三開口部沿いの24区画は騒然としていた。


 厚さ2mの天訣鋼製の防災壁の中央が熱によってマグマだまりのように赤く煮え立ち、さらには泡となって溶け床一面を赤褐色の溶鋼で押し流す。

 特務省要塞内には侵入者を知らせる低いサイレンが鳴り響き、通路を繋ぐ防災シャッターを次々と閉鎖させてもものともせず、神の名を穢す一振りの伝説の巨槍を手に、それらにいとも簡単に風穴を開け突き進んでくるたったひとりの小柄な女の逆襲に遭っている。

 不敵な笑みの下に隠された残虐性を本能的に感じ取った特務省職員達は気圧され、たじろぐものもいる。

 ただし、女の正体はその場に駆けつけた誰しもが周知のところだ。


「解階の女皇が、何故単身特務省に乗り込んでくる」

「おのれ血迷ったか……! 何が目的だ」


 アルシエルは背を向けたものには興味がないが、立ち向かってくる者は徹底的に潰す。

 アルシエルとの攻防の最前線にある彼ら特務省職員たちにはこれといってアルシエルに乗り込んでこられて一方的に襲われる心当たりがなく、大混乱に陥っていた。

 アルシエルは不可侵の聖典の防御能を用いてフィジカルギャップと同機能を果たす紅い亀甲状のシールドを張り巡らせ、神々の渾身の攻撃が彼女に届かない。


「問答無用に仕掛けてきたばかりか、あまつさえ子供に一方的殺戮を加えたのは其方だろうに、汝らが愚策を嘆けよ。責任者は何処にいる。案内する気がないなら、自ら捜すまでだが?」


 行きずりに会い殺された少年の復讐を胸に、アルシエルの顔に暗い影がさすが、彼女は遼生の弔い合戦に来たのではなく、風岳村の破壊とレイアの強奪を阻止するために攻め込んできた。

 アルシエルの宣戦布告と総攻撃の無力に及び腰になる下級職員がいる一方で、アルシエルの名声を知らない一部の、果敢に挑もうとする世間知らずもいる。


「穢らわしい解階の魔女風情が」

「我らも随分と安く見積もられたものだ!」


 特務省職員は威勢よく口々に彼女を罵ると、ときの声をあげ神具を抜き、たったひとりのアルシエルに数十柱がかりで一斉に襲い掛かった。


 アルシエルはほの暗い微笑を浮かべると、グングニルを揮い応じる。

 弧を描いて特務省職員をその風圧のみで吹き飛ばし床に叩きつける。

 神体が潰される形容しがたい音がする。

 理由もなく命まではとらないが、暫く動きを封じるほどには痛めつけなければならない。

 彼女が巨槍で一薙ぎすれば、したたかに打ちのめされた数十の神々が襤褸雑巾のように宙を舞い、大声をあげる。

 女帝の暴力の前に、神具での小細工は通用しないのだ。

 実力で叶わないとみるや特務省職員は集中砲火を浴びせるようにアルシエルに向けてマインドイレースやマインドコントロールを方々から放ってくるが、アルシエルの回避するスピードが速すぎるためか、術が成立しない。

 彼女は神々の歯噛みする様子を悠々と見下ろし、再び攻撃を加えようとした神の手をピンヒールでにじり、踏みつけながらご満悦だ。


「よせばよいのに。小物ほどよく吼えるものというが、のう……」

「アルシエル・ジャンセンにその体たらくとは特務省の名折れよの」

「貴方達は控えていなさい」


 しわがれた老人の皮肉と、澄んだ女の一声がして、職員達の中から彼らとは異なるいでたちの老神と若い女神が歩み出てきた。

 危機管理局局長、容 山莱(ロン=シャンライ)と、総務局長エレオノーレ・クラウゼヴィッツ。

 ……アルシエルひとりに局長クラス二柱のお出ましだ。

 容は豊かな白髭をたくわえ腰の曲がった東洋由来の小柄な老神で、道教の道士にも似た東洋風の白装束を着用している。

 腰まで伸びた雪のような白髪と、胸部にまで達した白髭に顔が隠されて表情は見えない。

 老神は銀色の内行花文鏡型の神具を携えていた。

 エレオノーラは銀髪碧眼の凛々しい女神で、柄に美しい装飾のついた両手剣のバスタードソードを握りしめての登場だ。

 彼女のいでたちは戦神のようで、白銀の鎧に身を固めている。

 鞘から抜いた大剣が虹色の光跡を纏っていることから、アルシエルにとってそれなりに厄介な神具だと容易に推測できる。


「ふん、歯ごたえがありそうだな」

「老いぼれを相手に、何を申すかと思えば野蛮な」


 容はアルシエルとの戦闘に気乗りしない様子で曲がった腰をさする、いかにもといったご老体だ。

 誰がこの老神を危機管理局長にしたのか、老神の手も借りたいとは余程の神材不足……そういうわけでもあるまい。

 エレオノーラと同じく、容もかなりの実力者とみるのが妥当だ。


「安心しろ。此方も汝の倍は生きておる老いぼれでな」


  その遺伝的優越性により殆ど老いず数千年を生きるアルシエルは自嘲気味にそう述べると、敵意を剥き出しに不可侵の聖典を呼び出した。


「それでしたら、其方のご老体には引導を渡して差し上げなければ」


 エレオノーラはアルシエルを挑発してバスタードソードを斜に構えなおし応じると、それは神剣の風格を見せ付けるかのようにひときわ明るく輝きを放つ。

 エレオノーラは柄から先端へと指先で刀身を撫で、十分にアトモスフィアを込めて鍛えると、アルシエルに挑みかかってきた。

 彼女の大剣が上段から放った一閃は、アルシエルが展開していた防壁を事もなく切裂き、迸る閃光がアルシエルの左太腿を切りつけた。

 さらに間髪いれず足元から切り込んで刃を跳ね上げてくる。

 不覚をとったアルシエルは宙返りをうつと、真っ逆さまに天井を数歩蹴って跳び下がる。


 虹の剣を意味するエレオノーラの大剣型神具“REGENBOGEN”は半透形状に励起され、物理化学的障害をものともせず透過し、生あるものをのみ標的として傷つける。

 REGENBOGENによってつけられた刀傷の周囲から、アルシエルの太腿が消えかけている。

 エレオノーラはすました顔でアルシエルの反応をうかがった。

 血のように赤い唇に、感情のこもらない冷たい微笑を浮かべる。

 彼女にとっては何百年ぶりになるともしれぬ久々の戦闘を、心より愉しんでいるかのようだ。


「……存外、冷静なのですね。早々に降伏しなければ、五体満足ではいられませんよ、久々なので手加減もできないのです」

「威勢の良い小娘にとっては、高い勉強料になるぞ」


 落ち着いた口調で受け流すと、アルシエルははらりと聖典の一頁に手をはさんで手繰り、千切り取った。

 手にとった一片の聖典はしゅるしゅると細長くしなやかに伸展する。

 彼女は包帯のように太腿に手際よく巻きつけ応急処置を行った。

 彼女が執った処置は、局部生体時間の停止。

 足一本もってゆかれる前に症状の進行を食い止めればどうということもない。


「エレオノーラ、様子見はよせ」


 容は何か不穏な空気を感じ取ったのか、アルシエルを侮るエレオノーラに警告を飛ばす。

 一撃目はわざと致命傷を外し、相手の反応をみていたぶるのは彼女の悪い癖だが、仕掛けるならば最初に一刀両断にしておくべきだった。

 エレオノーラは何がいけなかったのか、理解できていない様子だ。


「成程感心しました。次は首を断ちます」


 しかしエレオノーラが態度を改める前に、不可侵の聖典は開かれている。

 容は内向きに持っていた内行花文鏡、“虚空傲(xu kong ao)”をさらりと表に返してグングニルを鏡面の中に捕らえると、グングニルがアルシエルの手から忽然と消えた。

 アルシエルが驚いて虚空傲に注目すると、実世界ではグングニルが奪われているにもかかわらず、鏡に映り込んだアルシエルの手にはまだグングニルが握られたままだ。


 何と奇妙な神具であることか……、鏡に映したもののみを異世界に転移させてしまう代物らしい。

 恐らくは、亜空間と素量子鏡をフリップに繋ぎ、鏡で写し取ることによって一つの既定状態を定め、量子もつれの原理を利用して物体を亜空間に転移させているのだろう。

 Gungnirを奪われては、アルシエルは素手で戦うほかなくなる。つ……と容は虚空傲を滑らせ、さらに不可侵の聖典を捉えようとしている。

 いや、……その認識はなお甘かった。

 容の狙いはツールを奪い取ることではない。

 容は数歩あとずさり、鏡面の中にアルシエルの全身が映りこむよう距離をとっている。

 アルシエル自身を鏡の中に引き摺り込もうと狙いすましているのだとしたら――。


 神とやりあうのは好きではない。

 アルシエルはつくづくそう思った。

 彼らは猫も杓子もこぞって神具を用いるかわりに極度の肉弾戦アレルギーのようなものがあって、彼らの実力のなさを神具の性能でカバーしようと躍起になる。

 力対力の生身の勝負では決して神々に遅れをとらぬアルシエルといえど、神具の性能が初見では分からず不覚をとられることがあり、それが丁度今の状態だというわけだ。

 アルシエルにとってあくまでもツールとは戦闘の補助的な道具でしかない。

 荻号に関しては神具なしでも幾多の戦術を持ち、実力も十分に伴っているので批判するつもりはないが、彼らは実力はさておき神具に頼り切っているふしがあり、逃げ腰の姿勢がアルシエルには気に入らない。

 アルシエルは不可侵の聖典を縮小してポケットの中におさめた。

 これで不可侵の聖典を奪われる心配はなくなったが、素手での戦闘を余儀なくされる。


「その判断は、あまり賢明ではないと思われますよ」


 エレオノーラがまさに丸腰のアルシエルに襲いかかろうとしたとき、彼女を取り巻くように背後にいた職員達が一斉に床に倒れ伏し、息の根を止められ、アトモスフィアもぷっつりと途絶えてしまった。

 特務省の精鋭たちが一瞬にして葬り去れられるこのありさま、尋常ではない。

 何が起こっている? エレオノーラと容は対峙するアルシエルの存在も忘れて未知の敵に振り返る。正体は見えない。

 何事かと思う前に、不穏な気配だけが忍び寄ってくる。


「何者だ――!」


 エレオノーラもそう叫んだきり、容とともにぐしゃりと床にくずおれ沈黙した。

 何十柱もの神々の命を瞬時に奪った目に見えぬ虐殺者の気配はなおも近づいてくる……次はアルシエルの番だ。

 アルシエルはあることを見抜くと、先ほど手の内に折り込んでいた不可侵の聖典の1ページを気配に向かって投げつけた。

 すると不可侵の聖典は見えない壁に衝突して空中で炎上し、空間に亀裂が走る。

 蜃気楼の中からどこからともなく、褐色の肌の大柄な青年神が歩み寄ってくるのが見えた。

 彼は漆黒の長衣を纏い、青黒く輝く巨鎌を担ぎ珠帯を腰に巻いている。

 その象徴的な立ち姿は、アルシエルでなくとも死神だと察知するだろう。

 なにより、彼はアルシエルのよく知った死の気配を連れてきた。

 彼はアルシエルの姿とみとめると大げさに目をむき、咥え煙管の煙を静かに吐ききった。


「さすが。よくわかったな」

「……」


 アルシエルは無言で死神を睨みつけた。

 死神もまた、アルシエルがこの場所に居合わせていることに驚いている様子だ。


「見ない顔だと思いきや……何であんたがいる? アルシエル・ジャンセン」

「こちらも聞きたい事がある。汝は何故同族を殺す」


 アルシエルは身構えながらそう述べた。

 姿を隠して平然と、神々を無差別に暗殺する。


「それを何で、あんたに説明せにゃならん」


 織図 継嗣はアルシエルを歯牙にもかけない。

 神々のバイタルコードを手に入れた織図はその気になれば神々の命など人のそれと同じように扱うことも容易かった。


「我は除外でよいのか」

「除外したつもりはないが、あんたのバイタルコードがわからんのだ」


 たまたまアルシエルのバイタルコードがなかったので、虐殺が適用されなかったというだけだ。

 もしアルシエルのバイタルコードが割れていて、彼のリストに上っていれば何の問題もなく殺害されただろう。

 アルシエルが隣の部屋の扉を開くと、アルシエルが先ほどしとめ損なって逃げた特務省職員たちが折り重なるように倒れている。

 外傷などは一切なく、だがアトモスフィアが断たれていることから、織図の仕業だとわかる。


「そんなに死にたいなら、ついでに死んどくか?」


 織図は笑えない冗談を言うので、アルシエルは媚もせず断った。


「結構だ」

「あっそ。じゃ、早くここを出るんだな」


 黒い霧となって去ってゆく死神を見送りながら、彼がどうするつもりなのかアルシエルには分かった。

 久々に味わった気配。

 あれは殺気だ。

 それも、彼の殺意はこの艦内にあるものすべてを皆殺しにするほどの。



 かくしてバンダル・ワラカと荻号 正鵠、二大巨頭の初対談はわずか数分で決裂に終わった。


「フラーレンを解くには汝を排除するよりほかなさそうだ」


 バンダルは立体パソコンの電源を落としおもむろに席を立つ。

 大柄なバンダルにこころゆくまで見下ろされながら荻号はやれやれ、という顔をしてみせた。バンダルに睨まれると誰でも竦みあがるものだが、荻号はふてぶてしく、こたえもしない。

 特務省の中枢部への侵入者がありながら駆けつける部下もおらず、王墓の中のようにわずかばかりの照明だけが灯り、周囲は寒々しく静まり返っていた。

 中枢部は部屋面積としてかなりの広さがあるとはいえ、ここでバンダルとやり合うとなると手狭だ。

 暗く冷え切った室内を思わせぶりに見渡し、荻号は皮肉っぽく嗤った。


「まさかここでやるのか?」

「まさか」


 バンダルは特務省を破壊されたくないし、荻号は特務省を村に墜落させたくないという両者の利害が一致したようなので、バンダルがドン、と机に平手をたたきつけると、荻号とバンダルは宇宙空間に転移していた。

 転移は巻き込む相手に触れなければならないものだが、バンダルが使ったのは非接触転移のテクニックだ。

 重力異常のあおりを喰らって目下のところ生物階で転移術は使えずとも、ファティナの空間では正常な空間法則を保っていられるので、片道切符の転移が出来たのだ。


“ここは……”


 身を切るような寒冷地獄の真空に浴し、涼しげに辺りを見渡す。

 神々が真空にエントリーするための過程は3ステップで行われる。

 まず、肺に残った空気の膨張を防ぐためただちに息を吐き、次に、アトモスフィアをよりタイトに纏い宇宙放射線から身を守ると同時に体表面からの体液と熱蒸発を抑え、最後に無酸素呼吸に切り替える。

 アトモスフィアは人間でいうところの宇宙服の役割を果たし、したがって、酸素存在下環境よりアトモスフィアを5倍も過剰に産生しなければならず、これが5倍の老化に繋がる。

 また、アトモスフィアは真空中では層構造を形成することができず、フィジカルギャップは自動的に消失する。

 すなわち物理的衝撃は100%の出力で相手の肉体に届く。

 宇宙空間に出るのは久々であるが、いつも変わらない-273℃に限りなく近い外気温に、身が締まる思いだ。


“宇宙の運行を司る闇神ならば、馴染みのある場所だろうに”


 バンダルは荻号を試している。

 ここがどこか当ててみろというのだ。

 荻号からしてみれば、そんなことを試されるのも心外だ。


“というか生物階からかなり近くないか? α Piscis Austrini (フォーマルハウト)が見えるんだが”


 昔とった杵柄というまでもなく荻号は宇宙地図を丸暗記しており、宇宙の果てに放り出されてもそこがどこなのか分かるが、地球から25 ± 0.1 光年しか離れていないとなるとここで一戦はじめるには生物階への影響が大きすぎる。

 生物階に近い場所を選んだのも、バンダルが戻ることができる距離にしたというのが本音だろう。

 とくにフォーマルハウトは地上でも鮮明に観測されている天体だけに、人々がロマンをもって見上げるみなみのうお座の、魚の口の部分を消してしまうのはしのびない。

 しかし、もはや地上に残ってすらいない生物階の天文ファンががっかりするかどうかなど、バンダルが知った事ではないというのもまた確かだ。

 バンダルが障害物の何もないと思われる基空間に二者間転移をかけなかったのは、生物階の物理法則が揺らいでいるなかで、基空間がどうなっているか想像もつかなかったからだろう。

 ひょっとすると、基空間そのものが消失してしまっているかもしれない。

 バンダルの慎重さを評価すべきだが、この場でも依然として空間法則は狂ってしまっている。


“どうやって戻るつもりだ”

“汝には帰りの心配は無用だ”


 バンダルは間接的に、荻号を確実に殺すと宣言した。

 神階の意向を一切受け付けないほどにバンダルの権限は強く、荻号は何の権限も持たない堕神だ。

 バンダルが邪魔だと見做せば、彼が織図をそうしたように徹底的に排除される。

 ではこちらも遠慮はいらないんだな、荻号は心得る。

 バンダルはおもむろに中空に、全ての指に指輪の填められた褐色の右手を掲げると、基空間を引き裂いて神具を呼び出した。

 神具を呼び出すということは、肉弾戦を経ず一気に決着をつけることを意味する。

 荻号は呼応するようにシザーケースからフラーレンを抜きながら、バンダルがまさに手にしたものに注意深く目を凝らしていた。

 彼の携えた神具はCDほどの直径の、銀色をした1枚の薄いディスクだ。

 円盤の真ん中にはCDのように小さな穴が開いている。


 これはやばそうだ、と荻号は苦笑した。

 こういう一見してその機能を類推できない型の神具は概して手に負えないものであることが多い。

 キワモノに対してはキワモノ、つまり相転星で迎え撃つのが正しい戦術だが……。

 バンダルも同じ事を感じているのか、荻号が相転星を使わないことに苦言を呈した。


“相転星は使わんのか。後悔するぞ”


 INVISIBLEの遺物、相転星は超神具の頂点であり三階髄一の使い手である荻号が相転星を手にしている限り敗北などありえないが、壊れて使えないのが実情だ。

 バンダルは荻号にディスクの表裏をよく見せびらかして、両手で合掌してディスクを挟み込んだ。

 彼は両手をゆっくりとスライドさせてゆく。

 1枚であったディスクは2枚に……黒いディスクと銀色のディスクになっていた。

 元々黒のディスクはなかったから、バンダルが隠し持っていたか、もしくはディスクが分裂したということなのだろう。

 彼は緩慢な動作でディスクを真空中に放り投げる。

 バンダルの手から放たれたディスクは虹色のプリズムを呈した後、微粒子となりさらに微細に分解されてゆく。

 荻号は目を見張りながらも、フラーレンを周囲に展開して準備を整える。


“ה י ב ו מ ך ה±”

(HARMONICS±)


 ディスクに解離性意思伝播に乗せたヘブライ語で捻じ込まれた起動コマンドワードから類推し荻号が知り得たのは、あの薄っぺらな一枚のディスクが、英語でいうところのHARMONICS±という名だということだ。

 特務省が所有してきた超神具は神階には公表されていないので、ה י ב ו מ ך ה±が以前からあったものかどうかさえ分からない。

 たしか比企がHarmonicハーモニック Scalpelスカルペルという超音波メスを懐柔扇に仕込んで治療用に利用していたが、名前は似ていてもどう見ても電気メスの係累ではないことは一目瞭然だ。

 また、ה י ב ו מ ך ה±の製造年が分かったところで、その性能は厳重に秘匿されていることは明白だった。

 荻号のマインドギャップは81層もあるので本来ならばバンダルのマインドギャップは破れるのだが、フードの下に何か仕込んでいるようで看破できない。


 バンダルがה י ב ו מ ך ה±と呼んだ銀色の薄いディスクは真空中で蒸発するように分解され闇の中に溶け込む。

 真空からどろりと、滲みだしてきたのは粘性のある不定形の液体だ。

 黒いアメーバのようであった造形は次第に鮮明となり人影を映じ、荻号自身のようにもみえはじめた。

 荻号の容姿を、完全にコピーされているのか……?


 肉体を忠実に再現できる方法は共存在しかありえないので、強い幻覚を見せられていると考えるとしっくりくるのだが……しかし、アトモスフィアまで荻号のそれと同一である、からくりがわからない。

 HARMONICS±は荻号の本体と緊密に同調しているのか、髪の毛一本一本、聖衣の質感等に至るまで微細に再現してゆくが、再現された像は全て鏡像だ。

 つまり、荻号が右体側に帯びたシザーケースは分身では左体側となっているし、右手に巻きつけた制紐とアクセサリーも分身は左手首に巻いている。

 荻号はのけぞりながらも自然と、分身の手もとに注目した。

 そうでなければいいと思ったが……分身はシザーケースの中からフラーレンを抜いた。

 そこまで、行き届いているのか。

 かたく瞼を閉ざしていた分身はかっと目を見開き覚醒するなり、掌を翻し虚実のフラーレンを完全な作法で捌いてゆく。

 その指先は一枚一枚を独立して認識し、アトモスフィアで通じ異なるコマンドを与えながらとるべき軌道を呪符に刻み込むと、眼状紋を模したフラーレンの古代神語によって編まれた幾何学模様が変化する。

 呪符の裏側の質感を確認するように爪で弾き励起する……荻号が気付かなかった些細な癖にいたるまで、完全といっていいほどにコピーされている。


 フラーレンの本質は360枚の呪符が四次元上に取りうる無限の陣形に一つ一つの業を対応させ、アウトプットを可能とした。

 なかでも呪符間の結合距離を短く設定した完全なるフラーレン C60の構成は、一枚一枚のフラーレンの猛烈な反発力を抑え付けることのできる荻号にしかなしえない。

 ボッと、緋色雪洞の骨格が編まれ闇の中で幻想的に浮かび上がった。

 彼の分身はいま、60枚のフラーレンでかなり短距離である結合距離6000mmを設定し、左手に3重円の布陣、POLARIS(極星座)を造り突っ込んできた。

 POLARISの中央部分、活性中心に磁束を閉じ込め生体分子の磁気結合をことごとく崩壊させるため、生身で触れることは致命的だ。

 しかし荻号は若干微笑みつつ、フラーレンの真贋を確かめるために、袖をまくり右手を真っ直ぐ伸ばす。


 むしろそれは好都合なのだ。

 その業が本物を忠実に模しているのだとすれば、荻号がPOLARISに触れる前に陣形ごと呪符を掠め取り、彼のものとしたうえで、さらに60枚を上乗せしてPOLARIZATION AXIS(分極座)として分身を磁性トラップの中で爆破させることができる。

 ちょうど枚数が足りていなかったところだ……POLARISごと奪い取ってやる。

 荻号がそう決心したとき、分身はPOLARISを下げ急加速し、準光速に乗って体ごと体当たりをしてきた。

 荻号はPOLARISを避けるために体軸を左に捩じる。

 破壊力を考えれば、何故、POLARISを使わずに体当たりなどするのだろう……そんな疑問を抱いた直後、想像だにしていなかった衝撃に見舞われる。

 単純に身体が衝突したという、生半可なものではなかった。


 それは、1万2千年の長きを生きる荻号が生涯初めて知った感触だ。


“……!”


 分身との衝突の瞬間、荻号の右腕は強く迸る閃光を撒き散らし付け根から消え去った。

 もぎ取られたという感触ではなく、跡形もなく消されてしまったのだ。

 単なる負傷ではないのだという証拠に、直後襲い来るはずの痛覚が微塵もない。

 だからといって幻覚でもない。

 腕の感覚は紛れもなく消失している。


 完全なる肉体の消失……。

 衝突の瞬間、エネルギーを放出し質量が消えた。

 荻号と衝突したのは分身の左腕の部分であり、分身の左腕もきれいに消滅している。

 ה י ב ו מ ך ה、これは……ただのコピー人形ではない。

 この神具の本質を理解しなければ負ける。

 荻号と分身の衝突した部位だけがあとかたもなく消えてしまう怪現象。

 片腕を代償に、荻号は考えを巡らせた。

 平時であっても危急であっても彼の思考回路はひややかに冴え渡っている。

 荻号はシザーケースから秒針のない古い懐中時計“Un enregistreur(記述計)”を取り出し、文字盤にすばやく視線を落とす。

 記述計は直近の攻撃によって生じたエネルギーに対応する目盛りを文字盤に影として映じる。

 懐中時計は直前の攻撃による熱量の放散を観測しており、また、敵性体の所持する潜在熱量、そして荻号の熱量を表示している。


 この消滅のパターン……フラーレンの何がしかの業の駆動によるものではない。

 懐中時計に記録された熱量の総和を読み解く。

 分身が掲げていたPOLARISは荻号に真正面からの攻撃を避けさせないためにフラーレンを使った囮だったのだ。

 バンダルの放った神具の名はה י ב ו מ ך ה±。

 神具の名は態を示す。

 ±ということはあの分身全てが、対称粒子対零化体(The Sabstance of Supersymmetrical Particle Annihilator)、いや、もっと端的に言うと――何だ?


  反物質か?


  ある物質を構成する正粒子と、スピンと質量がまったく同一であるが、電荷、陽子、中性子、クォークなど素粒子の構成がまったく逆の性質を持ち、反電子(+)、反陽子、反中性子、反クォークから構成されるとき、その物質は反物質であるという。

 物質と反物質が衝突するとき、対消滅を起こし質量がエネルギーとなって放散される。

 理論的には荻号の腕1本分……3x10^16 Jジュールものエネルギーがあの一瞬の間に放出されたということになる。

 一気に神具の実体が明らかになってきた。

 ה י ב ו מ ך ה±は薄っぺらなディスクであるが、攻撃対象をスキャンし反物質を作り本体と衝突させ対消滅を起こさせる。

 ה י ב ו מ ך ה±で創り上げられた分身は決してバンダルを攻撃しない。

 なぜならコピー対となっていなければ、完全なる対消滅を起こさないからだ。


“これは……”


 うかうかしてはいられない。

 荻号は久々に身に迫るぞくぞくとした危機を覚った。

 そんなことがあるなど思ったこともなかったが、バンダルを相手にするにはフラーレンの枚数が足りないようだ。

 今現在荻号が使えるフラーレンはわずかに120枚しかなく、分身から奪い取るにも分身との接近を強いられリスクが大きい。

 荻号の手持ちのフラーレンでC60を編むと2回が精一杯といったところだ……それでも荻号は一束のフラーレンを掻き取ると、分身ではなくバンダルに向かって叩きつけた。

 彼に残された片腕でスラッシュを描くよう斜に振り上げると、呪符は残像を残して一直線に急加速する。

 それらは荻号の意図した通り放物線上に積層しバンダルに対峙すると、無限大を模した8メートル径のリングを成す。

 荻号は触媒となる黒いアンプルを爪先で割ってフラーレンのリングの中に投げ込み、飛び散った触媒はフラーレンを黒い液滴で染め上げる。


“・ at 1/0 ”

(point at infinity: 無限遠点)


  宇宙空間に配座された無限大状のリングは、内奥より巨筒状の超熱波を吐き出す。

 X軸、Y軸において0、Z軸において無限大の射程は、距離にして数光年、どこまでも宇宙を真一文字に無限遠点の渦の中に飲み干し、熱波の白刃が闇を直線に切り裂いてゆく。

 荻号の力の真髄を世々に知らしめる強烈な無音の砲撃はバンダルを襲い、それが恒星であろうと彗星であろうと、ブラックホールに突き当たらない限り、“・ at 1/0 ”の陣形延長線上にあるあらゆる宇宙の構成物を分解つくし無へと還元する。

 この瞬間に荻号が放出した熱量は太陽エネルギーの何十倍にも匹敵する。

 直径8メートルに射程を絞ったことによって、熱量の超凝縮を可能とした。


 周囲の環境破壊に配慮し控えめに限局された攻撃でも周囲数千kmの視界は完全にゼロとなったが、アトモスフィアを探る限り直近からこの直撃をくらったはずのバンダルが何故かもちこたえているのが覗える。

 熱遮断ローブか? いや、ローブにも耐熱限界がある。

 なにしろ核融合をともない、ニュートリノすら分解される9000万度の熱波だ、断じてそれだけでは防げない。

 光条が完全に過ぎ去って荻号の視界が回復すると、バンダルの前には人影がある。


 ה י ב ו מ ך הの分身だ。

 バンダルを守るように立ちはだかっている。

 バンダルは動揺すらしておらず、冷ややかに観戦している。

 あくまでもバンダルは荻号とその分身の潰しあいに終始させるつもりだ。

 そして分身がフラーレンの結合によってバンダルと分身の周囲に展開しているのはRegular hexadecachoron (正十六胞体)、四次元正軸体だ。

 この構造の内部に避難している限り、外部環境は彼らから遮断される。

 熱伝導率の異なる空間の層をつくり、核連鎖反応を妨害していたのだ。

 なるほど、荻号の攻撃をしのぐことができるのは、荻号だけだ。


 バンダルは荻号と戦うつもりがない。

 INVISIBLEを除いて最も戦闘を回避したい相手はバンダルではなく自分自身だ――、と荻号は思う。

 荻号は一度もフラーレンと相転星の業の威力を体感したことがなく、本気で挑む自らの真価は、実にそのままの意味で未知数だ。

 したがって、正面からフラーレンの攻撃を受けとめる、あるいは受け流す方法も知らない。

 分身は片腕にもかかわらず、滑らせるようにさらなるフラーレンを操り大きく片腕で二重円を描く。

 空気のない真空の空間に、分身の掌を中心に巨大な波紋が現れ……歪んでいるのは空気ではない。

 空間だ。

 荻号は目を見張った。


“次元開闢だと!?”


 反物質で構成された分身が操る空間は正の空間ではなく負の空間。

 幾何学上の4次元目の空間軸を開放したことにより、呪符と呪符の間を結んでいたレーザーの波長が紅色から紫色へとシフトする。

 ――そうか。

 荻号と同じことができるのなら、幾何高次元を操ることができるというわけだ。

 神具の縛りなく空間を翻弄すること、それはアルティメイト・オブ・ノーボディから彼の器たる荻号に与えられていた特権的能力――それをも、コピーしたというわけか。

 正十六胞体を4次元に投影した結果、呪符は互いに破ることも穴をあけることもなく重なり、直交し、すりぬけながら移動する。

 この陣形が意味するものを、荻号は知っている。

 4次元目を開闢することにより、早い話が、もはや何でもありになってしまう。

 だから、そう――たとえば指一本触れずに荻号の体内に励起された呪符を置いてきて、体内で暴発させることだってできるのだ。

 分身はすっと、指先を狙い済まして荻号に向けた。

 ああ、案の定だ。

 攻撃対象の座標を入力している。3秒後、座標は固定された。

 荻号の体内深くへと、抜けない鋲を抉り込むように。


“……跳躍符(קפץ)、くるか”


 対躯跳躍コマンドを与えられた呪符は音もなく空間をスキップし、荻号の体内にすっと静かに埋め込まれた。

 熱い異物が体表に傷一つ入れず侵入してきた違和感、そして左胸へ突き刺さる鋭い痛覚。

 さらに分身は正十六胞体の立体構造の内部に向けて、エネルギーの収斂を開始している。

 蓄えられた熱量は正十六胞体の中枢に圧縮され、要となる一枚の呪符を足場に、荻号の体内に埋め込まれたקפץと呼ばれる一枚に転送され体内で炸裂するだろう。


 ノーボディの寵児たる荻号は小規模な空間開闢を可能とするが、自身をそこに巻き込むことはできない。

 周囲の環境を局所4次元空間に巻き込むことはできても、自身を4次元空間に置くことはできないのだ。

 理由は至極簡単。

 たとえば幾何学的4次元空間にある球体を、荻号は穴を開けずに裏にひっくり返すことができる。


 閉じられた袋に入ったものを、穴をあけずにひっくり返して取り出すこと……これができるならば、荻号の体内に埋め込まれたフラーレンを、荻号自身を4次元空間に置くことによって体外に取り出すことも、確かに理論的には、可能だ。

 しかし荻号の神体を裏表にひっくり返す必要があって、それを実行した瞬間にフラーレンとともに臓器、血液、体液が宇宙空間に抉り出され、神体が生存に必要な構造を維持できなくなり、死に至る――という意味だ。

 徐々に戦闘の選択肢が狭まり、いつの間にか分身に自由を縛られている。


 正しい選択肢はただ一つ。

 慎刀で左胸部を自傷し、קפץを抉り出し、基空間の狭間に押し込んでקפץを完全に消滅させることだけだ。

 この攻撃の恐るべき点は、呪符が体内に埋め込まれているために共存在で死を逃れようとしても、共存在で創出した分身にも同じように呪符が仕込まれてしまう点だ。

 この場合、荻号は7回共存在を繰り返して7体の共存在分身となっても7体とも同時に死ぬ運命にある。

 もし、分身がקפץを使わなかったとしても、荻号が死を免れようと共存在を使えば分身も共存在を使う。

 単純だ。

 ה י ב ו מ ך ה±は完全に荻号と同調しているために、何度共存在を繰り返しても、荻号の神体と衝突して±0になるまで攻撃をやめない。

 だから右腕を失い、さらに胸を引き裂いて満身創痍となっても、קפץを取り出すのが正しいのだ。


 ה י ב ו מ ך ה±に知性はあるのか――。

 ないのだろうが、荻号ならばקפץは少なくとも敵に対しては絶対に使わない、あまりに裏読みに長け老練にすぎる一方的殺戮手段だ。

 実力に裏打ちされた暴力性を縛り付けてきた……倫理という箍を外せばこういう手段もありうるだろうが。

 いずれにせよ60秒後、荻号の体奥で核エネルギーが暴発するのは必至。

 退路を断たれた荻号は慎刀を抜き、自らの胸部を即座に刺し貫いた。

 失血と激痛に耐え、臆面もなく傷口から指を抉り込み、指先をフラーレンが発する熱によって溶かしつ、核弾頭と化した導火線を引き摺りだす。

 どっと血液が溢れ聖衣を赤黒く染め上げてゆくが、躊躇などしていられない。

 大量の血液とともに呪符は体外へと排出され、所有者である荻号の指に飼い馴らされて、紅色の呪符へと転化し鎮められる。

 そう……それこそが、この危機を打開するための最適解だ。


 それを見た分身はたじろぎもせず、再び座標入力の段階にたちかえった。

 荻号は些細な幸運に気づく。

 分身が胸から血を流している。

 荻号に同調し、さきほど荻号が自傷した傷が分身に再現されているのだ。

 勝手に消耗してくれるとは有難い。――ただ、ひとつ疑問が過ぎる。

 では先ほどまで、分身の体内にもフラーレンは埋め込まれていたのか?

 座標が入力されたのは……荻号の脳だ。

 荻号は呻いた。


“いかん、死ぬ”


 かくなるうえは1分以内にバンダルではなく分身を破壊するほかにない。

 分身は座標入力を続けている。

 再度フラーレンが脳に転送される前に、荻号は彼の記憶を複数の脳領域に細かく分散させて再配置し、どこに転送されても大ダメージを被らないよう先手を打つ、フラーレン一枚分の容積の損傷を受け入れる用意を整えた。

 ただし、脳細胞は保護できても、大神経は切られてしまうことは覚悟のうえだ。


 座標入力を終えた分身によって放たれ、脳に転送された呪符がプツン、といくつもの運動神経を分断した。

 転移先は脳下垂体から前頭連合野を引き裂いている……やはりアトモスフィアを封じるべく、高度中枢系をついてきた。

 脳領域の再配置という準備の甲斐あって、まだ荻号の思考能力は働く。

 ここが宇宙空間で助かった……もとより浮遊しているので地上より遥かに自由度がきくし、運動神経が切断されても全身筋を支える必要がない。

 アトモスフィアを司る、下垂体の位置もずらしていた……アトモスフィアはまだ自由になる。

 細く練ったアトモスフィアの糸を腕に、指先に、筋繊維の一本一本に通じ、自らをマリオネットのようにアトモスフィアで操りながら、弛緩してしまった腕をもたげる。


 荻号はそうしながらも、注意深く分身の頭部に目を凝らした――。

 見える、高エネルギー反応だ。

 荻号の脳にフラーレンが埋め込まれたと同時に、分身にもフラーレンは埋め込まれている。


 荻号はシザーケースからありったけのフラーレンを抜く。

 出し惜しみをしている余裕も時間もない。

 Regular icositetrachoron(正二十四胞体)の陣形を組み、胞体の表層を力の入らない指先で撫でる。

 脱力されていようがされていまいがフラーレンは荻号をこそ所有者と認識し、触れた瞬間から胞体を這う電子の蔦のように、円と直線で織り成す紫電の光条網が平面的にびっしりと被覆してゆく。

 太く強化されたラインより成る回路図は、超巨大質量をコンパクト化するための防壁という名の檻、4次元の球体、超球体(hypersphere)を呼び出すための外殻だ。

 荻号 正鵠の業が三次元に干渉し、次元を超越する。


 しかし――。

 最悪のタイミングで、静観を決め込んでいたバンダルが動きをみせた。


 ここに至るまでバンダルが分身に加勢しようともしなかった理由は単純だ。

 バンダルは荻号の7回の共存在体を同時に殺す方法を持たないが、対消滅を起こすה י ב ו מ ך ה±にはそれがたやすくできるため、バンダルが決着をつけるよりה י ב ו מ ך ה±にやらせた方が効率がよい。

 バンダルの淡白な性格上、戦闘の醍醐味云々はあまり重要ではないのだ。


 バンダルは白衣の下から、滑るように第二の神具を抜く。

 ゆったりとしたローブの下にいくつの神具が持ち込まれているのかはわからないが、取り出したものを見る限りではה י ב ו מ ך ה±と違い超神具として1万年以上前から周知のものだ。

 中東由来の神具は現代風に名づけると、“أحواز(MERGINAL:境界域)”とでも言うのだろうか。

 所有者の莫大なアトモスフィアを消費し青いレーザービームのような貧弱な光線に変換する、細く黒い柄をした華奢なレーザーポインター型のそれは一見荻号の持つ刃のない柄、慎刀と性能が類似しているかに見える。


 が、その程度の認識でいると致命的だ。

 この超神具は数万年前に生きたいにしえの死神の所有物だったとされるが、どのようなメカニズムでか、死神には許可されていない越権行為、人間や動物はおろか神のバイタルをコマンドレスで司ることを可能とする。

 疑問に思うまでもなく、No-bodyが戯れに造り死神に与えた代物なのだろう。


 ここが大問題なのだ。

 أحواز(The MERGINAL)の発するレーザー状の光跡が対象を囲んで円形、方形、多角形状に閉ざされたとき、その境界内部に包囲された者は囲まれた図形の形状に応じて精神を支配、解離、抹殺される。

 荻号が知るのは、أقفل/意識停止(□)تنفيذ حكم الإعدام /極刑執行(○)、انتزاع /意識破壊(▽)などだが、ひとたび発動されれば何人たりとも、この攻撃をしのぐことはできない。


 どの図形を喰らっても、命はない。

 The MERGINALから逃れる術は至極単純であり、決して光線に囲まれないことのみなのだが、今も業を組み上げている荻号は完全に無防備でその場から動けずにいる。

 バンダルがThe MERGINALをかざしأقفل/意識停止(□)の最初の一辺を描き始めるなり、荻号は逃れるようにフラーレンに命じた。


“Rij-1/2gijR=0”

(質量凝縮)


 荻号は限局的に4次元を開放し神出鬼没の高次元世界の球体を召喚し、3次元世界に降ろす。

 1cmにも満たない球体鋳型は驚異的なスピードで成長を続け直径5mに至りRegular icositetrachoron(正二十四胞体)の防壁に当たると成長は止まった。

 超球体はまさにこの時点より、見かけ上は膨張しないように見えるが、真空から現れて質量が注ぎ込まれ同じ体積を持ったまま4次元世界から質量のみがギリギリと圧縮されてゆく。

 流入してくる質量は太陽の20倍、30倍にものぼり……したがって超巨大質量の圧縮により胞体の内部で生じるのは、高次元ブラックホールだ。荻号は青銅色の瞳を見開いた。


“さあ……こい! もっと……もっとだ!”


 高次元ブラックホールが完成するまでに要する時間は、5秒とかからない。

 一方、分身が正十六胞体に高エネルギー充填、荻号の脳にエネルギー転送されるまでに要する時間は最短で18秒。

 分身の業かバンダルのأحواز(The MERGINAL)による囲い込みシーケンス、どちらが発動しても確実に殺されるが、荻号とて諦めたわけではない。

 4次元のブラックホールを呼び込みながら、荻号はアトモスフィアの糸を操り、フラーレン80枚で自身の周囲に3次元柱体の精緻な回路図を形成し防壁を成してゆく。

 荻号の存在する時空をずらしていなければ、荻号もまた4次元ブラックホールの中に取り込まれて圧殺されてしまう。

 圧倒的な実力に裏打ちされ泰然自若とした静かな駆け引きの末、4次元超球体の全容を正二十四胞体の檻から解放し、世界は4次元を体験する。


“Unloc……”

(解じ……)


 解除は、間に合わなかった。

 バンダルがأحوازで繰り出したأقفل/意識停止(□)の光線は一瞬速く綾になって、全方位から荻号に襲い掛かってきた。

 荻号は慎刀の柄でأحوازの光線を遮り、回路を遮断しようと足掻くが、幾重もの光線に囲い込まれては一振りの慎刀では力及ばず、意識停止コマンドによって意識を断たれてしまった。

 分身はすみやかに荻号の背後に回りこんで、荻号が防御用に創り上げていた3次元柱体の回路図を糸をほぐすように解き切り、防御壁を剥いで丸裸にする。

 分身は丁度荻号が意識を飛ばした姿勢と同じ姿勢をとると背後から勢いよく衝突し、53x10^4x9x10^13 Jの衝突エネルギーをその場に残すと、荻号の神体はわずか一素粒子も残さず±0となり対消滅して散り果てた。


 多少は、名残惜しくはあるが……他愛もない。

 燃え尽きた残光が去り、バンダルはそんな無感傷な感想をいだきながら、つと褐色の掌に視線を落とした。

 ה י ב ו מ ך ה±がディスクとなって戻ってこないことに気付いたからだ。

 いつもならば対消滅を起こしたのち、ה י ב ו מ ך ה±はバンダルの手に戻ってくる。

 それをケースにおさめ立ち去るだけだというのに、対消滅を起こした神具が手の内に戻ってこない。


“誤動作か。……戻れ”


 彼が誤動作を起こした神具に強制終了コマンドを発したとき、バンダルは起こるはずのない衝撃に打ちのめされた。

それは正二十四胞体の中に圧縮された4次元超球体が、開放された瞬間だった。

 なんと、Regular icositetrachoronの箍はひとりでに外れ、周囲のありとあらゆるものを暗黒のうちに呑み込もうと引き寄せはじめているではないか。

 制御者亡きあとコントロールを完全に失った超球体は4次元超大質量ブラックホール(4-D super massive black hall)となって、バンダルに襲い掛かる。


 このアーティフィカルに創り上げられたブラックホールは、3次元ブラックホールのように巨大星が自己重力崩壊によって極限まで質量圧縮され生じたものではないので、光すら捕捉する事象の地平面、いわゆるシュヴァルツシルト半径は通常、大質量ブラックホールでは銀河系規模にもなるものがわずかに5mと驚異的に小さく、3次元世界の物理法則を超越している。

 このブラックホールはサイズ的にはかなり小さく、質量に比例して大きくなるはずのシュヴァルツシルト半径も信じられないほど小さいが、巨大質量を4次元的に内包して、それらを遥かに凌駕する威力を持っている。

 4次元ブラックホール表面に事象の地平面(event horizon)が現れ、逃れえぬ速度と強大な重力によって貪食をはじめた。

 当然のことながらバンダルは、ブラックホールの見かけの大きさが小さかったためにさして威力はなかろうと見積もっていたが、完全に裏をかかれた形となった。


“な……に……”


 バンダルは事態をまったく理解できぬまま極小のシュヴァルツシルト半径に捕らえられた。

 まだ荻号の分身がいればこの絶対的拘束から逃れえたかもしれないが、既に対消滅で燃え尽きてしまった後ではどうしようもない。

 荒ぶる4次元ブラックホールを前に、バンダルといえど逃れるすべはなかった。

 バンダルの時間が無限に特異点へと落ち込んでゆくとともに精神活動も衰え、思考能力すら失われてゆく。

 彼の時間は遂に止められ、特異点の中で素粒子レベルにまで分解されてあっけなく息たえた。


 光を奪い尽くし闇のうちに呑み込んでゆくそのさまは、さながら闇神 荻号 正鵠の残留思念のようでもある。

 荻号 正鵠の残した災禍といってもよい遺産は確かに当初の目的に沿ってバンダルを屠ったが、ほどなく太陽系をも呑み込み始めるだろう。

 なにしろ4次元ブラックホールは銀河系の総質量を何百倍も上回っているのだから。

 質量はエネルギーと等価である。

 α Piscis Austrini (フォーマルハウト)が見えるほど近くでバンダルと戦闘を開始することに、荻号が躊躇していた理由はここにあった。

 荻号の業は、彼の制御を外れるといとも簡単に、銀河系をたちどころに虚無へと還元するほど、まさに神の成せる業といえるほどの威力を持っている。

 荻号 正鵠が、人々の信仰する古典的な唯一神の姿に最も近いといわれる所以である。

 しかし、その底知れぬ力のバランスがひとたび傾けば、三階に決定的な災禍を齎す。

 もはやINVISIBLEから生物階を守る、どころの話ではない。

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この回読むのは5回目くらいだけどめっちゃ面白い
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