第2節 第29話 11-dimensional habitat
織図の意識はEVEより神体に引き戻された。
ファントムダイヴの時間制限がきたのだ。
メファイストフェレスの衝撃的な一言により、もう少しでEVEの中で放心してしまうところだった。織図がファントムダイヴをしていた時間は現実世界の時間の5秒程度だったことだろう。
彼は脳死の危険を伴うファントムダイヴから無事生還できた感慨をかみ締めると同時に、死してなお三階を気遣うメファイストフェレスに感謝することを忘れなかった。
そして彼女の話によって、もっとマクロに……物事を捉えなおさなければならなくなった。
やたらと話のスケールがでかくなっていくな……これ以上のことがあるのかよ。
織図が自嘲ぎみにそう言ったとき、艦内に垂直方向の強い衝撃があった。
口の奥に苦い感覚が絶望とともに広がってゆく。
直後、思いがけぬ襲撃に慌てて飛び立つ甲虫のそれのように、特務省はふわりと浮揚した。
織図は混乱する視界でモニターを見る。
特務省の主砲が地上に閃光を吐き出したのをただ見過していたのだ。
智神の朽ちたエネルギーが特務省の動力として再分配され、断固として地上に粛清の炎を放った。
その衝撃であって、特務省が被弾したのではなかった。
「あいつらどうなった!?」
彼があいつらというのは、志帆梨に皐月、上島のことだ。
彼らをはじめ風岳村の村人達は無事なのか。
織図はさきほどウェットスーツのケーブルに仕込んでおいた回線を頸のジャックに挿し特務省の中枢系にジャックイン、外部カメラに視点を切り替える。
過負荷を伴うファントムダイヴの後に立て続けに行う無謀なアクセスだ。
脳に過大な負荷をかけながら解像度を上げる。
蓄えられた情報は脊索を通って脳裏に映じ、最悪の報せを受け入れる覚悟を決したが、予想した光景は映らなかった。
彼は暫し混乱しつつ、下に紅い結晶格子が1度の角度も狂わず見事に編まれている有様を驚嘆とともに観察した。
“フラーレン……荻号さんか?!”
灰色の世界に散りばめられた紅く巨大な格子はルビーのように美しくさえあり、血脈のように力強い。
安堵することもままならず、チリチリとひりつくような耳障りな機械音が織図の耳に触れた。音に誘われるようにゆっくりと背後を振り返る。
智神から再びエネルギーが取り出され、インジゲータの出力が上がってゆく。
連撃を繰り出すためのエネルギーが効率よく熱量として変換機に送られ圧縮されてゆく。
「ちょ……!?」
*
特務省は高度を上げたかと思えば、ぴたりと静止した。
フラーレンを展開して危機を回避したつもりが、一時凌ぎになりそうだ。
主砲には第二弾のエネルギーが充填されつつあり、第二の太陽にも似た光量が一箇所に収斂してゆくのが見える。
今度の攻撃の規模は第一弾の比ではない。
これはいかんな、と荻号は呻く。
フラーレンも熱力学第一法則から逃れることはできない以上、吸収しつくせる限界値というものはあって、連続で撃ち込まれると崩壊する。
それより何より超神具フラーレンが崩壊すると、そのポテンシャルエネルギーだけで地球の命運にかかわる。
彼は特務省に啖呵を切ったばかりのファティナに呼びかけた。
「おいそこの数学神。こっち側につくならこの一帯の物理法則を矯正してくれ。地に張り付いていては不利だ。Δ3(デルタスリー)ならできるだろ」
「お気づきにならないのですか? 再計算ならもう終わっていますよ」
ファティナは不敵な微笑を湛えΔδΔを噛み指輪を填めた10本の指を複雑に絡め、再計算結果を実世界に反映しつつあった。
彼女の勅令に随って天空に亀甲状の青いパネルが垂直方向に敷き詰められ、ドミノを倒すように壁を成し瞬時にして特務省の直下に立方体状の矯正空間を成してゆく。
バタバタバタと小気味のよい音が重力異常場の空間法則を矯正し、一時的にではあるが正しい法則へと置換したのだ。
仮想空間を構成したのではなく、実世界の物理法則を矯正する……ΔδΔを介して操るファティナのヘクスカリキュレーション・フィールドにはそれができた。
荻号はファティナの業の的確さと迅速な対応に感心する。
マセマティカの名を戴くだけのことはある、と。
「へえ……速いな。マージンは?」
「5km立方です」
「そのままフィールドを維持しててくれ、わり、頼むわ」
「え? そ、そんな! 私も……」
ファティナも参戦するつもりだったのだが、動くなと暗に言われていた。
業を維持しながら参戦できるほど彼女も器用ではない。
荻号の神具、フラーレンと相転星はいずれも前提として正常な物理法則を必要とし、また荻号自身も飛翔と転移術を封じられては受身とならざるをえない。
荻号が本来の実力を発揮するためにはファティナの下支えがどうしても必要だ。
ここは女房役に徹するべきなのか……。
「来るぞ!」
アルシエルが叫んだのは、先ほどからエネルギーが収斂していた主砲が火を噴いたからではなかった。
特務省の腹部が開き、フリースカイダイビングのように優雅なフォーメーションを取りながら数十名もの人影がばらばらと降ってくる。
「ついてくるなよ、いいな」
荻号は全員そこにいろと指示して強く地を蹴り振り返って、ついてゆきたくてうずうずしている遼生に金縛りをかけると軽々と空に舞い上がった。
ファティナが重力異常を矯正したことで飛翔術と転移術が回復し、彼のハンディキャップは取り除かれた。
空を飛ぶ感触を取り戻しながら両手を大きく拡げ風を捉えると、その身は空気のように軽い。
フラーレンの格子を連続的転移術ですり抜け結界のさらに上に浮遊する。
自身も緊縛術を使う遼生は緊縛解除のコツも知っていて、わずか数秒で破った。
荻号の使う緊縛術は神々の行使する一般的な緊縛術の範疇にとどまり、遼生オリジナルのそれより締まりが緩いのだ。
解除できたらついて行っていいものだと勘違いしている。
緊縛されなかったアルシエルは一足先に、不可侵の聖典を手に飛び立った。
「僕も行きます」
「だ、駄目です!! ふたりとも!」
ファティナが叫んだときには、彼らはもう飛び出していっていた。
危険だ! ファティナはアルシエルに叫んだ。
「いけません! フラーレンの結界はっ!」
それでも無理に通ろうとすれば、裏ごしされて肉片になってしまう。
荻号がアルシエルを緊縛しなかったのは、転移術の使えないアルシエルがどのみちフラーレンの結界を破ることも、すりぬけることもできないからだ。
彼女を参戦させてはならなかった。
何故なら彼女は荻号に伯仲するほどの実力を持つが、簡単に相手に看破されてしまう。
「な……!」
結界にグングニルで強引に風穴をあけて通ろうとしたとき、呪符と呪符の間でレーザー光のように赤色光の結合が起こり、グングニルの切っ先が光線に削がれてわずかに欠けた。
アルシエルはレーザーに切り刻まれないよう急ブレーキをかけ、あわやというところで速度を殺し急停止。
彼女の短いボブの髪の毛が、ジジッ……レーザーに焼かれはらりと散って落ちる。
焦げ臭い。なにごとかと確認すると、すぐ目の前に5cm角の赤い光の格子が形成され、彼女の行く手を憚っている。
少し距離をおくと格子のレーザー光は消失する。
彼女は不可侵の聖典の裏表紙に近い見開きのページを開き、フラーレンに向けて掲げ持つとグングニルの柄を踏みしめた。
「ふん、上等だ……焼きはらってくれる」
“Meckt-Las-Orea-Owka Ipstsa-Harmg-Septem-Ravasat-Empqx”
(赤と紫の衣を纏い 七頭十角の獣にのりてきたる)
“Ignofa-Estm-Caubrea Dullio-Mone-Tultis”
(罪悪の金の盃に満たされた 聖者の血に酔いしれるもの)
「な、なんですあれは!」
ファティナは不可侵の聖典の周囲百メートルに幾重にも現われては消える赤い煙のような幻を見上げた。
怨霊が湧き出してくるかのように、赤い浮遊体が幾重にも重なり絡まり渦をまいている。
それらの中から七つの頭と十の角のある怪物の姿が浮き上がってきた。
アルシエルのツールの威力はここまでのものなのか、と息を呑んだ。
女帝アルシエルの業はあまりに壮絶で印象深いため、過去、それを目にしたものによって聖書に黙示録として記録されたと聞く。
生物階西暦にして2~3世紀、かつて解階の大貴族がその全盛を迎えた頃、生物階にいくつもの私設ゲートを作り生物階を出入りしていた。
彼らは、極陽ジーザス・クライストの広めた初期キリスト教が人々の間に急速に広まりつつあることを、神階が生物階にて影響力を拡大しようとしている動きとみて快く思わず、キリスト教徒を殺害し無辜の人々を恐怖に貶めたばかりでなく、不当な大虐殺を行ったことがあった。
極陽ジーザスはこれを憂慮したが、解階の住民に遥かに劣る神々の力では解階の大貴族には到底及ばず、アルシエルに彼らの鎮圧を依頼したそうだ。
この騒動に責任を感じたアルシエルは生物階を訪れ直々に暴徒を粛清し、以後は門の出入りを制限し解階の生物階不介入の原則を徹底させた。
そのとき解階の大貴族を虐殺した不可侵の聖典とグングニルによって齎された地獄の光景を記したものが、ヨハネの黙示録だとされている。
黙示録のほとんどの部分はアルシエルの業の凄まじさを伝えていた。
魔王たる器。伝承にたがわぬ絶望的な規模だ。
“Mortes-Harlot-Wig El-Esso-Bligts-Karema…”
(穢れた霊と憎悪の炎 汝を灼く煙は世々かぎりなく…)
そしてアルシエルの前に立ち現れ、巨大な怪物に乗る豪奢なドレスを身にまとい盃を持った婦人の幻は何だ。
……まさか……黙示録になぞらえるなら、あの婦人が大淫婦バビロンなのか。
あまりにリアルな幻影は不可侵の聖典が見せている虚構なのだろうが、明らかに実在を伴っている。
アルシエルの掲げ持つ見開きのページからどれほどの威力の業がどれほどの規模で繰り出されるのか、ファティナの想像を絶する。
先ほど、盲目の時計職人の傀儡となっていた彼女の業は単調でどこか生彩を欠いていたが、正当なコマンドで臨む業には底知れぬ威力が秘められている。
大淫婦バビロンといえば……終末に現れ、紅い獣の上で姦淫の葡萄酒に酔いしれ、神を穢すものだ。
超神具フラーレンは……彼女の怒りと復讐の業火に耐えうるのか?
指先をすっと、フラーレンの格子に向け、標的が定まった。
“Salma-Vasla!”
(焼き払え)
それがまさに、地獄の火炎を吐き出そうとしたときだ。
アルシエルの表情はぎらぎらと殺気立っていて、この状況を心から愉しんでいるかのように見える。
ファティナは昂ぶったアルシエルを止められるとは思わないが、それでも声を限りに叫んだ。
「アルシエル――!! いけません!! フラーレンを破ればあの砲撃が撃ち込まれる!」
アルシエルは地上のファティナの絶叫で正気に戻った。
見開きにしていたページをバタンと大急ぎで固く閉ざした。
大淫婦バビロンと紅い獣の幻影は消え、上空は曇天の雪空を取り戻していった。
悪夢のような光景だった。
「……我としたことが」
ついつい、物騒なことを。
衝動にあてられ、理性が吹っ飛んでいた。
フラーレンを破壊しては特務省の思うつぼだ。
また、アルシエルの業火そのものによって村を吹き飛ばしてしまうのは何ら本意ではない。
転移ができれば追いつけるが、不可侵の聖典には転移機能がないので、フラーレンの外には出られない。
猛獣の檻さながら、彼女はフラーレンによって結界中に閉じ込められ、地上から神々の戦いを観戦するしかなさそうだ。
「まあよいわ」
相手が荻号の手に余る実力の持ち主であれば、フラーレンの結界も自ずと破れるだろう。
そうなったときが本番だ。
荻号の手におえなくなる場合には、それなりに愉しめそうだ。彼女は気を取り直した。
遼生はアルシエルを置き去りにして、連続転移でフラーレンをすりぬけ、荻号のいる高度に追いついた。
荻号は特務省職員の降ってくる一点を凝視したまま、遼生には目もくれない。言葉だけを寄越した。
「残れと言ったはずだ」
「大丈夫です、問題ありません」
少年が自信たっぷりに言うだけあって、彼のマインドギャップは完全に閉ざされて何層なのかも分からないよう施錠されていた。
先ほどはそれほど労する事もなく看破できたが、今は監獄の扉より堅い感触だ。
遼生が普段Mind Gapを開放しているのは、相手に必要以上に怪しませないために他ならない。きらり、と不敵に澄み切った少年の瞳が荻号の青銅色のそれを真っ直ぐに射抜いた。口元には余裕の笑みなど浮かべている。
「子供の自惚れは感心せんよ。痛い目を見る前に帰れ」
荻号が忌々しげに呟いたときには、数十名の特務省職員たちに周囲をぐるりと取り囲まれ、陣形の中に閉じ込められている。
彼らは誰も白いローブの制服を着てフードを被り、階級を示す色とりどりの腕章をつけていた。
彼らの長と思しき背の高い一柱の神が最後に降下して荻号の3mほど前に静止すると、礼儀を尽くすつもりがあるのかないのか、おもむろにフードを取り払った。
フードの下から現れたのは眼光の鋭い、黒い長髪の青年神だ。
肌の色と風貌から東洋由来の神とみえる。
荻号は彼をマインドギャップ 7、フィジカルレベル 12万、フィジカルギャップ 60程度と見積もった。
荻号よりはるかに格下の相手だが、このレベルが神具を持って何十も束になってかかってこられるとかなり厄介だ。
遼生も戦力になるのかもしれないが、翼を可視化してはじめて本領発揮をするタイプなので最初から当てにしていない。
「随分、ご挨拶なことだな」
荻号は腕組みをし、さも興味のなさそうに目の前の男に冷たく言い放った。
「私は特務省執行局2課長 櫻井 誠司と申します。現時刻より当エリアは特務省長官バンダル・ワラカの作戦指揮下に置かれました。すみやかに投降し、かつ神階に帰還なさるよう勧告します」
丁寧な言葉であっても、特務省職員の態度は自信がにじみ出ているというか尊大だ。
課長クラスというと特務省内では中堅にあたり、立場上は諜報局の織図と同格ということになる。
織図と櫻井……立場は同じでも、織図と彼は根本的に思考回路が違う。
織図は徹底的に人間を熟知した上で犠牲者を出す事を極力回避しようとするが、櫻井らは基本的に生物階を知らず殺人行為に抵抗がなく、罪の意識もない。
目的の為には生物階を巻き込んでどれだけ犠牲者を出そうともお構いなしだ。
さらに任務遂行のために神の殺害すら許可されている。
そんな彼らに、何故生物階を破壊してはならないのかを説くことほど愚かしいことはない。
さらに、バンダルはフラーレンの価値とその威力を知っているが、櫻井は荻号 要をすら知らなかった。
荻号は神階での知名度に関しては群を抜いているが、特務省の神々には認知度が低い。
どこの馬の骨とも知れぬ位神がしゃしゃり出てきて何をする……というのが荻号に対する櫻井の正直な印象なのだろう。
「戻れも何も、ここの住民なんでね。れっきとした」
荻号はおどけたように両手を拡げてそう言うと、愛着のある足元の村を見下ろした。
彼ら特務省職員たちからすると荻号の行動は滑稽な茶番と映っていることだろう。
神階以外に定住する神など、堕神以外にはいないのだから。荻号は堕神だといわれると返す言葉もないが、極陽直々にお百度参りのように神階入りを請われ続ける堕神というのも珍しい。
つまり方便だと。
「そこを更地にして差し上げますので退いてください。この一帯に人間はいませんが何を固執しているのでしょうか」
櫻井は一応、荻号を説得する材料として風岳村全域が無人であることを確認していたようだった。
彼らは殺人行為そのものに抵抗などないが、特務省以外の神階の神々が殺人をことさら忌避することは知っており、大量に殺戮すると位神が逆上することも知っている。
「あなたがたは間違っている。人間だけが守るべき全てではありません。民家も田畑も彼らの大切な財産です。取り残された家畜も、野性動物もいます」
反論したのは遼生だ。
風岳村と遼生の間に何の関係もなく庇わなければならない義理もないが、下には恒の家がある。
しかし櫻井は、子供にしか見えない遼生の意見など聞く耳持たずだ。
この少年と青年神の二柱はどういう連れ合いなのか、いささか疑問に思った程度だ。
「財産? さて、私にはこの場所にそれだけの価値は窺えません。実にみすぼらしく原始的な集落だとは存じますが、それ以上には。何も」
顔も見せない櫻井の部下たちから、げらげらと嘲笑の声が聞こえてきた。
荻号はくってかかりそうになる遼生を片手で制止しながら、特務省の神々が世間知らずで閉鎖的で陰湿なのは相変わらずだな、と一万二千年前の特務省と比較して何ら体制が変わっていないことに感動すら覚える。
彼らは徹底的に、人間を知らないし興味もないのだ。
最初はグラウンド 0を監視するためという目的のみで風岳村への定住を決めた。
荻号は当初、人間とは一切関わりを持たないつもりでいた。
しかしどんなよそ者であっても、風岳村で孤立し他者と関わりを持たずに暮らすことは難しい。
村人たちは親切な世話焼きばかりで、何かにつけて色々な行事や面倒ごとやお節介に巻き込まれた。
村人達にはすぐに顔を覚えられてしまった。
億劫だった人との関わりも、慣れると不思議なもので、そのうち苦にならなくなった。
今では隣近所と差し入れを交換することもある。
少なくとも彼が以前神階で暮らした時間よりは遥かに、有意義で価値のある時間を過ごしたと、荻号は思っている。
そして感情の起伏のない彼にも、愉快だと感じた出来事、心地よいと感じた時間も少なからずあった。
また、何より朱音の存在も大きかった。
彼女はすぐに引きこもりたがる荻号を外に連れ出した。
彼女の村人からの信頼は厚く、彼女を介して荻号はすんなりと村に馴染んでゆけたのかもしれない。
もしINVISIBLEの収束を凌いでも、村人達に迷惑がられない限りこの村を拠点としてしばらく去ることはないだろうと、荻号は思う。
風岳村はなかなか居心地のいい村だった。
朱音がいつでも戻ってくることができるように。
上島や大家の住処が無事であって、藤堂 志帆梨の店が繁盛し、吉川 皐月がいつものように教壇に立つ事ができるように。
あたりまえの日常があたりまえにあるように。
この村がどんな村であるかなど、櫻井は知らなくていい。
「あんたらと争う気にはなれん。そちらがそのつもりでなければ、だが」
櫻井はそこで、打開案を出してきた。
たかだか人間の集落のために神々が殺し合うのは馬鹿げている。
「我々が捜しものをする際は、少し乱暴です。あなたが居場所を知っていると被害を免れるでしょう。レイアという少女神をご存じですね。居場所を教えていただきたい。我々は彼女を捜索すべきであって、この集落を破壊することが本意ではありません」
温和を繕っていた櫻井の声色がやや厳しくなってきた。
バンダルが見ている手前、あまり長く時間をかけてもいられない、という焦りが見え隠れする。
「吐かせてみろよ、俺から」
荻号が口を割らないと決めたら、力づくで吐かせるほかにない。
「なんと愚かな方だ」
櫻井の言葉を引き金に、荻号と遼生の周囲を取り巻いていた神々が一斉にローブの下に携えていた神具に手をかける。
最前列にいた12柱の神々が突進してきたかと思うと、基空間より取り出したハルバード状の斧槍を振りかぶり、四方八方から荻号めがけて襲い掛かる。
ああ、やっぱりこのパターンか。と、荻号は失望した。
どいつもこいつも、同じ神具で個性がない。
荻号は彼らの没個性をつまらなく思うが、特務省とはそういう組織だ。
個は埋没し、組織としての精鋭に造りかえられる。
個性的な神具はどれほどすぐれていても、敵味方のある白兵戦にはむかないのは周知の事実だ。
性能の違う神具を各々が振りかざせば、敵を正確に攻撃するどころか味方を傷つける可能性がある。
また、異なる神具同士で性能を打ち消しあう場合もある。
たとえば熱を扱う神具の隣で低温を司る神具を扱えば効果が相殺されて敵を効率的に攻撃できない。
また、近接戦で一柱だけ中距離の射程を持つ神具を扱えば、周囲がもろに巻き添えをくう。
そこで、神具での戦闘は1対1の決闘形式が主流であるのだが、ひとつだけ神具での集団戦を可能とする方法がある。
それは一個隊全員が同一の神具を扱うことだ。
しかも、複数の神具を持つとなお効果的だ。
荻号の知る限り、彼らは少なくとも4種類以上の同一の神具を持っているはずだ。
個性はないが、よく統率された同じ強度の攻撃が畳み掛けられるとかなり苦戦を強いられる。
いまも振り下ろされた斧頭は白炎に包まれ、耐え難い熱量を発している。
先手は熱力学をベースとした光熱型神具だ。
荻号はすぐ隣にいた遼生の腰を蹴りつけて墜落させ、荻号のみが彼らの攻撃に晒されるよう仕向けた。
数十メートルも落とされた遼生は蹴られた腰をさすり上空を恨めしそうに見上げながら、首にかけていた志帆梨の白いストールに靴型がついてしまったので、砂を払い落とし腰に巻きなおした。
「なにも蹴ることないでしょうよ!」
荻号がアトモスフィアを両拳に握りこむように厚く纏うと、彼のアトモスフィアは純度が高いために無色透明で拳に蜃気楼がかかったように見える。
自身に振り下ろされた十二本の斧頭の熱量をものともせず、怯むことなく間合いを詰め、素手で木っ端微塵に砕いてゆく。
半月の軌跡を描いて、斧頭より解き放たれた炎が乱舞する。
あたり一面に火柱が立ち上がった。
フードの下で、神具をへし折られ不利な立場となったはずの特務省職員の口元が不意に緩んだ。
「!」
砕け散った斧頭の破片から迸った炎が、荻号の聖衣に炎の雫を撒き散らして飛び散ったのだ。荻号の強固なフィジカルギャップも、質量を伴わない攻撃には脆弱だ。
虫が喰ったように、聖衣に直径1cmほどのパンチ穴のようなものがあく。
神々の纏う聖衣は簡易修復機能がついており、破れても穴があいても少し時間が経てば修復できる。
普段なら気にすることではないのだが……火の粉が散って穴のあいた部分から炎は液体となって皮膚に浸透し、皮下組織を食い破ってゆく。
白リン弾をかぶったように、炎が触れた部分からじわじわと内奥へと熱の固まりが侵食してゆくのだ。
背を無数の焼け火箸で刺し貫かれたように……。
あまり内奥に到達して酸素を失うと炎は鎮火するが、それでも既に表皮から5cmほど内部へ食いちぎられている。
無数の弾痕から出血がはじまった。
黒いレザーのパンツや靴を伝い、透き通った赤い液体が靴の先から地上へ滴り落ちてゆく。
さらに荻号をげんなりさせたのは、砕いた筈のハルバードの斧頭がたちどころに再生していたことだ。
また、彼らの制服に火の粉が降りかかっても、荻号のそれのように腐食しない。
特別にあつらえた防護服を纏っていたのだろう。
フードを被っているものだから、頭から浴びるということもないらしい。
“なるほど。斧は仮初、実質は灼熱か”
感心している暇などなかった。灼熱の攻撃は第一陣、第二陣と畳み掛けるように繰り出される。
フィジカルギャップが何の役にも立たぬまま炎の雫を浴び続けていれば、少しずつ神体を焼灼する炎に溶かされてゆくのだろう。
荻号は戦術を切り替え、遂にシザーケースからフラーレンを引っ張り出した。
フラーレンを束ねたままの右手を突き出し、呪符を放ち宙に浮かべ、等間隔に配座して荻号を中心に球体を描いていった。
惑星が自身を取り巻く衛星を宙に並べているかのようだ。
櫻井は大気の上に紅い呪符を置いてゆく荻号の指先を、他人事のように眺めている。
「フラーレンを使うまでもないんだが」
神具を使わないと皆殺しにしてしまうのでね。
口には出さなかったが、そういうことだ。
「八雲。転移で結界の外に出ろ」
察しのいい遼生は周囲を見渡して彼の意図を汲み取り頷いた。
「ええ、ここにいます」
返事はいいのに、行動が伴っていない。
下に行けと言われたにもかかわらず、荻号の背後にぴったりと背中合わせになった。
フラーレンで描かれた球体の外のエリアは全て術の射程範囲となるので、うんと遠くに離れているか、荻号の傍にいるのが最も安全だ。
荻号は忠告にことごとく従わない遼生に不快感を示したかったのだろうが、やむをえず左手を軽く腰にあてたまま右手をすっと伸ばし、彼の正面にあった呪符の裏を人差し指で縦になぞる。
術者に触れられた符は覚醒したかのように激しく赤色発光をはじめた。
ミステリーサークル状の直線と円でできた黒い幾何学紋様が浮かび上がり、連鎖反応を起こしてフラーレン構造全体に伝達される。
60枚の呪符が怪しく輝くさまは、夜であれば宙に打ち上げられた紅い花火が炸裂した様子を切り取ったかのように見えただろう。
ただし、この一発玉は特等席で見てはならないものだ。
ズドン!
周囲にいた特務省職員たちの胸部に張り付き、まさに大砲が撃ち込まれたかのような爆音がして直後、全員が同時に失神した。
ここまでは遼生も予測していたが、本当の恐怖はここからだった。
荻号が宙にかざした右手の下からどこからともなく水が湧き出て、轟々と波立つ水球を創り上げてゆくのだ。
異様な光景をその場に残し、白装束を纏った44柱もの神々が重力に任せ落下してゆく。
遼生はまっ逆さになって彼らを追いかけアトモスフィアを薄いシート状に精錬して柔らかな布を敷き詰めるように低空に配置し、一人残さずハンモックのように受け止めた。
失神したままフラーレンの結界の上に叩きつけられては木っ端微塵となってしまっただろう。今は荻号の血のみだが、地上に血の大雨が降ることになる。
――しかし、大惨事は既に起こってしまっていた。
「な……!?」
彼らの動きが止まってはじめて、遼生は凄惨な光景を目撃した。
彼らの纏っていた制服の白いローブの下から枯れ枝のような土気色をした細く干からびたものが突き出しているのだ。
骨と皮だけになり干物と化した神々の手足……フードの取れた者は頭蓋骨に辛うじて皮が薄く張りつき、落ち窪んだ眼窩……ミイラとなった神々が累々と折り重なっていた。
「!? 何ですかこれは!」
恐怖のあまりわなわなと震える遼生の上に滞空しながら、荻号は何も答えない。
あの瞬間に何が起こっていたのか、答えを解く鍵は荻号の手中にあった。
彼は60枚の呪符でサッカーボール型のバックミンスターフラーレンの構造で呪符を展開し、一枚ずつ神々に接触させ、次にフラーレンを起爆した。
それと同時に、荻号はどこからともなく湧き出した大量の水を手に入れている。
その水は何だ!? どこから湧いてきた。
遼生は炭素化合物フラーレンがバックミンスター構造を維持したまま化学的にとりうる、とある構造に思い至った。
「……まさか! H2@C60-H2 Endohedral Fullerenes(水素内包フラーレン)!?」
そう考えた場合にのみ、辻褄が合う。
荻号はフラーレンを媒介として、襲い掛かってきた神々の神体の大部分を構成する水素分子をDehydration Reaction(脱水素反応)で強奪したのだ。
呪符ごしに神体から奪われた水素はフラーレンの放つ光熱に引火して爆発を起こし、荻号の掌の下に集められて水分子となり水球を形成した……。
神々のアトモスフィアが水溶液に溶け込んで、水球は虹色の輝きを呈して美しく輝いている。
フラーレンは神体の重要な元素を奪う事もできるということだ。
この調子だと、金属内包フラーレンというバリエーションもあるのだろうな……遼生は超神具の超神具たる所以を思い知らされた。
神体を構成する微量金属を奪われてもまた、一秒とて生きてはいられない。
しかし……
「こ……こんなこと……! あなたは……」
これは……断固として間違っている!
荻号は取り返しのつかないことをした。
神としての尊厳、それ以前に生存権を無視した……無慈悲で、容赦なく悪辣で一方的な殺戮。たとえ相手が何をしようと、これほど残忍に殺されなければならないほどの理由はない。
たしかに戦闘において殺害やむなしという場合もある。
しかし、彼らが苦痛なく死を迎えられるよう配慮すべきは当然の倫理だ。
「へえ、凌いだのか。上出来だ」
壊滅と思いきや、たった一柱、バイオケミカル・ステイビリティ(生物化学的安定性)を所持者に寄与する神具を所持していた櫻井だけは辛うじて攻撃をしのいでいた。
物理学的安定性と化学的安定性の確保は荻号と一戦交えるうえで最低限必要な戦術であり、荻号もまた物理法則が正常に働いている環境を必要とする。
櫻井はたまたま、化学的安定性を装備していたために助かった。
しかし、二度目の幸運はないということに気付かないほど愚かではなかった。
「何ということだ……瞬時に44柱の神を屠るとは。……その神具は!?」
絶望をかみ殺しながらも、櫻井の声が震えていた。
部下を失ったことに対する怒りより無力感の方がはるかに上回っている。
櫻井はしかし、背を向けて逃げ出すようなことはしなかった。
「フラーレン C60だ。覚えといて損はないだろ?」
神々を虐殺したこのインパクトだ……二度と忘れようがない。
「それによく見ろよ。別に殺してないぜ。あんなでも生きてるさ……俺がこいつをうっかり落とさない限りはな」
荻号は直径3mほどに成長した水球の上に曲芸師のように腰掛けて、その中には44柱分の命がおさめられている。
彼は44柱を生かさず殺さず人質にとっていたのだ。
生き残った者の正気を奪う効果もあるようだ。
櫻井は彼らがあの骨と皮となった状態でまだ生きているということに動揺を隠せない。
たしかにバイタルが残存している気配はあるが……。
脱水というと組織学的にはホルマリンなどで行う“固定”とあまり変わらない。
組織を固定されると生体分子はその構造を変え、不可逆的に機能しなくなる。
元のように水素原子を与えたからといって彼らが元に戻るのかと考えると、絶望的としか思えない。
「あのように干からびた者達を蘇らせることができるというのですか?」
「ああ、簡単に元に戻るさ。もっとも……」
荻号は喉を両手で締めつけるように押さえ、ぎろりと櫻井に目をむいた。
パフォーマンスなのだろうが、身に迫るものがある。
「今はひどく……渇いているだろうがね」
……櫻井は狂気の混ざった視線にひどく慄いているかに見えた。
荻号の逆鱗に触れると大変なことになる。最強の守護神のいる風岳村を破壊しようとした代償は大きかったことを、彼らはひとつ身をもって学んだ筈だ。
櫻井がよほど勇敢かよほど愚かでなければ彼も同じように学んだのだろう。
特務省は荻号の庇護する風岳村に手を出した不運を、思い知らされる。
箍の外れたかのような荻号の正気を、遼生は疑った。
下をよくよく見ると、木切れのようになった神々が蠢いている。
水を求めているのか、渇ききった手で空をかきむしる。
骨と筋の軋むかすかな音が聞こえたような気がした。
あの悲惨な状態で意識があるのか――。
「さて、あんたもああはなりたくないだろ?」
これでは完全に荻号が悪役ヒールだ。
たまらず、遼生が荻号の前に飛び出し櫻井と向かい合った。
「櫻井様! 僕が相手になります。お相手を!」
アルシエルではあるまいし、遼生だって何も好き好んで櫻井に挑みかかりたいわけではない。ただいえるのはこれ以上、荻号に戦わせてはならないということだ。
何故なら、手を塞がれた状態で戦闘が始まってしまえば荻号は集中を欠いて、うっかりその大きな荷物を落としてしまいそうだ。
しかも彼は、特務省の主砲からの攻撃に備え下層の60枚のフラーレンを今もかなりの集中力を割いて維持したままでいる。
勿論、猛獣の檻の中に閉じ込めたアルシエルを参戦させないためという理由もあろう。
また、顔にも声にも出さないが血まみれの背中も痛むことだろう。
そしてこのとき遼生は知らなかったが、フラーレンはさらに荻号の家にも張り巡らされていた。
空気の読めない、というより事情を知らない櫻井は執行局課長の誇りにかけてなのか、遼生を侮ってなのか、男気のあることを言う。
「どきなさい、子供を手にかけるつもりはありません」
いや、どちらとやり合う方が不利どころか命取りになるのか、いい加減気付いてくれ!
相手が遼生でよかったと思って適当にやられて寝ていてくれ。
こちらは手加減をするし、決して命を取りはしないから。
荻号は今、最高に機嫌が悪い。
遼生は櫻井が骨っぽい言葉を言い終わるやいなや、有無をいわせず彼に正面から挑みかかった。
櫻井は否応なく応戦せざるをえない。
荻号は遼生が突っ込んでいったので自身で手を下す必要もなくなり、腕組みをして見物を決め込むつもりのようだった。
*
非常召集全体会議において肝心な事は何も明かされず、議事も進捗しなかったかのようにうかがえた。
比企の態度はなんとも煮え切らなかったし、生物階の首脳たちは不信を露骨に態度に出す事もできず、危機感ばかり煽られて苛立ちを募らせていた。
それでも、失踪したというレイア・メーテールの行方を追うのは比企が直接指名する神々に限り、その他、人間、神、使徒たちは神階の外へは一切出てはならないと取り決められ、神階は特務省の指揮に従うよう通達された。
詳細を煮詰めないまま会議は時間切れという中途半端な形で終わって、あとのことは部門会議に任されるとのことだ。
会議終了後、長瀬と築地はさきほど会議に出席していた生物階の重鎮がた十数名と一緒に、会議室の傍にあるゲストラウンジに通されていた。
彼らは一度ラウンジに集められ、使徒たちに個別に呼ばれてそれぞれの部門会議に連れて行かれていた。
各国首脳と談笑する総理と築地・長瀬の二人はわずか5mほどの距離にいたが、長瀬はサインを求めるようなことはしなかったので助かった。
彼女は生物階の首脳にはまるで興味なしだが、老齢の彼らからすると孫ほども若い築地と長瀬がゲストとしてこの場にいるのも何となく場違いだったので、こちらは気にしないといっても、何となく視線が痛い。
彼らはラウンジの隅で目立たないように身をひそめていた。
「なんや居心地悪いな。じろじろ見られるし」
築地は落ち着かないらしく、何度も座りなおした。
給仕の使徒に出されたオレンジジュースを喉に流し込む。
あまり水を飲みすぎるとトイレに行かなくてはならないので、がぶ飲みはできなかった。
長瀬は何をしているのか、パソコンをいじっている。
築地にはフリーセルをしているように見えた。地上を離れインターネットというツールが使えなければパソコンは驚くほど魅力的ではなくなるということに、築地は改めて気付かされる。映画DVDの一枚でも、持ってきていれば違っただろうに。
「ところで、さっきの長瀬の電波仮説は一体何やったの。女神の中で~言うとったやつ」
「うーん。電波じゃないんだけどねー。えー、今その話するー?」
長瀬はもう億劫になったのか、フリーセルに夢中で築地に得々と説明することもなかった。
M理論はあまりに難解すぎるので、かじったことがあるという程度では築地に説明するだけの自信もない。
「少なくともフリーセルより有意義やで」
フリーセルだって有意義ですけど。
と反論せず、長瀬はしぶしぶ、といった顔でパソコンを閉じた。
「まあ、うろ覚えなんだけどー……」
といって長瀬が語り始めたことには、築地も知ってのとおり宇宙の物質を構成する最小単位をつきつめゆけば、分子→原子→陽子という順に、それらの粒子は小さくなってゆく。
しかし1960年代から1990年代にかけて、それら最小の粒子を弦の振動として記述できるとわかり、超弦、または超ひもと呼ばれるようになった。
超ひもには紐のように開いた状態と、輪ゴムのように閉じた状態が考えれらるという。
弦が開いた状態の振動だと光子・ウィークポゾン・グルーオンなどの粒子のように見え、閉じた状態だと重力子のように見える。
このことから超ひも理論は、それまで折り合いの悪かった一般相対性理論と量子力学を統一する大統一理論となるのではないかと期待されてきた。
宇宙を構成する最小単位、“超ひも”の大きさは10^-35m程度だと推測されるが、あまりにも小さく現代の技術ではまだ観測されていない。
そのため、この理論の正しさを観測によって証明することは困難であると思われた。
超ひも理論には5つの種類があり、そのいずれも正しいことが数学的に証明されている。
しかしこれら5つの理論が全て正しいとするなら、そのとき、この宇宙が10次元から成り立っていると仮定しなければならない。
また、さらに、1つ次元を加え10次元を11次元にすると、それまでまったく異なると思われていた5つの超ひも理論は、実は同じことを記述しているのだとする仮説が生まれ、超ひも理論が統一される可能性が出てきた(M理論)が、これまたM理論の正しさを実験によって実証する手段がない。
この分野の研究がしばしば、物理学者パウリの言葉を借りて「それは間違ってすらいない」と揶揄されるくらいだ。
大統一理論となるポテンシャルへの物理学者の熱い期待はともかく、未完成な理論としていまだ数学的仮説のひとつにとどまっている。
とのこと。
「うろ覚えってレベルちゃうやろ」
「えー? 私的にはうろ覚えだよ。そういえばM理論は、正しかったのかな?」
「?」
現代人の科学力では観測できないブレーンワールドも高次元も、神階の科学力ならばとっくに観測してその原理を応用しているのではないかと長瀬は期待してしまう。
神は超ひもを見たか? 高次元の有無を、神階は観測できたのか否か。
INVISIBLEの問題を考えるうえで、M理論の正当性はその土台となるべき事柄だと長瀬は思っていたが、そういえば比企に問いただしていなかった。
「MでもSでもええけど、ドM理論がINVISIBLEとどないな関係があんの?」
Mと聞けば、Sと返すのが築地だ。長瀬はそういう安易なボケは大嫌いだ。
「アメリカ人と話そうと思ったら英語を勉強しないといけないように、創世者のすることを1mmでも理解しようと思ったら、最低でも大統一理論は分かってないといけないんだよー。それが合っていると仮定してだけど」
ま、最低でもといいながらM理論も私には完全に分からないけど。
と、長瀬は予め逃げ道をつくっておいた。
長瀬の他力本願は相変わらずだ。
ところで、未完成な理論とされながら、M理論が宇宙論に与えた衝撃は凄まじかった。
M理論が正しいとすると、では本当に、我々は4次元以上の高次元の存在する世界に住んでいるのか? という疑問が残る。余剰次元の存在をみとめるとしても、我々はあたかも3次元空間、時間を加えると4次元空間に住んでいるように体感しているからだ。
では、どこかにある筈の余剰次元である残りの6次元はどこでどうなっていて、何故我々には見えないのだろうかという矛盾は解決されるべきだ。
この矛盾を解く方法は、これまでのところ大まかに二つ考えられている。
ひとつは、余剰次元はコンパクト化されてとても小さいので見えないというものである。
余剰次元は量子レベルで小さく巻き上げられていて低いエネルギーでは観測できないから我々には見えない、というのだ。
もうひとつは、余剰次元は別に小さくないが、物質を構成している超ひもがある一面にへばりついて逃れられないために、あたかも我々が4次元の中にいるように見えるというものである。
超ひも理論の運動方程式によると、超ひもが開弦の状態であるとき、ひもの両端はD-ブレーンという二次元の膜面(我々の住む4次元世界面)に拘束される。
我々の住む低エネルギーの世界はさらに高次元の時空に埋め込まれたブレーンにいるのではないかという仮説だ(braneworld)。
一方、閉弦の状態である重力子はブレーン上に拘束されず、自由に高次元空間を行き来できるので、重力によって膜同士が互いに引き合うこともある。
膜同士が重力で引かれあって衝突するとビッグバンが起こるという説もある(エキピロティック宇宙論)。
長瀬の知識はその程度だった。
「INVISIBLEが私たちより一つでも高い次元にいたらもう、どうしようもないんだよ」
たとえば紙の中に住む生き物がいたとしたら、三次元の世界など想像もつかないものであるに違いない。
だが、三次元にいる生き物にとっては、二次元の中にいる生き物をどうにでもできる。
そう、三次元の人間が二次元の人間を手術するとしたら、きっとメスなどいらないだろう。
三次元の人間から見て透視図となっている内臓をいじることなど、たやすく出来る。
三次元の人間が二次元の世界の銀行強盗をするのに、凝った道具もいらないだろう。
厳重に閉ざされた金庫の中に手を突っ込んで、いくらでも金銀を略取することができるのだから。
また、三次元の人間は神出鬼没だ。
二次元からちょいと飛び上がるだけで、二次元の中から姿を消す事ができ、痕跡も残らない。
長瀬はまさにINVISIBLEがこのパターンで神出鬼没を可能としているのではないか、と諦めかけている。
また、そう考えると、INVISIBLEに知性がありそうに見えて、全知全能にして不死身だというポイントも解決できる。INVISIBLEには全てが見えるのだ。
三次元の人間が二次元の地図を俯瞰してみる事ができるように。
そして神々が人間の目に見えるということは、神々ですらもINVISIBLEと同じ次元には行けないのだろう。
それでは戦わずして結末は眼に見えている。
「INVISIBLEは何のために降りてくるのかな。この世界に……」
高次元の世界には何があるのだろう。
そして何故、INVISIBLEが下位の次元に来なければならないのか。
「あんま、住んどるところが居心地がよくないんちゃう?」
そうかもしれない。長瀬もそう思った。