第2節 第28話 Inside the windmill hut
あれから……恒は特務省が着陸する前に風岳村に戻るといって動力室を出て行ったが、織図は動力室に残った。
特務省が風岳村に降りてしまえば、智神の死体があらためられるからだ。
しかし……これは本当に死体、なのかと引っ掛かかる。
ノーボディにバイタルを断たれた先代絶対不及者の遺体、彼は間違いなくそうだ。
死体から無尽蔵のエネルギーが取り出され特務省の動力に利用されている、その不可解な現象を織図は一時、うっかりと受け入れそうになっていた。
“……死んでるなら、エネルギーが枯渇しててもいいんだがなあ”
元絶対不及者だからエネルギーが枯れない。そう考えれば簡単だが、その熱量はもともと智神のものではなかった。
INVISIBLEが収束したことによって智神に与えられたとされている。
バイタル切断の直後、理論上その生命は一秒も生きることはできない、全生命活動が止まる。途方もないエネルギーの貯蔵庫であった絶対不及者のエネルギー準位が低位の状態へと落ちこんでゆく過程をみているのだとしても、納得できない部分はかなりある。
外部環境と平衡になり釣りあわない状態が、もう十万年以上も続いているのだから。
絶対不及者の抜け殻に残された不可解な謎に首を傾げていた織図の延髄に、激痛とともに特徴的なシグナルが走る。
脳髄を撃ち抜かれたような衝撃だった。
これはEVEの異常を報せる緊急回路が開いた衝撃で、織図がいつ何時、どこにいようと織図の意識にリンクされる。彼は首筋を強く押さえ、えずくように喘いだ。
先ほどはバンダル・ワラカに殺されかけ、今度はEVEに殺されかけている。
「!? ……あ…ぐ…何だよ…EVEかよ。そ、それどこじゃ……」
絶対不及者の謎を暴くことができるかもしれない絶好の機会だというときに、EVEの異常。
“それどころじゃない!”、と突っぱねることもできないのは、織図の神体とEVEが一心同体の関係にあるからだ。
彼が死神となったときに織図の背を縦に貫くように捻じ込まれたEVEとの相互通信ポートはEVEの生命線として織図の神経を支配している。
織図が死ねばEVEもシステムダウンするし、EVEが異常をきたせば回路から織図の脳に情報の逆流が起こり、脳がショートする。
生身に爆弾を埋め込まれているようなものだ。
織図はEVEに縛り付けられている自身の不遇を嘆くがどうしようもない。
緊急シグナルを止める方法はEVEに戻り安全に適正なDIVEを行うか、もしくは織図の神体にある緊急用の回路を通じて仮想体でEVEに入ることだけだ。
後者は相当の危険を伴う。だが、転移もままならず織図の執務室に戻れないうえは選択の余地がない。
織図は床に伏して双眸をを固く閉ざし、意識を強引に引き抜き、脊柱の中に埋め込まれたポートにねじ込む。
白と黒のノイズの洪水を破り、彼の意識は即座に生物階から神階のEVEへと飛んだ。
*
EVEにエントリして視界に飛び込んできたのは土砂降りの雨だった。
さっそく沈鬱な気分にさせてくれる。
死者たちをEVEの出入口に近づけさせないよういわば人よけとして、この一帯はいつも鬱陶しいしい雷雨で覆われている。
というか、他の誰でもない織図が設計したことだ。
ところがEVEの住民は誰も近づくものもいないこの寂れた場所にたったひとり、若い女が洒落た赤い雨傘を持って崖淵に立っていた。
EVEに入った織図をたとえ蛇の目でお迎えだとしても、嬉しくもない。
死者は崖から飛び降りても死ぬこともないので、織図はEVEの中では自殺志願者に会っても止めはせず、気の済むようにさせてやる。
しかしどうやら彼女は自殺志願者ではなく、雨音が傘を打ち立てる音に聞き入っているようだが……そんなことより、風情を楽しんでいるだけの一般死者に構っている暇はない。
織図がEVEに強制的に呼び出された原因である異常個所を特定し一刻も早くEVEの構成を正常に立て直さなければ! 背後に立つ織図の気配を察したのか、女はビクンと肩をすぼめ、傘を傾けたので中がうかがえた。
その後ろ姿で、わざわざ振り返らなくとも彼女が誰であるのかすぐに判別がつく。
しかも、彼女はどうやって継ぎ目を見つけたのか仮想空間の構成を揺るがしEVEの基盤をいじっている真っ最中だ。
細い手には髑髏型の杓杖を握りしめている、非常シグナルが鳴ったのは女の仕業だ。
EVEの非常用回路に彼女が故意に異常を起こして、織図を呼び出しにかかったようだ。
「あら早い。無理に呼びつけてごめんなさいね。忙しかったかしら」
すっかりEVEに馴染んだ黒い魔女は全身で振り返った。
帽子からヒールまで、全身黒尽くめだ。
雨だというのにおかまいなく、黒の編み上げのロングドレスなど着ている。
織図がどうやってここに呼び出されたのか知らないので悪びれもしないが、織図の不機嫌顔を見て意外そうに首をかしげ、慌てて回線を正常に繋ぎかえた。
織図が来たので、配線を異常にしておく理由もないのだ。
悪戯の見つかった少女のように、上目遣いで織図をうかがう。
計算づくなのは分かっている。
『つか、緊急シグナルを脳にぶち抜かれると死ぬほど痛いからやめてな』
織図はメファイストフェレスにあの痛みを味わわせてやりたいぐらいだ。
「痛かったの? まあ、気の毒だこと。では次からも同じように呼ぶわ、早く来てくれるでしょうからね」
彼女は反省する様子もなく、つんとすましてそんなことを言った。
死んでも相変わらずのサディストなので、織図は彼女にあまり弱みを見せては駄目だなと思い知った。
痛がっても、同情をするどころか彼女を喜ばせるだけだ。
織図とファティナがEVEにDIVEをして最果ての谷に挑み、織図が死ぬ目をみてメファイストフェレスに救われてから、EVEの外の時間は数日ほどしか経っていない。
だが、EVEの内部にいたメファイストフェレスにとっては1か月程度の時間が経過している。
織図はEVEから出るときに彼女に日当たりのよい海辺のすみかを宛がって出たので、彼女が気に入れば快適に暮らしている筈だ。
しかし、必要なものはすべて用立てられているからといって彼女が満たされていたかというとそうではないだろう。
『雨の中、何をやっていたんだか。風邪ひくぞ』
たとえ気まぐれやいたずらで呼び出されたにしても、孤独を紛らわせるためだったとしたら、織図は彼女を責められそうにない。
まわれ右で帰るのも気の毒なので、少し構ってから出ていくか。
お人よしの彼はそう思いなおした。
「死んでいるのに?」
織図の不器用な気遣いが嬉しかったのか、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
『死んでてもな。EVEの暮らしはどうだ?』
「昔の知り合いがいたし、あとは恒の祖母に会ったわ。退屈はしないけど、ね」
退屈はしないけれど、だからといって満たされるわけでもないと、彼女の表情から言外に含んでいた。
人間の死者たちの中で彼女だけが異質であって、EVEに入った者には当然いるはずの親も親族もいない。彼女は孤独だ。
だが彼女は生物階を出入りして長いので、直接面識のある死者も少なからずいた。
彼女は日本人の集落を訪ねて恒の亡き祖母にも会った。
直接の面識もなく特に話題もなかったが、恒には祖母の面影があるという、ささやかなことに気付いたぐらいだ。
彼女は志帆梨と恒が元気なのかどうか知りたがったので、メファイストフェレスはそのうち織図に聞いておくと約束しておいた。
他に知り合いといえば、風岳村の村民や彼女の担当した生徒達がそのうちやってくるのだろうが……それはずっと先のことだ。
それに彼らは彼女を覚えてはいない。
恒も含めてだ。また、どういう経緯でEVEに入ったかを、そして彼女が解階にした許されざることを漠然と知っているメファイストフェレスには、贖罪のための長すぎる時間を与えられこそすれ、EVEの生活を謳歌する一切の権利などないと自らに戒めている。
彼女は囚人だ。
永遠の刑期を自ずから課しながら退屈な電脳の世界を生きてゆく、だたそれだけの。
『色々落ち着いたら、毎日顔を出すよ。EVEを案内してやらないとな、色々見どころもあるんだぜ?』
メファイストフェレスの孤独な胸中を察したのか、織図は珍しく気のきいたことを言った。
彼女は素直に礼を述べた。
「ふふ、ありがとう。ところで、その格好は何をしていたの? 水泳?」
暢気なものねえ……とでも言いたげだ。
織図の実世界の姿がそのまま反映されているので、動力室にいたときのままウェットスーツを着ている。
メファイストフェレスが地上で一度も目にしたことのない不自然なコスチュームだったが、いつもゆったりとした黒衣を着ている織図が意外に筋肉質な体格をしているということにメファイストフェレスは気付く。
『お前が緊急に呼びやがったからファントム・ダイヴで来たが、すぐ出ていくよ』
「急なのね。外の様子はどう? 死者の大群は来ていないみたいだけれど」
生物階で何か事件があればEVEにやってくる死者数に直結する。
新たな死者がどっと増えないことだけが、メファイストフェレスを安心させていたのかもしれない。
『相変わらず惨憺たる状況だよ。さて、そろそろ帰るかな』
ファントム・ダイヴには制限時間があるので、そろそろ駄弁ってないで実世界に戻るために話を切り上げようとしたところだった。
引き止めるかのように、彼女は話を繋げてくる。
「ノーボディのデータから何か新しい事がわかったのかしら? 何か手伝いましょうか」
『いや気持ちだけで十分だ』
あのジャンクの中にはまだ、重要なデータが詰まっているのかもしれない。
あれらの情報は情報処理に長けたアーキテクトの織図と、まさに計算をこそ生業とする数学神ファティナ二柱がかりでようやく解読していたものだが、今は解析を中断している。
素人と変わらないメファイストフェレスがパソコンもなしに暗号を解けるとも思えないので、その気遣いだけもらうことにして、織図はEVEからデータを引き抜いて保管している。
そして今後も、あてにするつもりなどない。織図からしてみれば彼女はもう現実世界には戻れないのだから、現実世界のことであれこれ煩わせたくなかった。
また、彼女がどれほど物事を正確に記憶しているかもわからない。
「いいえ。少しなら手伝えそうよ。それで、お前を呼んだの」
先ほどは柔和だったメファイストフェレスの表情が急に引き締まった。
彼女がマクシミニマを使ってEVEの構成をいじり結果的に織図を呼び出したのはいたずらでも気まぐれでも暇つぶしでもなく、明確な意図があったということがはっきりした。
かなり前置きが長かったので織図は面喰った。
世間話をしている場合ではなかっただろうに!
ファントム・ダイヴには時間制限があるとも言っておくべきだった。
「EVEの西のはずれの崖の上に、誰も住んでいない廃屋があったでしょう」
EVEには東西南北などなくエリアで区分されているのだが、誰も住んでいない廃屋というと織図には一軒しか思い当たらない。
『あ? ああ。西なんてねーけど?』
EVEには住民情報システムという、いつどこで死んだ何という名前の死者がどこに住んでいるのかを調べることのできるナビゲーションシステムがある。
住民台帳のようなものだ。それらのデータは主に死んで間もない死者がはじめてEVEに入って右も左も分からぬ頃に、彼らの係累を見つけ出すために利用するものだ。
誰でも住民台帳を引けるというサービスは、死者のプライバシー保護の観点でどうなのか?
という問題もたまに浮上するが、そんなものは生者ではないのだから知ったことではない。
恨みを持って入ってきた死者が住民情報システムを悪用して、EVEの住民とトラブルを起こせば成敗だからな! と、織図はいつもこの一点張りで対応している。
これまでのところ、トラブルはないのが救いだ。
知り合いの死者たちに会うべくナビゲーションを利用していたメファイストフェレスが偶然検索中に見つけたのが、屋号と主のないこの空き家だった。
彼女はその不自然さに首をかしげたものだ。
というのは、EVEはハードディスクのデータの効率化を目指したために、EVEの住民にとって必要のない情報は自動的に排除されるようになっている。
死者は各々家を与えられているが、EVEのハードディスクにとって無駄な情報となる別荘は与えられない。
家主が死ぬ事も、家が老朽化することもない。
住まない家はデフラグされて消されてゆく。
つまり、EVEには空き家なんてもともと存在しないのだ。
EVE内の土地建物は、航空写真のように写真でデータベース化されている。
興味本位でどんな家構えなのかと調べてみると、僻地にあって風車のついた古い廃屋のようだった。
近づくのも困難な断崖絶壁の崖の上に建っているうえに廃屋なのだから、EVEの住民達は探検家でも近づこうとしないが、メファイストフェレスはマクシミニマを持っていたので、簡単にその廃屋に行き着くことができた。
そして彼女は廃屋を訪ねた。
「一応聞いておくけど、あれは誰の家? EVEには廃屋なんてないと思うけど」
誰の家もなにも、用がないので織図ももう忘れかけていた物件だった。
メファイストフェレスが気になるようならハードディスクの整理ついでに取り壊してもいいが、それほどデータを占領しているわけでもない。
『あれは要さんの別荘だ。風車小屋のことだろ?』
ああ、やっぱりね……頷いたメファイストフェレスの瞳が満足そうだ。何か、重大な証言と確証を得たように。
「要って、アルティメイト・オブ・ノーボディのこと」
分かっているくせに、やけに念をおしてくる。
『まあそうだな』
言いつくせない感傷と、未だに整理できない混濁した思いはあれど、一言で言いかえればそういうことになる。
「中に入ったことないの?」
『何もなかっただろ?』
メファイストフェレスの口調からすると、彼女はもう入って確かめてきたかのようだった。
中に入ったことがないどころか……織図は幼少のころ、主治医と患者の関係で荻号 要の執務室に入り浸っていたが、師弟契約も結ばず訓練していることがおおっぴらになってはまずいから、ということで神々の目を避けるように何度も仮想空間に連れて行かれていた。
今思えばその仮想空間はまさにEVEの一画だったのだが、当時の織図は場所も知らず追従していただけだ。
織図にとってそこは特別な場所だった。
仮想空間中では織図の視力は回復し、障害から解放されていたからだ。
だから織図は物を視るということがどういうことか、自然はどんな姿でどんな色彩を持つのか、人間や神の姿はどう在るのか、現実世界では視覚障害を持ちながら全てを知ったし、現実世界でも視力を用いずあらゆる感性を用いて代替することを無理なく身につけた。
日常のことから勉学のこと、神具の扱い方から武術に至るまでを荻号に学び、荻号は風車小屋の中でも外でも織図を教育し、まあ、ある時は風車小屋の崖から突き落とされて死にかけもした苦い思い出もあるが……彼とともに何十年もの時間を過ごした。
やがて彼の実力が荻号の帯びていた制紐と同じく黒真珠という特殊な制御具を身に帯びなければ押し隠せないほどに他神との力の差が開いてしまって、アカデミーでは凡神を装うのに苦労したものだ。
織図が成神し、晴れて死神として即位しEVEに入ったとき……再び崖の上の風車小屋のある風景に出会い、ああ、あの場所はここだったのかと、またここに帰ってきたのかと懐かしんだものだ。
そう、それは荻号と過ごした思い出の場所だ。
だから織図はたとえそれが無駄なデータであっても消せなかったし、消そうとも考えなかった。
荻号がいつ、何のためにEVEの中にわざわざあの風車小屋を作ったかは知らない。
また、風車小屋の風車の動力を利用して何かを動かしていたのかは聞いたこともなかった。
何故なら風車の運動エネルギーを変換するトランスミッションの部分が存在せず、ただカラカラと風車が回っているのは織図が見ても明白だったから。
彼との思い出だけはたくさん詰まっていそうだが、メファイストフェレスがそこに踏み入ったところで何かお宝だとか、それに勝る有意義なものは発見することはできなかっただろう。
内部は伽藍としていてテーブルが一台と椅子が二脚あり、大きな一枚の姿見鏡がある。
たったそれだけの、気の利いたものひとつない廃屋。
ずっと昔から、殺風景な場所だった。
「いえ……作為的だと思ってね。ノーボディの拵えた風車小屋でしょう? でも風車小屋としての機能はなかったのよね」
彼女はそういうが、荻号要が何をしようとしていたか。
など、理解しようとする方がどうかしている。
それは宇宙の真理を理解しようとすることと同義だからだ。
『いつもの気まぐれだろ』
「ねえ、お前はライプニッツ(Gottfried Leibniz)を知っているわね?」
『何だよ突然。同姓同名は何人も知ってるが、有名なのは1716年に死んだ奴のことか?』
織図は有史以来何十億人と死んだ死者を一人残らず律儀に暗記しているが、名前だけでなく享年とセットで覚える癖がある。
名前だけを覚えていても、何百人も同姓同名がいてややこしいことになる。
その分、享年で覚えているとそうそう名前かぶりはしない。
彼の職業病のようなものだ。
彼女は享年で言われても、と困惑して端正な顔を崩した。
「その、享年で言うの何とかして。妾には享年なんて分からないんだから」
『悪い、悪い』
軽く笑い飛ばすが、織図は笑っている場合ではなかった。
「彼の著書の単子論(Monadology)の思考実験に、風車小屋のくだりがあるのだけど。ただの風車小屋なら何とも思わない。でも、窓がなかったものだから」
それがどうした。それだけか?
と、織図は言ってしまいそうになった。そうだ、あの風車小屋にはたまたま窓がない。
それは意図的にでも何でもなくて、生物階ではうんざりするほど様々なデザインの風車小屋をみてきたが、大体、風車小屋についているのはせいぜい小窓程度で、大きな窓なんてあろうものなら巨大な風車を支えるための建物の強度が損なわれる。
メファイストフェレスは風車小屋の構造を理解していない。
彼女の喉元まで出掛かっているのは、おそらくあのくだりだ……なんだっけな。
あるところに、自我を持ち思考できる機械があるとする。
その機械の中はどうなっているのだろうと、たとえば風車小屋の中に入るように大きく拡大してその中に踏み入ることができたとしても、そこにあるのは無機的に回転する風車小屋の機巧だけで、その本質など発見できないというものだ。
――わざわざ風車小屋のくだりなど持ち出さずとも、心はどこにあるのかという問いは太古より繰り返されてきた。
生命の振る舞いを素粒子レベルで記述できる神階の科学力をもってしても未だに、明らかにはされていないが……ノーボディが今更、そんな着想で風車小屋を造ったということはあり得ない。ただの喩え話だ。
『“単子は窓を持たない”、“単子は鏡である”……ねえ。関係ねーよ。あの廃屋は俺がガキだった頃からあるって言ったろ、こじつけすぎだ』
風車小屋ができたのはライプニッツの生まれるずっと前、それどころか織図だって生まれていないので風車小屋のくだりとライプニッツを結びつけるのは無理がある。
メファイストフェレスは文化人類学に明るく、中でも中世の思想家あたりはよく研究している。
彼女の趣味だか専門分野の一環なのはわかるが、たまたま風車小屋の構造が単子論と断片的な一致をみたからといって、作為的とまでは言いすぎだ。
どうも歴史学者というやつは、ほんの一部を引用して都合よく解釈したがる。
彼女はまだ引き下がらない。
「織図……ノーボディはどうしてあんなものを造ったの?」
『つか、風車小屋一つつくるのにどんな理由がいるわけ?』
逆に聞きたいぐらいだ。
メファイストフェレスは、創世者ノーボディが創作物の心を知らないのではと疑っているようだ。
ノーボディは自我や心の本質を理解することなどできなかったのかもしれないと。
あの風車小屋のある景色は、そして広大にして無限のEVEという空間は、彼が生命を理解するための空虚な模型だったのではないか。
彼はただ生命という現象、そして自我とは何たるかを理解するために神の姿をして、共存在で別たれた荻号の分身という風車小屋の中に踏み入っていただけなのではないのか――とでも言いたいのだろうか。
『ノーボディが心を知らないというのなら、何で彼の創造物たる俺たちは哲学的ゾンビではないんだ?』
だいたい、どういう経緯で自我の問題になってしまったのか。
このクソ時間がないときに。と、辟易しながら織図はすかさず指摘する。
にわかに論破できない、鮮やかな切りかえしのように思われた。
メファイストフェレスが糸で結んだ謎と謎の答えがまた、急速に引き裂かれて点と点になってしまったようだ。
INVISIBLE、ノーボディ、そしてブラインド・ウォッチメイカー……これらの創世者の存在と宇宙論、哲学、形而上学、量子力学、物理学は仲のよいようで決して相容れない兄弟のようなもの。
それひとつを論じるたび、常に議論が各分野に散らかって収拾がつかなくなるのは目に見えていた。
生物階も神階も創世者に触れようとするたび、創世者の自我とは何か、果たして彼らに自我はあるのかを論じなければならない羽目になる。
するとメファイストフェレスのような文系の輩が、そもそも自我とは何か、クオリアとは何であって何故生命は哲学的ゾンビではないのかを論じるようになってあさっての方向に行く。
この無限ループにわざと陥らせることによって、創世者は彼らの正体を決して暴かせないのではないかとすら思えてくる。
また、創世者の正体に迫ろうものがいたら、おそらくはジーザス・クライストのように理不尽に、片っ端から存在そのものを消されてしまっていた。
荻号 要の死が直接の要因なのか、それともINVISIBLEや時計職人の影響力が排除されつつあるのか、最近は神々が創世者とは何たるかを論じても、なにやら分けのわからない力で不条理に殺される事はなくなった。
このことを受けて、今更遅すぎたような気もしないではないが、神階では再びINVISIBLEの正体についての自由闊達な議論が交わされはじめた。
もはや創世者問題は神階のタブーではない。
「見てしまったからよ」
彼女が何を思ってノーボディと自我の問題を織図に尋ねたのか、その理由を語りはじめた。
彼女の本題はここからだった。
風車小屋を前にし、覚悟を決めた彼女がマクシミニマを携え窓のない風車小屋の中に踏み込んでいったのは昨日のことだ。
今にも千切れ飛ぶのではないかというような古い風車の軋む音がガタガタと、いやに大きく聞こえて心細くなった。
入り口の木戸に手をかけると、風車小屋への入り口はすんなりと開いた。
小屋の中は灯りもなく真っ暗だ。まだ明るい時間だったからよかったわ。
と、彼女は昼間に訪問したことを心強く思った。
生前は魔女と呼ばれた彼女でも、リアルにホラーな状況が好きなわけではない。
廃墟探検は一般人と同じように昼間に限ると思っている。
EVEの人工的な光がメファイストフェレスより先に小屋の中に滑り込んで、吹き込んだ風にあおられて長年積み重なった綿埃が舞いあがっている。
戸を手で支えたまま踏み入ると、床板が軋んで今にも抜けそうだった。
それらに気をとられていると、不意に眩い光が反射して彼女の顔にそそぎかかる。
奥に大きな姿見鏡があって、彼女が投げ入れた光を反射して返しているのだ。
彼女が小屋の中に完全に入りきった途端、ひとりでに木戸が閉じた。
光を失って急に視界が悪くなり暗闇の中でよろけて数歩分、前につんのめる。
こういうときは、壁に触れていなければ。手探りで奥の鏡に手をついた筈なのに、粘土に触れているような柔らかな感触があった。
思いがけない質感に全身が竦むのを感じながら、嫌な予感を振り払うようにマクシミニマの照明をともす。彼女が今もなお触れている姿見の鏡面は揺れて波紋を作っていた。
そして……彼女は確かに見たのだ。鏡に映りこんでいるはずのメファイストフェレスの姿が消え、鏡の中に何か得体の知れぬものが浮かび上がったのを!
ぎょっとして手を離すと、鏡の向こうの物影はかき消えた。
背後に誰かいるのかと振り返る。背後には誰もいない。
彼女は注意深く向きなおり、また恐る恐る鏡に触れた。すると先ほどと同じく鏡面がさざめいてメファイストフェレスの姿や背後にある筈の景色が消える。
テレビの電源を入れたかのように、鏡面には平面的な映像が映りこんだ。
彼女があと少しその映像を注視しなければ、少し凝った電源のついたテレビか何かだという程度にしか思わなかっただろう。
だが残念ながらというべきなのか、そうではなかった。
何故なら、その映像は――。
「中にいるのは幽霊かと思ったの、最初は」
『ちょ、待て待て。何十年もあそこにいたが、心霊が出るびっくりスポットじゃねーぞ』
織図は露骨につまらなそうな顔をしてメファイストフェレスの話に口を挟んだ。
死者たちばかりのEVEで心霊体験など、笑い話にも怪談にもならない。
織図は職業柄、「出る」と言われる場所に行き過ぎて肝っ玉がすわってしまったというのもあるが、彼が霊を信じないもう一つの大きな理由は霊などいないと知っているからだ。
特に生物階に限って言うと、心霊スポットというのは十中八九、織図の使徒が何らかの事情によって死者の記憶の回収を諦めざるをえなかった場所だ。
EVEに持ち込めないほどに損傷した……たとえば飛び降り自殺や交通事故、毒物などで前頭葉が著しく損傷してEVEでの修復も困難と判断されるとき、死神の使徒は記憶の回収を諦めることがあり、途中まで回収していたデータをメモリスティック型の回収装置から、その場に捨てることがある。
記憶が壊れているとメモリスティックの回収タスクがフリーズしてスタックして動かなくなってしまうからだ。
スタック状態を解除するためには途中まで回収していた記憶を捨てるのが手っ取り早い。
こうしてみると、飛び降り自殺などをした人間が天国にはいけないという伝承はあながち間違ってもいないらしい。
その場に捨てられた記憶は死者の記憶を増幅した電磁信号のようなものであるので、俗にいう霊感の強い人間は電磁波を受信するというか、見えてしまうことがある。
しかも、脳にひどい損傷を被った死者の記憶というのは、大抵事故や殺害、自殺などのいわくがつくので、それを見た人間によって脚色も加えられ、それらしい怪談に仕上がってしまう。
こうやって日々霊体験やオカルト文化が形成され、死者の記憶を読む超能力捜査官やカリスマ霊能者などが活躍する基盤となっていることは、勿論人間には知られていない。
「なんなら一緒に風車小屋に行って確認をしてもいいけど。お前が見えなかったというなら、妾は死んでいるから見えたのかもしれないわ」
それと、口を挟まず最後まで話を聞きなさいよ、と注文してきた。
今は彼の管理する一介の死者に過ぎない彼女だが、何故か死神をも黙らせる。
『手短にな』
「ノーボディの風車小屋だと言われるまで、いまひとつ確信が持てなかった。でも、……ようやくわかったわ。ノーボディとブラインド・ウォッチメイカーは別々の創世者ではなく、双子の創世者だということが」
あのとき――メファイストフェレスは逃げ出したい衝動を抑えて勇気を振り絞り、鏡の中の映像を最後まで見届けた。
最初は暗闇の中に浮かぶひとつの白い珠だった。
それが卵割を繰り返すかのように分裂をはじめ、二つに分離される。
分裂はさらに続き、ひとつずつの珠は赤子の姿へと変化していった。
彼らは目を開くこともなく赤子から幼児となり、金髪の少年と銀髪の少女に。観察を続けるメファイストフェレスは彼らが、いつしか全能性幹細胞からノーボディが造りだした神々の双子の記録なのだろうと考えていたが、それが間違いだということにはすぐに気付いた。
特に少女が成長してゆく姿を観察し続けて、メファイストフェレスはある予感が確信に変わった。
そう……片割れの銀髪の少女は、メファイストフェレスの肉体に棲みつき解階を呑み込んで膨化し、解階もろとも吹き飛ばしたあの、忘れもしないブラインド・ウォッチメイカーの仮姿と同じ姿をしていたからだ。
彼らは宇宙の中で対になって生じ、少年と少女の姿へと成長していった。
一方、金髪の少年の姿は成長しても不定形でいつまでも定まらず、少年から青年となったり、少女のように見えることもあれば、突然皺が刻まれて老婆になることもあった。
こちらの少年に面識はないが、恒は……ノーボディには姿がないと言ったことを思い出し、それに加えて織図の言葉で決定づけられた。
姿の定まらない存在はノーボディだ。
『ご高説ですが、分かりかねますな』
織図は普段使ったこともない語彙で茶化す。
『……双子だっていうなら、同時期に生じていないといけない。EVEの他のデータから再計算したファティナの見解によると、ブラインド・ウォッチメイカーとノーボディの年齢にはかなりの差がある筈ですが? 博識なメファイストさんのご意見をお伺いしたいですね』
メファイストフェレスのトンデモな説に呆れているのか、セリフが棒読みになっている。
しかし彼女はその対応が逆に信じられない、といった具合に口をぽかんと開けた。
ぷっくりとした唇が、ぷるりとかわいらしく揺れた。
「お前こそ何を言っているの? 時間を固定する必要なんてないじゃない。ましてや彼らは創世者なのだし」
ましてや彼らは創世者だとメファイストフェレスが強調した真意は、空間を自在に操る彼らの時間の進み方は違う。
正確な年齢など神階の時計でははかれないではないかというものだ。
『あーはいはい、そうですね』
織図は棒読みで彼女の言い分を認めざるをえなかった。
そう、誰がどんな時計を持って時間をはかるかによって、彼らの年齢はどれだけでも詐称できる。
肌年齢、骨年齢などによる年齢測定法と同レベルの信憑性になってしまう。
「誰か居るわ」
電子で構成された仮想の身体であるにもかかわらず、不覚にも織図にも怖気が走った。
「二体の創世者の背後に」
メファイストフェレスはふざけているようにも、織図をおどかそうと工夫しているようにも見えない。
うっかり背後を振り返りそうになった。
『ねーよ!』
「彼らは最初、完全なひとつの自我だった。でもね、“オールド・ワン(Old One)”という支配者に押し付けられた二つの矛盾する課題を解かなければならなかったの。ひとつは生命が恒久に変化し生命活動を維持できる形体と環境の最適解を求めよ。ひとつは、不朽不変にして安定な生命体と環境を求めよ。これはとても残酷な課題よ。同時に解こうとすると悲惨な結果になる。……何故なら課題が矛盾しているのよ。だから彼らは別々の課題を解くため、自らを二つに分けざるをえなかった」
『……それソースどこ?』
さももっともらしく言うが、彼女の自信はどこからくるのかわからない。確かな筋でもあるというのか。
「ソースは日記よ」
ノーボディが残していた最古の記録は鏡の中にあった。
メファイストフェレスが観察し続けた、双子が誕生した映像が終わると、鏡の中に文字が浮かんでは消えた。
彼がこんな日記を文字つきで残さなければならなかったのは、ノーボディの自我がとても不安定なものだったからだ。
ノーボディはいつでも他者になりかわる事が出来たかわりに自己同一性を欠いており、常に自己が消えてしまうという不安に脅かされていた。
大切な記憶を忘れまいとどこかにとどめる癖があったのはそのためだろう。
それがEVEであったり、最果ての谷のジャンクデータだったりするわけだ。
幸いなことにノーボディは何者かから与えられた、彼の存在意義にも等しい命題を鏡の中の世界に保管していたようなのだが、彼は神語を使っていたのでマクシミニマの翻訳機能でそれほど労せずに翻訳できた。
ノーボディがオールド・ワンと呼ぶ何者かによって課題を押し付けられたうえ必ず取り組まなければならなかったのは、それを拒んだとき、彼が存在意義を失ってしまうからだと分かった。
「彼ら、いえ、彼は強いられていたのよ、同時に二つの課題を解くことを。そうでなければ存在することが許されず、無に帰されることになる――」
『おかしくないか? 何でその課題を与えた奴、オールド・ワンだかが“生物”を知っている。生命系はノーボディが発明したものじゃないのか?!』
ノーボディが造ったはずの生命を、“オールド・ワン”が先んじて知っているとすると、歴史にそぐわない。
「時間軸を忘れて、相関関係のみを繋いでゆきましょう。既に、双子であるノーボディとブラインド・ウォッチメイカーの年齢が違うのだから、時間軸を固定するのは無用なのよ」
メファイストフェレスは無情にも、時間軸を切って捨てた。
そうすると問題の本質をあっという間に行方不明にしてしまう。
織図は受け入れられなかったが、彼女はどんどん先に突っ走る。
「思えば、不自然なことだらけだったわね」
神階は確かに人工的で、EVEとの共通点が多くあるわ……と、彼女は考察した。
自我は生命に宿る。
バイタルが尽きると自我は死に脳というハードディスクに電気信号のかたちでログだけが残る。
それを織図や彼の使徒が回収してEVEに連れてゆくことになるが、結局のところそれは自我を移動させるわけではなく、自我の構成を模してEVEでシミュレーションを行っている。
動植物も人間も神も使徒も解階の住民も、自我は柔らかいいれものの中で脳細胞を足場にしてのみ自我を保っていられる。そこにはおそらく自我は再現できていない。
そこで織図はそれを死者の自我や魂と呼ばず記憶と呼んで区別している。
EVEにおける記憶は過去を再生するが、その精神活動を模した電子のやり取りによって未来への価値ある創造が行われる事はまずない。
死者の記した電子のやり取りは精神活動の主体ではなく、かといってアーティフィカルな生命でもなく、ログに過ぎないからだ。
EVEは発展し進化する仮想世界ではないということだ。
文明の進化のための時間は止まって、EVEの中では科学技術のための理論の進歩も、有意義な学術的発見も一切行われない。
乱暴な言い方をしてしまえば……神階はまるきりEVEと同じ構造をしている。
神は生殖能力がなく、進化もせず、感情にも乏しい。
人々や解階のように生命力みなぎる生物ではないのだ。
たとえば……あれは産業革命の夜明けの頃だったか……脈絡もなく、ジーザス・クライストの言葉を思い出した。
神々は、この何千万年という時間の中で、少しでも進化をしただろうか。彼はそう言った。
愚かで怠惰な生物とは、我々のことかもしれぬ。
ジーザスが神々に遥かに劣る人々に魅せられていたのは人々の歩み、そして文明の進歩が着実なものであったからだ。
進化の階段を駆け上る生物階を傍目に見ながら、神階は少しも進化する兆しすらなかったと。
「ひょっとして神は、人類より後に造られたのかしら?」
メファイストフェレスはとんでもないことを思いついた。
ノーボディはまず、EVEで人間を研究し記憶をデータとして扱い易くした。
そこから得られた知見を元に神階を形づくり、神を創造したように見えるというのだ。
そうすると、時間軸のみの逆転が起こっていて、神階や解階より先に生物階があったということになる。
これが呑めるかどうかが争点だ。
織図は呑めなかった。
『いや、それはありえないから。神々がノーボディによって真っ先に造られ、その次に解階が出来たってユージーンも言ってたから。あんとき、お前もいただろ? あのときのユージーンの説明はノーボディから直接聞いてきたものだ、わざわざつまらん嘘をつくかよ』
日本料理屋でのユージーンの説明では、ノーボディがINVISIBLEに取り込まれ、INVISIBLEの体腔で神階を形成したという話だった。
その後、それを見ていたブラインド・ウォッチメイカーが神階を模して解階を形成したと。
ブラインド・ウォッチメイカーは許しがたい敵であって、双子だったなどとは一言も言わなかった。
「それも正しいのではなくて? 郡盲象をなでる、よ」
彼女はユージーンの説を否定しない。
まるで目を閉じたままの者たちが象を撫でるかのように、ある者は象を細長い紐のようなものだといい、うちわのようなものだともいう者もいれば、柱のようなものであるという者もいる。だが、彼らは誰も正しい、そんな具合に。
『つか、むしろそのオールド・ワンがINVISIBLEじゃないのか?』
二体の創世者の創造者がINVISIBLEであったとしたら、INVISIBLEがノーボディを消したのはノーボディが正しく課題をこなさなかったからだということになる。
残されたノーボディの片割れ、ブラインド・ウォッチメイカーはノーボディの課題を補完するのか。それとも、自らの課題のみをこなすのか。
「わからない。……生まれる前の事などわからないように。だれが二体の創造者を創造したのかノーボディも知らないみたい。ただ、虚空から圧倒的な声を聴いたそうよ。従わないことなど許されない、それほどの」
『ああ、そうか』
INVISIBLEがオールド・ワンなら”随分変わり果てたものだ“なんて言わないものな。
ノーボディはオールド・ワンの姿を見ていないということなのだから。
織図は多少は納得している。
これまでと同じようにINVISIBLEの意思だけが、独立していて掴めない。
「ねえ織図。妾はひとつ気になるのだけど。ノーボディは観測者に観測をさせなかったわ。あのとき」
『あのときっていつだよ』
「妾が生物階に召喚され主が首刈峠に向かったときよ。首刈峠はデルタ時間の中で、波動関数が収束しようとしていた」
メファイストフェレスはつぶさに思い出す。
首刈峠に時空間異常、そして重力異常が起こっていたあの日。
確か荻号 要は、観測者が訪れる扉を葬り去ればいいのだと言って……。
相転星を揮い空間の歪みを矯正した。荻号の行動は何ら不自然なことではなかった。
恒がノーボディを呼び、彼はしぶしぶ生物階に降下してきた。
そして風岳村の異変を知り空間矯正を行った。
恒が呼ばなければ、荻号は生物階降下すらしなかっただろう。
『一体、何の波動関数が収束するんだよ。つか、観測者って誰なんだよ』
「観測問題で有名な、“ウィグナーの友人”というパラドクスを知っているわね」
“ウィグナーの友人“のパラドクスは猫のかわりに人間を箱の中に入れるという点で多少違うが、”シュレーディンガーの猫“の思考実験と同類のパラドクスだ。ウィグナーは物理学者ではない友人を密室に入れて、部屋の中にある50%の確率で明かりが灯るランプが点灯したかどうかを(これは量子状態を反映している)、のちに部屋の外から電話をかけるウィグナーに教えてほしいというのだ(訪問して結果を聞くというバージョンもある)。
このとき、ランプが点灯するという観測結果はどこで決定するのだろう。
密室にいる友人がランプの点灯するのを見た瞬間なのか、それともウィグナーが友人に電話をかけて点灯状況を聞いたときなのか。
そこで観測問題という大きな問題が立ちはだかる。
観測の主体は誰であるのか。誰が観測すれば波動関数は収束するのだろう?
観測するのは誰であるべきなのだろう?
この観測問題を解いた物理学者はまだ、いない。
だがあの日、観測者はそこにいた。
「ランプの点灯状態。つまり波動関数の収束の結果を聞かせてくれと言ったのは、ウィグナー教授だったわね?」
実はずっと前からその場所は分かっていて、観測者は暗示していたのかもしれない。
「観測者は確かに結果を聞きに来たわ」
ノーボディと恒、皐月の三者が社務所でやり取りをしていたとき、恒はINVISIBLEが観測者なのだろうという疑いを持っていた。
また、ノーボディは皐月の数式によって首刈峠で何が起こっているのかを知り……波動関数の収束がまさに起ころうとしていることを把握した。
皐月と恒はノーボディに詰め寄り、どうやって波動関数の収束を防ぐのか、どうやって立ち向かうつもりなのかと訊ねたときだ。
ドアが開かないと、この時間は切り捨てられてしまう――と、皐月が狼狽すると、ノーボディはそこにドアがあったことを、”ウィグナーの友人”に忘れさせてやる。
つまり、”ウィグナーの友人”が、観測できないようにしてやる、それが相転星にはできる――と、答えたそうだ。
だから観測者は波動関数収束の結果を観測できていない。
『おい……』
またこじつける、織図はそう言おうとしたが。
それは間違いだということに気づいた。
「織図、まだ気づかないかしら。ウィグナー教授の名前は何?」
『嘘…だろ……?』
ウィグナー教授の名……ユージーンだ。
メファイストフェレスは軍神ユージーン・マズローが物理学者ユージーン・ウィグナーと同一人物だなどとは言いたいのではない。
何だ、この気色の悪い些細な偶然の一致は。
ユージーンという名はギリシャ語で“良家の出身”という意味を持つ英語圏の伝統的な男性名でとりわけ珍しい名ではなく、織図が知るだけでも同じ名を持つ死者はそれこそごまんといる。そして、彼を名づけたのはノーボディですらない。
総務省の神々が過去のしきたりに従ってそう名づけただけだ。
更に、ウィグナーの友人のパラドクスが世に知られるようになる頃には、陽階神ユージーンはとっくに軍神となって、第二次大戦に介入していたところだ。
第二次大戦を連想してまた、織図の体感温度はさらに10度ほど下がった気がする。
そういえば……
『ちょっと待てよ……ユージーン・ウィグナーは原爆開発にかかわってなかったか?』
原子爆弾の開発は、軍神ユージーンが直接介入し人類に授けた負の遺産だ。
「ええ、マンハッタン計画に参加しているわ」
『じゃ、会ってるな。軍神はウィグナーに直接会ってやがる』
軍神ユージーンはマインドコントロールを駆使しマンハッタン計画によってアメリカに2500人もの科学者をつどわせ、その巨大な組織を事実上の支配下に置き、彼らの行動を個人レベルで自在に操っていたといわれている。
表向きにはナチスドイツが核兵器を手にすることを恐れ、人類の疲弊と暗澹たる未来を断ち切るための苦渋の決断だったという説明だ。
結果的に原子爆弾を投下させてしまったという大罪を犯したが、あの時代、核物理学はマンハッタン計画によって飛躍的な進歩を遂げ、その科学的恩恵は計り知れない。
ユージーンの功績は神階でのみ高い評価を受け、この一連の業績によって彼の枢軸への大抜擢が決まった。
織図は次第に、ことの重大さがわかってきた。
ユージーン・マズローはそれが永続的にだとは思わないが、おそらく彼の意思にかかわらず意図的に歴史の分岐点に介入している。
偶然の名前の一致だが何者かが意図的に配置したかのように、あの日、あの場所は観測者によって暗示されていたのだろうか。
波動関数など収束しなくてももともと、観測すべき事柄は全て決定されているということなのか。
軍神の生まれた過去、ユージーン・ウィグナーが生まれたもっと以前から“ウィグナーの友人“のパラドクスを知る何者かがいた。
未来の事象を知る何者かが、過去、現在、未来を統べる者が……そこにいたのだ、としたら。
「織図。相転星はノーボディが手にしていたけれど、もともとはINVISIBLEのもので、三階唯一の時空間歪曲神具なのよね? ノーボディは皐月にそう言ったようだけど」
『ああ。そうらしい』
相転星はINVISIBLEの持ち物だったある物質を加工して造られたといわれている。
だからこそ三階で唯一、時間と空間を自在に操る事ができるとされていた。
荻号は相転星に厳密な触性抗体を付与し、決して他者の手に渡らせなかった。
メファイストフェレスはさらに一歩踏み込む。
「それを使えばひょっとして未来や過去にも、行けたりしない?」
メファイストフェレスは滝の中に堕ちてゆくように、確かな記憶を辿ってゆく。
彼女は確かに死者であるが、その記憶はデジタル化されてより正確性を増して、彼女の身に起こった出来事をつぶさに覚えている。
忘れもしない、二年半前のあの日、たしか豊迫 巧は朱色の鉄塔のある昭和初期の風岳村へ迷い込んで死んだ。
恒はそう言った。
あのとき、過去への扉は開き未来と繋がっていたということなのだ。
恒はもっと、時間軸が狂わされていた意味を声高に叫ぶべきで、神々もそれを追求すべきだった。
過去と未来が複雑に、しかし緊密に絡み合っているなら。
きっと全ての謎に答えがある――。
雨はいつの間にか降り止んで、EVEの空に円い虹がかかっていた。