第2節 第27話 Qualia
織図のガイドに従って特務省の下側の通風孔から飛び降りた恒の真下に、見なれたオレンジのラインのバスが細い山道を走っているのが見える。
村を出る峠道はかなりの高低差があり、バスは山の頂きにさしかかっているところだった。
そこへだ。
特務省が丁度峠道の上に沿って、それもバスからわずか数十メートル脇の近距離を飛行しているのが見える。
特務省の周囲には揚力を維持するための強力なバリアが張り巡らされており、一定以上の速度と質量を持って侵入してくるありとあらゆるものを粉砕する仕様と見受けられる。
特務省のバリアは飛翔中の野鳥を傷つけない、たとえ人間や野生動物が走ってぶつかってきても傷つけないだろう、だが走行するバスだった場合、艦体の外壁を傷つける危険物とみなし傷害する。
このままバスが速度をもって特務省のバリアに触れるとどうなるのか、目に見えていた。
民間人を巻き込むことを決して是としない特務省もその巨躯のため、死角となっているバスの存在を察していない様子だった。
ここから特務省に怒鳴っても聞こえはしないから、バスを避難させる方が手っ取り早いに決まっている。
真っ逆さまになって落下しながら瞬時にバスに降りかかる危険を把握したときから、まず恒自身が地表に激突することを防ぐと同時に、守るべきものが増えた。
「ダメだ! 止まれ!!」
停止させて、特務省を先に通過させるんだ!
さもなければ……特務省のバリアに触れた瞬間、木っ端微塵になるだろう!
恒は、地上へのソフトランディングの為に展開していたFC2-形而立方体の防御的構成を崩し、迫り来るバスのスピードを殺すために運転手にマインドコントロールをかけるべくMCFを展開した。
慌てているからこそ慎重に比較的丁寧なコマンドで、きびきびとオーダーを下す。
" Start up the Fundamental Control Double Metaphysical cube, interfere the objects 300m in radius.!"
(根元事象二重制御―形而立方体を起動、半径300メートルの事象に干渉せよ)
“Rule the brain of the person of current coordinates (20119, 54022, 20401)”
(現座標20119, 54022, 20401上にある人間を支配下に置く)
運転手の脳をFC2-Metaphysical Cubeのブロックが捕捉し、ギリギリと狙いすました。
神々は人の記憶を丁寧に扱わないが、恒は違う。
恒は神具を介してでも人間の脳を支配することに、他の神々以上に細心の注意を払う。
妙な部位に干渉して少しでも記憶に傷害を残してはいけないという思いからだ。
それに初老のバス運転手、浜本とは顔見知りでもある。
浜本はこの村に住む運転手で、彼の孫 ムサシは恒と同級生だった。
まだ恒が不登校児だった頃、志帆梨の見舞いに行く恒を乗せて隣村までの長い道のりに、悪い事はいわんから学校へ行きなさいと何度も浜本に説得されたものだ。
「学校に行かんとろくな人間にならん、母さんも悲しむぞ」と言われ続けて耳が痛かった記憶がある。
有難いお説教に辟易して、浜本の声が聞こえないよう後部座席に乗ろうものなら、今度は車内放送で説教をやられる。
たまったものではなかった。
今思えば親身になってのアドバイスだったのだろう、しかし当時はそれが煩わしくて、恒は隣村への交通手段にJRを使うようになってしまった。
浜本には心配をかけたと思っている。
だから、今度は恩返しをしなければ。恒は事象を確定する。
“Order him to stop bus!”
(バスを止めろ)
「……!?」
バスは減速する気配すらなかった。
浜本に、よりによってマインドコントロールが効いていない!
そんなことがあってたまるか。恒が自力で強制的にかけたものではなく、神具による適切かつ強力なMCFだ、効果がみられないとなると……これも生物階で起こった数々の異変に関係しているのか。
原因を追究している暇もなかった。
このとき、恒は知らないが直前に荻号が浜本にマインドコントロールをかけていたのだ。荻号の施したそれを、たとえ神具を用いたとしても恒が覆せるわけがない。
とにかく、バスが突進してくる状況は先ほどと何も変わらない。
「何なんだよ……」
愚痴りながらも、再度神具を啼かせた。
FC2-メタフィジカルキューブが行使できる限り、その機能を最大限に活用する。
“Cubic crystal structure collapse”
(立方晶結晶構造崩壊)
“Catch it by a high resolution”
(対象物を高解像度で捕捉)
“Restrain this object by 4 times gravity, and stop moving.”
(4倍の重力で拘束し静止させよ)
浜本がブレーキを踏めないのなら、物理的に、それこそ力ずくで止めるまで。
迷っている時間はなかった。彼は神具のグラフィックを1cm角にまで圧縮して崩し、百メートル上空からバスを追うように投射。
一個一個に至るまでアトモスフィアを通じた従順なブロックは、恒の意思に従って磁石のようにバスの壁面に張り付いては局所的重力場を発生し、重石となってバスの運動エネルギーを殺ぐ。
簡単に言ってしまえば、バスの下部を4倍重くしたのだ。
あまり重すぎるとタイヤがパンクするので加減した。速度が緩む。だが完全に停止はしない。
「げ! 大丈夫かな……」
“Make it heavily up to twice”
(さらに2倍に)
タイヤのパンクを懸念しつつ、さらに2倍の重力を浴びせかけた。
もともと生物階一帯が重力異常を起こしていたことも相乗してか、さすがにスピードが落ちてバスはタイヤ痕を残し停止した。
浜本はおそらくまだ、アクセルを踏んだままの状態だろう。
人々を守ろうとした少年神の孤軍奮闘ぶりも知らない特務省が、バスのすぐ上空を悠々と通り過ぎていった。
バスも鉄粉にされることなくやり過ごしたようだ。
バスを止めてほっとしたのも束の間、恒はといえばあと数秒で山中に墜落するところだ。
彼は今もバスに影響を及ぼしている神具でのソフトランディングを諦めて、生還するため物理的な緩衝を行わなくてはならなくなった。
腰から抜いた愛用のナイフにアトモスフィアを通わせ、できるだけ高木をめがけて落下する。
「……っ!」
高度が急激に下がり、まさに木と彼の身が並行となったとき、ナイフを逆手に持ったままそっと太い幹に触れる。
ナイフが縦一文字に幹を引き傷を残すが、恒は徐々に力を込めてナイフを木肌に深く穿ちこんでゆく。
ナイフが刺さるとともに重力加速度が殺げて減速し、その抵抗で身体は縦に引き伸ばされて強くしなる。
だが落下は止まった。
ぶらぶらと宙吊りになった状態で、深い深いため息をつく。
バスもだが、恒も何とか無事だった。
片手で宙吊りになったあと、アトモスフィアを断ちナイフを引き抜いて宙返りをうち着地した。
水上には水上の、山林には山林の着地法があるのだろう。
だから昔からナイフは一本、人間社会の銃刀法に触れない程度の刃渡りの短いものを携帯しておく。
神具が使えなくなっても、飛翔できなくなっても、どんな時も冷静さを忘れない性格に命を救われている。
ただ、ずっと幸運が続くとは思わない。
「いてっ……」
無理な事をして、腰をいためた。
それはともかく、乗客の様子はどうか。
急停車をさせて驚かせてしまったが皆無事なのか。
高齢者ばかりが乗っているだろうから、体をぶつけたりしなければいい。
そんな思いで車道を見ると、バスの内側からガラスを叩く音が聞こえてきた。
どの顔も、互いによく知った顔ばかり。
ああ、兼橋のおばちゃんに朱音の母ちゃんもいる、魚屋の三笠さんに、旅館のおじちゃん、皆元気そうだ、と彼は胸をなでおろす。
窓ガラスをあけて身を乗り出した女性が彼を呼んでいた、志帆梨だ。
恒は拮抗させているFC2-メタフィジカルキューブの効果を絶やさないよう集中を続けながら、何食わぬ顔で母親のもとに歩み寄る。
アトモスフィアを喪失し壮絶な負荷がかかっていても、志帆梨にだけは辛い顔を見せたくない。
彼女はまた、そんな姿を見せるとすぐに泣いてしまうから。
「よかった。ちゃんとバスに乗ってて」
心からの気持ちだった。母親だからといって、恒は彼女を特別視してはならない。
他の村人と対等に接するのが正しい。だから言葉には出さず、思いにだけ込めておく。
「急に驚かせたね、ごめん。みんなに怪我はない?」
優しく語り掛けても、志帆梨は半ば涙目になっていた。
「ここで何をしているの!」
恒は左手にナイフを、右手には神具を持っている。
今も神としての仕事の最中だということは志帆梨からは容易に見て取れる。
神具を握る手が筋張って、蒼い光を帯びていることを見逃さない。
小さな生傷がまた増えている。それに気付かれることを、恒は嫌がる。
「お前は理由も話さず、いつも急に……!」
恒はナイフを収めたその手で志帆梨の手を取った。
彼女は恒の手を握り締め、頬に触れる。
その温かさにあずかって彼はようやく生きた心地がした。
泣き出しそうな志帆梨と視線が合うと同時に、彼女がこのバスに乗るまでに背筋も凍るような体験をしたということも窺い知る事ができる。
彼女はつい25分ほど前、思いがけない場所で遼生と遭遇した。
彼女は遼生に助けられ、危うく山崩れから難を逃れたのだそうだ。
が、志帆梨は彼を巨大な翼を持った天使だと記憶している。
どうしたことだ、遼生が使徒であるという事実はさておき、白衣を纏っていたときに見えた彼の背に翼などなかったし不可視化装置すらも帯びていなかった。
何らかの方法で翼を不可視化していたのか?
遼生の何を見たのか志帆梨に問いただしたかったが、バスの窓が次々に開けられて村人達が身を乗り出してくる。
風岳村であまり芳しくない変異が起こっているということだけは分かった。
「恒ちゃん、なにしとるんね! 早く乗りんさい! 逃げ遅れるよ!」
兼橋がひときわ甲高い声をあげ、恒を呼ぶ。
「いいから、お前も乗りなさい、恒!」
志帆梨が強く言っても、恒は聞き入れず彼女の手をほどいて半歩下がる。
息子はここに留まり、何がしかの任務を遂行するつもりなのだと分かる。それを止めることも、どうすることもできない立場の弱さが辛い。しかしどれだけ無駄な抵抗と分かっていても、彼を連れ戻したい。
そんな思いで身を乗り出して窓から出ようとしたら、厳重に金縛りをかけられていた。
彼はその気になればいとも簡単に人心を操ることができる。
普段は決して、そんなことはしないけれども。
親子の間だけに流れる、静かな時間があった。
「恒……金縛りをときなさい。お前を置いて、行ける訳ないでしょう」
「ごめん、母さん」
志帆梨が恒と過ごしたこの二年半の間を振り返ってみれば、彼はまだ志帆梨に恒を叱らせてくれていた。
叱らせてくれたというと妙だが、恒は完璧ではなかった。
たとえば引き出しを閉め忘れたり、靴下を脱ぎっぱなしにしたり、好き嫌いがあって野菜を残したり、そこで志帆梨も母親らしく彼を叱ることも、場合によっては(軽くだが)手を上げることもできた。
しかし志帆梨は知っている、彼がわざと志帆梨を怒らせるきっかけを作っていたということを。
本当は彼には食べ物の好き嫌いなどないし、辞書一冊をまるごと暗記することのできる頭脳で買い物をど忘れもして照れくさそうに戻ってくることもできないだろう。
ものの数秒で解ける数学の宿題をせずに教師に注意される事も、本当は不可能だ。
恒は志帆梨に、母親として無力感を感じさせないために、それらの小さな失敗を繰り返して彼女を安心させてきた。
そのことに気づいたとき、志帆梨は親としての不甲斐なさに泣いた。
そしてどんなに恒を叱っても、志帆梨はひとつ、これだけは直せなかった彼の悪癖がある。
彼は嘘つきだ。しかも、相手を思いやるがゆえに嘘をつく。
「大丈夫、すぐ行くよ。心配いらないから」
これも嘘だ。大嘘だ。
“ああ、私はたった一度だって、お前を助けてやれたことなんてない。一体いつになったら、私はお前の母親になれるというの……“
志帆梨はわなわなと震え、悔しくて奥歯をかみ締めた。
そんな志帆梨の後ろから皐月も顔を出した。
「藤堂くん! 何を言ってるの! あなたも早くバスに乗るのよ!」
身体をはみ出さんばかりに手を伸べた皐月からは紛れもない荻号の気配がした。
それだけではない、少し集中力を高めればバス全体に荻号のアトモスフィアが浸透している。
ああ、なるほどね。
と恒は得心した。荻号が先にMCFをかけていたので浜本はブレーキを踏めなかった。
荻号のやり方は神具を用いない乱暴で強制的なものだから、後遺症が残っていないといいけれど。
何も手を打たなければむこう一週間、浜本には“アクセル全開!”と暗示がかかってしまっただろう。
浜本は恒の姿をみとめて昇降口を開けようとしているのだろうが、荻号のマインドコントロールに逆らうことができない。
身体の自由がままならない代わりに、彼はバスの中から叫んだ。アクセルを踏んだまま。
「ドアが開かん! 乗れえ! 何とかして乗れえええ! 窓から乗れええ!」
恒はバスから少し離れ、運転席でわめき散らす浜本に狙いすまして片手をかざした。
息を止め、瞳を閉ざして集中し、次の瞬間、あらん限りに見開き浜本に向けて掌底を繰り出す。
圧縮されたアトモスフィアが弾丸となって窓ガラスを透過し浜本に繰り出され、その圧力で荻号のマインドコントロールを蒸発させ希釈する。
荻号の業を覆すことはできなくとも、影響を弱めることはできる。
というのは、荻号が浜本に与えた暗示に愚直に従うようだと、浜本の判断力を一切無視したものとなっていて危険だからだ。
この様子だと浜本は村人数十人を乗せたままどこかしらに衝突し、悲惨な交通事故を起こしかねない。
荻号は交通事情に疎いので、バスを電車のように一直線に走る乗り物だと考えている。
「安全運転でよろしく。浜本のおじちゃん」
彼は柄にもなく、にこやかにそう述べた。
「恒―――! 馬鹿やろう――!! このクソがき!」
浜本は顔をくしゃくしゃにして、千切れんばかりに首を横に振った。
かつて村一番の悪童といわれた恒が見せたぎこちない笑顔、不器用で取ってつけたような別れの言葉のように聞こえたからだ。
村を脱出する交通手段はもう存在しない。恒は未成年だ、車も運転できない。
たとえ自転車があったとしても、広岡市までは数十キロもあって追いつかない。
政府は、地上に残る者の意思も尊重するという立場を明確にしている。
彼は救われず、荻号とともに、村に残るのだろう。
“Restructure the cubical crystal.”
(立方晶系を再構築せよ)
恒は固く握り込んでいた右手を開いて、バスの周囲に張り付かせていたFC2-メタフィジカルキューブを一気に手の内に呼び寄せた。
1cm四方の黒い立法体のブロックが恒の手の内に集合し、黒単色の小さなルービックキューブを作り上げてゆく。
重石を取り除かれたバスがまた、タイヤを軋ませじりじりと加速をつけて走りはじめた。
「恒――!」
志帆梨のか細い声が、ちらつき始めた粉雪の峠道に寂しく響き渡った。
バスはまたしても、乗るべきものを置き去りにした。
*
地球をグラウンド・ゼロのある座標からどこか安全な場所に移す。
もし決行するなら、いつにすべきか。レイアは悩んでいた。
神階の分門はいつも神階を捕捉している。
たとえどこにあっても生物階と神階を結ぶだろうが、実行しようものなら各方面への影響が大きすぎるので、できればX-dayの直前が望ましく、全ての人々が神階に避難を完了した後の方がなおよかった。
理想はそうだ……だが、果たしてレイアはX-デイの直前まで、この場所に立てこもっていることができるのだろうかという見地からも考えなければならない。
荻号に比肩する者はないと、恒からは聞いている、しかし……特務省で見えたバンダル=ワラカの力量は相当のものだった。
バンダルの器量は荻号より上なのか下なのか。
それらを総合して考えて得られた結論は、今は安全でもいつまでも安全であるとはいえないことだ。
それは……今、なのだろうか。
“生物階を動かしても、あなたは止めませんよね?”
彼女は虚空に語りかけ、耳を澄ませてじっと返事を待った。
瞑目して息を止め、心は決まった。
そうと決まれば、ここから脱出する方法を探さなければならない。
“この部屋は、一体どんな仕掛けになっているのでしょう”
まず部屋の構造から確かめようと、ソファーのうえに立ち背伸びをして慎重に壁に手を伸べ沿わせる。
壁の中から紅い張り紙が突然現れ、小さな両手が紅い呪符の上に重なった。
はっとして振り返ると、フローリングに、部屋の白壁に、キッチンに擬態しフラーレンが潜んでいることに気づく。
その一枚一枚には強烈な排除機構が働いているのだろう、呪符の幾何学紋様がまるで意思を持っているかのように変形し蠢き、次から次へと万華鏡のように柄が変わる。
えもいわれぬ不気味さに、怖気がさした。
さらに……
“!?”
不意に襲われた痛覚に驚いて手を引く。
レイアは全神具適合性を持っておらず、神具の触性抗体が彼女の手を痺れさせたのだ。
フラーレンは部屋の隅々にまで張り巡らされている。
もしも彼が一枚一枚、裏に糊付けして部屋に貼ったのだとしたら凄まじい労力だ。
わずかスプーン一本すら脱出不能な3.5次元のこの部屋、荻号の家の二階。
彼女がいるのはフラーレンによって隔てられた荻号の結界の中だ。
つまりは、フラーレンを1枚ずつ剥がせば外に出られそうだが……彼女はそういえばと思い出して、キッチンからコテを取り出して呪符を剥がそうと試みた。
このコテはお好み焼き用のコテなのだが、こびりついたものを剥がす場合にも具合がよい。ところがいくらコテで剥がそうとしても、コテが呪符の端に引っかからない。
確かに呪符は薄いが、薄さのせいだけではないようだ。
そこは超神のアトモスフィアの通った攻防一体の超神具・フラーレン C60、呪符そのものも堅如磐石だ。
彼女は呪符に触れて痺れた片手をさすりさすりした後、おもむろに胸元に手を差し入れた。
いつも身に帯びている、豪華な宝玉のネックレスを引き出す。
ペンダントトップの直径2cmほどの金色の球体を抜き取り、ころりと掌に握り込んでいた。
彼女が手にするペンダントトップは比企が彼女に与えた護身のための神具で、“須弥仙種(しゅみせんじゅ:Sumeru Seed)”といった。
フラーレン C60、相転星に並ぶいわゆる超神具と呼ばれる類のものだ。
コマンドを与え手印を結ぶと所有者のアトモスフィアを吸収し多種多様な華を咲かせ、華に応じた験を顕す。
特徴的なのが、超神具と呼ばれるフラーレンや相転星と違い、アトモスフィアの寡多如何にかかわらずアトモスフィアが適合すれば誰でも手にすることができるということだ。
ただし黄泉花との異名も持ち、神具を起動して咲かせるたび膨大な生命力を奪われるため、誰が手にしたとしても例外なく、たった2回の使用で所有者を死に至らしめる。
したがって、生涯に一度きりしか使用できない神具という大変ないわくのついた代物で、誰も所有したがらない。
が、不滅の彼女は際限なく使用できる。
『汝にも護身具のひとつは必要だ』
レイアが二歳になった日、比企はそんな言葉とともに彼女に須弥仙種を贈った。
比企が何の為にレイアにこれを持たせたのか、彼女は当初、比企の意図をはかりかねた。
誕生日プレゼントのつもりだろうね、と後で恒に教わったが、比企はなにかとレイアに厳しかったので理解に苦しんだ。
比企にも恒(正確には恒は一度だけなら触れられるが)にも触れられない神具で、レイアは神具のナビゲート機能を利用し、少しずつ独学で学ぶしかなかった。
毎日の勉学と共存在の修行の合間に、この負担。触れられるからといって扱えるかというとそんなことはない。
比企から拝領したものだから早く習得せねばと気は逸っても、超神具はなかなか懐いてくれなかった。
うまくいかず悩むうちに果たして護身具なんて必要なのだろうかと、レイアはそんなことを考えはじめた。
何か危険なことがあったとして、護身具で身を護って無事でいることが果たして比企や恒にとって、神階にとって、生物階にとって喜ばしいことなのだろうか。
本当は自分など、いなければよかったと、誰よりもレイアが思っていたのに。
超神具を帯びて身を守る権利などないのではないか。
そう考えた途端に、神具の扱いに身が入らなくなった。
“比企さま、これはお返しします。わたしには身を守る権利などありません”
悩んだ末、比企に神具を返そうとした。
いつもなにかとレイアに厳しくあたる比企が珍しく、頭ごなしに怒らなかった。
もしかすると逆鱗に触れるかもしれないとびくついていたので、肩透かしをくらった気分だったのを覚えている。そのとき比企が彼女にかけた言葉が今も鮮明に蘇る。
『手放すならそれもよい、だが神具を放棄し傷つくことで一体何とする。それに……護るのはなにも己が身ばかりではなかろう』
ああ、そうか……これはわたしの身を護る為にでなく、誰かのために使おう。こんなわたしにも、誰かを救うことができたなら……。
誰かに迷惑をかけるばかりで、何もできないと思っていた。
レイアは比企の言葉に救われて奮起し、ごく短期間で超神具を学び修めた。
そして今、彼女の個有の神具として須弥仙種を手にしている。
“きたれ・胎蔵界・呈華・霊瑞華”
彼女が球体を振るたび、澄み切った鈴の音がする。
それをおもむろに、フラーレンに向けて吹き放った。
空中に放たれて美しく弧を描くうち、両手を交差させて小指を絡め降三世印を結ぶと球体がひび割れて、目を射るような眩い光とともに十二枚の小さな金色の芽を吹き、蔓を伸ばしやがて花弁が折り重なり大きな白い花を咲かせる。
仏教では三千年に一度咲くといわれる霊瑞華を中心に、周囲に幾重にも曼荼羅のような白い光の幾何学紋が環状に編みこまれて可視化されたまま保たれている。
“神力大光を演べ 普く無際の土を照らし 三世の恐懼を降し 三垢冥を消除して”
光彩陸離として輝きを放ちはじめた霊瑞華を左手に乗せ、右手で施無畏印を結ぶ。
発声のできない彼女にうってつけというか、須弥仙種は音声コマンドによってではなく所有者の意思を解読して応答するタイプの神具だ。
彼女は発願し印を結ぶことによって神具に命じている。
だからこそ当初は、コマンドを意思に乗せて正確に神具に伝えることに苦心したものだ。
“いま 一切の自在を得たり”
彼女の意思に呼応するかのようにフラーレンの毒花のような紅色が朽ちて色あせ、呪符の効果が失われてゆく。
フラーレンは荻号のアトモスフィアを失って、カナリア色となってしまった。
フラーレンで支持していた部屋の結界の一角が崩されたことによって、空間が歪む。
業を成すと、諸行無常を顕すように咲き誇った曼珠沙華の光は儚く失われ、花弁ははらりと散り、種子を実らせ須弥仙種の姿へ戻る。
レイアの手の中に再び小さくころりとおさまったとき、彼女は荻号の家の二階廊下に立っていた。
足元には、先ほど放ったティースプーンが落ちている。
束の間の夢から醒めたようだ。
吹き抜けの階段の下に、寒々しく荻号の家の階下が見えた。
ほっとして階段を降りようとしたときだ。
彼女の足元にふっと先ほどの見慣れた呪符が浮かび上がり、廊下の壁面の複数箇所から呼応するように呪符が現れた。
トラップを踏んでしまったようだ。
織物を縫いあげるかのように、赤色光で呪符と呪符を瞬く間に結び、階段へ進路を厳重に封じる。
そればかりでなくレイアの神体は強く弾かれて階段と反対方向に推し戻される。
われに返ったときにはまた、さきほどのキッチンとダイニングのある部屋に閉じ込められて、室内は静まり返っていた。
レイアの努力は徒労に終わり、ふりだしに戻った。
“さすが……”
フラーレンの結界は険しい連峰のように、幾重にも重なっていた。
*
「この夢を整理したら、時計職人が何をしているのか分かった」
アルシエルは不可侵の聖典を開いて巨槍グングニルを格納し、本の表紙についた砂埃を払ってよろりと立ち上がる。
うつろな記憶を辿っているようだった。
体調はまだすぐれないが、記憶がたしかなうちに話しておきたいという本人の強い希望があるようだ。
それが真実であるかどうかはさておき、これまでにブラインド・ウォッチメイカーの意図に迫った者がいただろうか。
「無理をせず、少し落ち着いてからでも」
ファティナはアルシエルを支えて背をさすり体調を気遣ったが、アルシエルは貴重な証言者であることを自覚しているからか、途切れ途切れに語り始める。
彼女にはすぐに打ち明ける義務があると感じているようだ。
「INVISIBLEはあまりにも巨大になりすぎたために……創世者としての死を迎え……消滅する。時計職人はINVISIBLEに代わる新たな創世者に成り代わろうとしているようだ」
何気なく聞いていた遼生と、身を乗り出していたファティナの間に衝撃が走った。
宇宙の膨張がとりわけ近年、加速しているということはかねてより観測され、また議論もされてはいたが、INVISIBLEがそう遠くない未来に死ぬものとは、誰も提唱などしていない奇説だ。INVISIBLEの創世し所管する宇宙空間が膨張し巨大化するということは、必ずしも彼が強大化しているという意味ではないということだろうか。
物質と物質の距離があまりにも離れ物質間に相互作用すら起こさなくなったとき、全ての時間は止まり、宇宙は冷え切って熱的死を迎える。
その部分について、ファティナも遼生も否定はしない、ただしそれは何億年単位後に起こるイベントだ。
まだ、物質と物質の距離が離れすぎるまで深刻な事態には至っていない。
その見解はあまりに悲観的すぎる。
ファティナはINVISIBLEの滅亡そのものが不可能だといわんばかりだ。
「INVISIBLEはなお強大で、それに今すぐに死を迎えるとは思えません」
たとえ、衰えているとは仮定しても。
「我にもそう窺えた。INVISIBLEが現在かろうじて物質の求心力と定常状態を維持しているのは、その体腔に二つの創世者、ブラインド・ウォッチメイカーとノーボディを擁していてこそだというのだ。ノーボディが唐突に失われたいま、危うかったバランスは崩壊しINVISIBLEは世界を維持することができなくなった」
それが、生物階に次々と起こる重力異常、斥力異常などの物理法則崩壊の真相だというのか。
創世者の大小で比較するならINVISIBLEが最も巨大で、ブラインド・ウォッチメイカーはノーボディと同格で矮小だ。
これはEVEのハードディスクから探り当てたノーボディの記録で裏付けがあるため、アルシエルの言葉には信憑性がある。
その二つの小さな創世者が、巨大なINVISIBLEを支持していたというのか!
アルシエルの告白はあまりに衝撃的で、理解はできてもファティナには飲み込めない。
そしてノーボディを滅ぼしたのは時計職人ではないようだ、ではやはり……という思いがファティナに過ぎる。
「喩えれば、粗末なあばら家の二本柱のようなものだ。一本でも柱が崩れれば……わかるな。そこで時計職人は三階を統合し、宇宙を縮小しようとしているようだ。もはや彼女はINVISIBLEをすら必要としていない」
アルシエルにしては分かりやすい喩えを持ち出してきた。
大きければ支えられないにしても、家を小さくすれば一本柱でも支えられるだろうという発想だ。
二柱とひとりはぶらぶらと、どこへ向かうでもなく村の畦道を歩き始めた。
遼生は川をひとつ隔てた遠くから、バスのエンジン音が聞こえた気がする。
志帆梨はバスの発車に間に合っただろうか。
そんなことを気にしながら、後ろを振り返ってみたりもした。
「時計職人は地上の生物をどうするつもりなんです?」
ファティナは重要な事を忘れていない。
世界をコンパクト化する破壊と創世が行われることが何を意味するのか。
振り返ってみれば解階の破壊はその、ほんの序章にすぎなかったのではないか。
解階を壊し、生物階を侵した事は彼女の計画の本質ではなく、ほんの副次的なものでしかなかったのか。
「どうするつもりもないが、彼女が新たな宇宙を創造したときに全て更新される。しかるべき土壌を整備し一から創りなおし、新たな種子を撒こうとしている……意外なことに、ブラインド・ウォッチメイカーは現在の三階に執着にも似た愛着があるようだ」
アルシエルはあたかもブラインド・ウォッチメイカーと話してきたかのよう。
アルシエルは夢を逐一もらさず記憶しているらしい。
その記憶力のよさが、今はなにより頼りになる。
何しろ、ブラインド・ウォッチメイカーの意図を知る事などできなかった。
ブラインド・ウォッチメイカーがX染色体上に宿ることにより過剰発現された化合物が、宿主の体をじっくりと融蝕し神経に作用してしまっていたのだから、正気を保っている事は不可能だ。今回は憑依の初期段階での遼生の遺伝子治療と、スーパーフィーメルであるアルシエルの肉体の強靭さがあってはじめて可能となった。
「愛着があるのに、破壊するのですか?」
ファティナが鋭く指摘したように、ブラインド・ウォッチメイカーが企てていることは大きな矛盾を抱えている。
普通の感覚だと愛着があるものは保護したくなるのではないか。
愛着があるがゆえに壊すとは一体どんな状態なのだろう、と唖然だ。相反している。
「愛着があるからこそ、凋落するINVISIBLEに代わって新たな世界を創り、生命活動を継続させることを望んでいる。INVISIBLEの手に委ねていては破滅あるのみだと……というのが彼女の言い分だが、真相は分からん」
「不思議なものですね。……その話だけ聴けば、何だか時計職人に理があるような気がしてきましたよ」
ファティナが真面目に茶々を入れれば、遼生がさらに質問を重ねる。
「しかし“彼女”は解階を舞台に、創造と破壊をこれまでも繰り返してきたのでは?」
「INVISIBLEに背こうとしているのは今回だけだ。たとえば。もし重大かつ失敗の許されない試みを企図したとき……それが実現可能かどうかを、どうにかして試さないだろうか」
これまで彼女 ブラインド・ウォッチメイカーが無慈悲に繰り返した破壊と創造は、壮大で数え切れない試行の数々は……INVISIBLEに叛旗を翻す日のために備えた予行演習だったというのか? たしかにブラインド・ウォッチメイカーは過去一度も、No-bodyはともかくINVISIBLEを侵したことはない。
謀反決行のための準備を、着々と整えていたのだとしたら!
アルシエルは冷静に、つとめて客観的に述べながら、……ずっと解階はブラインド・ウォッチメイカーの予備実験に付き合い続けていたのだなと儚んだ。
時計職人はただ、神に似た生物を創りたかっただけだ。
時計職人が何度解階を破壊してもずっとその有様をとどめたいと願ったのは解階のではなく神階だった。
彼女は神を、そして究極の生命体ともいえる絶対不及者に限りなく近い生物を創り上げようとしていたのだろう。
時計職人はINVISIBLEの収束を望んでいる。
巨大なINVISIBLEを矮小な時計職人が破壊するためのほとんど唯一といっていいチャンスは“その時”しかないように思われた。
INVISIBLEが絶対不及者に収束する、すなわちエントロピーが低下し平時より弱体化しているとき――。
INVISIBLEに敵して収束を阻む者は、間接的に時計職人の敵でもあるということだ。
だから真っ先に絶対不及者抗体である藤堂 恒に、あるいはノーボディに時計職人の矛先が向いた。
ともあれX-デイの後INVISIBLEが優ったとしてもブラインド・ウォッチメイカーが優ったとしてもどちらにしても、三階の破滅は免れないようだ。
破滅を甘受するのか。抗うのか。
愚問だ。
結局のところ、アルシエルのとるべき行動は変わらない。
「アルシエル……あなたのおかげで三体の創世者の立場が霞の中に見えてきたような。そんな気がします」
ファティナはそう言って、トレードマークのピンクのボーダーのマフラーをかたく巻きなおした。
遼生はといえば、外気に裸では寒いのだろうか、白いストールを気持ちほど肩に巻いて腕組みをして歩いている。
ファティナは気を利かせ、持ち合わせていた桃色の不可視化装置を彼の手首に填めた。直後、翼は不可視化されて消失する。
翼を失うことで遼生は力の大半を殺がれるが、生物階を歩くにはおさまりがよい。
不可視化装置を填めれば服を着ることができるが、上着の持ち合わせがないので、ファティナは息子に接する母親のように質素な聖衣を脱いで遼生に着せ掛けようとした。
コンピュータールームで作業をすることを想定されたファティナの聖衣は重ね着が基本で、下にまだ3枚もの防寒着を着込んでいる。
「結構です。大切なお召し物なので」
袖を通さず、きれいに畳んでファティナに返す。
彼女に上着を渡しながら、遼生はぽつりと、一語一語を噛み締めるようにこう言った。
「何ができるのでしょうか。こんなちっぽけな、僕らに」
ファティナはほんの数秒の間言葉を失っていたが、遼生の背を優しく叩いた。
「嘆くのはもうやめましょう。私たちはそれがどんなに辛くとも、未来に進まなければならないのです。幸いなのはまだ、INVISIBLEが収束するまでに少しの時間があることです」
「……ファティナさま」
彼女の芯の強さに心をうたれる。
彼女の強さは幾百年をかけて磨きぬかれてきたものなのだろう。
「抗いましょう。もがいて、もがいて……最後の瞬間まで。あらゆる手段を尽くしてもがくのです」
その小柄な体に残った小さな勇気を、搾り尽くすような彼女の言葉はさらに熱を帯びていた。
「あなたがたも、しっかりしてくださらないと!」
「そうだな」
村には粉雪がひそやかに降り始め、村の家々に純白の薄化粧が施されてゆく。
アルシエルが手を差し伸べてその一片を取ると、淡く溶けていった。
気温の変化も繊細な四季の移ろいも降雪も、アルシエルにはなじみのないものだ。
生物階の風土は人工的に管理された解階のそれとは異なる。
解階唯一の生存者であるアルシエルは、ただ生物階の風情をその双眸にとどめようとしているらしかった。
この星に愛着の欠片もないが、時計職人がこの小さな星に解階と同じ災禍を齎すことを許さない。
遂に護ることのできなかった彼女の臣民にかえて、アルシエルは生物階を守り抜こうとする漠然とした決意があった。
それが彼女なりのひとつのけじめであり、罪滅ぼしだったのかもしれなかった。
銀の帳が落ちて雪曇りの中、正面から人影が近づいてくる。
朱音をバス停まで送り、すぐに戻ってくる予定だった荻号が戻ってきた。
「へぇ。そういう話になったのか」
出会いがしら、三名の顔を見るなり早速分かったような事をいう。
先ほどの会話に参加しなかった彼も、彼らの記憶を垣間見たのだ。
話がまとまっていて好都合だとでも思っているのだろう。
マインドブレイクのできないアルシエルだけは、フラストレーションが溜まる。
「またもや看破か……喰えん奴だ」
そろいも揃って神々が、安易に他人の記憶を覗き見して気に入らない。
アルシエルはそう言いたかったのだろうが、荻号も遼生もファティナも、マインドギャップを持たない相手の記憶を覗くことについては、なにも意図的にやっているわけではない。
たしかにギャップを持つ相手に対しては視ようとして視るが、そうでない相手は視まいとしても視えてしまう、という程度だ。
素っ裸で歩いているのに、それを見るなという無理な要求にも似ている。
服を着ろ、つまりマインドギャップをつくれと忠告できるのは神々に対してだけで、アルシエルに対してはもう、視られても気にするなとしか言いようがない。
「そう言うな。別に悪気はないし、覗き見でもなんでもない」
荻号がアルシエルの不満をやりすごしていたそのときのことだ。
パタン、と荻号のシザーケースの中で本が閉じたような、くぐもった異音がした。
彼ははっとしたようにシザーケースを見遣り、しばし硬直する。
「いかん」
荻号はシザーケースの中に手をごそごそと差し入れ、文庫サイズの本を取り出した。
皮のしおりの挟まれたページをめくると、フルカラーの挿絵がある。
挿絵の中の少女は部屋の中にいて、黄金の葉を持つ大きな白い花を手の中に納めていた。
少女はレイアだ。
「? ……須弥仙種か?」
彼は目をみはった。彼女にではなく、彼女の持ち物に対して驚愕している。
「須弥仙種とは……穏やかではありませんね」
ファティナも遼生も、常識として須弥仙種の名を知っている。
ひとつ所持するだけでも三階を傾かせるといわれる超神具は五つも存在するが、そのうち二つは特務省にあり、これらの実体は知れない。
神階は「相転星」、「フラーレン C60」、「須弥仙種」の三つを所持しているとされてきた。
キワモノ系の相転星は三階唯一の時空間歪曲神具、フラーレン C60は物理事象の根源に干渉する神具、そして、須弥仙種は守りに徹した神具だ。
ただし、フラーレン C60は荻号が持っていたにしても、須弥仙種はもう随分と前に行方知れずになっていた。
聞きなれない神具の名が唐突に飛び出したことを、遼生もファティナもあまり好意的に解釈しない。
不測の事態が起こったのだと察し、示し合わせたように頷く。
「実力行使に出やがった」
おとなしそうに見えて大胆な奴だ。
閉所恐怖症で少しの間も留守番できないなら、前もってそう言えよと荻号は舌打ちをする。
フラーレンと須弥仙種は相性がすこぶる悪い。
そして呈花によっては……フラーレンが破られることすらありえた。
最悪、フラーレン自体が使い物にならなくなることも。
相転星を失ったうえに、さらにフラーレンも挫かれたなら……。
フラーレンは一枚でも失うと業が成り立たない神具だ、非常にまずいことになる。
彼女が荻号の言いつけを破って、何故外に出たがったのか。
彼女にとってもメリットがないことだ。
レイアがフラーレンを破ろうものならすぐに、特務省の連中が嗅ぎ付けるだろう。
匿ってやっていたつもりなのに、何が気に入らないのかわからない。
「須弥仙種は厄介だが」
念のため、彼女が万が一出たいと思ってもそれが不可能に近いほどのギミックは、幾重にも張り巡らせてきた。
しかしそれは外部からの侵入に対して重点的に備えたのであって、内部からの破壊は想定していない。
モニターである彼の書籍が騒いだということは、荻号の結界が綻んだことを意味する。
そのとき特務省は、レイアの気配を察知しなかっただろうか。
そうでなければいい。
「運悪く、もっと厄介そうなのがきたな」
荻号につられてそこにいた全員が上空を眺めたのは、特務省の艦船が轟音を立てて飛来してきていたからだ。
黒々と巨大な艦体はあっという間に空を覆う。
ファティナは無言でただちに、準神具P≠NPに飛行物体の断面をくまなく調べさせている。
すぐに、ファティナの手にする準神具P≠NPに羽根ペンの自動書記が数ページにわたって見取り図を書きつけ、特務省の内部構造が暴かれてゆく。
ファティナも初めて知る特務省の内部構造だ、これまで一度も明らかにされたことすらなかった。
だが、P≠NPに隠し事など無用だ。ありとあらゆる物体を輪切りに切り刻むかのように、とりわけ物性に関する情報を暴きつくす。
「特務省に間違いありません。砲門は26門、1門は被弾している模様です」
「あ、それ僕と恒がやったんですよ」
遼生が肩のあたりまでちょこっと手を上げて申告した。
「高エネルギーが2砲門に蓄積しています! おそらく主砲級の砲門でしょう、動力源は……! 駄目です、特定できません」
「さて、皆さんどうしますか?」
遼生が愉しげに、誰にともなく尋ねる。
はらはらと舞っていた粉雪が、そして地上に降り積もった雪までもが特務省の揚力に絡めとられ空に還ってゆく。
録画映像を逆再生しているかのようだ。その危機的な状況はともかく、非現実的かつ幻想的な光景ではあった。
青い衛星のような何がしかの物体が、幻燈のように特務省の胴体を周回している。
転移装置だ。
「狙いはレイアか?」
アルシエルはいつのまにかグングニルを肩に担ぎ、不可侵の聖典のページを繰っている。
戦闘準備は万端のようだ、先ほどの失態を取り戻そうという気概すらうかがえる。
「まあまて、わざわざ特務省とはやらん」
根っからの戦闘民族で、彼女の生涯そのものが腕試しだというアルシエルとは正反対に、大勇は戦わずというか荻号は基本的に、理由もなく相手と戦うことを避ける。
戦闘行為にメリットがない場合はなおさらだ。
しかし、そうも言っていられなくなった。
特務省の艦体の真下に突き出していた魚眼状の巨大な砲門が開き、目を潰すほどの眩さを持った高エネルギー体が砲身の中で集積しているのが見えたからだ。
先ほどのファティナの解析は的中した。光はみるみるうちに輝きを増して、直視もできないほどだ。
ファティナとアルシエルが閃光にたまらず目を閉ざしたとき、それは突然起こった。
音として認識するのも、形容するのも困難だ。
ただ、この世の終わりかと疑うほどの衝撃に襲われていた。
落雷が何十本もひとつ処に放たれたような視聴覚を奪うほどの炸裂音と光条が、特務省によって撃ちこまれ、風岳村上空から直下に叩き落された。
標的とされたのは、荻号の家もある方角だ。
しかし、この凄まじい熱量を持った光条が風岳村を火の海にすることは辛うじて避けられた。
光砲が発射される直前に荻号が神速で放った60枚のフラーレンが村の上空120 mでC60クラスターを編み、風岳村全体を六角柱に網羅する四重の紅い結界をなして、全エネルギーを吸収したからだ。
彼は特務省とは好んでやり合いたくないと思っていたようで、面倒だといわんばかりだ。
しかし、彼の自宅と作物も標的とされてしまっているのだから、そんなことも言ってはいられない。
「撃ちやがったな。そっちがその気なら……歓迎するさ。大したもてなしはできんが」
荻号の表面上穏便な発言はむろん、言葉通りの意味ではない。
荻号が操るフラーレン C60の業の正確さと精密さは見事なもので、彼は60枚全てにアトモスフィアを通じて意識を集中し、個別のコマンドを与えている。
平たく言うと脳を60分割して別々の指令を与えているということだ。
一枚でも集中を欠くことのできない神階最難易度の神具。
その真骨頂を、特務省も見せ付けられたのだろう。
荻号の結界を警戒したのか、はたまたフラーレンそのものを警戒したのか、特務省はすぐに艦体の高度を上げ浮揚した。
だが、その下腹部にはさきほどよりもっと大きな砲門が口をぱっかりと開けている。
村ごと破壊し、レイアを燻りだすつもりのようだ。
両手を差し向け、60枚の呪符を厳密に繰り拡げ天を脅かしながら、荻号は遼生とファティナに束の間の猶予を与えた。
ここにとどまって反体制派の、荻号と同一視されていいのかと。
「特務省に睨まれて困るなら、どこかへ隠れてろ」
「僕は別に、どうでもいいです。……それよりファティナ様は?」
遼生は枢軸神であるファティナの立場に配慮をしている。
遼生はよいが、ファティナは枢軸神として社会的に重い責任を負う立場にある。
特務省の下位組織にあたる神階は、特務省の管理下にある。
比企との関係を損ねるばかりか、刑罰によっては神階を追放だってされかねない。
神階に叛くよりなお罪が重いことだ。
ファティナだけは特務省に彼女と特定されないうちに、そして罪をつくらないうちに神階に戻って、それなりに有意義であろう会議に出席した方がいい、今からでも遅くはない。
遼生は彼女が賢明かつ冷静な判断を下すことを願っていた。
「雉も鳴かずば撃たれまいに」
荻号はそう言う。しかし、ファティナは鳴く気まんまんだ。
「中枢議会のことでしょうか……そんなもの」
ファティナは何をさておき彼女にとって大事であるべき会議を、そんなものと言い捨ててしまった。
彼女の頭は、とにかく何かしなければ、という焦燥感にかられて沸騰してしまっていたに違いない。
「欠席に決まってますよ!!」
言ってしまった。