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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第26話  Outside the braneworld

 風岳村を出る、オレンジ色のラインのついた最終バスの行き先表示は回送だった。

 風岳神社前バス停に集まった人々は各々に許されたわずかばかりの荷物を手に、次々とバスに乗り込んでゆく。


 今後の不穏な未来を予見しているのか、バスの乗客らはみな一様に暗い表情を浮かべている。窓からは冬枯れの灰色の風景が広がっていた。

 家の方角を眺めては嘆息をつく老人、事情を飲み込めず旅行気分ではしゃぐ幼い子供に困惑する父親。自分の荷物は殆ど持たず犬のみを連れてきた少年、忘れ物がないかしきりにバッグの中身を確認している母親、バスに乗る前に金魚を川に放流して浮かない顔をした少女、数十頭もの牛を残してきてしまった肉牛生産者、避難生活を送る患者の容態を心配する医師。それぞれの表情はあれど、村を離れたくない気持ちは皆同じだ。


 またこの場所に、我々は戻ってくることができるのだろうか。

 村人の誰もがそう思っても、口を開けば収拾がつかなくなってしまうことを恐れてか、敢えてその疑問を口にする者はいない。


 この村での最後の仕事をすべく、私服の地元出身のバス運転手はしきりに時計を気にしている。

 広岡市内の町村を出発したバスは、広岡市中心部の集合場所に到着する。

 その後は国の指示と誘導に従って随時、宇宙ステーションに避難をするという段取りだが、どの飛行場からどうやって避難をするのかすら、詳細も明かされていない。

 スペースシャトルで避難するのではとても間に合わないから、何か輸送のための手段を講じているのだろうか?


「広岡市に着いて、その後はどうやって神階に避難をするんでしょう。飛行船でも迎えに来るんでしょうか」


 吉川 皐月は志帆梨の隣の席に座っていた。恒を通じて神階の存在を知る二人の女性だ。


「恒は最初の頃、瞬間移動がままならなかったので、神階を出入りする際にゲートいう転移装置を使っていたと思います、私達もそれを使うのではないでしょうか」


 今でこそ恒はゲートを使わずに神階と地上を往来するが、最初はそうもいかなかった。

 超空間転移というものを使うと言っていたが、どういった仕組みで転移をしているのかは知らない。


 転移術は恒にとっても、そして志帆梨にとっても便利なものだった。志帆梨が創作料理店を営んでいるが、何度恒に急な買い物を頼んだか知れない。そのたびに恒は嫌な顔ひとつせず、数分以内に買い物を済ませてくる。あるときなど、急いでパスタを買ってきてくれと言ったら、イタリアまで行ってパスタをごっそり買って戻ってきて面食らった。彼なりに、背伸びをしてみせたのだろう。

 品揃えに定評のある「スーパーふがく」での買い物でよいからというのに、行く手間はどちらも同じだからと、本場の食材を仕入れてくるので、そのつもりもないのに食材にこだわり抜いた志帆梨の店が繁盛したのは言うまでもない。最近は客が増えすぎて人手が足りないので、バイトの女の子も雇ったぐらいだ。

 そんな志帆梨も今回は店を閉め、冷蔵庫の中のものを全て片付けてきた。

 またあの場所に戻って、大好きな店が切り盛りできるといいのだが……。


「転移装置……!? なら、輸送機はいらないんですね」

「いらないと思います」


 皐月は驚いて、目を白黒させていた。

 これから転移が体験できるとあって喜んでいる。

 ちなみに彼女はルシファー関連の戦闘でユージーンに転移を経験させてもらったのだが、記憶していない。


 こんな状況でこんなことを思うのは不謹慎かもしれないとわかっていても、志帆梨は神階行きをほんの少しだけ楽しみにしていた。恒が神階で神としてどのように働いているのか。

 常々気になっていたが、生きているうちにはどうやっても入れない遠い場所だと言われ諦めていた。

 今回の非常事態は、人が神階に入ることのできる唯一の、そして願ってもいない機会だった。

 喜ばしいのは避難が一時的であって、地上が今後さしたる被害を受けない場合に限り、だが。


 発車時間を待つ車内に、一人の外国人がズカズカと乗り込んできたのはそんなときだ。

 冬だというのに薄着のいでたちと染毛ではない自然な銅色の毛髪、その長身から彼は目立つ。背に中学生ほどの少女を背負っているので尚更だ。


「朱音ちゃん!」

「朱音ちゃん間に合うたんね! よかった」


 朱音を知る村人達からは口々にそんな声が聞こえる。一方で、彼と面識がある村人も何人かいる。

 彼は村の中心部にあるバザーにハーブや野菜を売りに来ていた青年だ。

 いつもフィドル(ヴァイオリン)を持ってきて、客が作物を買うたびにプロ顔負けの演奏をしてみせて、バザーよりそちらを目当てに買いに来る客も多かった。


 彼の作物は他の農家より少々高値でも売れ残ったためしがなく、ライバル農家たちにとっては手ごわい商売敵だった。

 だが、彼の演奏で客寄せとしてバザー全体に利益がまわっていたという面も否定できない。

 バザーが土日に開催されるようだと、たいてい朱音がついてきて、甲斐甲斐しくバザーを手伝う姿もみられた。

 それで彼はお代を受け取るために演奏の手を止める必要もなく、もっぱらフィドルを弾いていればよかった。

 そんな経緯で、この二人の組み合わせはとりわけ珍しいものではない。


「オゴーさん遅いよ! また畑いじりしよったんじゃろうに! ええけ、はよ座りんさい」


 村人たちの口調もどことなく、親しみを込めたものである。


「フィドルもってこんかったんね! 向こう着いたら暇じゃけ弾いてもらおう思うたのに!」

「だめだめ、この人は野菜買わんと弾かんのじゃけ、タダじゃ弾いてくれんのよ」


 ライバル農家たちは遅れてやってきた荻号に笑いながらそんな事を言っているが、心配そうに後部座席から飛び上がった女性がいる。少女の母親だった。


「荻号さま……」


 彼は村人たちへの対応もそこそこに、朱音を母親がバスのシートにそっと横たえた。

 彼女の弟妹たちも朱音の帰りを待ちわびていたところで、どうしたと騒ぎ立てていた。

 生真面目で礼儀正しく、快活な朱音のことは村の誰もが知っている。

 少し前はバレエダンサーになりたいと言っていたが……。 

 朱音はだらりと脱力して、シートからずり落ちてゆく。

 気絶しているのか眠っているのか。母親は彼女の身に何が起こったのか分からず混乱して、心配のあまり言葉が出てこない。

 それを宥めるように、彼は立ちあがった母親の肩を押さえ席につかせる。


「寝とるだけだ。心配させてすまなかったな、もっと早く返すべきだった」

「オゴーさん、朱音ちゃんに何をしよったんね!」

「悪いことしとらんじゃろうね?」


 事情も知らず外野はうるさいものだが、確かに言われる通りだと荻号は反省していた。

 注意深く監視をしていたつもりが、あろうことか朱音とアルシエルにブラインド・ウォッチメイカーの支配を許してしまったのだから。

 やはり朱音を手元に置いておかなければならないのではないかという葛藤も、確かにあった。

 しかし、遼生の遺伝子抑制がかけられているのであれば、かえって手放して安全な場所にいた方がよいのかもしれない。むやみに怪我をさせることもない。

 万が一のことがあれば、比企に対応を任せることもできる。


 母親は事情を聞いて安堵しても複雑な心境だった。朱音が無事に戻ってきたことに関しては嬉しいが、彼女は荻号と共にでなければ生きてゆけないと分かっている。

 彼から離れて神階に行くも地獄、かといって残るも地獄だと。

 なのに、彼は荷物を持ってきていない。


「この子はどうやって生きてゆけばよいのでしょうか。あなたから離れて飢え死にをしたりしないでしょうか」


 母親は力なく横たわるわが子を見て、やりきれないといった顔で荻号に耳打ちをする。

 彼は朱音のリュックの中にごそごそと手を突っ込むと、数本のアンプルを手にとって母親に見せた。


「まず、神が腐るほどいる神階で使徒が飢え死ぬのは難しい。次に、俺のアトモスフィアのアンプルを渡して、数年は飢えんようにしとる。心配いらんよ」


 そう言って、彼は朱音の頭を優しく撫でつけた。


「じゃ、上島先生、あとはよろしく」

「ちょ、待ちなさい荻号君! またそのいかがわしい薬物はなんだね!」


 朱音のすぐ後ろに座っていた上島が、荻号に薬剤の組成を問いただそうとしている。

 そういえば荻号は非常勤医として上島医院でバイトをしたり、忙しい上島に代わって村人に往診をして生活費を稼いでいたものだ。

 上島医院から支払われた金は、借家住まいで毎月家賃を払わなければならない荻号の、主な収入源になっていた。

 老齢のため困難な手術の執刀にはもう自信のない上島が、ここ最近上島医院で何件かの手術を安全に手がける事ができたのも、言ってしまえば荻号の腕がよかったからだ。

 

 荻号の医師としての腕はよくても、本業の薬剤師としての腕はなんというかもう、良い悪い以前に任せられなかった。何しろ荻号ときたら、少しも経過の予断を許さない重症の患者に限って、何を思うのか病院に置いてある薬剤で調剤しないかわりに、手製の怪しい薬を渡す。

 その薬を処方された患者は誰もかれも、どうしたことか二度と上島医院に来たためしがない。酷い薬を渡されてもうこりごりだといって来ないのだろう、まだ彼ら重症患者の葬式は出ていないが、上島は二度と荻号に調剤させたくないと思っている。というか、そもそも薬剤師法違反だ。

  実のところは、その怪しい薬によって病気が完治してしまっていたからだが……。


「特製の栄養剤だ。0.25ml/kgの静注でいいからな、先生」


 敬語など知らないのではないかと思われるような男だが、上島には一応、形ばかりの敬意を払うようだった。


「毎度思うんだが、荻号君の作った薬なんて怪しくて患者に打てんぞ!」


 上島はとんでもないと本気で言うが、荻号は冗談めかして軽く笑い飛ばした。


「俺の薬はどうも信用がないね。よく効くんだがな?」


 彼はそんなことを冗談めかして言いながら、彼らを残し通路沿いに昇降口へと歩いてゆく。

 朱音の目が覚めないうちにフェードアウトしたかったのだ。

 目が覚めればまた厄介な事になる。

 そそくさと出ていこうとしたところで、中央の座席に乗っていた吉川 皐月が荻号の服の裾を引っ張った。

 隣には藤堂 志帆梨もいる。


「やれ、またあんたか」


 荻号はあからさまに相手にしたくなさそうな顔をしたが、皐月はお構いなしだ。


「またって酷いですね。荻号さん、藤堂くんを見ませんでしたか?」

「藤堂? 神階にいるんじゃないのか。少なくともこの村に藤堂のアトモスフィアはないようだぞ」


  皐月の隣に座っていた志帆梨はほっとしたような顔を向けた後、予め質問を用意していたかのように、矢継ぎ早に訊ねた。


「それから、天使の子がいませんでしたか?」


 もし荻号がどこかで彼を見かけたら、せめて避難を促して欲しい。

 志帆梨が無事にこの最終バスに乗ることができたのも、ひょっとすると彼のおかげかもしれなかったから。

 荷物は全て置いてきたが、神階に入るのに必要なものは何一つないと言った少年の言葉に心を動かされた。

 彼女は財布すらないが、バスを降りて家に取りに戻ろうとはしなかった。

 そういう気分にさせたのは少年のおかげだ。


「朱音以外にか? 八雲ならどこにいようが、あいつは心配いらんよ」

「どういう意味です」


 バスのエンジン音が聞こえたので、荻号は車内を見渡してバスに乗るべき人物が間違いなく乗ったと確認し、その全員の顔と残りの村民の差を計算してこの村に残っている人間は誰もいないということだけを確認すると、昇降口を降りて外に出てしまった。


「何で降りるんです、あなたも避難してください! この村に残ってはいけません! このバスが最後なんですよ!」


 いかにもベテランといった初老のバスの運転手がバスを降りようとする荻号を引きとめようとしたが、彼の意に反して何故か昇降口は彼を締め出して勝手に閉じ、運転手の足はいつのまにかアクセルを踏んでいた。

 運転手のあまりにも冷淡で割り切った対応に、乗客たちの間からざわめきが起こる。

 いくら満席で彼が乗車の意志がないとはいえ、乗せないのは人道にもとると。

 タラップにでも座らせていればいいのに!


「あの人は!? 乗せてやらんと!」

「え?! 荻号さんは!?」


 村人たち激しく騒ぎ立てられても、運転手はブレーキを踏もうとしない。

 バス停を過ぎて30mは走り始め、バスはみるみる加速する!


「う、運転手さん、何で待ってやらんのじゃ!」

「ブレーキが踏めないんです!」

「ブレーキが壊れたんか! どうするんじゃ!」


 運転手は顔を真っ赤にして、だらだらと脂汗をかいている。

 サイドブレーキを引こうにも彼の手は、張り付いたようにハンドルから離れない。

 脳梗塞か狭心症を疑った上島が、妻の基子とともに揺れる車内を後部座席から運転席に走り込んでくる。

 上島は運転手の意識があることを確認し、荻号の催眠術にやられたのだろうと、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 荻号は時々、暴れて点滴を抜くような問題を持つ入院患者に催眠術のようなものをかけた。

 彼の催眠術はてきめんに効いて、上島も看護師たちも助かったものだが……。

 こんなときにやられるとは思わなかった。


「あー……荻号君にきっついのをやられとるのー」


 上島の一言で、荻号がマインドコントロールをかけたのだろうな、と皐月と志帆梨も顔を見合わせた。

 何ぴとたりとも神の支配からは逃れる事はできない。

 鋼鉄のヘルメットでもかぶってアトモスフィアから脳を守っていない限り例外なく。

 荻号はやはり、残るのか。

 窓際に座っていた志帆梨が振り向くと、取り残された荻号の姿が小さくなってゆくのをみた。

 このときをもって、グラウンド・ゼロは確かに人間社会から隔絶された。



 築地と長瀬の座った傍聴席から天井の高い議場全体を見渡そうと思えば、まるでプラネタリウムを見渡すように上を見上げなければならなかった。

 議場の照明は落とされ、二重螺旋状に配座されて宙を漂う神々の席に灯る明かりだけが星のように青く煌いている。

 神々はもう何と言うか、一部の壮年神をのぞいて築地の目からはほとんど年下にしか見えなかった。

 陽階神も陰階神もかなり奇抜な装束を身に纏って、しかも似合っているので驚かされる。

 ゆったりと年をとる彼らは見た目には築地よりかなり若く見えるが、誰もかれも齢数百年、下手をすれば数千年を超えているのが信じられない。

 若作りという言葉が適切かどうか分からないが、若作りもいいところだ。


 近年崩御したというジーザス・クライストがこの席上にいたなら感動も一入だろうが、現在即位している位神のなかで宗教的認知度があるのはヒンズー教、道教、ゾロアスター教の祭神ぐらいだ。

 築地は宗教に疎いので、名前を聞いてもぴんとこない。


 出席者を見渡すと、これほど大事な会議だというのに、緊張感にかける欠席者もいた。


「陰の3位と陽の7位が、おらへんな」


 築地は上座から順に数えて陰階の3番目と、陽階の7番目の席にランプが灯っていない事に気付いた。

 規則的に点っている光のランプが途切れているので、欠席者は数えてみればすぐ分かる。


「3位は死神で、7位は数学神だよー。死神の織図さんは特務省に所属してるからそっちに出てるんじゃないのー?」


 先ほどからはしゃいで落ち着かない長瀬は事情通だ。

 こっそりと写真を撮ろうとしては、築地にたしなめられる。

 彼女は片手にスケッチブックを握り締めているので、後で神々にサインを催促しかねないなと、頭が痛いものだ。


「死神!? そんなんおるんや……目が合うだけでどつかれるか殺されるかしそうやな」


 築地が顔面白塗りのデスメタルな外見の死神をイメージしているのは言うまでもなく、実物は横になって渡鬼を見ては冗談ばかり言う、ダイエットを気にする陽気な青年神だとは夢にも思わない。


「私も私もー! 死神見てみたかったんだよねー、なんか凄そうだし! やっぱ死ぬときに会えるのかなー、嫌だよー死んだらわからないから生きてるうちに見たいよー」


 長瀬のイメージも間違っている。


「あれ、そういや荻号さんもおらへん。ほら、お前が酔っ払って絡んでもーたヒト。お偉いさんやってんな」


 長瀬が荻号にどういう具合に絡んだのかは、思い出させないほうがいいと築地は思った。

 比企とともに深夜の研究室にやってきて酔っ払った長瀬に絡まれていたが、この席上にはいないようだ。

 荻号という芳名がついているからには陰階神なのだろうが、何度見渡しても顔が見えない。


「荻号さんは位神じゃなくてご隠居さんだからここにはいないよー」

「隠居て! 外見サギやろ……シゲの方が断然老けとんで! 」


 築地は何故か、長瀬の彼氏のシゲルと荻号を比較したがる。

 築地と長瀬がああだこうだ言いながら、会議は比企の遅刻で定刻より10分遅れて開会した。

 比企の開会宣言とともに各方面から報告が入り、集計された情報をもとに人類の避難状況と避難区画が3Dホログラフで大きく空中に示されている。

 会議場のアナウンスは珍しく英語で行われていたが、これは通常の神階の会議ではありえないことだ。


「あれ、UNって国連やろ? ……国連おるやん。会議も英語やし」

「来てるのは安保理と、えーと、G8の首脳みたいだねー。あれって、山之内総理じゃない?」


 頂上近くに浮かぶボックスのゲスト席に座る二十名ほどの一団は高所恐怖症なのだろうが、おっかなびっくりといった様子で手すりにしがみついているので、人間の一団だと分かる。

 国連に加盟する全ての国と地域の代表をこの場に呼ぶことはできなかったのだろうか、先進国と大国の代表のみが列席していた。

 仏頂面をした山之内総理がフランス大統領の隣で、寝ているとも起きているともつかない顔をして腕組みをして座っている。

 英語に堪能でない総理は日本語でスピーチを、フランス大統領もフランス語でスピーチをしたが、教養として世界中の殆どの国と地域の言葉を解する神々はどの国の言葉も何ら問題なく聞き取っているようだ。


 どこで何をしていても相変わらず胡散臭い比企は議場の最も高い位置に浮かぶ席に座し、悠然と全体を見下ろしている。

 長瀬の話によると、比企は遠隔心層看破(リモート・マインドブレイクというテクニックを持っており、議場はすっぽりとその射程に入るそうだ。にこりともせず上から見下ろされると、築地と長瀬はなんとなく監視されているように感じて萎縮する。

 そして、その毅然として威圧的な姿から、比企は彼を見上げる人々に多くの誤解を与えていると築地は思う。


「やっぱ比企さん偉そやな」


 築地の隣に座っていた第二種公務員らしき制服を着た女神が、築地の問題発言に驚いて目を見開いている。

 比企の看破が行き届いているのを恐れもせず、公然と悪口を言うのが信じられないようだ。

 長瀬は周囲の空気を察して、たしなめるように築地の膝を叩いた。


「もーやめてよー! つまみだされるよー! 偉そうじゃなくて実際、偉いんだからー」


 普段は古めかしい武士口調で話す比企も、今日は流暢な英語で答弁をしているので違和感がある。


「なんや、イギリス英語で言うとることがよーわからんな。比企さんも日本語でええのに」

「イギリス英語とか以前に、ツッチー英語ダメじゃん」


 築地はぐうの音も出ない。

 日本人に限っては、いつものように日本語で会議をしてくれたほうが有難いが、英語を国際語とする人間がいる以上、そういうわけにもいかないのだ。

 ところで、長瀬が英語に堪能なのは帰国子女だからだ。

 しかも、彼女は帰国子女だからといって日本語にも不自由はしていない。

 その 長瀬の有難い同時通訳によると、神階の分門から神階に入った避難民は、地球人口の1/3にのぼったのだそうだ。

 避難予定者は地上の総人口の4/5になるという。

 使徒階での受け入れ態勢は整っていた。

 避難区画には区域自治体が国と地方の枠組みを越えて発足し、避難生活は目立った混乱もなく円滑に行われる見込みだ。

 避難生活がいつまで続くか、地球がどれほどの規模のいかなる被害を受けるのかということも含め、今後の見通しはきわめて不透明だ。

 各国首脳からは、見込まれる被害規模と被害想定地区を明らかにしてほしいとの要求が相次いだ。

 あらゆる経済的、文化的、物質的、人的損失を甘受して世界規模で人々を避難させたのだから、それを神階が主導したからには説明責任を果たせというのは当然の要求だ。

 しかし神階の説明は奥歯に物が挟まったように曖昧で釈然としない。

 地上に墜落するという“オブジェクト”という、未定義の言葉が、気色悪いぐらいに頻繁に飛び交った。


「避難させたんは、“オブジェクト”が来るからやいうてんやろ。何でよりによってまた日本やねん。それに、何でオブジェクトの軌道ずらすいう話にならへんの。これだけの科学力持っとる神階がやで?」

「何回聞いても、オブジェクトが、日本の中国地方の山の中に落下しますっていう話だよねー。それに対して神階がどんな対策やってるのかがよくわからないしー。日本終わっちゃうってこと?」


 話によると、特務省という特殊機関にオブジェクトの対応を一任しているということだ。

 比企は人間を避難させることに精一杯で、現地対策には直接かかわっていないのかもしれない。

 特務省職員であるといわれる織図が議場に顔を見せないところをみると、特務省が活発に動いているのだろうと推測される。

 長瀬はこの特務省という機関について、比企から与えられたADAMのIDのあらゆる権限を使い尽くしても、詳しく調べることができなかった。

 さすがは神階の上位にある特殊機関、そう簡単に全貌が明らかになるべくもない。


「比企さんには被害予想ついとるんやろか」


 比企は生物階の被害状況を既に計算して、想定しているのではあるまいか。

 正確に予測されていて……口には出さないが、地球規模で避難をしなければならないほどの被害を想定しているのだとしたら。

 恐ろしくて、口になど出せない。


「だよねー。でないと、世界中の人々を避難させるまでにならないと思うんだよねー。でも、はっきりと言わないんだー。聞き取れなかったのかなあ……しかして地球ごとイっちゃうのかなあ。もうなんか、地球なんてこの際どうでもいいって感じの発言もちらほらあるし。肝心な部分、聞き取れなかったと思いたいんだよねー」


 失望から段々と通訳の歯切れがわるくなってきた長瀬は話の内容を理解しているだけに、かえって意気消沈している。

 比企が神階の存在を明らかにしてまで避難させなければならなかった本当の理由。

 それは、地球の何%が被災するというレベルの話では済まないからではないか。

 もし、問題のオブジェクトの軌道と質量などが神階に正確に把握されていたなら、そのオブジェクトがいつどこに衝突して人的、経済的、文化的被害予想がどれほどだと、別に神々にやってもらわなくても人間の科学者にだってシミュレーションができるはずだと築地、長瀬は思う。

 したがって、安全だと予想される地区に人々を集めて一時的に避難させることだってできる。

 地上のどこにいても被害は免れないのか。

 神階に避難する以外に方法はなかったのか。

 そう勘ぐってしまいたくもなる。


「公転周期遅らせたりしたら、ぶつからないのにね。さすがに神様もそこまではできないかー」

「地球ぶっ飛んでもーたらどないなるん……俺ら神階に住むん?」


 築地が捨てられた猫のような声を出した。


「うーん、住まわせてくれるのかなあ……どう考えてもお邪魔だよねえ。つか、何手伝えばいいの? 奴隷としても利用価値なさそうだし、ご飯食べるし子供産むしー、住むとこもいるしー」


 人が神階において、何か価値のある労働力を提供できる場面があるとは思えなかった。

 なにしろ、数十億単位の人口まるごとが避難して来ているのだから。

 大量の食糧が必要で、神階の限られた土地を侵すだけだ。

 それに人類はあらゆる能力面において神々にも使徒にも遥かに劣る。

 何か神階に対して貢献できることがあればよいが、避難が長期化すれば神階のお荷物になることは明々白々だ。

 使徒階の土地不足とアトモスフィアの枯渇のために制限され抑圧された生活を送っている使徒たちからも、不満の声が上がるに違いない。

 一人っ子政策も一般的に施行されている。

 そこに役立たずの入植者、ときたものだ。

 快く思うはずがない。


「あれ、待って!? なんかオブジェクトがそこに落ちることが問題じゃないみたいな事言ったよあのヒト、ヒトじゃなくてえーと……」


 しかめつらをしていた長瀬が、急にアナウンスに聞き入った。

 長瀬が同時通訳を頑張っているおかげで、恥ずかしい話だが、築地もどうにか話についてゆける。

 築地は学術会議での学術英語は難なく聞き取れるが、CNNニュースなど、学術用語以外の日常語はさっぱり門外漢だ。

 議会の様子を見ていると、神階の議員は挙手をしないようだ。

 神々の各々の席についている発言要求ボタンを連打することによって発言者が発言を許される。

 ボタンが押された順に会議場の大パネルの発言待機者リストにリストアップされ、身分の高低によって多少ソートがかけられ、議長がトップランカーに発言許可を与える。

 一度発言をしたものは5分間、再発言ができない仕組みになっている。

 日本の国会のようにあらかじめ質問状が提出されているわけでなく、答弁もその場で考えなくてはならないシステムだ。

 まったく、どこの早押しクイズ番組だ。


 このようなシステムのなかでゲストである生物階の各国首脳にも公平にひとつずつボタンが与えられて、多少ボタンを押すのが遅れても優先的に発言できるよう配慮されていた。


「あの神さん、前テレビ映っとったヒトちゃうか?」


 くだらないことには意外に記憶力の強い築地は芸能ネタといえど忘れない。

 未知の病原菌騒動の際に、彼は謎のヒーローとしてテレビに映っていた。

 そのインパクトのある頭髪と奇抜な服装、生身で空を自在に飛翔したという目撃証言から、“特撮ではないか“という沈着冷静で懐疑的な見解はさておき、巨大掲示板群でも検証スレッドがいくつも乱立し随分と祭りになったものだ。

 まさかあのときの青年が、身分のある神だったとは。


「思い出した、梶さんだ! ツッチーの崇拝する確率神だよ」


 青髪の神は梶 奎吾というのだそうだ。

 確率を司る神で、確率歪曲神具 バロックダイスを所有している。

 ふざけた頭の色はともかく極陰に最も近いといわれる実力者で、発言も優先されていた。

 確率神と聞いたなり、築地のテンションは急上昇だ。


「確率神てホンマにおったんや! うわ、ギャンブル負けなしやん! 俺梶さんとこ弟子入りしたいわ!」


 梶はありとあらゆる勝負事に負けないのだろう。

 パチスロに、競馬競輪競艇、宝くじに……! と、築地は夢が膨らむ。

 梶が築地にとりあってくれるかはともかく。

 実際には、築地の期待に反して梶はギャンブルにおける不正行為に灸を据えるため、あるいはギャンブルによって人生を棒に振った人々を更正させるために各地を飛びまわっているのであって、私利私欲のためにギャンブルで不当に金を稼ぐことはない。

 百歩譲って梶が築地の弟子入りを許したところで、梶から学ぶ事はなにもないのだが。


「え、比企さんを差し置いてもう梶さんの信者に?」


  長瀬はそんな築地が色々な意味で信じられない。


「比企さんは別格やて」

「つか、そんなこと言ってる場合じゃないよー……梶さん、オブジェクトは場所じゃなくて女神の子の体に落ちてくるっていうんだよね。ほら、あの子の中にだよー」


 築地が現実逃避をしている間に、少女の立体映像が映し出されてくるくると回っている。

 この、何もない空気中に三次元立体映像を映し出す映像技術は生物階でも、どこぞの会社によって近年ようやく開発されたばかりだが、神階のものは一段と技術が進んでいて解像度がよい。人物を映じれば本物と見まがえるほどだ。

 この少女が人間でいうなら誰がどうみても10歳以下の少女で、碧色の大きな瞳に、ウェーブのかかった柔らかそうな金髪を肩まで伸ばしている。

 立体映像で見るだけだと内気そうだ。

 子どもらしさがない。幼くても女神らしく、凝った装飾のネックレスをして巻き布の儀式的な装束を着ていた。

 人形のように美しかった。


 築地はオーバーリアクションで目を覆った。


「うわ! あかん、金髪幼女やん。俺幼女ダメや、15歳以下はお断りやで」


 誰も築地の好みなど聞いていないのに、目を覆いながらそんなことを言っている。

 何か妙な衝動と戦っているようでもあった。長瀬は冷ややかな眼差しでそんな築地を蔑した。


「別にツッチーのこと聞いてないよー。オブジェクトはグラウンド・ゼロでその子の中に落ちてくるんだって。意味わかんないよねー。てか、おかしくない? だったら何でわざわざそこに行かせるのかな……? その子も死んじゃうんだろうし、酷くないー?」


 グラウンド・ゼロであることが大事なのか、女神の中で起こることが大事なのか。

 グラウンド・ゼロありきなのか、女神ありきなのか。


「そもそも幼女がそこに行く意味がなくね? 何しに行かせるの?」

「そう思うよー。かわいそうだよー! 幼女虐待だよー」

「でも待てよ、一応女神やし……見た目はあれでもさすがに10歳いってないことはないか……?」


 比企の外見が十代後半ぐらいで6世紀も生きているのだから、彼女も幼く見えても分別はあるのではないかと築地は信じたいが、外見的にあどけない幼女なので痛々しい。


「え、え、ちょっと! リアちゃん? あ、レイアちゃんて読むのか。レイアちゃん本当に幼女だよ、2歳ちょっとだって! しかもイモータル(不死身)らしいよ。えー凄いー、不死身の神様っているんだ! 普通の神様はちゃんと寿命あって死ぬのにねー、だから選ばれたのかなー、かわいいー!」


 長瀬は2歳と聞いて一気に興奮したらしく、キャーキャー言っている。

 かわいいものには目がないらしい。

 築地も確かに人形のようなかわいらしさだと思うがそれ以前に、怒りがさきにくる。


「ちょ……比企さん。変態もええ加減にせーて! ……いくら不死身でも、やっていいこととあかん事あるやろ。なんやの? その子の中にオブジェクトが落ちてきたら、そうでない場合より多少被害食い止められるいう話やの?」


 レイアなる幼女と、オブジェクトの関連性がさっぱり見えてこない。

 いくら不死身だからといって幼女をそこに行かせたところで戦力にするでもなし、できることも限られていそうだ。

 ただの噛ませというわけでもなかろうに。


「なんか、そういう意味でもなさそうなんだよねー……」

「あーもー! 煮え切らんなー! 落ちて何が起こるのか分からへんのなら、そら対策も打てへんわな。しかもその子、行方不明なんやろ」


 神に人に入り混じって丁々発止の議論の繰り返される議場で、長瀬と築地は途方にくれていた。


「オブジェクトってどないなもんやろ」

「ツッチー、なんか気になるんだけど、ADAMで似たような記録を見つけたことがあるのー。昔ね、突然どっかの神様の身体に何かがのりうつって暴走しだして神階が壊滅しそうになったことがあるらしいんだー。それも二回もだよ! それで、まだそれは終わってないんだって。神様の体の中に落ちてくるとか、今回の話も何か似てる雰囲気だよねー」


 長瀬は常日頃神階の歴史について調べるうちに、神階に漂う鬱々と差し迫った重い空気を感じていた。

 神々の社会にはいつも謎の閉塞感が漂っている。

 その閉塞感をもたらすものが何かを突き詰めたとき、どの方向からアプローチしてもふたつの古い記述に辿り着く。


「のりうつって暴走? あー俺それやったわ、Xやろ。あ、まだやっとらんかった?」


 築地はどこかの有名なファンタジーRPGであったようなストーリーを言っているのだろうが、長瀬は大真面目だ。

 どれだけ荒唐無稽でフィクションじみて聞こえたとしても、それはファンタジーではなく史実だ。

 でなければ何より非科学的なことを嫌う神々が、長きにわたってその記述を真に受けることがそもそも困難だ。


「ゲームじゃないよー! 神階ではINVISIBLEって呼ばれてるらしいんだけど、そのことかなー。もしINVISIBLEが地球にぶつかるんだったら、これやば過ぎるんだよね」

「それやったらどないなるの?」

「爆弾とか小惑星とか軌道ずらすとか、撃ち落せるってレベルじゃないよ! 地球なんて消えてなくなっちゃうよ、どうしよう」

「マジ!? そんなデカイもんやの?」


 長瀬の説明では海のものとも山のものともつかない。

 百聞は一見にまさるのだが、INVISIBLEというからには見えないものなのだろう。


「でかいとか小さいとかじゃなくて、INVISIBLEは創世者なんだよー」

「はあ? 何や創世者て」


 築地は途端に呆れ顔になった。

 ファンタジーRPGにはのめりこめても、現実ではこのリアクションだ。


「最初に宇宙開闢を成した、原始のエネルギーだよー。でね、何も考えてないのー」

「アホらしなってきたわ」


 築地はもう聞く耳を持たない。


「アホらしいよねえ! ……でも、神階はずーっとそれに脅かされてきたっていうんだー」

「はあ……。つか創世者なんて、おるん? ビッグバンにしても、インフレーションにしてもぶっちゃけ、物理現象やろ? 何で擬人化せなならんの」


 何でも擬人化する長瀬の昔からの悪癖に、築地はがっかりだ。

 長瀬は学生時代、研究室にある器具を使ってよく寸劇をやったものだが、あのあたりにルーツがあるような気がする。

 研究室メンバーに下手にウケてしまっていたからなおさら悪かった。

 うろおぼえだが、確かメスフラスコとナスフラスコでコントをやっていた。

 メスフラスコとナスフラスコが付き合っているという設定だ。

 メスフラスコはバツイチらしく、メスピペットという娘を連れている。

 メスフラスコとナスフラスコは再婚を希望しているが、メスフラスコの父親のメスシリンダーに反対されている。

 メスシリンダーはコニカルビーカーと不倫をしている。

 ナスフラスコは元カノの三角フラスコに言い寄られている……というのが延々と続く。


 正直、どうでもいい。

 実験器具でなければ、電子軌道まで擬人化する始末だ。

 π電子が浮気者でファンデルワールス君が誰とくっついただの、これもまったくもってどうでもいい。

 長瀬の頭の中では理屈が通っているのかもしれないが、擬人化されると話がややこしくなる。

 電子軌道すら擬人化する長瀬のことだから、ビッグバンも擬人化されていて不思議ではなかった。

 しかも彼女は家庭教師経験もある、教え子が志望校に合格できたのか、築地は当時、聞くのも怖かった。


「擬人化じゃなくて、意識とか自我を持った対象として見なしてるわけでー。ねえ、ツッチー。クオリアって知ってる?」


 そんな名前の家電ならあったような気がするが、違う気がする。


「なんやそれ」


 長瀬のいうクオリアとは家電のことではなく感覚質のことで、意識体験における具体的内容であり、人間が外部から感覚器を経て情報を得たとき、脳に惹起されるイメージのことだ。

 どのようなものかというと、怪我をしたときの“痛さ”、陽光の“明るさ”、氷に触れたときの“冷たさ”、食べ物の“におい”、音楽を聴いたときのあの感じ……それらは人々が日常生活の中で感じるものでありながら、ひとつひとつの体験を決して詳しく咀嚼して説明することなどできない。

 そのようなものだ。


「じゃあさ、私たちの意識って、自我って一体どこにあるの?」

「哲学は単位落としてん」


 築地はなんならいっそ、興味もなかった。

 長瀬は築地に失望したという顔をするが、諦めずに次の質問をこしらえている。


「じゃあツッチーはどうして一分子の運動に至るまで、スピンや電子まで科学で記述できるのに、意識の在り処を知らないの?」

「しらんがな」


 責められるようにそんなことを言われても、築地の責任ではない。

 比較的築地のホームグラウンドである脳科学に言及しろというなら、人類はどれだけ脳を解剖しても、脳を構成する1分子の挙動を追うことができるまでに精度の高い分析技術を持ちながら、まだ脳科学は意識の所在を、心のありかを明らかにしていない。

 神経活動のネットワークによって意識が構築されるものだというのは自明のことであり、それ以上突っ込んだ議論をするのは不毛だ。

 未来のことならともかく、少なくとも、現時点では。


「波動関数が継続して収束するたびに意識の流れが生じると言ってる人もいるし、原子や素粒子の組み合わせに意識が対応すると言ってる人もいる。だったら……創世者というか原始のエネルギーなんて、エントロピーの塊でしょ?」


 長瀬が引用している学説はおそらく物理学者や数学者お得意のシミュレーション分野の話であり、生物学者ならばあまりにも複雑すぎる分子運動のパラメーターを簡単な数値に置き換えたりすることは不可能だと言うだろう、化学者ではあるが築地も同じ立場だ。

 このときまではそうだった。


「熱力学的な意味でのエントロピー?」

「そう。情報論的な意味でも、ね。……人間や神々に自我があるのと、創世者INVISIBLEに自我があるのはそんなに情報エントロピーの差に開きはないはず。つまり稀ではないってこと。だからINVISIBLEに自我があってもおかしくないんだよ」


 長瀬はベースである生物学を離れ、より俯瞰的な立場に立ちはじめた。

 神経活動のネットワークが意識を生じるとするなら、エネルギーが思考するということも、起こりうるのではないか。

 そう、自我が単なる物理現象の一環だというのなら。

 何故人間だけに、生命だけに自我があると断言するのか。


 そうではないと、彼女は唱えている。

 違うとは思っても、築地は反論することができなかった。

 この柔軟な発想は、研究から離れた立場にあるからこそできるのだろうか。

 それが正解であるかはともかく、築地にとっては羨ましくもある。

 しかし、長瀬はさらにもうひとつ、斜め上に飛躍していた。


「で、そのINVISIBLEが収束するっていうことは究極のところ……それがINVISIBLEの意思に基づいているにしてもいないにしても、11次元空間上の話で、二つの膜宇宙(Braneworld)の衝突が起きるんじゃないかなあ。その女神っ子ちゃんの中で」

「あかん! お前変な電波受信しとる!」


  築地はそう言ったが、彼女は別に電波など受信していない。

  ひょんなことから長瀬がINVISIBLEの謎に迫るべく、超ひも理論の大統一理論となりうるポテンシャルを持つ、宇宙理論の一つ。

 M理論を唐突に持ち出してきた。

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