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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第24話 Like the moon at noon

「ゆーても、騒ぎにならずにボヤにするて……」


 さきほどから築地はジッポのライターを握り締めたまま、草原の中を落ち着きなく右往左往している。


「何ぶつぶつ言ってるのー? 見て見てーツッチー。これすごく燃えそうじゃない? 早く火つけてよー」 


 長瀬は辺り一面の枯れ草をむしりあげて、築地に向かって振り回している。

 あんなにはしゃいで火をつけろと言う。

 官僚のすることじゃないだろうに、と築地は彼女の能天気さに頭が痛いが、そういう天然な長瀬を親友のシゲルが射止めるまでの間、どれほど多くの校友が彼女に一本釣りされてしまったか、思い出すのも懐かしい話だ。


 長瀬に一度も言い寄らなかった築地はある意味で変わり者だった。

 築地はしっかり者で気の強い、長瀬とは真反対の性格の女性が好きだ。

 だか、なかなか彼の好みに合う女性がおらず今に至る。


「なあ、長瀬。燃やせる草集めはもうええて。それよりボヤごときでこの扉が開くか、考えてくれへんかな?」


 使徒階第5層区画に集められていた人々の一団からさりげなく離れ、使徒たちの警戒線をかいくぐって非常用通路まで辿り着いた築地と長瀬は、非常用通路の入り口の頑強なつくりに圧倒されていたところだ。

 扉から少し距離を置いて眺めてみると、異空間へ繋がるそれのように、あたかも草原の端に突然扉が浮かび上がったかのように見える。

 だが近づいてよくよく見ると、巨大な壁が天空にまでそそり立ち、下層の方は半透明、上層はグラデーションのように上へ行くにしたがって次第に透明となって透過色となって錯覚を見せられている。


 扉はかろうじて実在し、両手で押すとひやりとした質感が伝わる。

 半透明の壁に穿たれている件の扉は 2.5mx1.5m ほどの大きさ。

 形状は金庫のようで、ハンドルがついており黒く硬質だ。鍵穴もなければ、認証のための入力ボードもない。

 ただ、分厚い硬質の扉に金属のハンドルがついているだけ。

 力づくで開けようにも、標準的な若者程度はあると彼が自負している築地の腕力でもハンドルはびくともしない。


 使徒階間を繋ぐゲートを回避する抜け道となるルートなので、そう簡単には開かないのではないか。

 簡単に開いてしまえば第5層の使徒の脱走を許してしまう。

 築地がそう考えるのは理にかなっているように思えるが、長瀬は異論を唱えた。


「えー、開くでしょ。開かなかったらどうすんのー、もしもって時にここにいる使徒のヒト皆焼け焦げちゃうよー。防火シャッターもないんだしー」

「五層って防火シャッターないねんな。自分今そう言うてんな」

「ないよー」


 使徒階の防災設備については、先ほど長瀬がひととおり築地に説明したところだ。

 彼女の説明によると、異常感知センサーが張り巡らされていて、1区画でも火災が起ころうものなら消火班が駆けつけてきてただちに消火をするのだという。

 長瀬は少し火をつけて直ちに消火すれば問題ないと言うものの、築地はリスクを最小限に抑えたい。


「ほな、これ避難経路つーより防火シャッターやないの。開かんやろ、それどころか消火班来てもうたらどないすんの。煙感知センサー働いてまうやん」

「そんなの知らないよー。でも避難経路って書いてあるよー。じゃあライターでセンサーを直接炙ればいいじゃん。ライターなら煙出ないでしょー。熱感知システムだから動くよきっとー。そしたら他のセンサーに引っ掛からなくて済むじゃん。ほらー、この扉にセンサーあるし。ここ炙ってみてー」


 彼女はまくしたてるようにそう言うと、ハンドルの下にセンサーらしき黒い突起物を見つけて指差した。


「しゃーないなー、ドア壊れてもしらんで。長瀬お前炙れ。その間に俺がハンドル捻ったるわ」


 長瀬はセンサーと思しき突起物のなかでも、魚眼レンズのような部分を重点的にライターの炎で炙ったが、長瀬の指が火傷を負いそうになるほど長時間炙っても、築地の捻るハンドルは頑として動くこともなかった。

 彼女は不満そうにちらちらと築地を見やる。


「もー、ツッチーちょっと非力なんじゃないのー?」


 彼氏のシゲルには寛大なくせに、築地には手厳しい。身内に甘く、他人に厳しいタチで困る。


「ちょ、非力て! 開く気配もないて! 他に方法考えなあかんな」

「あれ? ちょっと見てツッチー、何かハンドルの横にうっすらボタンが出たっぽいよ見てみて!」


 扉に額が触れるほどに顔を大接近させて、長瀬はボタンの存在をみとめた。

 長瀬がライターで炙ったことによって異常事態を感知したセンサーが、見えるか見えないの弱弱しい緑色光のラインで縁取られたボタンを浮き上がらせたのだ。

 彼女が示しても、視力の悪い築地には視認できない淡いライン。


「俺、目悪いから見えへんけど……つーことは認証式!? どないしよ、神階の暗号なんて解けるわけ……」

「これ入力できるのって、1、2、3、4……13桁の番号っぽいんだよね。神階で13桁の番号といえば……」


 長瀬に促され築地も気付いた。

 御璽と並んで神々の指紋とされる、個神の持つ13桁のID番号だ。


「神さんだけ逃げられる避難経路か。使徒はこの階層で何かあったら全員死ねっちゅーことやんな」


 神の右腕に刻まれている13桁のIDは機密にあたるので、たとえ第一使徒にでも、使徒には明かされていない。

 それらは決して他者に明かされることもなく、個神の腕にのみ刻まれている。

 築地は狡猾なシステムを見せ付けられた気分だ。

 神にとって使徒は奴隷と同義なのだろうか。そして人々もやがてそうなるのだろう……それが主神たる比企の意思なのだと、築地は比企に疑いを向けたくなかった。


 彼らは使徒階だけには飽きたらず何の為に地上にやってきて、さして利用価値があるとも思えない人々を支配しようとしているのだろうか。

 神階の不穏な動きは、その長たる比企との間に築かれた信頼関係を裏切るものだった。


「ツッチー勘ぐりすぎだよー、性格悪いよー」


 長瀬は築地の深読みを非難する。

 ただの勘ぐりすぎ、なのだろうか? そうであってほしいと長瀬は願っているが、築地にはできなかった。彼女は比企を擁護するように、ここにきて重要な情報を出してきた。


「私知ってるよー、比企さんの個神番号。何か困ったことがあったら使えって、こっそり教えてくれたんだー」

「なんやのそれ! 機密の大流出やで!」


 築地が若干とはいえ不貞腐れたような声になったのは、彼にはその番号を教えられていなかったからだ。

 第一使徒すらも知ることのない個神番号を長瀬に預けてしまう無用心さは、神階の情報管理の甘さを露呈するとともに、比企への信頼回復に繋がる。


「ツッチーはすぐになくしちゃいそうだからだってー。当たってるでしょー? だから比企さんが裏切るなんて、ありえないよー。このIDって、不正に使われたら大変なんだよー。陽階のあらゆる鍵が全部開くマスターナンバーで」


 長瀬は正当な理由をつけ抗議しつつ、超薄型PCのメールフォルダを見て、1字ずつ的確にインプット。

 打ち終えると、何度も指さし確認して軽く頷く。

 これで開かなかったらと、不安を隠せない、それを払拭するための入念な儀式だ。長瀬は心ゆくまで確認すると、上目遣いに築地を見上げた。


「やってみて。開くよ」


 カタン、と乾いた音を立て、重い扉は開いた。

 先ほどまでの融通のきかなさが嘘のように。


「信じられるよ、きっと」


 長瀬は彼女自身を勇気付けるように、自身に繰り返し言い聞かせている様子でもあった。



 彼ら二人はこの、のっぺりとした冷たい壁面をどれほど登ったのだろう。

 先ほどの扉を開き広い避難用通路へ出た先に、彼らの前に垂直に立ちはだかっていた壁を登りはじめてもう随分たつ。

 彼らがしがみ付いている縦穴は僅かな角度に傾いていて、真っ直ぐにそりたっているのではない。


 また、意地悪なことに時折その角度を変える。

 だから、どこまで続いているのか見通す事ができないのだ。

 長い円柱状の縦穴の壁面を段違いに走る細い鉄パイプの梯子の上で、築地がここに来てから一切必要ないだろうと高をくくっていたデジタル時計を見ると、彼らはおよそ二時間もの間、この薄暗い縦穴に挑んでいたと分った。


 命綱もない状況で梯子を登り続けている、誤って両手を滑らせようものなら数百メートル下へ落下。

 当然、命はない。冷や汗とも、暑さのための汗ともつかないじっとりとした湿気が、金属の饐えた臭いとともに彼らの手の中に握りこまれていた。


 この縦穴を果たして神が汗水垂らしながら登ったものかと考えて、すぐにそれは誤りだと気付く。

 神は飛翔できるので壁をよじ登る必要などないのだ。

 梯子がついているだけましかと、築地は苦情を言いそうになった口をつぐみ、少し下からついてくる長瀬を気遣った。


「大丈夫か~、長瀬」

「もーだめ~! 私体力ないんだからー! それに怖いしー」


 長瀬のことを思うなら、大丈夫かなどと余計な事を訊ねてはならなかった。

 長瀬の意識から薄らいでいた恐怖を、築地は蘇らせてしまっただけだ。


「もうちょいやで」


 築地は体力のない長瀬を引き上げることもできず、声援だけを送る。

 坂道だったら背中を押すこともできただろうが、梯子を上っている人間に手を差し伸べるのは間違っている。

 この後も、長瀬は何度となく弱音を吐いた。

 彼女が喉が渇いたと言えば、築地が水筒からミネラルウォーターを出して飲ませた。


 泣きごとを言えば、他愛もない話で紛らわせてやる。

 そんな遣り取りを何度繰り返しただろうか、長い夜が明けるように穴の上から徐々に光が届いた。太陽光ではなく人工的な灯りだったが、彼らにとっては灯りの種類などどうでもよかった。携帯電話の灯りだけを頼りにここまで進んできた彼らはとにかく、光を待ち望んでいたからだ。


 足元が見えると不思議なもので俄然、足取りも軽くなる。

 ようやくのことで最上段に辿り着くと、新しい横穴の通路が視界に開けた。

 長瀬は神階中階層の点検用通路だと把握している。長瀬が見積もった中階層への到着時間をかなりオーバーしていたし、かなり難航したが、ここまでは予定通り。


 彼女いわく、神々が会議を行う時間帯は決まっていて、必ず神階時間の午前中に行われるのだそうだ。

 午後になると別の委員会などが入っていて、大会議の開催はありえないという。

 つまりそれだけ、比企と会える確率が低下するのだと。

 神階時間に換算して既に午前10時半を回っていた。


 彼らは点検用通路の中ほどにある小さな扉を内側からロックを外し、半開きほどにして顔を出し外を覗う。

 そんな彼らの目に、この世のものならぬ光景が飛び込んでくる。

 彼らは瞳をあらん限りに見開いた。

 そこから見えた景色は、長い登山道を踏み越えて山頂に辿り着いた者だけが手にする絶景だ。彼らは歎声を上げた。


「はー……!」

「わー……」


 彼らが出たのは長瀬の事前調査通り、神階中階層、中広場のエリアだ。

 広い敷地に白亜の石畳を敷き詰められた広場が広がって、広大な広場の周囲には、壮麗な白い高層建造物がぐるりと取り囲んでいる。

 それらの建物の屋上は彼らのいる場所からは見えないので、相当な高さで天を突き刺すように伸びていた。


 視線を下に戻すと、広場の中央には透き通った水が様々なパターンを織り成す精緻な構造をした大噴水が見える。

 先ほどとは違った色の、主に白を基調としたローブの制服を着た使徒たちが忙しなく往来していた。

 広場の上に浮遊して段々に織り重なっている空中庭園には緑と木々に溢れ、白い花が咲き極彩色の羽根を持つ小鳥たちが聞いたこともないさえずりで鳴きながら飛び去ってゆく。


 空中庭園に架かる橋の一部はガラスのタイル敷きで時計盤を兼ねており、巨大な針が目盛りを示している。

 それらの建造物の全てが複雑で手の込んだ、緻密な一点一点の芸術作品のように配座されていた。


 石畳を掃き清める清掃係の者、長椅子で寝そべって読書をする者、噴水の前で語る者……時間が地上よりゆっくりと流れている。

 二人はそんな錯覚に陥った。


 ここにいると、桃源郷伝説のように、その美しさに惑わされて地上のことなどどうでもよくなってしまいそうだ。

 悩みも疑問も全て忘れてひたすらに、この世ならぬ世界に魅入られてしまいそうだった。

 早く比企に会って腹に溜まっているものを余さずぶつけたい。

 比企はきっと、納得のいく答えを用意している。


 一方の長瀬は、扉の隙間から見ているだけでは辛抱もたまらなくなったらしく、ひょこっと飛び出していって、バシャバシャとデジカメのシャッターを心行くまで押している。

 先ほどの弱気はどこへやら。まったく、彼女は自由気ままな女だった。


「あーあかん! 戻ってこい! 見つかってまう!」

「大丈夫だよー、人間と使徒って外見上はそれほど違わないから見分けつかないって」


 彼女はすっかり中階層の庭園に夢中になってしまって、都合のよい言い訳を並べながら、もうこちらを振り向こうともしない。


「ほんまかー? 服も違うし」


 往来する使徒たちは全員制服と思しき堅苦しい服に身を包んでいるので、築地と長瀬の私服はひどく目立つ。


「ほんまだよ! オフの日は使徒のヒトだって私服着るし。大騒ぎしなければ大丈夫だよ」


 私服を着ている使徒などいなかったし、長瀬の口実のように聞こえなくもなかったが、幸運にも彼女に注目している使徒はいなかった。

 彼らは彼らそれぞれの日常を過ごしていただけだ。

 この分だと案外、警備が甘いのか?

 それとも、人間が紛れ込んでいるなど想定もしていないからかと勘ぐったが、築地がほっとしたのは事実だ。

 彼もミーアキャットのように扉から半分首を出してきょろきょろと辺りに気を配り、安全を確認すると中広場に出てきた。


「なあ……天国って、ずっとこんなやってんやろうか」


 築地はふとそんな事を言ってみた。長瀬はカササギのような色彩をした大柄の鳥をデジカメ片手に、熱心に追いかけているところだ。


「ここ何万年かはずっと内部構造は変わらないみたいだよー」


 築地は信じられなかったのだ。

 この美しい世界が有史以来、太古の昔から存在して、人々の歴史や文化と関わってきたという事実が。

 これほどの圧倒的な文明を築き上げて、人々にある時は手を差し伸べ、そしてある時は支配してきた、人々と同じ姿をした異星人がいたのかと。

 比企の生まれ育った世界がこれほどのリアルを伴って存在していたのだということを。


 天国は、雲の上から神様がなんとなく地上を見守っていてくれる世界、などという朧げなものではなかった。

 築地は今なら断言できる。

 この場所がどこにあるのか知らない、だが実在すると。


「人類の長い歴史と文明、神階の模倣やってんかもしれへんな」

「そうかなー。お互いに影響受けてると思うんだけど。だって神階って日本語が共通語なんだよ、英語ならまだしも日本語って信じられる?! 神階って、発音できる共通言語がないんだってさー!」


 長瀬は得々と、それこそ止められなければ延々と神階言語の変遷について語っていた。

 彼女は人々の歴史以上に神階の歴史をかなり勉強しているようだ。

 興味本位でこれだけ詳細に調べられるのだから、築地は感心する。


「もし仮に……神階と全面戦争になったら、人類勝てるんやろか」

「もー何でそんなこと言うのー」


 彼女は拗ねたような声を出し、築地を非難するようにしかめつらをしている。


「いやいや。仮にやで。真面目に考えてみ、神階に入った時点で国連は軍事力を放棄しとんやで?」

「どんな戦車持ってたって、核があったって神様にはかなわないよー。比企さんひとりだけで、神具なくても地球1個ぐらいどうってことないんだよ? 神様って、アトモスフィアっていうダークエネルギーを持っててね。それが凄いエネルギーを発生させるらしいんだ。“4つの力”を、神具を介して力学変換するのー」


 長瀬は今にも泣きそうな声を出しながらも、何やら如何わしい新情報を述べた。


「今、なんて?」


 築地はさも分からない、という顔になっている。

 ウツボカズラ教授こと相模原教授に捕まったときによく彼が見せた、長瀬にとっては馴染みのある表情だ。


「アトモスフィアっていうダークマターから発せられるエネルギーは、“4つの力”の性質を全部持ってるんだよー」


 長瀬は築地の理解力の程度を知っているので、どこから説明をすればいいのかわかっている。自然界にはそもそも、物理学的には大まかにわけて以下のような4つの力があるとされている。

 強い力(クォーク同士に働く力)。

 電磁力(電荷に働く力)。

 弱い力(ニュートリノなどに関与する力)。

 重力(全てのエネルギーを持つ物質に働く力)。

 アトモスフィアはこれらの全ての性質を併せ持っているのだそうだ。

 つまりそれは、自然界に存在して人類が観測している力の全てだ。


 その化学構造式は、記述不能。相模原教授以下松林助教、院生ら、築地と長瀬に至るまで、かつて錯体研が比企と研究協力を行いアトモスフィアの構造物決定と合成を行うことができたのは、ほんの一部の構造であり、きわめて安定状態の重粒子のみに限られていた。

 だが、実際のアトモスフィアは複雑な相互作用を起こし、その結合や反発力によって4つの力の全ての性質を担うのだという。


 そもそも、アトモスフィアの成分のほとんどは、現代の科学技術では同定できないものだ。

 このような性質を持つ物質は、人間の目にも人の造り上げた測定装置を駆使してもまだ観測されていないダークマターから成ることが明らかになっている。

 人類にとっては未知の、暗黒物質を神は生まれながらにして持っているというのだ。

 神体でのみ生合成されるこの暗黒物質は、使徒の生命をすら支えている高エネルギー物質だった。


「?……?」

「ダークマターを持ってるから生身で凄い力が使えるのー。かなうわけないじゃん、国連も知ってるんだよ。大人しすぎたと思わない? きっと、力を見せ付けられてさ……怖くて、心細くて……どうしようもなくて。武力放棄するしかなかったんだよ。守ってもらう立場で、戦争なんてできっこないじゃん」


 人類はまだ、この世に存在する4%の物質しか観測していないといわれている。

 神は確実にその4%の外にいて、96%を操る存在なのだ。

 この事実を知ったとき、彼ら人類に何ができただろう。

 白旗を揚げて降参する以外に生き延びる道はなかった。

 人類は神階に対して、いかなる兵器を向けることもできなかったのである。


 今回の危機に対してあまりにも国連がおとなしすぎたことが、築地には不満だった。

 ありとあらゆる国家と地域に強硬な姿勢をとり続けてきた、喧嘩っ早い合衆国ですら、牙を抜かれたけもののように萎縮するものかと。

 正面から挑んで敗れたわけでもないのに……軍事力の差を思い知る機会すらなかった筈だ。

 嘗て猛犬であった合衆国が飼い犬のように牙を剥かなかった、できなかった理由がこれだ。

 長瀬は、彼女の胸の奥に淀んでいたものを吐露するように言葉を続ける。


「比企さんはいつでも、たったひとりでも人々をどうにでもできるの。アトモスフィアって、傍に近づくだけでも凄く危ないんだよ? でも、傷つけてないじゃん。私が酔っ払って比企さんに絡んだときも、ツッチーがふざけてツッコミ入れたときも。比企さんにとって何の価値もない私たちに、よくしてくれたじゃん! だから、信じたいよ……比企さんのこと」


 長瀬は楽観的な視点からではなく、全てを飲み干してなお、比企を信じたいと思っている。

 長瀬のことを、お気楽で楽観的でミーハーな女だと決め付けていた。

 築地は考えの足りなさと、比企のシンパを気取っていた彼自身に恥じ入った。


 彼女は比企の真の姿と能力を充分に知っているからこそ、彼が地上に滞在したわずかな時間を振り返り、強い信頼を寄せているのだ。

 自分のほうがよほどミーハーだ、築地は長瀬の、何かを磨り減らしたような悲しげな視線を見つめ返すことができなかった。

 そして……彼らの意識が完全に周囲から離れてしまったときのことである。


「何だお前達は!」


 二人の真後ろから槍のように両手が突き出し、長瀬は唐突に両腕を背後から掴まれた。


「!!」


 彼女の視界はいつの間にかふさがれていた。

 何が起こったのだろうと確認する間もなく背後から三名の男たちが襲い掛かってきて、築地は羽交い絞めに、長瀬は手首を後ろに取られて押さえつけられた。

 腕っぷしの強い男たちだ、築地の腕力では逃れられない。

 長瀬は目隠しをされた手の指に思い切り噛み付いたが、ぎりぎりと噛みしだいても、さしたる効果もなかった様子で、むしろ彼らの機嫌を損ねただけに終わった。


「貴様ら何者だ! 神階の者ではないな!」


 築地は二人がかかりで、顎下に青い光沢のあるハンドガンのようなものを突きつけられている。

 実弾が入っていないことを期待できそうな雰囲気でもなかった。


「な、なんや、こいつら!!」

「あーあ……どうしようねえ。黄色い腕章してるから警備の使徒だと思うよー。何で見分けついたんだろうねー。あー!! そっかー、ツッチーの大阪弁だよー! 使徒って方言話さないもん。神様はクセある話し方するけどー、神様だったらすぐバレるからさー。だから怪しまれちゃったのかもー」

「俺―!? 違うて! 俺らが比企さんのことペラペラ喋っとったからやで!」

「比企さんのせいにしないでよー」


 ここまできて見つかってしまうとは不本意にもきわまりない。

 長話などせず立ち去ればよかった、などと彼らが思っても詮のない話だ。


「こいつら……人間ではないですか!? 何故人間が中階層へ!」


 警備の使徒たちは比企と連呼する二人の会話を聞いて、ますますもって警戒心を強めたようだ。


「使徒階から脱走してきたのかもしれんな」

「そ、そうなんですー。5階層からきました。……と、トイレはどこかなと思ってー」


 長瀬があまり効果的ではない言い訳を思いついたらしい。

 その口を閉ざして黙っていてくれと築地は願ったが、案の定、こっぴどくどやしつけられた。


「とぼけるな! どうやってここに侵入してきたんだ!」

「ゲートは鉄壁の筈だ。人間風情が5階層から五回も関所破りをしてきたんだ、侮れんぞ」


 確かに五階層から五回も、蟻一匹通さないと言われているゲートを破ってきたら侮れないだろうが、築地と長瀬はゲートを通っていない。

 そこを否定してよいものか、もはや判断できる精神状態にはなかった。何しろ彼らは大柄だ、とにかく大柄だ。

 誰もかれも2mは超えている。


 凄まれるだけでも竦みあがるのに、あんな太い腕で殴られでもしたら命の保障もない。

 また、更に運の悪いことに騒ぎを見つけた野次馬もわらわらとやってきた。

 平和な陽階にあっては、小競り合いも揉め事も珍しいのだろう。

 彼らもまた、屈強そうな者ばかりだ。

 女性使徒といえど、築地の身長を悠に超えている。

 ここは絶対に下手な真似をしてはならない。

 彼らは全員が全員、武術訓練を積んでいる。

 格好の実戦訓練の場になってしまうだけだ。こぞって参加したがるに決まっている。


「怪しい奴らだな。連行しろ」

「連行ー!? あのー、私たちちっとも怪しくないっていうか、大したことないっていうかー。ここに来たのもショートカットで……正面突破なんかしてないしー」


 長瀬は最後まで言い訳を述べて頑張っていたが、結局は背後からどつかれて口を閉ざした。


「ぐだぐだ言わず歩け!」


 長瀬と築地はがっちりと後ろ手に手錠をかけられ、野次馬達の見守る中を、周囲を警備の使徒たちに囲まれて連行されていった。



 全位神を一堂に集めた緊急招集会議の行われる大会議室へ入ろうとする比企を、遺伝子神 岡崎 宿耀が所定の席にもつかず、分厚い二重扉の前で待ち伏せをしていた。

 岡崎は比企の前に立ちふさがり、進路を譲るつもりはないようだ。


 今にはじまったことではなく彼を見かけるたびに、だが……岡崎はまたやつれていた。

 昼も夜もなく、食事も取らず根をつめて研究に明け暮れているのだろうが、何の研究をしているのか報告義務もないので比企には分からない。


 無論マインドブレイクを使えば明らかになるが、既に彼の頭脳の中は抽象的になり過ぎて看破してもあまり意味がない。

 彼の頭脳の中の言語は複雑な翻訳を必要とするから、彼の口から聞くのが一番手っ取り早かった。

 時折会議で実験室の外に呼ばれなければ、岡崎は今後研究室から一度だって外に出ることはないつもりのようで、いつも誰かしらが気を回して岡崎を会議に呼ぶ。

 とにかく、これまでの経緯があって、引きこもりの岡崎の方から比企に近づいてくるのは、何か重要な案件を持っているに違いない。


 何か裏もありそうだ、比企はそう思った。


「極陽、緊急に奏上すべきお話がございます」

「開会15分前ゆえに、手短にの」


 比企はどんな会議にも10分前には会場に入っておきたいたちだ。

 極陽になったからといって重役出勤などもってのほか、というスタンスなので、下っ端は余計に気を遣う。

 岡崎はそんな比企の性格を見越して、20分も前から会議場前で待ち伏せをしていたのだろう。一方の比企は彼がよほど話したいことがあるのだろうと考え、あまり邪険にせず耳を貸すことにした。


「どうしてもお聞きしておきたかったのです。GLの神籍登録者に八雲 遼生の名がありましたが……どういうことですか?」

「八雲のことか。素性は知らんが、藤堂の義兄にあたるようだ。同じくAnti-ABNT Antibodyだと聞いて……」


 比企が言い終わらないうちに、岡崎はものすごい剣幕で比企の言葉を遮った。


「彼を叙すること、私は賛同致しかねます。また、八雲 遼生への生物階降下許可をただちにご撤回ください。事は一刻を争います」


 一刻を争うとからといって、会議が終わるのを待って苦情を述べることぐらいできなかったのかと比企は口にのぼりそうになった。


「……汝は狭量だの。一介の少年神が汝に如何な不利益を与えるというのだ」


 いかに神経質な岡崎だとは言ってもこの期に及んで、たかだか少年神の進退について何を固執する必要がある。

 しかも岡崎は藤堂 恒の行動については一言も触れず、八雲だけを見咎めている。

 少年神を極位神が手元に置かないのは確かに通例ではあるが、この危急の折に何が問題になるというのか。


 しかし遼生はいずれの分野においても同年代の少年神の神体測定基準を大きく上回る数値をマークしている。

 非の打ちどころがあるというのなら、具体的に述べてほしいものだ。

 ただ単純に優秀な少年神を比企が囲うことに異論があると感じたものだから、比企はつい率直に狭量だと言ってしまった。

 利権争いをしている場合でもないし、彼を所有したからといって比企の手に入る権益も皆無に等しかった。


 岡崎は比企の蔑みを甘んじて受けながす。 


「狭量か広量かの問題ではありません。“あれ”だけは禁忌だと申し上げておるのです!」 


 比企から軽蔑の眼差しを向けられたのは、比企が八雲 遼生の存在を理解していないからということに尽きた。

 恒に義兄がいると教えたのは、他ならぬ岡崎自身だ。

 恒の性格だから、義兄に同情して必ず見舞いに行く。

 恒は八雲 青華と通じてサンプルNo,18と感動の対面を果たしただろう、そこまで岡崎は予測していた。しかし恒が脳死状態も同然となったNo, 18を蘇らせるということは、完全に想定外の出来事だった。また、藤堂の能力を侮ってもいた。

 岡崎は苛立ちを隠し切れず舌打ちをする。


  IVAAAプロジェクトの恐るべき産物がNo, 18というものであり、先代極陽なきあとその真価を知っているのは岡崎と八雲 青華だけだ。IVAAAプロジェクトの語り部は少しずつ失われている。


 先代極陽の最大の罪は何かとつきつめたら、“それ”に生命と自我を与えてしまったことだと岡崎は答えるだろう。

 抗体が生きている必要はどこにもなかった。

 サンプルNo, 18が神の姿をして言葉を話すから、神格や生存権が発生し話もややこしくなる。兵器であれば誰にもそう扱われてよかった。

 そうであれば、廃棄する事は何ら罪として成立しえなかったというのに、ヴィブレ=スミスは神階の最終兵器を機械ではなく肉体で創ってしまったのだ。


 彼のしたことは岡崎からすればもう、悪趣味にすぎるとしか言いようがない。

 廃棄するのは不経済という発想から、抗-ABNT抗体として利用されていたものだ。


「サンプル No,18……確かにあれはある意味別格です、ですが先代が決して世に出さなかった理由をお察しいただきたい。GL-Networkによると彼は生物階に降下しましたね。ただちに呼び戻してあなた自身の手で監禁するか私に預からせてください。倫理的な事を論じている場合ではありません、ただちに屠殺すべきです」

「No,18と申されても己は理解しがたいのだがな」


 INVISIBLEに最も近いと論じられた荻号 要への、神階の根拠のない期待を牽制してきた岡崎をして、あまりに危険と言わしめる。

 八雲 遼生とは何者だ。ある意味において、という限定的な用法が引っ掛かる。

 比企は彩度の低い灰色の瞳を眇め、翠色のそれを持つ岡崎の真意をさぐろうとした。


「要約しますと、八雲 遼生は恐るべき生体兵器だということです」

「もう議会の開始時刻が迫っておるのでな。汝の見解は興味深いので後ほどじっくり聞こう」


 岡崎が何を言いたいのか、比企にはさっぱり分からなかった。

 また、大切な会議の開始時間5分前となっているのに、岡崎の話に真面目にとり合っている余裕もない。


「比企、耳をかしてください! 彼が生物階に在ること……グラウンド・ゼロに近づくということは、INVISIBLEを墜落させる可能性がある!」

「……的確な表現を求めたいものだの」


 岡崎の話は、彼の脳がまたそうであるように、あまりに抽象的すぎる。

 また、だからといって岡崎も比企に全てを理解させるために核心を話すつもりもなさそうだった。

 ただ、岡崎は遼生が危険だと必死に訴えているが、それはあたかも水槽の中にいる鑑賞魚が決して、外で観察する飼育者に作用することができないようなものだった。


  INVISIBLEにとって不都合なことが、比企に必ずしも好都合であるとは限らない。

 岡崎がINVISIBLEへ与しているのか、180度真逆の立場にいるのか……陰階神の立場としては後者であるべきなのだが、とにかく比企にとって八雲 遼生が、この最悪の現況にあって何かしらの不都合を齎すとも思えなかったのである。


 岡崎は、比企が辟易するのも意に介さず、更に真剣なまなざしでたたみかける。

 彼は再三にわたって警告を発していた。


「No,18の拘束をお急ぎ下さい。彼はあまりに危険です」


 適当に受け流すべく口を開きかけた比企は、とある一団が視界の隅を横切るのを見逃さなかった。

 すぐ目の前の空中回廊を、警備員の使徒たちに連行されてゆく若い男女を。


「む……」


 目を凝らさなくとも特徴的な服装と容姿をした男女が、長瀬 くららと築地 正孝だということは判別できる。

 会議開始までの時間が押し迫っている中で、ことごとく邪魔が入るものだ。

 岡崎は気もそぞろな様子の比企に、苛立ちをあらわにした。


「比企、聞いておられるのですか!」

「汝の話の詳細は議会終了後に改めて自室で聞こう。第一使徒 響にさよう申しつけ、訪ねよ。また、汝の申すよう八雲 遼生の即時帰還を命じておく」


 比企は岡崎を一旦黙らせるために、傍近くに控えていた高官に遼生を即時神階に連れ戻したうえでの禁足令を発した。

 『面倒をかけおる』、口の中で呟いた割舌の悪い比企のコメントは、八雲に対してでも、岡崎に向けて述べられたものでもない。

 比企は、話が噛み合わずもどかしそうに見つめる岡崎に、取り繕うように向き直った。


「それでよいだろう」

「気もそぞろのようですね。いいですか? 懸案があるようですから、会議終了後がよいでしょう。後ほど、必ずお伺いします」


 まだ何か言い足りなそうな岡崎を尻目に、比企は転移で消えてしまった。

 彼は築地、長瀬と3名の警備の使徒たちの前に割り込むようにして出現する。

 比企は使徒達より随分小柄だが、極陽の存在感はやはり圧倒的で、警備の使徒は腰を抜かす。極陽が直々にお出ましになるなど一体何の手落ちがあったものかと彼らは顔面蒼白になって、せわしなく顔を見合わせていたが、ついには平伏するしかなかった。

 目隠しをされた築地と長瀬は、何が現われて彼らが急に慌てているのか、辺りの様子が分からない。

 しかし彼らは目隠しをされていても、この一声が誰から発せられたものか、決して間違えることはなかった。


「どこに連れてゆくのだ」

「は、はいっ……! さきほど中階層で拘束しました不審者を、これより厳しく取り調べる予定でございますが」


 不審者を連行することを堂々と報告してもよいだろうに、極陽に見咎められるものだとは思わなかった彼らの声はおのずと小さくなる。


「彼らは己が預かりおく。その方らは大儀であった」


 比企は築地と長瀬の手錠を握りつぶし、目隠しを取ってやった。


「きゃー比企さん!! 会いたかったー!!」

「!……き、貴様! 極陽になんという口のきき方を!」


 責任者と思しき警備の使徒が、極位神を愚弄したような口ぶりを聞き反射的に怒鳴りつけた。同時に彼らは、比企の逆鱗に触れたであろうこの二人の人間どもの首が切断されることを疑わなかった。

 だが、比企は二人にではなく彼らに冷たい一瞥をくれるので、彼らは混乱しつつ頭を床にこすりつけた。


「汝らは、疾く持ち場に戻れ」

「だってさ! バイバーイ!」


 長瀬が虎の威を借り極陽の背後に隠れつつ、わざとらしくぴらぴらと手を振った。


「大虚け者どもが!」


 警備の使徒たちが去るのをみはかい、比企は二人に一喝した。

 声を荒げたことのない比企が、珍しく二人を叱責している。

 威光を持つ者が声に宿す、言霊というのだろうか。

 ぐさりと腹を突き刺されたように、築地は肩をすくめ目をつぶった。


「神階では無責任な行動を取るなと、使徒階でようよう説明があったはずだ。ゲートを破り神階に侵入すれば命の保障もなかったのだぞ。己に会いたければ然るべき手順を踏め」


 彼が厳しく言うのには、比企は神階を侵す不審者の殺害許可も下していたからだ。

 たまたま長瀬と築地が彼らに抵抗をせず丸腰だったから射殺されなかっただけであって、即時に射殺されていて何らおかしくなかった状況だ。


「ごめんなさ~い。でも然るべき手順踏んだって、絶対取り合ってくれなかったでしょ?」


 つい先ほどは梯子を登るだけで弱音を吐いていたというのに、主神に凄まれて少しも怯まない長瀬の神経が、築地には信じられない。

 築地は先ほどから比企に口をきくことすらできないというのに。

 比企は青いフラフープのような二本の環状環の中心にいて、純白の装束を纏い後光すら差している。この世のものではない、荘厳な光景をみた。

 地上ではビジュアル系だと揶揄したものだが、真の姿を顕現した主神を前にしては畏れ多い。


 こんなの卑怯だ。

 これでは威圧されて何も言えないではないかと、築地は不満だ。

 ここは完全に比企の自陣になっている。


「ツッチーがどうしても、比企さんに訊きたいことがあるっていうからきたのー」

「な、長瀬……っ!」


 長瀬はここにきて築地に絶妙なパス回しをしてくれた。

 切り出せなかったので話題を振ってくれるのは有難いが、非常に迷惑だ。


「築地か。命を賭しても、訊ねるべきことのようだが」


 彼と会わないうちにすっかり忘れていたが、マインドブレイクで既に築地が何を問いたいのか、比企には見えている。

 築地は比企の言葉を二重の意味に捉えることができた。

 命を賭して問うべきこと……すなわち、下手な口を利けば命の保障はないという脅迫。

 もしくは、命を落とすほど危険な道程をわざわざ訊ねにくるほどのものなのかという、純粋な労わり。


 二者は正反対の意味を持つが、前者であった場合は破滅だ。


「……あなたは」


 築地のこめかみから、一筋の汗がじっとりと顎にかけて滴り落ちた。


「ああ」


 時間を気にしつつ、比企は築地を辛抱強く待った。

 彼はすぐに齟齬に気づき、補足してやった。


「安心しろ。意図は後者だ」


 築地は彼の配慮に感謝しつつ、それを皮切りに、疑問を洗いざらいぶつけることに決めた。

 どうとでもなれだ。築地の中で何かが吹っ切れた音がした。


「強引にここに来てしまったことについては、ほんまにすみません。でも、あなたは避難させるとか都合のいい事を言って人々を神階に上げて、何をしようとしてるんですか? あなたがやりたかった事は、こんなことだったんですか!?」

「生物階に迫る危険から人々を避難させたまでだ」

「危険て何です? 地球に小惑星が落ちてくるとか、本気で言えます? そんなんで俺らが納得するとでも? あんた、人類をどないするつもりや!!」


 言ってやった! 

 後のことはともかく、築地は勇気を振り絞って訊いてやった!

 ……という思いが半分と、取り返しがつかないことを言ってしまった、という後悔が半々だ。

 人類をどうするつもりなのか、などという滑稽な質問は最高に皮肉が効いていた。

 あの生真面目な比企に対して、こんな耳が痒くなるような恥ずかしい言葉を大声で投げかけたくはなかった。

 こんな質問をさせないでほしい、お願いだから――。

 築地は苛立ちもあって歯を食いしばった。


 比企は築地の辛辣な言葉を聞き、また長瀬の同調するような表情を見てひとつ、ため息をついた。

 そして彼らに説明を怠った彼の責任を振り返るに至った。

 これは自業自得なのだ、厳しく受け止めなくてはならない。

 慕われていた者から疑いのまなざしを向けられることは痛みをともなうものだ……彼は素直にそう感じた。


 些か説明が不誠実ではあったようだが、神々は生物階に迫る真の危機を明かす義務はない。だが……人々を神階に受け入れたことは、太古より人々と神々の間で交わしてきた契約に遵ったことであり、疚しいものではない。

 それを明かすことができないのが悔やまれる。

 比企は静かにこう呟いた。


「神は人を見捨てはせん……それは義務だ。だが今は、そうありたいとしか言えん」

「ねえ……比企さん、信じてもいいんだよね?」


 長瀬が、大きな瞳で彼を見上げながら口をはさんだ。

 それがいくらか効果的だということを、彼女は心得ている。


「……」


 彼の沈黙は後ろめたさを代弁しているような気がする。

 長瀬はそれまで安全だと思っていた場所から急に梯子を外されたような、あるいは崖から突き落とされたような最悪の気分になった。

 彼にさえ会えば、彼の善意と慈悲を証明できると思っていたのに。

 こんなことなら、どうしても比企に会おうとした築地を止めていればよかった。

 そうすれば、比企を信じて最後までついてゆけたのに……長瀬はうなだれながらも、強く叫んだ。


「そうだって言ってよ! ねえっ!!」


 長瀬は遣る瀬のなさをあらん限りにぶつけて比企の肩に手をかけ揺さぶったが、どれだけ揺さぶっても、その心を揺さぶることはできない気がする。

 長瀬が比企に触れることができるのは、比企が長瀬を受け入れているからだ。

 神の周囲には強力な防壁があって、本当は指一本触れることすらできない。

 そのギャップを、解いてくれている。

 その優しさに似た残酷さが、まだ一縷の望みを捨てさせない。

 凍りつきそうに冷え切った空気のなか、比企はようやく答えた。


「この行為が救済であったか否か。気休めかもしれん、それでもなお……」

「……比企さん、もう。いいよ」


 長瀬の両手を滑らせるように緩慢な動作で振り払って、彼は背を向け歩きはじめた。

 彼に届くはずのほんの数歩が、今はとてつもなく遠い。

 二人が彼に裏切られたのだと悟るには十分すぎるほどの距離感が生じたとき、比企はその足をとめた。


「最善を尽くす用意はある」

「何……最善って?」

「何でや! あかんやろ比企さん! 一体何が起こっとんや、一切合財教えてくれや!! 俺らなんて、本来なら比企さんに絶対声をかけることもできへんちっぽけな人間や。教えたかて何もメリットなんてないねん。それかて、フェアちゃうやろ!」


 築地は思い余って、激しい口調で言葉を礫のように浴びせかけた。

 築地の放った支離滅裂な言葉は、決して比企の琴線に触れたとは思えない、それでも、掠めることはできたのだろうか。ふと、比企は彼らに顔を向けた。


「ついてきたければ、そうするがよい」


 前へ進もうとする築地の手を握り、引きとめようとするかのように彼女は強く後ろに引く。

 彼女の手はすっかり体温を失っていた。

 彼女らしくもない、か細い声をだして拒絶した。


「やめよう、ツッチー。駄目だよ……引き返そう」


 議長の到着を待ちかねた、大会議場の扉が開いていた。

 中にあるのは真理か絶望の辺縁か。

 築地は嫌がる長瀬の手を握り返して、とうとう比企に追従した。



 智神の沈められたエネルギー炉の前で思案する織図は、死体を検めるべきだと感じていた。

 今、ここにある証拠を確実に掴んでおかなければ、証拠は織図の気付かないうちに消え失せてしまうような気がしたからだ。

 そう、ユージーンが神隠しに遭ってしまったあのときのように。

 そこに在るからといって、いつまでもあるものとは限らない。


「織図さん! やっぱり織図さんでした!」


 真横ともいえるほど至近距離で声がしたものだから、肩をこわばらせぎょっとしたように振り向いた。

 織図は智神のアトモスフィアに翻弄され彼の気配を感じていなかったので、声をかけておきながら織図のリアクションに目を見開いた藤堂 恒がすぐ真横にいたことに二度驚いた。


「! ん?! つか何でお前がここにいるんだ!」

「あなたこそ! 何をしていらっしゃるんです」


 どちらかというと、恒がここにいる方がいくらか不審だった。


「いやいやお前こそ何してるんだ。俺はここの職員なんだし! つか、お前はいつからここに?」


 もともと仲のよい二柱が顔を合わせると、途端にその遣り取りはコントのようになる。

 正確には織図と絡んだものなら誰でも、即興のコント形式で会話が進行するはめになってしまう。が、織図はふざけているわけではなく、至って真面目にふざけている。


 恒のジャケットは埃っぽく、ズボンも擦り切れていた。

 頬や手にも細かな擦り傷がある。彼の周囲に、いつも存在感を放っていたアトモスフィアが見えない。

 フィジカルギャップを失効しているように見えた。

 恒は何も言わないが、ここに辿りつくまでに何か大きな立ち回りをして切り抜けてきたのだろうなと、織図は慮る。


 そして織図が恒を気遣ったように、恒も相変わらず、織図への配慮を忘れない。


「ついさっきです。心配しましたよ! 織図さんに電話かけても全然つながらないから。どうしたんですかその格好、傷だらけじゃないですか」


 恒は織図が、よく見慣れた聖衣を纏っておらず、ウェットスーツを着込んでいることを訝っているようだ。

 織図はパン、と両手を合掌するように打ち合わせた。


「あー。えー、っと……はいはい……俺の携帯に電話しちゃったわけね。なるほど、それでか。あちゃちゃ~」


 道理で、バンダルが特務省を生物階に降ろしてきたわけだ。

 恒が織図にかけた電話をバンダルが盗聴し、織図に話すべきだった重要な情報は織図ではなくバンダルがまんまと獲たというところだろう。

 さもなくば、特務省がこれほど性急に生物階にまでやってくる必要性は皆無だ。


 盗聴技術の発達している特務省に携帯を持ち込んではならなかったという、至って初歩的な失敗を棚に上げて、恒を責めたてることもできはしない。


「で、もう今更かもしれんが、何が訊きたかったんだ」

「レイアがどこにいるのか、教えていただきたかったんです。あなたがご存知だと思ったので。でももう分かりました」

「分かったのかよ。レイアが俺の言うとおりにしてれば、荻号さんのとこに行ったはずだ。もしかしてレイアを追ってきたのか」

「そうです。重力異常が起こっていたので飛翔できず、戦闘機で特務省に乗りつけました」


 さらりと言ってのける。

 利発すぎるというのも困ったもので、織図が彼と出会った頃からずっとそうであったように、つくづく可愛げのない少年だった。

 彼の生き方はあまりにも無駄なものが削ぎ落とされてきて、最後に芯の強さと使命感だけが残っている。

 ぴんと張り詰めた弦のような佇まいでいて、隙など最初からなかったような気がする。

 彼と向かい合うときは、織図といえど気を抜くことはできなかった。

 彼はいつも、時に彼自身をも欺いてきた。


「それからもうひとつ。織図さん。俺、本当にユージーンさんのこと二年も忘れてたんですよね?」


 それがさも、“もののついで”であるかのように、恒はさり気なく訊いてきた。


「……!」

「あなたはずっと覚えていらしたんですね」


 織図の一瞬の表情の変化を見て、恒はすかさず断定した。

 またお決まりのパターンかよ、と織図は降参する。

 恒が巧妙に仕掛けた罠に、織図はどれほど頻繁に足を引っ掛けていただろう。

 決してわざと、引っかかってやったわけではない。


「まあ俺とファティナもな。丁度仮想空間にいたんで見逃してもらえたようだ」

「どうして教えてくれなかったんです」


 穏やかな口調だが、恒は恨めしそうだった。

 ユージーンにのみ言及するこの様子だと、彼はメファイストフェレスもまたユージーンと同じように失踪していたことに、恐らくは気付いてはいない。

 何かの拍子に、整合性もなくユージーンのことだけをひょこっと思い出した。

 織図が何かを知っているに違いないと勘付いて、連絡を取ろうとしたり特務省にまで追いかけてきたのだ。


 なかなかの執念だった。織図には恐ろしくすら感じられる。

 彼が “藤堂 恒”であった部分は今、抗体としての部分に押しつぶされてはいないのだろうか。

 彼はいま、“藤堂 恒”の抜け殻のようになってはいないだろうか。

 確かめることもできなかった。


「そりゃ悪かったけど、こっちも危うかったんだよ」

「危うい……それは時計職人の介入があってノーボディも消されたからですか?」


 恒は見当違いの自論を述べている。本気でそう思い込んでいるのだろうか。


「ちと違うね。同格のブラインド・ウォッチメイカーにノーボディは消されはせんよ。ノーボディが最期に会った奴に消されたんだ。問題はそれが誰かということだよ」

「わかりません。ではINVISIBLEですか」

「……だよな」


 恒はそう考えるだろう。

 しかしどうしてもその発想に至ってしまう彼には、迂闊な事を話さないほうがいい。織図はそう思った。


「……? 織図さん。心層に何か細工をしましたか? 読めませんね」


 腹の探りあいをしている場合ではないと考えたのか、恒は単刀直入に尋ねてきた。

 織図も同感だ、身内で詮索し合っている場合ではない。

 だが、恒の立ち位置が以前とは違う。


「しとるよ、見てのとおりだ」


 織図は堂々と白状する。


「俺には話せないという意味ですか」

「そうつっかかるなよ。お前さ、もう一度ユージーンに会いたいか?」

「はい」


 織図が悲しくなるほど、応えには淀みがなかった。


 どんな姿になっていても、お前はユージーンがいいんだろう。

 お前は何があっても彼を疑えない。織図にはもう分かっている。

 恒はこれほど懐疑的な少年であるのにユージーンにだけは妄信的であり、レイアには無条件に過保護だ。

 一体どこからもとを正せばいいのだろう。

 因果はどこから始まっているのか。


 恒をそうさせたのは誰だったのか。

 最果ての谷から獲られた答えと、誰が得をするのかを検めてゆくと、ずっと燻っていた答えの端に行き着く。

ユージーンが恒を含め彼にかかわるあらゆる者たちの記憶を消したのは……記憶を消さなければならないようなことをしたからだ。


  彼が創世者となり、ノーボディを消すためにそうしたのだとしたら。どちらが先だ。

  そもそも彼は誰だったのか。事実、ノーボディの創造物だったのか。


 もし、ユージーンが……“彼”だとしたら。

 喉もとを破って突き上げてくる恐怖を押さえつけて仮定した途端に、……それは可能となった。

 創世者であるINVISIBLEが過去に介入して因果を狂わせるのは、それほど難しいことではなかった。


「変ですね、そんな訊き方をするなんて」

「いや、ユージーンの奴もどっかで生きてるのかと思ってな。先代絶対不及者がここにいるからな」


 本音でもないのだが、織図は恒の注意をほかに向けた。

 恒は織図に促されるままに、エネルギー炉の中を覗き込む。

 恒は驚愕の表情を見せる前に、竦んで絶句した。


「織図さん……これは……」

「セウルって名の智神だ」


 恒は、織図の正気を疑ったのかもしれなかった。

 そうでなければ、そっくりそのまま同じ言葉を返されるべきだ。

 織図は智神と言うが、恒にはそうは見えなかったからだ。

 緊張のために脈が速くなる。

 どちらだ、どちらが正しくて、どちらが誤っている。


「あなたは彼を、智神だと言いましたね。本当にそう思っているんですよね」

「ああ、信じられんだろ。記録にもばっちり残ってるんだ」


 恒は智神の姿を知らない。

 だが、彼は智神ではないと否定することだけはできる。

 何故なら、彼が誰であるかを恒は知っているからだ。

 織図の示す古い記録を目に通しながら、恒は違うと言い出すことができなかった。


 そこには紛れもなく、エネルギー炉の中に沈んでいるのが智神であり、彼はこの炉から少なくとも数万年もの間引き揚げられてはいないと記されている。

 彼を溶炉から引き揚げようものなら、特務省の機能が止まる。

 できないのだ、彼はずっとここにいて、ほんの僅かな間たりともここから出た事はなかったという鉄壁のアリバイがある。


 そこで恒の中で急浮上したのは、恐るべき二つの可能性だ。

 他人の空似という現象を、恒は否定しない。

 だが、どうしても否定しなくてはならないことがある。

 それは織図と恒が同じ人物を見て、違う人物と認識する現象だ。


 織図が正しいならば、恒の記憶は絶望的なまでに破壊されている。

 恒が正しいならば、織図も正しいと立証できて丸くおさまりそうだが、こちらの方がなお不都合だ。

 だがこの場合、それまで“いた”と信じていた者が、最初から存在していなかったということになる。


 では、恒は何を見て、誰に触れ、誰と話したのか。

 アルティメイト・オブ・ノーボディの姿を目撃した恒は、彼が彼たる、あるいは彼女たる特徴的な容姿を記憶していた。

 特徴は、記憶などできはしないという一点に尽きた。


 恒が目を伏せるたびに、彼、彼女の容姿は変化して、ほとんど“点”の状態でしか真実を捉えられないからだ。

 これらの事柄を肯定した瞬間に、全ての試行がふりだしに戻る。

 実像を見ていながらにして、虚像を見ていた。

 彼という現象は、そして藤堂 恒という現象はいつから始まっていたのか。

 真摯に、向かい合うときはすぐそこまできていた。


「不可視の創世者《INVISIBLE》は、ずっと視えていたんですね……」


 しかし、本当の姿など分からなかった。

 誰も、INVISIBLEの真の姿を見てはいないからだ。

 視えているのに、真実の姿を現さない。

 恒の見た人物、織図の視た人物、皐月や、朱音、巧に、志帆梨に……彼ら全員が全員、異なる人物を視ていた。


 恒は、エネルギー炉の中の智神について述べているのではない。

 不可視の創世者は誰の目にも見えていた、だが、決してその姿を正しく視ることはできなかった。


「何故……あんなことを云ったのでしょう」


 ――生きるということは、満足に死ぬ事でもある。


 ありきたりで陳腐な自殺志願者の言い訳にしか聞こえなかったあのフレーズに、どれほどの意味を込めていたのかを無性に知りたくなった。

 その真意を、今となっては二度と確かめることができなくなったことが、たまらなく無念だった。


 何を迷っていたのだろうか、彼は。

 彼はどんな視線で、何を思い感じながら恒を見つめていたのだろう――。


 彼の一つ一つの言葉は、全てが偽りだったのだろうか。

 よくも、これだけ大勢の人物に関わって騙し通せたものだ。不思議と、腹はたたなかった。ひとりひとりの心の中に、確かに彼はいた。


「生も死も、彼は知らなかったんですね」


 それが幾度目かになる、呪縛を解き放った。


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