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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第8話 Moratorium

「カフェに連れて行ってもらったのかい?」


 早朝、恒が社務所を訪れると、早起きのユージーンは庭先の花壇に水をやっていた。

 それを見た恒は息を整え、普段通りに振舞うことにした。


「はい。紅茶をごちそうになりました。おいしかったです」

「そう。レアな方にお会いしたものだね。あの方は陰階神だから、そうそうお目にかかれないんだ」

「いんかいしん?」


 聞きなれない言葉を、恒は漢字変換できない。


「わたしたちは陰と陽の二つのグループのどちらかに所属している。わたしは陽階という組織に属していて、ADAMは陽階にある。仕事で陽階にいらしていたんだろう」

「感じのいい神様でした。メアドも教えていただいたんです。困ったことがあったら連絡してこいって!」

「へえ、それはまた……」


 荻号は早くも、恒の中に何かを見出したのかもしれない。

 そうでなくて万能の天才、荻号要が子供と接触するだろうか、とユージーンは懸念した。

 この状況下であまり恒と接触を持たれるのは困る。

 恒をADAMにリンクさせ、志帆梨に病を患わせた神が誰なのかを突き止めるまで、他神と接触させないほうが賢明だ。


 その犯人が荻号ではないという保証もない。

 仮にも彼は陰階神だ。

 ユージーンの連絡先を荻号に教えた覚えも公開した覚えもないのに連絡をしてきたばかりか、荻号側の携帯電話の番号を逆探知しようとしたが、完璧な遮断防壁が張り巡らせてあった。

 噂に違わぬ要注意人物だ、ユージーンは用心する。

 そして、恒が荻号に傾倒しては困る。


「でも恒君。少し慎重にしておいた方がいい。誰が君をそんな目に遭わせたのか、まださっぱりわからない時期だ」

「荻号さんを疑っていらっしゃるんですか?」


 ユージーンと荻号の関係を恒は知らないが、少なくとも恒の立場からすれば、荻号の飾らない性格には好感が持てた。


「違うとは思うけど、ありえないとは言い切れないからね」

「あの、ユージーンさん!」

「ん、なに?」


 恒は思わず「あのこと」を訊いてしまいそうになった。

 だが出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。

 そんな恒の思いも、ユージーンには筒抜けだった。


”たしかにね。わたしは軍神で人殺しだ”


 神とは人間の倫理を超越したものだ。

 その必要があれば、子供も、赤子も、善良な人々も、何者であっても躊躇なく殺す。

 恒には無力だが正しい事を貫ける人間であって欲しい、とユージーンは願う。

 しかしその願いは、どうやら叶いそうにもない。


 テトラ・スパイラルシーケンサの答えは迅速に導き出された。

 迅速なる解析の結果、藤堂 恒が神であるという可能性が50%。

 何度も試算したが結果は変わりようがない。

 神と人のミックスであると示唆している。

 岡崎 宿耀からは口外しないしデータは破棄すると言ったが、半神の非凡さは隠し遂せるものではないぞと警告された。


 藤堂 志帆梨は神の仮腹にされ、命の危険に見舞われることになった。

 恒の当初の推測通り、志帆梨のバイタルは恒が奪い尽くしたのだ。

 その量、人間のおよそ百倍以上。

 神が人の腹から生まれてくるのだから、相当量のバイタルを奪っても不思議ではない。


 半神は人間社会で平穏には暮せない。

 いつしか才能をもてあまし、道を誤ればその強大なる力は人間社会にとって凶器と変わる。

 恒はどんなに遅くとも20歳を過ぎると、それ以上老いることはなくなるだろう。

 純血の神であろうが半神であろうが同じこと。

 老化も成長もせず、彼は家庭を持つ事も出来ない。

 生殖器はあるのだろうが生殖能力がなく、子供をもうけることも赦されない、先天性の不能だ。

 不能の人間はたくさんいても、老いない人間などいない。


 そんな人生が、恒にとって幸せなのだろうか。

 そうは思えない、だからできるだけ早く神階に上げろ、と岡崎が助言するわけだ。

 いつまでも人間社会で教育を施されることもなくぶらぶらしていたら、神として生きることも間に合わなくなってしまう。

 半神であるとはいえ、彼の寿命は恐らく一千年以上はあるはずだ。

 人間として生きるなら、つまりそれだけの長い時間を、老いずに過ごさなくてはならないという事だ。

 何世代もの人間との出会いと別れを繰り返しながら……。

 安定した生活はまず望めない。

 各地を転々としながら、才能をもてあまし、いつ訪れるとも知れない死を、延々と待ち続けることとなる。迫害もされかねない。

 それはひどく孤独だろう。

 だがそれでも、ユージーンは彼の人間としての一生を、諦めさせたくはなかった。

 人として幸福な人生を歩んで欲しいと願う一方で、ADAMへのゲストナンバーを与えたりとユージーンの行動に一貫性がないのは、ユージーン自身が迷っていたからだ。


 神として生きる義務と、人として生きる権利を天秤にかける。

 ユージーンはひとまず、風岳在任中の5年間の間に、恒に神としての教育を施そうと思った。

 恒が自らの正体を知ることなく、教養や技能を身に着けさせる、今はそれでいい。

 そして在任期間が終わってユージーンが神階に戻る際に、恒の正体を明かし、恒自身に道を選ばせたい。

 恒は16歳となっているだろう。

 大きな人生の決断をするのに、充分な年齢だとは思えない。

 だがそれでも今よりはいくらかましだ。

 それまでの間に、判断できるだけの精神力は身につけさせてやろうと思う。

 不治とも思われた病から回復した母親と、今は幸福な時間を過ごせばいい。

 神として生きると決めたなら、母親と離れ離れになり、そして一生会えなくなるかもしれない。

 彼の大切な友人にだってそう、二度と会えないかもしれない。

 今そんな事をするのは残酷だ、だから絶対に今、この事実を恒に告げてはならない。


 藤堂 志帆梨を仮腹にして、恒を人間社会に産み落とし、更にADAMへと監禁した神は罪深い。

 そしてこれら三つの罪を行った者はおそらく同一人物であり、恒の父親、それが答えだ。


”恒君、君のお父さんは神だ。しかし、彼はよい神ではない”


「そうだ。ユージーンさんにお土産。紅茶です。目がさめたら枕元にありました。荻号さんが下さったんだと思います。一緒に飲みませんか?」

「……有名な銘柄だ。さっそく、お茶にしようか」


 さすがにここで一服盛られているということもないか、とユージーンは念のためにおいをかいでみた。紅茶のよい香りがするだけだ。


 恒はそわそわと落ち着かずに、ユージーンが紅茶を煎れるのを見ていた。

 一対一で話し合う機会をできるだけ引き伸ばそうとしているのか、ユージーンは何かを考えている。

 時折手つきがぎこちなくなる。

 明らかに以前とは違い、彼は何かを悩んでいる。


 恒にとってユージーンは、兄や父親のような存在であった。

 母親の病が治って以来社務所に来る回数は減ったが、それでも相変わらずのように通ってしまう。

 どれほどユージーンを尊敬しているからといっても、今日の答えは訊き出さなければならない。

 正式な作法で淹れられた紅茶に恒が口をつけようとしたところで、ユージーンに止められた。


「ちょっと待って。先に飲む」

「え? 毒が入っているとかですか?」

「大丈夫そうだ」

「そりゃ、そうでしょう。そこまで疑わなくとも。いうほど荻号さんが危険ですか?」

「いうほど危険だよ」


 ユージーンの即答に、恒はぐうの音も出ない。


「今日改めて伺ったのは、検査の結果を知りたいからなんです。もう結果は出ていますよね。何となく分かるんです。よくない結果だったんじゃないですか」

「ごめんね、結果を伝えるのが遅くなった。問題はなかったよ。君は至って正常で健康だった」

「俺の父は誰だったんですか?」

「それはわからないよ。遺伝情報が半分だから、父親まではわからないよ。遺伝子解析とはそういったものだ」


 恒がうなだれてしまったので可哀相だとは思うのだが、神の遺伝情報は装置などでは読めない。

 読めるものは志帆梨の情報だけだ。

 母親を特定することはできるが、父親はできない。

 ユージーンの能力では無理だ。

 所有者が生物階降下をして調査すればまだしも、今のところ岡崎 宿耀は通常任務に服務している。

 陰階神である岡崎に、生物階降下は認められていない。


「でも、俺の出生の時になにが起こったのかぐらい分かりません? 遺伝子からではなくて、何か過去を見る方法はありませんか?」

「恒君。それは……」


 恒はユージーンが話すつもりがないことを見抜いていた。

 これ以上居座るのは時間の無駄だ。

 恒は紅茶を飲み干し、一礼すると、もう帰りますと行って社務所を飛び出し、学校にまっすぐ向かった。

 インターネットぐらい、学校のパソコン室でできる。

 アドレスはフリーメールで取得できる。

 ユージーンが伝えにくいことでも、荻号なら力になってくれそうだと思ったのだ。

 パソコン室のドアを開けると、ユージーンが既に手前の座席に座っていた。

 恒はあっと思ったが、観念して中に入ってきた。


「残念。荻号様にかけあおうとしたね。ゲストナンバーを剥奪する。今後二度とわたし以外の神と接触できないように」

「察するに、あなたは俺の秘密を知ったのでしょう! だから荻号さんと連絡させまいとして!」

「君は荻号様と打ち解けたとでも思っている?」

「気さくな方でしたよ」

「君は荻号 要という神の本当の姿を知らない。あの方は闇の神だ。闇と夜を司り、権謀術数に長けた最強神……わたしたちでさえ最大限に警戒する。迂闊に近づいてはいけない。本当に危険なんだよ」

「神様でも悪魔でも誰でもいい! 俺に真実を見せてくれるなら! それにあなたはいい神様なんですか!?」


 軍神で、人殺しのくせに。

 心で思った事が、そのまま彼には聞こえている。

 ユージーンは悲しそうに目を伏せると、おもむろに恒に近づいてきた。

 彼の秘密を知ってしまったために消されはしないかと恒が危惧しなかったといえば嘘になる。


「ご、ごめんなさい! 俺なんて酷いこと!」

「いいんだ、確かにわたしは軍神、人殺しだよ……。人間の味方のようには見えないかもしれない。だが大局的にみれば、可能な限り生命と財産を守りたいと思っている。君もそのひとりだ」

「俺にはあなたの基準がわかりません」


 民間人を含む人々への大量殺戮を行った人物が、人命を守りたいだなんて信用できない。

 何かの気まぐれとしか思えない、と恒は俯く。


「時が来れば全てを話す。隠したりはしない、だから今は諦めてくれ」

「時って……いつですか。何故今じゃ駄目なんですか」


 恒には理解できない。


「君はとても利口だ、大人顔負けといってもいい」

「なら!」

「でも、だ。受け止められない、今は。幼すぎる」


 どんなに訴えても、彼は10歳の少年でしかない。


「決め付けないでください!」

「わたしを恨むならそれでもいい、だが今はこらえてくれ」


 どんなことにも笑顔で応じてくれたユージーンが、これほど頑なだった事はない。

 何を言っても、説得はできないだろうと恒は察した。

 彼のいう“時”とやらは、きっとあと5年後だ。

 できるだけ引き伸ばそうとするに違いない、つまりそれほど重いことなのだ。

 保護者である志帆梨にすら話そうとしない、恒の人生を変える出来事に他ならない。


“そんな大事なことを、どうして話してくれないんだ、この、わからず屋”



 その夜、恒は夢の中でさまよっていた。

 いつものようにADAMには繋いでもらえない。

 アクセス権がないため締め出され、暗闇の中に放り投げられていた。

 いつまで歩いても光が見えないのは、夢の中にいるからだ。

 足元はふわふわとしていて、暖かかった。

 恒は歩き疲れ、暗闇の中に大の字に寝そべった。


『しょげかえってんなあ』


 暗闇の中からペタペタとサンダルの音が聞こえたかと思うと、闇の中に荻号が立っていた。

 恒は夢の中ながら驚く。


“お、荻号様? どうしてここに?”

『ユージーンの奴がゲストナンバーを封鎖してたな。気になって見に来たらこれだ』

“どうして夢の中に? ああ……俺が勝手に見た夢か”


 恒は荻号が出てきた夢を見ているのだと錯覚した。

 その証拠に、荻号は煙草を吸っているが煙たく感じない。


『お前、ここが夢だと認識してやがるのか。たいしたもんだな。俺はこういう事は得意なんだ。ここは夢だが、俺が言っている事は本当だよ』

“あなたなら真実を教えて下さいますか?”

『いいだろう。だが俺はお前にとって、優しい神ではないぞ。それにひきかえユージーンはいい奴だ。本当にお前のためを思い、お前にとって最善となるよう考えている』

“そうなんでしょうか”

『お前は奴を罵倒したようだが、軍神とは自らの手を汚しながら戦争を終局させ、平和を司る神だ。それでもそのユージーンを裏切り、真実を知る覚悟があるなら教えてやる。お前が泣きわめこうが、知った事ではないし』


 恒を脅すように、彼はそう言った。


“泣きわめく?”

『いいんだろ? それとも興味本位で訊こうとしていたのか?』


 恒は躊躇する。

 何故一回会っただけの彼が事情を知っているのだろう? 


“やっぱりいいです”

『時がきてお前の心の準備ができたら、ユージーンに教えてもらえ』


 荻号はどこか安堵したように微笑む。

 神はよく人を試すんだな、と恒は心の中で愚痴る。

 例え知りたいと言っても教える気などなかったのだろう、荻号の眼差しが緩くなったので、恒はそう確信した。


『引き換えといっちゃなんだが、俺のゲストナンバーをやるよ。ADAMはこれまで通り使えるだろう』


 荻号のゲストカードは漆黒で、重厚な質感だ。

 ユージーンのカードは現実にも存在していて、それを首からかけて寝たときだけADAMにリンクする。

 つまり寝起きにこの漆黒のカードが首にかかっていたなら、現実だということだ。


『そのカードは機密エリアや制限区域まで行けるぜ。今まではユージーンが閲覧制限をかけていたからな。それも奴なりの慈悲なんだろうが、ともかくこれまではどう調べても神の知識を知る事はできなかったはずだ。だが俺のカードは全てを見せる、よいもの、悪いもの。真実に辿り着けたなら、その時はもう大丈夫だ。全てを受け止める事ができる。なら今は、学ぶことだな』

“神の知識……確かにこれまでは、アクセス禁止と言われていました”

『まあ、善し悪しだがな。学校でも有害サイトは見るなと言われてるだろ? ユージーンはお前の為を思って制限をかけていた。それでもお前の知的好奇心を少しでも啓いてやりたいと思って、ADAMへの扉を開いてくれたんだよ』

“あなたは、ユージーンさんのお気持ちも読めるのですね”

『小僧の考えそうなことだ』

“小僧!? あなたはおいくつなんですか?

『いくつだっけかな。おっと、もうこんな時間か』


 荻号はおもむろに銀色の懐中時計を取り出し、視線を落とす。

 年期の入ったものだ。

 彼の首にかかっている大振りのネックレスにもよく似ている。

 彼は闇に紛れるようにきびすを返し、闇の中に向かって歩き始めた。


『そろそろ行くぜ。お前の睡眠を妨げるのもあれだ』

“ありがとうございます”


 恒が目覚めると、重厚な黒いカードが確かに胸の上に載っていた。

 恒は小躍りしながらカードを放り投げ、天井にぶつかって落ちてきたそれをしっかりとキャッチした。


「荻号さん、ありがとうございます!」


 このカードは、ユージーンには見せない方がいい。

 彼を裏切った証になるから。

 しかし好奇心は抑えられない。



「先生、ちょっといいですか」


 放課後、皐月が帰り支度をするユージーンを呼び止めた。


「何でしょう」

「授業、生徒達の評判もよかったですよ」

「ありがとうございます」


 褒められ慣れない彼は、何と反応してよいのかわからない。

 その上皐月に目を合わせられると困ってしまう。


「ところで先生。放課後はご予定がありますか?」

「曜日によってはありますが、大体放課後は暇ですよ」


 暗に毎日暇なのだと言っているように、皐月には聞こえた。


「よかった! クラブ活動の顧問をしてみませんか? 小中一緒のクラブですから、面白いと思いますよ」

「……どんなクラブがあるんですか?」


 とりあえず話だけは聞いてもいいかもしれない。

 しかし日本の学校のクラブ活動は軍隊並の厳しさと上下関係があり、ぴりぴりしているのだと思っていたので、ユージーンとしてはあまり顧問をするという気乗りはしない。


「いま顧問がいないのは、陸上部なんです」


 各クラブにひとりの顧問というのなら、教師は小中あわせて100名以上いるのに、余っているようにも思える。

 何か問題でもあって敬遠されているのだったら、慎重になったほうがよかったのかもしれないな、とユージーンは話に耳を傾けた事を後悔した。


「どうして顧問がいないんです?」

「弱くてコーチに見放されてしまったんです。私が仮顧問をしているんですが……」


 弱いからといって見放すとは大人げないと思うが、説得したとしても戻ってはこないだろう。

 その教師は、中学校の生徒が立ち上げた新たなクラブの顧問になったのだそうだ。

 ユージーンはしばらく考え込んでいた。

 自分の予定を照らし合わせて、皐月の顔を見る。

 皐月も何度も陸上部に関しては心を痛めてきたが、ESSの顧問をしているし、陸上の経験もなくたいした指導もできないのだ。

 そんな皐月の思いもユージーンにはすっかり見通されていたのだが。


「それは毎日でなくても、いいんですか?」


 あまりに皐月が接近してくるので、ユージーンはどぎまぎしながら答えた。

 照れているのではない、不用意に近づかれると拒絶反応のようなものが出る。


「勿論です! ユージーン先生も、別のお仕事があって大変でしょうし」

「お引き受けしましょう」


 ユージーンはやれやれと思いながらも、営業用の笑顔で応じる。

 皐月は嬉しかったのか、とっておきの白あんの饅頭を手渡してきた。


「今から行ってみません?」

「行きましょうか」


「あの子たちです。おそろいの赤いシャツを着ている……」


 二人は校庭に出て赤いTシャツに白いロゴで部名と名前の入った一団を見つける。

 子供たちも皐月とユージーンを見つけると、手をふってきた。

 中でも一番驚いていたのは2組の久留米くるめ りょう保科ほしな 壱恵ひとえであった。

 ランニングをしていたのか、皆びっしょりと汗をかいている。

 どの子も、辛い練習にも負けず、その表情は生き生きとしていた。


「ユージーン先生! どうして?」


 皐月がピーッと笛を吹くと、子供達が目を輝かせて集まってきた。

 すでにユージーンの話は中等部にも聞こえていたのであろう。

 中等部の子供達は少し遠巻きに、期待に満ちた熱い視線を送ってくる。

 にわかにグラウンドが活気付いた。


「陸上部顧問かよ。サッカー部に来てくれよな」


 サッカー部の子供達が練習の手を止めて恨めしそうに見つめている。


「こらーっ! 休むなー」


 檄を飛ばすのはサッカー部顧問、5年3組担任の小泉こいずみ がくである。

 敵意満々の視線を送ってくるので、ユージーンは小さく頭を下げた。


「みんな、今日から陸上部の顧問が交代します……と、あれ?」


 皐月が紹介をしている間に、ユージーンが囲まれていた。


「先生! 一緒に走ろうよ! 先生は足速い?」

「馬鹿、何て事いうんだ。運動神経抜群なんだぜ」


 久留米が後輩のすべりかけた口を押さえる。


「誰と比べるかによるけど……」


 上には上がいる。トップスプリンターはやはり荻号で、本業でもないのに彼の記録は驚異的だ。

 陽階ならばトップは荻号の弟子である比企ひきかもしれない。

 走るというより、跳ぶに近い。


「100メートル何秒かかる? 今から測るから、走ってくれる?」


 小さな身体でぴょんぴょん跳ねながら、走りが見たくてたまらないというようにストップウォッチを振り回しているのは中等部のキャプテン、小笠原であった。

 小笠原は短距離ならば部内一だ。

 一緒に競争しよう、という小笠原にユージーンは悪びれる。


「ストップウォッチでは測れないかもしれないな」


 皐月はそれを聞いて背筋を凍りつかせた。

 ストップウォッチを押すのが間に合わないというのだろう。


「スピードガンとかで測る感じです?」

「マッハ100とか出ますので」


 シーン、と静まり返る。


「マッハ100ってどんくらい?」


 保科が久留米をつつく。

 久留米は保科の手をぎゅっとにぎりしめた。言葉が出ないのだ。


「秒速36000m、100m走なら0.00278秒よ」


 皐月が代わりにひそひそと保科に告げる。


「どうやったらそんなに走れるの?」

「身体のつくりが違うからね。速く走るコツくらいなら教えるよ」

「ぶっちゃけ、先生って男なんですか?」

「なぜ?」


 見た目は男性に見えるはずだが、とユージーンは首をかしげる。


「女じゃないかって噂が……男子トイレに行かないって聞いて」


 そういえばユージーンがトイレにいっているのを、皐月は行動を共にしていたのに見なかった。

 誰も目撃していない。

 それもそのはず、実際トイレには行っていないのだ。

 取り込んだ食物の代謝の効率がよいので、神々は排泄をしない。

 水を飲めばすべて汗にしてごくゆっくりと体外に発散し、食物は身体の一部にしてしまう。


「でも、女子トイレでも見かけないでしょ?」

「た、たしかに……」

「性別はないんだ、ニュートラルな感じでつきあってくれたらいい。生まれつき性別がない人もいるから、そう珍しくもないよ」


 ユージーンは伸びをして、屈伸運動をはじめた。


「わたしのことはさておき、練習をはじめよう」


 下らない話はまたにしてもらいたい。

 折角引き受けたのだから、夕陽が沈む前にクラブ活動を終えたいとユージーンは思った。


「先生が走るところが見たい!」


 小笠原がどうしても、といって譲らない。

 ユージーンは別に見せるのを惜しむつもりはないので、100メートルレーンにクラウチングスタートで構えた。


「どうぞ」


 笛を持っている皐月に、地に手をつけたユージーンがスタートを促した。

 小笠原と副キャプテンの西沢が隣りに並ぶ。

 小笠原は特に、隣りのレーンにつけてユージーンにライバル心を剥き出しにしている。

 部員達はその走りを一目みようと、ゴール地点に集合して思い思いの位置に陣取った。

 ごくり、とつばをのみ、緊張の汗が小笠原の額から滴り落ちる。


 よーい、といって皐月は笛をふいた。

 スタートした、という瞬間はわかったものの、次の瞬間にはユージーンはもう子供達の目の前にいた。何をどう走って100メートル地点に立っているのか、まったくわからない。

 後ろを見ると、小笠原が懸命に走っている。

 小笠原がゴールを踏んだのは、それから12秒後だった。

 彼の自己ベストである。

 ユージーンに関しては、公言した通り100メートルに1秒を切っていた。


「先生、すげー! 全然見えなかった!」


 梅田は夢ではないかと眼をこすっている。


「ほんとに走ったんだよね? あっというまにこっちに着いちゃったよ」


 子供達は沸き返った。

 その走りを見ていたサッカー部、テニス部、バスケ部の子供達も呆然としている。

 実は気になってちらちら見ていた小泉も、思わず息を飲んだ。

 まさに神業である。


「2組のユージーン先生が普通でないという噂は本当なのか?」


 独身の小泉は密かに皐月に思いを寄せており、副担任として就任したユージーンの存在は気になっていた。


「本物の神様だと言われています」


 サッカー部のキャプテン、前崎が忌々しそうに教えてくれた。

 小泉はそれを聞いてにんまりとした。

 宇宙物理学を専攻していた彼女が、受け入れられるべきものではないのだ。

 そういった言葉にアレルギー反応を示すのが彼女だと知っている。

 皐月は誰にも渡さないぞ。

 そんな思いを込めて小泉の蹴り上げたサッカーボールが、グラウンドの隅にまで飛んでいった。


「ねえ、俺たち、先生に教えてもらえば速くなれるかなあ!」


 もうへタレ陸上部とは言わせない。

 ユージーンの指導で強くなり、大会でよい結果を残せれば。


「なれるかどうかは判らないけれど、手助けはできるはずだよ」

「本当かなあ」


 世界が違う、と言って同じく副キャプテンの馬木が疑う。


「小笠原君はいま自己ベストをだしたろう」


 ユージーンの速さに圧倒されて見逃されそうになっていたのだが、彼の記録はユージーンと走っただけでベストを2秒も縮めていたのだ。

 皐月もようやくもたもたと100メートル走ってやってきた。

 そして息を切らせてこう言うのだ。


「決まりですね、陸上部顧問」


 彼女と子供達の長くなった影が飛び上がった。

 夕焼けの空に響いた皐月の声は、晴れ晴れとしていた。

 その日は軽い走りこみをして、子供達の走るフォームをみて、練習を5時半で切り上げた。


「本当は部活は6時までなんですよ」

「皆一生懸命練習したので、もうへとへとに疲れています。これ以上やっても明日の練習に差し支えます。集中して、短時間でやるのがいいんですよ」


 ユージーンはだらだらと練習するのは効率が悪いと指摘をする。



 子供達を家に帰して顔をあらったユージーンの、職員室の机の上に、小さなメモ用紙があった。

 手に取ると、担当のクラスの天野あまの りんである。


「美術室で待ってます」


 時計を見ると、既に6時になっている。

 もう残っていないだろう。

 そう思いながらも足は自然と美術室の方に向かっていた。

 木造の美術室からは、長い間に染み付いた油絵の具の匂いがした。

 開いている窓を閉めながら、真っ暗になった美術室のドアを開けた。

 外れかけた立て付けの悪いステンドグラスが音を立てる。


「あ」


 天野は待ちくたびれたのか、デッサンをしながら机の上のスケッチブックに伏して眠っていた。

 スケッチブックの中には、窓から見える校庭の景色がある。

 天野はだらしなく寝ていた姿を見られて驚いた。こそっとよだれをぬぐう。


「せ、先生」

「ごめん、出かけてたからメモに気付かなくて」

「先生、校庭にいたね。見えたの」

「どうやら見えてたみたいだね。絵が上手なんだな、驚いたよ」


 素直に褒めると、凛は思いがけずに絵を見られて恥ずかしがった。


「それで、わたしに何か話したい事があるのかな」


 わざわざ美術室にまで呼ばなければならなかった理由は何だろう。

 既に陽はとっぷりと暮れて、早く帰宅させなければならないのだが……。

 ユージーンはそんな事を思いながらひとまず話を聞いてみることにした。


「うん、あ、でも……今日はいいです」

「遅くなったからね。じゃあ明日ならどう」


 彼女の家族が心配するだろう。

 学内に公衆電話がない事を考えると、遅くなる、という連絡もしていないに違いない。


「今日、先生これから暇ですか?」


 美術室がほの暗いので、ユージーンはポケットから自前のレトロな懐中時計を取り出して灯りをつけた。

 普通の蛍光灯以上の光度が室内に灯り、彼女の表情がにわかに明るくなり、珍しそうに時計をみた。

 アナログの一週間時計だ。


「今日は暇だよ。どうして?」


 凛は、準備室から大きな油絵を出してきた。

 彼女の背丈ほどもある大作だ。

 顔を真っ赤にして見せてくれたその絵には、静かな夜の森と川の景色があった。

 構図は独特だが、腕は確かだ。

 デッサンを毎日続けているのだという、パーツの狂いも何もない完全な風景画だった。


「すごいな。……上手だ」


 ここ、といって月光の当たる森の木陰を指差す。


「ここにあった部分、消したんです。コンクールに出す予定だったんですけど」


 確かに、その部分だけ不自然に黒く塗り重ねられている。

 油絵なので重ね塗りがきくのだ。

 コンクールに出そうと思っていたものが、気に入らなかっただけなのだろうか。


「どうして?」

「私の知らない間に、誰かが描いたのか……おばけの絵が描いてあったの」


 天野の唇は、いつの間にか青ざめて震えていた。


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