表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
89/117

第2節 第22話 Perpetual motion

「よかった……そうよね。避難してるよね」


 吉川 皐月は頬を林檎のように赤く染めつつ、上気した顔で冬の大気にほうっと白い息を溢す。

 彼女は村の中心部で朱音と別れ、その足で村を発つ前に志帆梨の安否を確認しようと、山の中腹にある藤堂家を訪ねた。

 藤堂家には母屋と離れがあるが、母屋は二年前に突然の襲撃で破壊され、志帆梨は納屋を改築した離れで暮らしていた。離れの扉はかたく閉ざされ、インターホンを押しても志帆梨は出てこない。

 トタン屋根でできた鶏小屋の鍵は開けられ、五羽の地鶏がそこかしこで休作中の畑の土を啄ばんでいた。

 人の気配はなかった。


 畑は手入れが整ってよく耕されており、つい今しがたまで志帆梨がそこにいたかのような足跡がついてはいたが。


「ねえ、ニワトリ君。志帆梨さんは、もう家を出たのよね?」

「コケ」


 立派なとさかをした雄鶏の一羽が皐月に近寄ってきたので、皐月は雄鶏に女主人の居場所を尋ねる。

 鶏から答えが返ってくるはずもなく、雄鶏は首を下に向けて虫を探すのに夢中になっていた。

 鶏が放されて志帆梨の姿がなければ、志帆梨はいち早く避難しているのだろう。


 村を発ったバスは、すでに何台か。

 志帆梨はこの村を去ったのかもしれない。

 そう考えるのが妥当だった。恒が彼女に避難を促したのかもしれないし。

 安堵しながら藤堂家から足早に立ち去っていった皐月は、離れの倉庫の横にそっと置かれた茶色の古いスーツケースを見落としていた。



 特務省の小型衛星を用いて密かに機械転送された遼生は、誰に目撃されることもなく、風岳村のはずれの裏山に投げ出されていた。

 特務省の転送装置はそれほど座標指定の精度が高くなかったので、荻号の自宅にピンポイントで到着することはできなかった。


 こんなときは……と思い出して、携帯のGPSで現在位置を確認すると、確かに広岡県の風岳村という場所に降りている。

 まず、村の第一印象は、その寒さ。

 翼を発現したために増幅されたアトモスフィアに灼かれ、朽ち果てた衣服を脱ぎ捨てたことで上半身を寒風に晒すはめになり、身を切るほどの寒冷地獄を味わっている。

 体感気温はマイナスに達していた。


「おかしいな、ここって西日本だよね? 何でこんなに寒い」


 それにしても、面倒な場所に出たものだ。

 遼生はぽりぽりと紅茶色の毛髪を掻いた。

 聡明なのか間が抜けているのか……分かりにくい二面性を持つ彼の頭脳を悩ませたのは、翼があって人目が気になるだとか目立つだとか、そういう次元の懸念ではなかった。

 いかに危険な翼といえど、羽ばたかない限り飾りものだ。

 人を傷つける危険性もない。

 ただし、彼がただの一度でも羽ばたこうものなら、ただちに全村民の命にもかかわる……。


 村民が全員避難していれば遠慮をする必要もないのに、移動中の人間を含めて村内にはまだちらほらと人の気配があるようだった。

 結果、遼生は飛べない鳥も同然だ。


「とにかく、急いで村に出ないと」


 いくら特務省より先回りしても、山中で油を売っていては意味がないのに、見渡す限り木、林、山だ!

 そういえば使徒階にいた遼生は起伏のある林、つまり山というものは初見だったが、高低差のある景色に感激している場合でもない。

 正確なGPSを以てしても、麓まで辿り着くのかと疑われるほど鬱蒼とした視界の悪い山中だった。


「ん!?」


 樹冠のあたりを見上げていると、背後の茂みの合間からガサガサと物音が聞こえる。

 敵性もなく取るに足らない気配だが、意外に大きく、小動物の物音ではない。

 耳を澄ますとその息遣いと鼓動が聞こえ、異常な緊張状態、半ば混乱状態にあると把握する。

 遼生の知らない、これは特徴的な気配と匂い。

 間違いない。人間、それも女性。


 遼生はどことなく申し訳なさそうに項垂れた。

 人の気配は、ほんのすぐそこにある。

 木立の間に、かがみ込むようにして人が隠れている。

 翼を持つ遼生の姿を目撃して怯え、隠れているのだ。

 普段の彼ならば気を遣って、気付かない振りをしつつそっと立ち去っただろう。


 わざわざ声をかけて、余計に怯えさせるのも気の毒だ。

 彼女の記憶に遼生の姿が残らないよう、去り際にマインドイレースをかけてやることも忘れないだろう。

しかしこのときの遼生はそんな配慮も忘れ、彼女を振り返り、射抜かんばかりに直視してしまった。


「あ……!」


 彼が冷静でいられなかったのは、彼の背後に身を潜めていたのが……藤堂 志帆梨だと分かったからだ。

 後先考えず振り向いて志帆梨の姿を見てしまって、遼生は彼女に大変な事をしてしまったと狼狽した。


 彼女は隠れたのではない。吹き飛ばされていたのだ。

 転送の直後、山中に落とされた遼生が体勢を立て直したとき、若干翼で風を切った。

 運悪く直ぐ傍にいた藤堂 志帆梨に、翼から発せられた振動が至近距離から襲いかかった。

 志帆梨は遼生が発した振動に耐えられず吹き飛ばされ、おそらくはしたたかに腰を打ちつけて、焦点の定まらない視線で遼生を見上げている。

 遼生はたまらず駆け寄った。


「ご、ごめんなさい……! 診せていただけますか」


 声も出せずにしりもちをついている志帆梨の反応を半ば当然のものとして、MRIを駆使しつつ素早く志帆梨の体に目を配る。

 診たところ、吹き飛ばされて頭と腰を岩肌に強く打ちつけ、混乱しているようだ。

 最も心配した脳への外傷、脳出血いずれも起こっていなかった。

 暫く休ませると、志帆梨は落ち着きを取り戻してきた。


 志帆梨の持ち物は濡れた新聞紙と、線香、マッチのセット。

 生物階を離れる前に、歩いて家の裏手の山に分け入り、藤堂家の墓参りに行っていたらしい。

 先祖を大切にする日本人は住み慣れた地を離れる前に旅の安全を祈り、そしてこの地を離れると先祖への報告も兼ねて墓参りを欠かさない。

 バッグから飛び出したそれらのグッズを集めて志帆梨に渡すと、彼女は気まずそうだった。


 彼女は背中から羽根を生やした正体不明の何者かと向かい合っているのだから、怖ろしいに決まっている。

 遼生は彼女に悪いことをしたと心底詫びながら、一定期間の記憶を跡形もなく消去しうる記憶欠失術をかけようとしたところ、志帆梨が思いがけず声をかけてきた。


「ご……ごめんなさい。びっくりして」

「いえ、謝罪しなければならないのはこちらの方です。不注意で、酷いことをしました」

「それ、背中のそれ……」


 志帆梨は遼生の背中を人差し指で遠慮がちに指してすぐにひっこめ、悪いことをした子供のように肩をすくめた。

 遼生の翼について、何か尋ねたいことがあるのだろう。

 彼女の小さなしぐさの一つ一つには、自信のなさが滲み出ている。


「ああ、はは、これですか」


 遼生は気まずい。


「天国からいらしたのですね。天国にはあなたのような方がたくさんいると、息子が」


 彼女は使徒の存在を知っている。

 彼女は恒が神だと知っているそうなので恒から聞いたのだろうが、彼女の物分りがよくて助かった。


「藤堂 恒くんがあなたの身を心配していました。逃げ遅れずに、神階に避難をしてください」

「まあ、恒をご存知で。お世話になっています」

「恒くんとは、先ほどまで一緒にいました」


 嬉しそうに恒の話をする志帆梨に惹かれて、遼生はしばし時間を忘れて雑談をした。

 志帆梨は恒を愛おしみ、しかし志帆梨の病のために引き裂かれながら暮らしてきたのだと知った。

 彼女が身に覚えのない妊娠によって授かった、神の息子にかける情というものは愛情と絆に近い。


 恒の人格形成、あるいは神格形成のルーツは間違いなく、この母親に由来しているようだ。

 恒と志帆梨は互いに寄り添うように、過酷な人生を歩んできた。

 彼女は柔らかく、脆い生きもの。

 恒は病弱だった母親を守ろうと強く在ろうとして、ありとあらゆるものを欺き続けた。

 ときにそれは彼自身にも及んだ。


 志帆梨を後遺症の残るかたちで傷つけたと知ったら、恒はどれほどの怒りを遼生に向けるだろう。

 冷静な彼の激情を見てみたい……そんな危険な衝動にも駆られたが、それはほんの一片の興味であって、遼生の本心ではない。

 目的の為には息子の生涯を簡単に踏みにじった……父親とは違うのだと、自負をしていたから。


 とにかく、彼女が無傷でなによりだ。


 身体の線も細く、触れれば折れそうな彼女の身体を暴力で壊してはならない。

 彼女は子どものように純粋で、彼女を傷つけた遼生にも笑顔を向けてくれる。

 彼女の息子が年齢のわりに冷静で大人びているのは、頼りない母親を守ろうとして備わった性格なのかもしれない。


 遼生はひとしきり志帆梨の話を聞くと、話が途切れたところで彼女に背を向けて腰を落とす。

 その背に、不意に暖かい布がふわりとかけられる。

 驚いて振り向くと、彼女の肩にかけていた広幅の白い毛糸のストールを遼生の背に、かじかむ手で一生懸命巻きつけていた。

 背から突き出した大きな翼が邪魔でうまく巻けないので、襷のように廻して苦戦している。

 そんなことをしてもらう為に、背を見せたわけではない。

 遼生が何か言おうとすると、彼女は首を振った。


「天人様でも、何もお召しにならないと寒いでしょう。恒も、とても寒がりなんです」

「僕のことは……いいんですよ。平気ですから」


 どのみち、一度でも羽ばたけば強大なアトモスフィアに焼かれ生物階の布は朽ちる。

 しかし志帆梨の思いやりと優しげな笑顔に負けて、遼生は受け入れた。


 そして何故か無償に、泣きたくなった。


「こんなところに、この人を一人にするなよ……」


 遼生は俯いて、志帆梨に聞こえぬよう一人呟く。

 恒に言っておきたい。

 彼女を、絶対に一人にしては駄目だと。

 もし恒が彼女の傍にいられないなら、代わりに彼女を守りたいとすら思う。

 彼女が遼生の母親だったなら、一度だって自らを生体機械だと呼び捨てることもなかったろう。

 彼女は遼生を、一己の存在として見做してくれる。

 彼女は遼生の存在を許容してくれる。

 生きていても、よいのだ――と。許された気がした。


「どうぞ負ぶさってください。山の麓までお連れします」

「私、歩けますよ。山歩き、得意なんです」


 志帆梨は両手を小刻みに振って、遠慮している。

 動作のひとつに至るまで、遼生は彼女に魅入られてしまう。


「遠慮しないで下さい。すぐ着きますよ、飛びますから」


 志帆梨はおずおずとお辞儀をすると、遼生に気兼ねをしながら背に負ぶさる。

 あまりに軽い彼女の身体を受け止める。

 彼女が幸せであるように、そう願った。彼女の幸せとは何だろう。

 地上で恒と、穏やかに暮らすことだ。

 しかし彼女の息子は迫り来る災厄を迎え撃つ為に、彼女を顧みてはいないように思える。


 彼女をほったらかしにして自分の命を粗末にして。何を考えているんだ。

 遼生は今後恒に危険が及ぶなら、いつでも恒の身代わりにならなければならないと心に誓った。


「重くないですか?」

「いいえ、あなたの身体はとても軽いです」


 身体は軽い。だが本当に重いのは、彼女という存在だ。


 さて、これから地図的には五ヶ岳山の中腹からは下山する為には鋭角32度の急斜面で381mを下らなければならない。

 駆け下りることもできなくはないが、志帆梨を伴って木々を避けながら下山するとそれなりに時間がかかる。

 翼を一切使わずに志帆梨を連れて一瞬にして山のふもとに下山する方法は、至ってシンプルかつ大胆だった。

 斜面を走らずX軸方向に水平に初速度140km/hで跳ぶと、標高は167mの放物線落下、滞空時間8.81、着地速度341.2km/h、着地角度 65.7°との計算になる。

 麓には休耕田があるので着地場所の安全性は確保できる。

 ただ……重力加速度に異状が起こっているというのが、大きな問題ではあった。


「飛ぶことには、慣れていますか?」

「一度だけ、恒に負ぶってもらって」

「では安心ですね」


 遼生は穏やかな声で述べると、志帆梨が何か言い掛ける前に強く地を蹴りつけ、次の瞬間には跳びあがっていた。

 ……志帆梨は悲鳴を口に出し掛けそうになったが、絶句したまま遼生の背にしがみ付く。


 彼女は1年前の満月の夜、恒の背に負ぶさって広岡市の夜景を見たことがある。

 その時は飛ぶというより、浮かんでいて……信頼できる息子の背中だったからか、怖くはなかった。

 しかし遼生は脚力だけで跳んでいるのであって、飛んですらいない。

 ただ規模の大きなジャンプをしているだけのようで、そのスピードに志帆梨は恐怖心を掻き立てられる。


 1秒後―志帆梨が必死に彼の肩にしがみつく。

 1.5秒後―遼生は正対する向かい風が一瞬、異様な唸りをあげたのを聴いた。


「!?」


 2秒後―すぐ足元から尋常ではない音量の地鳴りがする。

 3秒後―遼生は山肌を見下ろして、危うく体勢を崩しそうになった。


 つい3秒前まで遼生と志帆梨のいた場所にあけられた巨大な穴は……トンネルのように山を貫通している。

 目には見えない大きな筒で山を打ち抜かれたかのようだった。

 あるいはクッキーの型取りをするかのように、たった1秒間の間に、だ。

 それは風岳村が、何者かから襲撃を受けているのだという意味を知る。

 鋭利な切り口は、人為的な何がしかの作用を思わせた。


 5秒後―志帆梨は無事かと振り向くと、彼女は顔を遼生の背に埋めるようにして、硬直したままだ。

 6秒後―遼生は動揺を抑え、休耕田の中に着地場所を見定めている。

 9秒後―空から駆け下りるようにして衝撃を和らげ、着地を成功させた。


 着地と同時に、志帆梨を庇いながら音のした方角を振り向いた。襲撃者の姿は見当たらない。


「今、どこから何が起こって……」

「んー……何でしょうね」


 何を目標に襲われたのだろう。

 生物階の事情を知らない遼生ではあるが、自然現象ではないことは明らかだ。


「ひ、ゃ……あ」


 彼女の背後で起こった事件を知らない背中の客人は、着地の成功に安堵したのか、緊張の糸が切れたかのように小動物のようなか細い声を出している。

 緊張したのだろうが、心拍数が跳ね上がり動悸がひどい。

 遼生は柔らかな枯れ草の生えわたった、田んぼの上に志帆梨をおろした。

 足が挫けているので、支え起こす。


「す、スピードが速すぎて……。飛ぶというより、落ちている感じで」


 怖かったと、言いたいのだろう。

 志帆梨の感想はもっともで、結果的には故意に志帆梨を怖がらせてしまったようだ。

 遼生は危険を察知して跳んだわけではなかったが、その判断は偶然にも正しかったといえる。

 山中でぐずぐずしていれば、今頃は山もろとも消滅してしまっていたかもしれない。

 遼生は志帆梨の両肩に両手を置き、言い聞かせた。


「あなたは一刻も早くこの村を出て、この村の人々とともに神階に避難してください。ここはこの通りで危険です」


 筒状に穿ち抜かれた山肌を志帆梨に見せないよう、遼生は立ち位置を取って志帆梨を落ち着かせていたところ、少し上空に、青い光のグリッドが出現したのを目撃した。

 グリッドを介して仮想世界から三本の石柱が地上に落下する。彼はその光景には言及せず表情だけを引き締めた。


「いいですか……後ろを見ずに、振り返らず前だけを見て逃げてください」


 背後で不審な音がしているので恐ろしくなって、志帆梨は余計に振り向けなくなってしまった。


「あの、荷物が家にまだ……大事な荷物があるんです」


 墓参りをしてから家を出ようとしていた志帆梨は、自宅の倉庫前に荷物を置きっぱなしにしてきていた。遼生は戻っては駄目だと首を振る。


「神階に入る為に必要な荷物など、ひとつもありません。あなたの命だけが大切です」


 志帆梨は強く諭され、唇を震わせていた。

 大きな瞳に、血管の透けるような白く薄い肌。ナチュラルグレーで引かれた形のよい眉と、狭い額。

 肩まで伸ばした細くつややかな黒髪。彼女の視線が遼生のちょうど顎のあたりにある。

 自然体で飾らない、可憐な女性だな……遼生は彼女の姿を何度も記憶に刻み込む。

 ただ、彼女の面影をよく覚えておきたいと思った。


「お、お世話になりました。また、会えますか」

「ええ。必ず」


 遼生が志帆梨の無事を祈りながら優しく背を押すと、彼女は慌ててお辞儀をして、小走りに駆け出していった。

 また、必ず無事で会えるように。

 遼生は祈りながらいつまでも彼女の背を見つめていたかった。

 が……そういうわけにもいかない。彼は志帆梨にかけてもらったストールをぎゅっと強く握り締めると、彼女に対する淡い思慕を振り切り、現実に立ちかえる。


 異変は起こっていた。

 風岳村の空の、それほど高くはない層に人工的なレーザー光が格子を作って浮かんでいる。

 断じて生物階の造形ではない、不自然だ。

 遼生は紅茶色の瞳を大きく見開いたまま、口元に手を宛がった。


「あのグリッドはたしか数学神 ファティナ様のヘクス・カリキュレーション・フィールド? なんて業だ……何があった」


 遼生は戦闘に加わるためにこの村を訪ねてきたわけではないが……行かずばなるまい。

 文型神のファティナが戦闘に巻き込まれている、彼女は大変な窮地にあるということだ。

 場合によれば、忌むべき姿を見せなければならない場合もある。

 忌まわしき翼で風を切るその前に、志帆梨は無事に逃げ延びてほしい。

 巻き添えにしたくない。


 村の小さな通りに向かって志帆梨の去った方向と真反対に駆け出しながら、彼はそう願うのだった。



 バンダル=ワラカの暴行を受けて織図 継嗣が気絶していたのは、実質数時間にすぎなかった。

 彼は暴行による痛みではなく四肢に猛烈な圧迫感を感じて意識を取り戻し、目覚めたのは水中だった。全身を押し潰さんとのしかかる水圧に、吐気すら催す。


 体躯を見遣ると頼んでもいないのに怪我の処置がしてあり、折れた骨も接がれているようだった。

 先ほどは全裸だったものだが黒いウェットスーツのようなものを着せられている。

 素材は薄いが繊維には微細な回路が仕込まれており、織図の生体情報を別室でモニターされていることだろう。


 にしても、溶液中に鎮静剤や筋弛緩剤が溶け込んでいるからか、脱力感と眠気に襲われる。

 途切れそうになる意識を繋ぎとめながら、軋む神体に鞭打って身をもたげ周囲を見渡す。


“くそ……水牢かよ。バンダルさん相変わらず、えげつないな”


 水中から見える景色から判断するに、織図は特務省によって開発され、神の転移不能領域を形成する水溶液の張られた水槽に密閉されているようだ。

 窒息の心配はない、問題はその苛酷な環境だ。

 そこは直径1.5mほどの円筒状の水槽で、見上げると出口は数十メートルほど上にある。

 水槽の底に電子錠つきの足枷で足首を繋がれて、重石をつけられている。

 力任せに枷を断ち切って浮上することもできない。

 水槽のガラスは耐久性も充分、頑強だ。

 特務省の拘束技術は侮れない。それにしても、と織図は苦しげに顔をしかめる。


“何だこの水圧、尋常じゃねえ。神階ではないのか”


 神階では考えられないほどの水圧が織図を圧迫している。

 海難事故に見舞われ海溝の底に沈んだ死者から記憶を回収しようと渋々生物階の深海に潜った以来のことだが、織図は生物階の水圧の凄まじさというものを思い知った経験がある。

 特務省内部で水圧を感じること……可能性はひとつだ。


”特務省が、繋留けいりゅうを解いたんだろうな”


 ……幽囚の身にあっても分かるものは分かる。特務省は戦艦としての本性を顕し、転移装置を使って生物階にエントリした。

 水圧の凄まじさが、その場所を明かしているようなもの。


 ついていない、とは思ったが少しばかりツキが残っていると感じたのは、室内が暗く、周囲は無人でモニタ以外の監視がなかったことだ。

 それは彼にとって不運ではなくチャンスだった。

 彼は打ちひしがれてなどいなかった。

 織図はウェットスーツの内部に走る青い回路を見つめ、いかなる不利な状況にあっても彼がそうであったように、陽気に悪態をつく。


“詰めが甘かったな。何でもかんでもIT化すりゃいいってもんじゃねえ! 突破口見えたり、だ”


 彼はウェットスーツの袖口を歯で噛み切って繊維をほつれさせると、織り込まれた回路を指でつまんで引っ張り出した。


“セキュリティを考えるならアナログが最強だ! っつーんだよ”


 特務省の後学のためにと暢気に提言しながら、袖口から数本の回路を引っ張り出し、こよりのように綯って頚部のジャックポットに差し込む。

 その直後から織図がセキュリティシステムを占領するまでに、数秒とかからなかった。

 端末と繋がる回路を織図に一本でも与えた時点で、特務省は大きな失敗を犯していたといえる。


 彼は侵入した経路からセキュリティシステムを書き換え、水牢の傍に設置されているモニターに一斉に映像リピートをかけると、手際よく彼の足首を拘束している電子錠のロックを外した。自由を獲て、円筒の水槽を悠然と浮上する。

 上部のハッチの電子錠も難なく外してひょっこりと顔を出し、ハッチから身を乗り出す。


 おそらくは発信装置も組み込まれているであろうウェットスーツを脱ぐべきかどうか迷ったが、特務省の端末と繋がる回路は何かと便利がよさそうなので着用しておくことにした。

 それに、たとえ誰とも顔を合わせなくとも、全裸でうろつく趣味もない。


”特務省が生物階に来てるってことは、レイアの居場所を特定されたってことなんだろうな”


 物音もたてず、彼は丁寧にハッチを閉ざす。

 よくできた彫像のように筋骨隆々とした神体を小さく折り曲げ、立て膝の上に頬杖をついて思案する。


“特務省を風岳村に行かせてはマズい。動力を切ってやろうか……? しかし落ちる”


 特務省の巡航を力づくで止める方法。それは、バンダルを倒して指揮系統を占領するか、もしくは動力を強制的に切って特務省を墜落させるか、というのが適当だが、前者を選ぶような愚かしいことはしない。

 何万年もの間封印された立ち入り制限区域の一画、特務省の動力エリアは特務省の浮力と推進力とを生み出している。

 動力を断ち、特務省を墜落させる。

 そんなことを企みながら、水牢の頂上から下に飛び降りるためにハッチの縁を蹴ったときのことだ。


“ぅおっ!? なんじゃい!?”


 飛んでから気付いても今更だが、飛翔できない。

 織図は咄嗟に体勢を整え、空中で背を水槽に押し当てて滑り落ちるようにしてスピードを殺し、危うい体勢で着地。

 着地した足裏に鈍い痛みを感じることが間接的に生物階にいるという証拠、とはいえ神は飛翔術に長けているために、重力の存在を蔑ろにしていることに気付かされる。


“何で飛べない。斥力中枢でもやられたんかな。くっそ、飛べないとお話にならん”


 暴行で斥力中枢を損傷したとは考えられないため、気絶をした間に脳をいじられたのか。

 ……ありうる。

 バンダルが特務省の機密を知った者を拘束し、脳手術をしたという噂も聞いたことがある。

 脳に違和感は感じないが……とにかく、脳に細工をされた可能性があるなら、織図の脱獄は周知されているのかもしれない。

 ここに長居してもいられなかった。


 彼は周囲を見渡し気配がないのを入念に確認すると、部屋の壁面に大きな通風孔を見つけた。

 通風孔の金網を外して身体を捻じ込み、中の配管を煙突掃除夫のように垂直によじ登りはじめる。

 よじ登りながら、織図はくだらないことを思い出した。


“そういや、今年はSASUKEを見なかったな”


 年に二度ほど放送されるサバイバルアタック番組を毎年楽しみにしていたが、今年はうっかり見逃していた。

 挑戦者が賞金を懸けて難攻不落のアスレチックに挑むTV番組だ。

 彼は今に始まったことではないが、どんな苦境にあっても楽しむべきことを見つけ出し楽観的に物事を考えようとした。

 億劫なことも動力室まで続くアスレチックに挑んでいるのだと思えばそれなりに悪い気はしない。


 特務省内部の部屋の構造は複雑に入り組んでいるため、隠し部屋なども多い。

 各部屋を連絡する通風孔は矮小だが隠し部屋にも通じていて、単純かつ動力室までの最短距離の通路だといえる。

 織図は普段はだぶついた聖衣に隠されて一見細身に見えるものの、実は隆々とした筋肉を維持している。

 彼がいつも太るだの食べ過ぎだのとダイエットを気にしているのは、美容のためではなく主に筋肉太りを気にしてのことであり、彼の筋肉量は若い武型神と比しても格段に上回っている。

 飛翔を封じられているからといっても、それを補って余りあるほどの身体能力の高さとスタミナがある。


 彼は特務省内部の構造を図面まるごと記憶していたので、各部屋を結ぶ通風孔がどこに繋がっているのか分かっている。

 動力室に直接繋がる通風孔はないが、動力室の隣の空き部屋に繋がるラインは存在した。

 特務省には防火遮断壁がいくつも存在し、各区画に空き部屋が存在する。

 また、特務省の機密のひとつなのだが、特務省の動力源はたとえば生物階でいうところの原子炉のようなもので、高エネルギー燃料が封じ込めされてあるのだそうだ。

 そういう理由で、事故や被爆に備えて動力室への立ち入りは禁じられているばかりか、周囲の空き部屋に立ち入る者もいない。好都合だった。

 織図は壁面に走るコードにラインを繋ぎ、動力室の監視システム内に意識を同調させた。


“……OK。制圧完了”


 動力室の全ての監視システムをダウンさせ、先ほどと同じ手口でシステムに異常なしとのシグナルを操縦室に送った。

 メンテナンス用の入り口のオートロックを内部から外し、神妙な顔つきで立ち入る。


“特務省のセキュリティちょろすぎだろ、こんなんで大丈夫か? まあ、いっても所詮は中古船だしな”


 織図は注意深く動力室に突入。室内はいかにも頑強そうな炭素系素材の壁面に被いつくされて、ホールのように奥行きもあり、天井も高い。

 部屋の中央には、直径10mほどもある巨大タンクのような外観をしたエネルギー炉が、ツタのように球体の上を這い回るケーブルに安定を支えられるようにして鎮座し、耳の奥を掻き回すような不快な轟音を上げながら稼動していた。

 エネルギー炉から肌を焼きつけんばかりの熱を感じながら、球体の前に浮遊するガラステーブル状のコンソールを通り過ぎて、一直線に炉に近づく。


 耐熱ガラスをはめ込まれた丸く小さな窓がひとつだけ、球体の壁面にあいていた。

 鮮烈な窓と色彩と光の襲い来る窓にたじろぎながらも顔を近づけて覗きこみ、炉の中心部に目を凝らす。

 エネルギー炉の状態を確認しておこうとしたのだ。

 内部が危険な状態となっているなら、動力炉の停止そのものを回避しなければならない。

 織図が思い描いていたエネルギー炉の内部は、原子炉本体のイメージと遜色ないものだった。

 冷却された水の中に、炉心燃料が沈められ、何がしかの融合反応によって熱量が取り出される。

 そんな構造を思い浮かべていた。しかし……織図がそこで見たものはある意味、正解であり、またもうひとつの意味で想像だにしていなかったものだ。


“……馬鹿な……これが、こんなものが燃料なのか!”


 球体のエネルギー炉内部に張られた、煮えたぎる透明な液体の中に拘束器具で厳重に縛られ、釜茹でにされているのは……青年だ。


 織図は息を止めた。

 それがただの青年だというなら、不審ではあろうが特に問題はない。

 しかし……沸騰する液面の下に見える彼は、金髪をしている。

 つまり彼は金髪の使徒でなければプライマリの神だということだ。

 炉の近くにあるインジゲーターを見ると、炉の中の温度は数百万度もある。

 この温度に耐えられるのは言うまでもなく、使徒ではなさそうだ。

 生きているのか死んでいるのか。

 彼の身は半透明で、彼の身体越しにエネルギー炉の底面が透けて見えた。

 織図はその異様な姿にひき込まれた。


“亡霊、なの、か?”


 織図は焦燥感を覚えながら炉を見渡せるコンソールのパネルに駆け寄って操作し、セキュリティロックを解除。

 彼は自身の体内に埋め込んでいるケーブルを引き出してパネルに接続し、なおもシステムに侵入し、炉の中で何が起こっているか調べ上げた。

 沸騰する液体の中で茹でられている青年から搾取されているのは、熱エネルギーだ。


 乾ききった口もとを押さえ、織図は黒く大きな瞳を見開いた。


“……先代絶対不及者の遺体……だと?”


 パネルが示す情報に偽りがなければ、釜茹でになっているのは絶対不及者の死体だという。

 彼は二代目 絶対不及者として神階に知られている。


 古代神階の慣習に基づいて、その青年には通名も置換名もない。

 ただ、当時は智神セウルと呼ばれていた。

 長い神階の歴史を振り返って、ターニングポイントが二点あったとすれば、確実にその一点を担った存在だ。

 伝承上の存在と思いがけず遭遇したということに感慨深さもあるが、織図はその真贋を疑わざるを得ない。


“本物が10万年以上も……こんなところにいたのか!?”


 本当に? 絶対不及者の遺体から溢れ出すエネルギーの封じ込めを行いつつ、原子力発電のような方法で特務省は有効活用しているようだった。

 炉は安定稼働しており、死体は厳密に密封されている。

 入念に捜しまわっても炉の中へと繋がる出入り口は見当たらない。


“究極の永久機関とは考えたもんだぜ……胸くそ悪い”


 もとは生きて神格を持っていた青年をただのエネルギー抽出のための燃料として扱い、動力装置の一部として組み込んでしまう。

 いかにも特務省らしい合理性に基づいた着想だ。

 装置があれば重い特務省を浮遊させるためのエネルギーなど改めて必要ないもので、何の利用価値もなく死体をどこかに飾って、エネルギーを定期的に打ち消したり持て余しておくよりもはるかに合理的に、適度に熱量を逃がすことによって安定的な保管を可能とする。

 特務省は利口だといえば利口だが、賞賛する気にはなれない。


 絶対不及者の死体は特務省の心臓部、エネルギー炉の中に密閉されたまま10万年間もの歳月を過ごした。

 特務省の合理主義や狡猾さには、毎度のことながら感心させられる。

 多少なりとも、死神であるがゆえに典型的な特務省職員とは異なる思考回路を持つ織図は、先人の冷徹さにぞっとするものだが……。


 この秘密を、誰が知っているだろう。

 場合によってはバンダルすら知らないのではないか。

 もの思わぬ死体が特務省の心臓の役目を果たしていたとは、何とも皮肉な話ではないか。

 織図は炉についた小窓から、青年の死体を見つめる。

 怒りなのか、絶望なのか、深い悲しみなのか、瞳をぎっと力強く見開いたまま息絶えている。智神は意識を持ったままINVISIBLEの収束を受けたとされている。

 死体は正面を向いているので、まだ背にスティグマがあるのかどうかは分からない。


 織図は前人未到の古代遺跡に、偶然迷い込んだような……あるいは墳墓の入り口を見つけたような、何とも言えない鬱々とした気分になった。

 手持ち無沙汰にこの動力室の入室ログをあさってみると前8500年間、誰かが立ち入った様子はない。

 特務省は長きにわたって神階に繋留されていたので、“動力炉”のメンテナンスをする必要もなかったのだろう。


 智神の墓は語り継がれることもなく、特務省の永久機関としての役目を果たしてきた。

 花の一本をも手向けられることもなく、あらゆる者から忌まれ憎まれ続け、これからもまた必然的にそうである哀れな依代が、彼だ。


“無念だったろうな。聞こえているか、智神セウル


 数えきれないほどの死に顔を見てきた織図も思わず目を背けたくなるほど、智神の最期の表情は苦悶に満ちている。

 絶対不及者となった智神の意識は絶え絶えに、殺してくれと訴えたと伝えられている。

 智神はINVISIBLEを拒絶した。……彼は抵抗したのだろう。

 それでもINVISIBLEの暴走を止められなかった。

 そしてまたINVISIBLEはレイアで同じことを繰り返そうとしている。


 いま、レイアはINVISIBLEの収束時期に呼応するかのように虜となりつつある。

 レイアとINVISIBLEが近づくのを阻む事も、援護することも、織図には正しいとは思えない。


“教えてくれセウル。INVISIBLEは何をしようとしてんだ。知っている筈だ……INVISIBLEという存在を体現し、正面から向き合ったあんたなら! なあ!”


 彼の視点から見える範囲では、いずれの創世者にも正義はない。

 だからといって完全なる過ちというものも、織図には見抜けない。

 彼の願いにこたえるかのように……ノーボディは絶対不及者を殺したと、EVEの記録ではそう記されている。

 正確には、智神のバイタルを切断したのだ。意識と自我という依代を欠いたINVISIBLEは、智神の神体から出てゆかざるをえなかった。


 ――そして虚ろとなった不滅の遺体だけが残された。

 それは密やかに葬られた、一つの悲劇であった。


 残された智神の抜け殻は、まだ特務省にエネルギーを供給し続けて余りあるほどだ。

 永遠とも思える時間の中で、遺体は忘れ去られた。

 その無残な姿に織図は無意識のうち、ユージーンの姿、レイアの未来を重ねていた。彼らのこのような顔を、見たくなどない。


“天帝の成れの果てか”


 織図は彼を弔うように、厳かに聖印を切り手を合わせた。

 しかしこれで、動力を切ることもできなくなった。

 動力の供給源を断とうとしていた織図の前に現れた智神の棺。

 ひと知れず葬られようやく安住の場所を見つけた彼の墓を暴くようで、織図は気が進まなかった。

 死してなお永遠を生きる彼の肉体から滾々と溢れ出す、朽ちた生命力。


 智神を内包したまま特務省を墜落させては、炉の中のエネルギーがどのように地上に溢れ出すのかも分からない。

 そして、嘗て破壊の限りを尽くした絶対不及者が垂れ流すエネルギーは決して、地上に益を齎すものである筈がない。

 永遠の苦しみから解き放たれた死体は沈黙して悠々と、沸き立つ液体の中で海草のように揺らめいている。


“何も語らないのか、もう。何か話せ、お前の無念を……”


 死者に強いて、何かを語らせようとするのは不毛だった。

 それでも……織図は彼の遺体から離れる気にもなれず、無償に遺体をあらためたい衝動にかられていた。



 うらぶれた山村を川沿いに走る畦道を、枯草や落ち葉を竜巻のように巻き上げながら一対の閃光が駆け抜けている。

 寂しげな曇天とセピア色に枯れ果てた景色のもと、ファティナ=マセマティカとアルシエル=ジャンセン、ふたりの女たちによって酷烈な空中戦が繰り広げられていた。


 ファティナはΔδΔを介して上空に現れたグリッドと神体を連結することで、あたかも天空から操られるマリオネットと化したかのようだ。

 とても生身の文型神とは思えないほどの超反射と俊足を可能とし、重力異常環境下、斥力無効条件下においても何らハンデを持たず飛翔術を駆使している。

 激戦の目撃者は幸いにしていなかったが、もし下から彼女らを見上げる人間がいるとすれば、肉眼で彼女らの姿を捉えることはできなかっただろう。

 彼はそこかしこでスパークを起こす、猛烈な竜巻を見上げることしかできない。

 渦中のファティナはラインを引いて空を縦横無尽に舞い跳び、アルシエルの攻撃を一撃も喰らわずにやり過ごすが、飛行性能のついたグングニルを携えるアルシエルもその身体能力はファティナを遥かに凌ぎ、逃げ惑う小鳥を狩る大鷹のような威圧感を伴って女神を圧している。


 生け捕りにして口を割らせるためなのだろうか。

 目下アルシエルに殺意は感じられず、ひたすら彼女を追い込み続けることでファティナのスタミナ切れを待っているかのようだ。

 そうはいっても、ファティナが隠し持っているレイア=メーテールのバイタルコードを割り出す為なら手段を選ばない筈だ。

 女神を生かさず殺さず脳からデータを得る方法など、いくらでも存在した。


 要はファティナの脳だけが無事であればいいのだ。身体は無事である必要ない。

 必然的なデッドオアアライブ。決着は生死問わず、で構わない。

 一瞬で死線に踏み込まれる。この難敵に手心を加えて挑む、など不可能だ。


 逃げに徹していては幾許ももたない。

 何らかの措置を講じるべきであり、彼女はさきほど窮地を切り抜ける唯一の方法は神体の仮想化だという答えを導き出している。

 かなりの危険を伴うが、躊躇っている時間はなかった。


 常日頃戦闘訓練をしているわけではない肉体に鞭打ち、可動限界に負荷を設定したツケは二の腕やふくらはぎの疲労の蓄積によって実感する。

 指に絡む十本のラインを引き絞り極限にまで集中を高めたファティナは、自らの神体をIdeal Body(仮想体)とするためのプログラム構築を急いでいた。


 その間も容赦なく浴びせかけられる刺突攻撃を避けつつ防御に徹し、仮想空間から実体化した灰色の防御壁で迎え撃つ。

 コンマ数秒の貴重な時間の合間合間に一語ずつ神語を入力し、プログラムを組む彼女を、堅実にΔδΔ(デルタスリー)がサポートしている。

 普段はPCとの互換性を優先し生物階で一般的に用いられているプログラム言語を使うが、表意文字である神語での入力は、少ない文字数で莫大な情報量を有しているうえ、ヘクス・カリキュレーション・フィールドとの相性もよくエラーを起こしにくいという最大の強みがある。


 書き上げたプログラムは上空のグリッド上に、強力な一枚の護符のように碧い光跡をもって大きく浮かび上がっている。彼女は逸る心を鎮めつつその記述に間違いがないことを再度、再三確認するとプログラムの実行をかけようと試みる。次のコマンドを発音すれば彼女の神体は仮想化を果たし肉体は電子と一体化、プログラムに変換され如何なる攻撃をも無効とする、算段は整えられた。


 ファティナの身に降りかかる代償までの執行猶予はわずかに10分。一線を越えれば、発動者の命をすら奪う禁断の秘術。短い時間にファティナはブラインド・ウォッチメイカーに決定的にして致命的な一撃を浴びせるか、逃げおおせなければならない。ひとまず手を打つための時間を作る、最優先事項だ。


”Ente……!”


 成功を確信しつつ実行(Enter)をかけようと魚網のようにラインを捌き、ラインを綾に繰ったときだった。

 翼を持ったひとりの少年使徒が真横から猛烈な勢いで目の前に飛び出し、女神を抱きかかえて地上へと反転させ、彼女もろとも下敷きとなって背から墜落して休耕田に激突した。


 少年の妨害によりファティナのプログラムは実行を受け付けず、再び待機状態に入る。抗議しようとしたファティナは、すぐに口を噤まざるをえなくなった。つい一瞬前までファティナのいた場所で、鈍く紅い光と轟音とともに大爆発が起こったのだ。座標はマグマだまりほどの熱量がそこにあることを示唆する、赤褐色の炎に包まれている。


 座標(5026, 225, 9010)は1秒前まで彼女が留まっていたポイントだ。彼女がプログラムを確認するため上空を見上げていたとき、その神体は“不可侵の聖典”のページから展開された円法陣に、すっぽりと囚われていたということに気付かされる。

 ファティナは九死に一生を獲て少年に抱きかかえられながら呆然と見上げて首を振った。

 円法陣からの起爆前に、仮想化が間に合っただろうか? 応えはNoだ。

 彼はファティナを、半ば地上に押し付けるようにうつ伏せに横たえると、片手で彼女の動きを制し、逃げろと示唆する。

 すぐ上ではグングニルを片手に構えたアルシエルが、その鋭い切っ先を少年にぴたりと向けていた。


 彼女はウサギのように跳ね起きて彼を押しのけようとしたが、細い身体のどこに力があるのか、頑として動かない。

 そもそも使徒は彼らの主にこそ忠誠を尽くすものだが、たとえ他神であっても危険に見舞われていると判断すれば、とりわけ若い男性使徒は神を庇おうとする。

 それにしても、少年使徒がこの期に及んで危険な生物階に居残っているなどハプニングか事件以外のなにものでもない。


 特殊任務で生物階に残っていた使徒なのだろうが、どこの部隊に少年使徒を作戦に使う愚か者の上司がいるのか。

 糾弾ものだ。

 少年の決死の行動に心をうたれ、また彼の判断に感謝することも忘れなかったが、残念ながら彼は足手まといになるだけだ。


 ファティナだけなら攻防に集中できるというのに、のこのこと登場して犬死にをして欲しくない。

 奇跡的に一度だけ回避をしたが、使徒の身では絶望的に戦力とならないのだ。


「なっ……! 何をしているのです、あなた誰の使徒ですか。どきなさい!」

「ここは引き受けました。お逃げ下さい」


 少年はそんなことを言っている。

 確かにアルシエルの隙をついて今なら逃げられるし、彼を見殺しにすればファティナは逃げ延びて、逃げたからといって裁かれることもない。


 しかし……それがたったひとりの使徒であっても。

 だからといって、「はいそうですか」と身代わりにできる筈がないだろう! 見くびらないでほしい、そう叫びたかった。


 使徒たちの間に伝わる古い教えに、神の血の一滴は十万の使徒の血より貴いものであって、自らの命に先んじて神を守護しなければならないというものがある。

 それは行き過ぎた信仰心に由来するイデオロギーであり、あるいは旧態依然とした使徒社会の澱みであり、そこにどんな理由があっても命を粗末にしてはならないと常々使徒には説いてきたが、いまだに狂信的で過激な教育を施されている使徒はいる。


 神は大樹であり、使徒は樹に寄り添うべきものだ。

 使徒の命は神の命よりも軽んじられて当然だという悪しき教えを覆し、使徒は神の奴隷などではないと、これから身をもって証明する。

 何が起ころうと少年を盾にしない、絶対に!

 予定通り神体の仮想化は実行する。彼には傷ひとつ入れさせない。


「情けないものですね……そんなに頼りなく見えますか」


 ファティナは彼女の不甲斐なさを恥じ、顔を赤らめて視線を落とす。

 人差し指のラインを少年の腰に引っかけ、ぐんと大きく手前に手繰った。

 アトモスフィアの通った糸に強く体を後ろに引き寄せられ、よたりとバランスを崩して後ずさる。

 小柄な女神は、背伸びをして少年を背後から抱きとめた。

 頭に血が上っている使徒を落ちつかせるには、アトモスフィアの通った手で弱点でもある翼を押さえるのが効果的だ。ファティナは少年を優しく抑え込んだ。


「誰の使徒とは存じませんが、あなたは勇敢です。ですが、その気持ちだけで十分ですよ」

「お言葉ですが」


  少年……いや、陽階神 八雲 遼生は大先輩にすかさず口ごたえした。

 文型神のファティナがこんな場所で見境なく、白昼堂々と戦闘行為をおっぱじめる。

 それも女帝アルシエルと戦わざるをえない状況が何を意味しているか、遼生はMRIで簡単に暴きだしている。


 アルシエルを鎮めようにもファティナが傍にいると動きが制限され、本気で渡り合えない。

 彼女は遼生を邪魔者と見なしているようだが、邪魔なのはファティナの方だ。……ということを、面と向かって言えはしないし、察してもらえそうにもない。

 不本意だが、客観的にどこから見ても使徒であると前面に主張した姿を彼女に晒している。

 彼女がこの場を譲ろうとしないのも無理はない。

 論より証拠、ほんの僅かながらにも実力を示さざるをえなくなった遼生は指先で「」状のフレームを作りアルシエルに向け絞り込むと、叩きつけるように両手で空気を押し付け、アルシエルを空中に縫いとめた。

 空気圧にも似た波動が少年の指先から発せられ、アルシエルは透明なアクリルボードに貼り付けられたかのように、ぴたりと動きを止めた。


「?!」


 ファティナが驚いたのは、彼が使徒として疑わしい行動を取ったからだ。

 彼はそれほど労することなくブラインド・ウォッチメイカーの憑依したアルシエルを封じ込めてみせた。

 アルシエルを仕留めることがいかに容易いことであるかを見せ付けるためだけに。

 彼が行ったのは単なるデモンストレーションに過ぎなかっただろう。

 身動きを封じられたアルシエルは眉ひとつ動かすこともなく、焦点の定まらない真っ黒な瞳でこちらを凝視している。


「暫定措置です。長くはもちませんので早々にお逃げ下さい。狙われているのはあなたです」


 淡々と、しかし口早に述べた少年に、ファティナは釘付けになった。

 繊細で、無駄なくあまりに洗練された彼の業は目に快くすらあり、不覚にも見とれてしまう。

 断じて思い過ごしではないと思うのだが……彼のスタイルはかつて神体に仕込まれた生体神具によって素手で相手を意のままに操ったヴィブレ=スミスのそれに似ている。あるいはヴィブレ=スミスの戦術を継承しているのではないかと疑うほど、彼のカラーが色濃く見える。

 彼は少年使徒なのだろうが、生体神具を帯びているかのような立ち振る舞いだった。


「あなた、誰の使徒です? どうして……こ、こんなことが!」


 ……何かの間違いだ、さもなければ夢でも見ているのではないだろうか。少年は振り向きもせず、ファティナが腰に絡めたラインを解いてさもつまらないものであるかのように彼女に放り投げた。


「あなたは大変貴重なあるものをお持ちのようだ。だから狙われていらっしゃる」


 少年は全てを見透かしている。まさかマインドブレイクを?

 ……いや違う、そんな芸当が使徒にできるものか。あれこれと詮索しすぎて混乱する。


「ある、もの……?」

「そうですね、例えば暗号です」


 彼女はその一言を聞いて警戒を強めた。また、釈然としなかった。

 彼は何を隠して、短い生涯を歩んできたのか。

 哀れなほど肉の削げ落ちた、痛々しいまでに傷ついた上半身を観察する。

 彼の両腕には異常な注射痕や手術痕が散見される。


 使徒は神のアトモスフィアを獲るために注射を行うが、注射針は極細のものを使うために注射痕は残らない。

 生々しく連なる注射痕は腕の裏側にまで及んでいる。

 その痕跡が血管を追っていないところから、……何がしかの治療目的に打たれたのではないことも分かる。


 間違いない。彼は薬物投与による虐待を受けてきた。

 彼はファティナの知る、いわゆる少年使徒ではない。

 しかし彼の穏やかな物言いと立ち振る舞いは、凄惨な過去を感じさせない。

 これほどの特徴と存在感を持ちながら、彼の印象は冷水のごと清く澄み切って、朝霧のように淡い。


「ご心配なく。多少ですが、戦力にはなります」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ